名のない囚人騎士は幾多の地獄で猛獣・罪人・獄卒・天使・神と戦い続ける 作:西東 吾妻
第九話:神を倒した囚人騎士は
なんだ、ここは。
これは、なんだ?
ここでは、音すらも凍っていた。
歩いても、歩いても、何の音も聞こえてこない。
私は今、膝まで積もった雪を踏みしめ、大げさな程に足を振り上げ、何もない雪原を歩いているはずだ。ひざ下からは痛いほどの冷気が伝わり、喉を通る冷気は私の肺を焼いている。
これは雪だ。荒れ狂う雪が、私の命を蝕んでいるのである。
だというのに、不気味なほどに耳は音を捉えない。巨人の掌に押されるかのように吹き付ける風は、音もなく私の頬を撫でていく。頬をさすられるたびに、熱を根こそぎ奪われたかのような喪失感に苛まれ、歯は自然とガチガチと鳴り、指先から震えがなくならない。
逃げても、逃げても、私はこの風から逃れられない。それは常に、私の傍らに居座り、したり顔で体内の熱をひったくっていく。
どこまでも、どこまでも、私に付きまとってくる。
「ぁぁぁ……ぁぁぁ……」
私は雪に、視界をも奪われていた。
目の前にあるのは白だけ。地平線の果てまで駆け抜けても、私は大地の起伏すらも認識できない。
なんの目印もない。
なんの変化もない。
あるのは白い空間だけ。
私は今、上を向いているのか?
下を向いているのか?
私は今、ちゃんと地面を歩いているのか?
自分はまっすぐに進めているのか?
鉛のように重い空気が私の肉体にまとわりついている。雪の中へ沈んでいるのではないか、という考えが沸き上がってくる。
なぜ私は空を掴めない?
これほどに空気が重いのに、私の指先はなぜ、何も感じない?
ここはどこだ?
私は今、どこにいる?
「ぁぁ……あああああぁぁぁあ……」
喉奥から絞り出される、悲鳴にも似た私の声は、ハケで塗りつぶされるようにして雪にかき消され、自分自身の耳元にすらまともに届かない。絞り出すような悲鳴をあげる口の中を、冷気が蛇のように這い寄り、私の熱を貪り食った。
等括地獄では、憎たらしいほどに私の肉体を蒸し続けた板金鎧は今、純白の大地を支配する冬将軍の手先となって、私から熱を奪い、なけなしのそれを将軍に献上していた。
唾液はやがて凍り付き、歯には牙のような氷柱が垂れ下がっていく。奪える熱を私から粗方奪い去った冷気は、「熱はないのか」と叫び、声も挙げられない私を殴打する。
雪を溶かす熱を失った私に、雪が容赦なく降り積もり、足は何倍にも膨れ上がった私の体重を支えきれずにガタガタと笑い始める。芯まで凍り付き、岩のように固くなった私の肉体は、その振動に耐えられない。
平衡感覚を失っていた体は、体重を支える体力すらも失ってしまい、ふらりと倒れた。
立ち上がろうとしても足に力が入らない。腕を支えにしようとしても、自分の腕が今どこにあるのかが解らない。体が、嘘のように動かない。
「……っ……っっ……」
炎すらも凍らせるこの冷気は、やがて言葉にならない悲鳴をあげる私の舌すらも凍らせた。
動けない。体が石のように固まり、脳髄から発せられる指令を、私の四肢はこなせない。
私は、肉体の再生をまった。
等括地獄にいた時は、そうやって苦境を乗り越えてきたからだ。
「……っ……」
しかし、いくら待っても、焼けた鉄串を刺しこまれるような激痛、肉体の再生を伝える神経の悲鳴が聞こえてくることはない。私の体はうんともすんとも言わず、雪が降り積もるに任せていた。
「……」
信じられなかった。
信じたくもなかった。
肉体は凪いだかのように動かないというのに、私の魂だけは金切り声をあげて悶えていた。
私はまだ、死んでいないという事実を、受け入れたくなかった。
「死ぬことはない……神に殺されない限り、死ぬことはない……」
私は猿のような奇声をあげ、赤子のように暴れて、どこからともなく聞こえてくるこの冷静な言葉をかき消そうとする。頭を打ち付けたい。ガンガンガンガンと頭を叩きつけて、痛みで思考力を鈍らせたい。
しかし、活動を停止した肉体はそれを許さない。
ガリガリに飢え、骨と皮だけのやせ細った私の魂では、これから聞こえてくるであろうその言葉には耐えられない。くぼんだ眼窩から外の世界を見上げる濁り切った瞳は今、事実という名の凶器を前に恐れおののき、とうの昔に枯れたはずの涙を流している。
ぼろ布のようにくすんだ体表を蠢く蛆を払う気力すらも残っていなかったはずなのに、その「事実」を聞き入れたくなかった私は、最期の力を振り絞って棒切れのような手で両耳を塞ごうとする。
それでも、事実は、私のなけなしの抵抗を一蹴し、私の耳元に唇を寄せ、言い放った。
「なぜならここは地獄なのだから」
私は……神を倒したはずの私は、このキャンバスのように白い空間を汚す、シミのように小さな異物に落ちぶれた。
何も出来ない。ただ、魂だけが、「痛い」「苦しい」と叫び、のたうち回っている。
無性に怖かった。
等括地獄を恋しいと感じる日が来るなど、思いもよらなかった。
等活地獄にはあったものが、ここには何もない。ここには、猛獣もいないし、獄卒もいない。剣樹もなければ、毒虫もいない。
音すらもない。拷問にのたうつ罪人の悲鳴すらも、ここにはないのである。
ただ、白があるだけなのだ。起伏すらも塗りつぶす無機質な色があるだけなのだ。
それが、怖かった。
この世界に、私以外の存在を観測できない。私以外に、ここには誰もいない。
その事実が耳元で囁かれるたびに、餓鬼のような私の魂は獣のような断末魔をあげて、血の涙を頬から滴らせる。ガラスのように凍り付いた体は、今や魂の牢獄と化していた。私には己の肉体という名の監獄から逃れる術がない。
私はこのまま、この白にかき消されるのである。例え私の魂が、喉を裂くほどに泣きさけぼうと、肺腑が裂けるほどに金切り声をあげようと、それは誰にも届かないのである。
私はここで、このまま、永遠に、誰にも気づかれず、囚われ続けるのだ。
「……」
悲鳴で脳裏が覆いつくされた。拳が砕けるまで、何もない空間を叩き続け、半狂乱となって体全身をかきむしる。
くぼんだ眼窩は、光を求めてギョロギョロと眼球だけを動かし、ほんの僅かな光を求めている。
ボロボロと歯が抜け落ちた口は、陸にあげられた魚のようにパクパクと動かし、絶望と恐怖を混ぜ合わせた私の感情をやわらげようとする。
しかし、私の顔はピクリとも動かない。それどころか、私の肉体は、そのまま白に飲み込まれていく。
バカだった。余りにもバカだった。
神に勝利し、のぼせ上っていた過去の自分自身を、私は言葉の限り罵った。地獄の囚人たちの噂話を、馬鹿みたいに素直に信じてしまった自分が、あまりにも滑稽で、笑うに笑えなかった。
神を倒した者は、地獄から脱出できる。その脱出先が現世ではないかもしれないと、何故私は考えなかったのだろうか。地獄から脱出しても、その先にあるのは別の地獄だと、なぜ思い至らなかったのだろうか。
私の魂は、泣き叫び、額が割れる程に地面に頭をこすりつけ、恥も外聞もなく減刑を嘆願した。私の魂は自分の愚かさを心の限りなじり、恐怖のあまり半笑いになった顔で、閻魔様に心の底から許しを乞うていた。
この牢獄から解放されるのであれば、何にでも喜んで魂を売ってしまうことだろう。
私は、恥もなく無様に祈り続けた。誰かが、私を助けてくれることを、土下座して祈り続けた。
白い情景に、ぼんやりと人影が浮かんだ。
影は一つ。
腰までのびた髪が、風になびかれバタバタと揺れ動いている。
半身が炎に包まれているその立ち姿は、神々しさすらあった。