名のない囚人騎士は幾多の地獄で猛獣・罪人・獄卒・天使・神と戦い続ける   作:西東 吾妻

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第五話:等括地獄(とうかつじごく)に降臨した神は罪人たちに罰を下す

 晴れ晴れとしたファンファーレが鳴り響き、空に張り付く鋼色の雲が割れ、眩暈がするほどに強い光が立ち込める。光のカーテンが地獄の空でたなびく中で、陶器のように白い足がまず姿を現した。

 

 人間とはかけ離れた異質な姿をしていたが、それは彫像の題材となる美女のよう。うわぐすりを塗られた白磁のように白い素肌は、地獄の空で眩い光沢を放っている。

 

 背中から伸びる銀色の翼を羽ばたかせ、豊満な胸の前で4本の腕を祈るようにして合わせる双頭の神は、その口元を僅かに緩めていた。二重の瞼を閉じる神の表情は、こんこんと眠る赤子のように安らかで、その姿を見ているだけで、私の胸の奥底で渦巻いている苦痛が、こそぎ落とされていった。

 

 神の体を彩る金の装具は、汚泥にまみれた地獄にあっても太陽のようにさんさんと輝き、神の背中から差し込む後光を強く反射する。金の装具に埋め込まれた彩り豊かな宝石類は、より高貴な光沢を放ち、神の格式を無尽蔵に高めていく。

 

 誰もがそれが神であると自然に認識した。

 

 天上を生きる、雲の上の存在。

 

 その文字通りの神々しさを前に、罪人たちは悲鳴をあげることすらも忘れて、神に見入ってしまっていた。

 

 天使の楽隊たちが奏でるオーケストラが、地獄の空を木霊する。安らかな顔で目をつむり、銀色の羽を羽ばたかせる神は、地獄で這いつくばる私たちの痴態などに一切の関心を向けず、しばしの間、沈黙を保っていた。

 

 その姿は、あたかも天使たちの楽曲を心の底から楽しんでいるかのようである。優しさに満ちたその笑顔は、地獄ではおよそ似つかわしくなく、何も知らなければ、地獄で苦しむ罪人たちに救いの手を差し伸べるために、降臨してきたのだと勘違いしてしまいそうである。

 

 私もその勘違いに縋りかけた一人だ。等括地獄の底で、塗炭の苦しみを幾星霜と噛み締めてきたことを忘れてしまいそうになるほどに、彼女の姿は神々しく、尊く映った。

 

 しかしそれでも、私の本能はこれまで聞いたことがない音量で警告音を発し、そのおかげで私はいち早く正気に戻ることが出来た。

 

「はぁっ!! ……はぁっ……! はぁっ……!! はあっ!!」

 

 ……神は、罪人たちに慈悲を与えるために地獄に降臨するわけではない。

 

 私はこの言葉を幾度も内心で反芻し、神に肉断ち包丁の切っ先を向けた。神の美しさに対する憧憬の気持ちを心の奥底へと抑え込み、神殺しへの衝動を今は封じ込める。私は神の一挙一頭足に着目した。

 

 神に対する恐怖、神への警戒心を無尽蔵に増大させ、少しの変化も見逃さないように努めたのである。

 

 ……神は、罪人たちを蹂躙するために、地獄へ降臨するのだから。

 

「ぁぁあああ……!! ああああああ!!! がぁああぁあ!! あぁあああ!!」

 

 神への恐怖は、何も私だけが抱く感情ではない。

 

 四肢を折られ、私の目の前でもがいている半死半生の女武者も同様の感情を抱いていたようだ。

 

 地獄の空を割って神が降臨して以降、彼女は私の一切の行動を無視していた。地べたから空を見上げる眼を血走らせた彼女は、獣のような唸り声を挙げて、自由の利かない四肢でもぞもぞと地面を引っ掻き、この最大の危機をどうにかして脱しようとしていた。

 

 破壊されつくされた肉体は再生を始め、彼女の全身から視界が遮られるほどの蒸気が吹き上がっているが、その再生速度は緩慢だ。恐らく、神の攻撃までに彼女の肉体は再生し切れないだろう。それを彼女自身も痛いほどに理解しているからこそ、血を吐くような絶叫をあげて、泥まみれになって悶え狂っているのだろう。

 

 私は、そんな彼女に一瞥すらも向けられない。彼女に対して、一切の関心を払えなくなっていた。つい先ほどまで血を血で洗う死闘を繰り広げ、あと一歩の所で彼女にとどめを刺すところまで追い込めたことが懐かしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 沈黙を守る神に動きがみられた。神の背中から伸びる四枚の羽根が、ひときわ大きく羽ばたき、地獄の大地に散らばる木っ端達が中空へと巻き上がる。神の動きの変化を敏感に察知した天使たちの音楽隊が、心安らぐ楽曲の演奏を中断し、しばしの間沈黙する。時間が止まったかのように不気味な静寂が地獄を支配した。

 

「あぁあああ!! あああああ!! ちくしょおお! ちくしょおお!!」

 

 地面でもだえる女武者の絶叫は、いよいよ悲壮感に満ちたものとなっていた。歴戦の経験が、数刻先の未来を彼女の脳裏に映し出しているにもかかわらず、破壊され、未だ再生しきっていない肉体が、有効な防御を取ることを妨げているのである。

 

 絶望に顔を引きつらせ、恐怖で見開かれた目で神を凝視し続ける彼女は、冷や汗をダクダクと垂れ流し、芋虫のように地面で悶えながら、恐怖に震えていた。歯をガチガチと鳴らし、幾度も幾度も立ち上がろうとし、そのたびにその場へと崩れ落ちている。

 

「あぁあああ!! ちくしょおぉおぉおおお!! ちくしょおおおおおお!!」

 

 土埃にまみれた彼女は、神に向けて再生途中の左腕を伸ばしていた。血の涙を流し、口元を歪ませ半狂乱の悲鳴をあげたまま、遥か彼方にいる神に、精いっぱいの抵抗をしようとしていた。

 

 眼前の女武者が感じていた切実なまでの恐怖。

 

 その片鱗を私の第六感はこの時、漸く察知し始めていた。地獄の気温が急激に低下し、体全身が凍えているかのように震え始めた。はるか先にいる神に、何か特別な変化は見られない。翼の先端を地の果てまで伸ばしたまま、神は沈黙を保っていた。

 

 しかし、私は額から猛烈な量の冷や汗を気づかぬうちに流していた。肉断ち包丁を握る両手が私の意思を外れてカタカタと震えはじめ、心は底が見えない崖に真っ逆さまに落ちていくような恐怖に支配されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 神の目がうっすらと開いた時、なぜ、私がそんな行動をしたのかは解らない。

 

 恐怖に支配された本能がそうさせたとしか言いようがない。

 

 神の目が見開かれたその時、私の肉体がズタズタに引き裂かれて消滅する鮮烈なイメージが、私の脳裏に浮かんだのである。

 

 恐慌に駆られた私は、肉断ち包丁を目の前の大地に突き刺し、その陰に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぎゃっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 神が、両目を開けた。

 

 ほんの一瞬、断末魔の悲鳴をあげた女武者の全身に無数の穴が開き、衝撃が導くままに大地を跳ねた。

 

 全身から噴水の如く血飛沫を噴き出す彼女の肉体が、空中で踊る。

 

 時間の流れが、途端に遅くなったように思えた。

 

 不可視の攻撃を全身に浴びた彼女の肉体が、爆風と共に崩れていく様が、異常な程にゆっくり映し出されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私はそれ以上、彼女に意識を向けられなかった。

 

 地獄の大地がボコボコと膨れ上がり、目が眩むほどの光を発したと思ったその直後、私は山のように大きな地盤と共に中空へと巻き上げられていた。

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