厄介な奴と鉢合わせてしまった。
獄卒の頭を片手で掴み、危なげなく焼き殺す彼女の横顔を目の当たりにした私は、彼女を睨みつけ、その一挙一頭足を観察しながら、脳裏にこの言葉を思い浮かべる。
一つにまとめて結ばれた、墨より黒い長髪をなびかせる彼女は、血のように赤く、生気のない目でもがき苦しむ馬頭の獄卒を見下ろしていた。
腰より上の着物を脱ぎ、胸元に巻かれたサラシと、白磁のような体に刻み込まれた生々しい火傷の跡を衆目に晒しながら、彼女は左腕から烈火のような炎を立ち昇らせ、馬頭の体を物言わぬ炭に変えていく。
馬頭は何とか拘束を振りほどこうと、耳鳴りするような悲鳴をあげ、駄々をこねる赤ん坊のように四肢を振り回すが、彼女はピクリとも左腕を動かすことはなかった。
「……」
馬頭の悲鳴が弱まり、その四肢が痙攣し始めた時、私は既に右手に持った肉断ち包丁を握りなおし、鋤の構えで彼女と相対していた。
幾百年という時を地獄で過ごす中で鍛え上げられた私の審美眼は、数刻先の未来を予測しようとする脳髄に種々の情報を伝達していく。
腰帯に差された肉厚の短剣、一切の防具をその身に纏わない彼女の立ち居姿……華奢な体が生み出す機動力を武器に敵を翻弄し、一撃必殺の精神でもって敵を仕留めるのが、彼女の戦い方なのだと推測できる。だが、これだけでは背中に差された謎の鉄筒が何なのかを説明することは出来なかった。
機動力を武器とするため、少しでも死荷重を捨てたいであろう彼女が、何の理由もなく短刀程度の長さの鉄筒をサラシに差しているとは考えづらい。馬頭の獄卒を危なげなく制圧できるほどに戦い慣れた彼女が、不合理を許容するとは思えない以上、それは私の知らない武器であることは明白であった。
クロスボウの弓床に似た木製の台がその鉄筒の片側に装着されていることから、恐らくは射撃用の武器。
切り結んでいる最中に不意打ち的に撃ち込むつもりなのだろうか?
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
等括地獄で出会ってしまった以上、戦闘は避けられない。
地獄の空気を吸いすぎた私の体は火照り始め、胸は高鳴り始めていた。これは抗いがたい感情であった。呼吸を繰り返すたびに、疲労がはらはらと体から抜け落ちていき、その代わりに久しく忘れていた闘志がふつふつと湧き上がってくる。体中の血液が生気を纏いながら全身を廻り、喉奥からは唾液がダクダクと溢れ始めていった。
「等括地獄」で罪人を見てしまうと、私はいつもこの感情に支配されてしまう。罪人同士が戦い続けるこの地獄の中で、彼女を見る私の目は血走っていく。
冷静な判断が出来なくなってきていることが、言葉には表しがたいほどにキモチ良かった。肉がえぐれる感覚が、血が流れ落ちる感覚が、とてつもなく恋しく思えてきた。
今の今まであの痛みを忌避してきたのが嘘みたいだ。あのわずらわしかった肉断ち包丁が、今はこんなにも軽い。地獄では荷物でしかなかったはずの板金鎧が、今は信じられない程に頼りがいがある。
「はぁっ……ぁあ……」
私は待った。私のアプローチに彼女が応える瞬間を。息絶えるその瞬間まで油断しない、慎重な彼女が金剛石のように固く、水晶のように美しい殺意を私に向けるその時を。
燃え盛る炎の中で、馬頭は執念深くもまだ悲鳴をあげ続けていた。体全身が炭となり、暴れる中で炭化した指先が、前腕が、肩が崩れ落ちていっても、まだ馬頭は生にしがみついていた。それでも、馬頭の死は唐突に訪れた。
糸が切れた凧が、そのまま空の彼方へ消えていくように、馬頭の意識は私たちの手が届かない場所へと飛んでいった。
彼女が今掴んでいるのは、赤く光る炭の塊である。
「……」
血に飢えた愛しき彼女は、暫くの間沈黙を保っていた。
左腕を覆っていた炎はふっと消え去り、爛れた火傷の跡が蛇のように彼女の左半身を這っている様子が明瞭に映し出されていく。物言わぬ炭の塊へと向けられる彼女の眼差しからは生気が加速度的に失われ、彼女の一挙一頭足を監視している私ですらも、彼女の意識がどこを向いているのかを見失ってしまう。
血染めの袴が風に導かれるままにはためき、腰まで届かんばかりの黒髪が通り風と軽やかに談笑する様は、氷のように押し黙る彼女とは対照的だ。
そんな彼女の腕が動いた。
周囲に気取られない程に自然な動作で、彼女の右手が腰に刺さった短剣の柄を握り締めた。その所作は見惚れるほどに美しかった。岩のように角ばった私の指先などとは比較にもならない、細く柔らかい彼女の指。
それが武器と一体になる瞬間は見ていて色を覚えずにはいられない。幾星霜の死線を潜り抜けた者のみが手にできる勲章を体中に走らせた彼女はやがて、大きく息を吸った。
「!!」
鋤の構えは、私が瞬きをした時には既に破られていた。
一足で私との間合いを音もなく詰めた名のない女武者は、顎当てと胴鎧の隙間へ肉厚で幅広な短剣を潜り込ませ、その切っ先で私の首の皮を裂き始めていた。
数コンマを置いて、私の耳は空気が爆ぜるような音を聞き取り、全身にビリビリと衝撃を走らせる。
時間がその瞬間だけピタリと止まってしまったかのように感じられた。
息を飲むことも出来ない、刹那よりも短い時間の中で、彼女は笑っていた。
生気のない目を三日月のように歪ませ、真珠のように真っ白な歯が見えてしまう程に破顔した彼女の笑顔が、私の視界全体を支配したその時。
昂り切った闘志が爆竹のように爆ぜ、私は弾けるように笑った。
頬が裂けんばかりに私は笑い、濁流のように体全身を流れる狂気に身を任せた私は、自分自身の首が切られるのもかまわず、肉断ち包丁を彼女へ振り下ろしたのだった。