名のない囚人騎士は幾多の地獄で猛獣・罪人・獄卒・天使・神と戦い続ける 作:西東 吾妻
私が奪い取った神剣に、冬神の意識が向けられた瞬間を狙った攻撃。忌々しい話であるが、女武者による攻撃のタイミングは完ぺきであった。
その小さな手の平からあふれ出す炎の奔流は、風に煽られ荒れ狂う大波を思わせ、溶岩のような粘りと巨獣のような質量を持つそれは、地獄の空を所せましと暴れまわり、神の全身を焼き焦がす。
この女が出せる最大火力であろうそれの熱量は、言葉に出来ない程に凄まじいものであった。太陽の間近にいるかのような莫大な熱に当てられ、見る見るうちに溶けていく岩塊や、悲鳴のような音を立てて真っ白な水蒸気へと昇華していく雪塊を見ると、私はこの女の能力について、素直に肯定せざるをえなくなる。
だが、これが冬神の致命傷になりうるとも、私には思えなかった。
「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」
女武者の攻撃を受け、数秒の間途切れたあの鼻歌は、再び神の口から紡がれる。
天を仰ぎ見るような巨塔すら飲み込んでしまうような巨大な炎に包まれても、その声音には何の変化もない。炎の中からかすかに見える神の陰に、苦しんでいるそぶりは見られない。
終末を思わせる炎の奔流も、神にとっては動揺するに値しない物であるとでもいうのだろうか。
「っっっ!! くっそがぁ!」
神剣を地獄の谷底へと放り投げるのと殆ど同時に、私は神の脳天へ肉断ち包丁を振り上げた。神の口から奏でられる呑気な鼻歌は、私の癇癪球を炸裂させるには十分すぎる物だった。
骨が炭に変わるような業火に全身を包まれた私は、何かに縋りつきたくなるような塗炭の苦しみを味わっているというのに、同じ境遇に陥った神は苦しんでいる素振りすらない。
この不平等はなんだ? 許せるわけがない。
全身に染み渡った神への憎悪は、私に痛みを忘れさせた。焼けただれた全身の筋肉が瑞々しさを取り戻し、脳漿ごと茹でられる私の頭は、幾十の攻撃線を私に示してくれる。風を巻き上げ天上へと振り上げられた私の大剣は、私自身の膂力と自重が合わさり神速の域に達し、神の左肩をめがけて振り下ろされたのであった。
「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」
私には、数秒後にかなえたい夢があった。袈裟切りにされた神が、涙や鼻水、血と涎で顔をグショグショに濡らした神が、言葉にならない断末魔をあげながら地獄の谷底へと真っ逆さまに落ちていく姿を見て哄笑するという夢だ。
「ち……く……しょぉおお……」
私に向けて神が右手を伸ばした時から、嫌な予感がしていた。
炎の奔流の中から身を乗り出し、神が私にさわやかな笑顔を向けた時に、私の予感は確信へと変わっていた。
それでも、私は恐れた未来を回避できなかった。
その結果がこれだ。
「ちくしょおおぉおおおお!!」
神の右手が肉断ち包丁を握る私の左腕に触れた時、それはボロボロと粉状の物体になって音もなく崩れ落ちた。赤さびた鉄の鎧も、血を啜る鉄茨の鎖帷子も、ビスケットのように粉々に割れ、砂となって谷底へと落ちていく。
私がこの事実を知覚した時には、神の右手は私の胸元に触れていたのであった。
痛みも何も感じない。
砂山を崩すかのように、神の右手はスッと私の体に挿し込まれた。それは私の心臓、背骨を割り、背筋を突き破る。
神の右腕には、血の一滴すらこびりついていない。私の肉体を構成するあらゆるものが、割れガラスのように微細な粉となって私から零れ落ちていく。
私の胴体は、ガラスのように脆い物体に変えられた。胸周りを氷に変えられた私の肉体は、肉断ち包丁の重さに耐えきれずにバキリと音を立て、断裂した下半身はあっという間もなく光一つ通さない谷底へと落ちていった。
「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」
現実を受け止めきれずに慟哭する私をよそに、神は右腕を引き抜き、それで空を横なぎに切り払う。その軌道は今なお炎の奔流を左手から吐き出している女武者の首元へと向けられていた。
神の腕が炎へ触れた時、ジュウウという音と共に視界が遮られるほどの水蒸気が吹き上がり、龍の如く猛り狂っていた女武者の炎は、蛇のように小さくか細い物へと落ちぶれていく。
そこに、均衡状態と呼べる瞬間はほんの一瞬たりともない。
「ハッ!」
放たれた矢のような神の一撃を、女武者は仰け反って回避した。宙を回る彼女はそのまま神の頭を蹴り上げ、衝撃によって隙が出来た神に対して、右手に握られた肉厚の短剣を突き上げる。
顎を蹴り上げられた神は、首筋に血管を浮き立たせ、視線を女武者の方へとぎゅるんと向けたかと思うと、短剣を握る女武者の二の腕に左ひざを叩きつけ、女武者の攻撃を明後日の方向へと受け流した。
短剣の軌道を修正することに意識を割いた女武者の隙。
顎についた汚れを無視した神は、一度は空振りした右手の照準を女武者の顔面に合わせ、必殺の一撃を振りかざす。鷲のように爪を立てた神の右手が女武者の右ほおを引き千切り、歯肉と歯が外気に晒された。
女武者は、神の一撃に対して一瞥もくれていなかった。
中空で半身をねじった彼女は、左半身の火傷跡から天を突くような炎を噴き上げ、赤熱した己の左腕を神の肩口へと突き下ろす。その一撃を神は右腕を盾として受け止めた。バァンと空気が爆ぜる音が聞こえ、神と女武者双方が弾き飛ばされる。
崩された体幹を、神がまず立て直した。女武者の現在地をその眼で再度捉えた神は、奈落へと落ちていく岩塊の一つを足場とし、流星のような推進力を得るためにそれを蹴り砕く。
両者の間合いは私が瞬きする間に零となり、空で仰け反ったままの女武者めがけて、神は鉄拳を振り下ろす。女武者の鳩尾へとたたきこまれた神の拳は、その衝撃の余波で四方に散らばる岩塊たちを砕き割った。
燃え盛る女武者の体と凍える神の拳が合わさった時、けたたましい音を立てて空気が震え、女武者の口からは血飛沫があふれ出る。
「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」
女武者から吹き上がる炎は、神の手によって肉体が氷漬けにされて砕かれる未来を否定していた。しかし、女武者にとってその事実は気休めにもならない。
戦いの主導権は、既に神の手に握られていた。
口から溢れる血に溺れながら、女武者は神へ刃を突き立てようとするが、女武者の胸元に巻き付けられたサラシを鷲掴みにした神はそれを許さない。女武者の体を周囲に散らばる岩塊へ叩きつける神の後ろ姿は、益荒男が大太刀を振り回す様となんら変わるところがない。
幾十の岩へと叩き込まれ、ぼろ雑巾のような姿へと女武者が変わり果てていく中でもリズムを刻む神の鼻歌。
それは心なしか上ずっているようにも聞こえた。
心行くまで女武者を蹂躙した神は、ふと気を失ったかのように動かない女武者を中空へと放り投げる。彼女が円弧を描いて空を舞う中で、神がバチンと指を鳴らした時、私が地獄の谷底へと落としたはずの神剣が釣りあげられるかのように空へと躍り上がり、周囲の瓦礫を苦も無く切り裂きながら神の手に再び握りしめられた。
「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」
既に剣の切っ先は女武者の心臓へと向けられている。意識を手放した女武者に、逆転の術はなく、地獄を両断した神剣の一撃を防げる道理もない。
神の勝利を私は確信せざるを得なかった。恐らく、神も同じことを考えていたのだろう。かすかに紅潮した頬を緩め、高らかに鼻歌を歌いあげる神は、カツコツと空を蹴って女武者への間合いへと無造作に入り込む。
彼女めがけて、地獄を両断した神剣を振りかざす神は、気楽そうな面持ちであった。
「……ねぇぇ……どんな気分?」
神の眼前に鉄筒が突き出された時、私はその事実を即座に受け入れることが出来なかった。
女武者は気を失っている。この思い込みが、目の前で広がる事実を受け入れることを妨げた。
神もまた、同様に現実を受け止められていなかったのかもしれない。攻撃を中断し、鉄筒から放たれる噴煙を回避する選択肢を、神は選ぶことが出来たはずだが、彼女はそれをしなかった。
これまでの戦闘の経緯から、女武者の一撃が痛痒を与えることはないと高を括っていたのかもしれない。
それは致命的な選択だった。
彼女の左腕から吹き上がった炎が鉄筒にまとわりついた時、「ガチン」という音が耳をつんざくと同時に、それは轟然と火を噴き、地獄の空は真っ黒な噴煙に染められる。
落雷のような大音響とともに神の右半身は腕ごと消し飛び、焦げ付いた臓物の残骸がべちゃべちゃと音を立てて周囲に散らばる岩塊へと叩きつけられた。
「敗けるのは、どんな気分?」
にんまりと笑う女武者の言葉が、地獄の空を木霊した。