※「pixiv」にも掲載しています。
「それでは、少し時間を早めて……星がたくさん見える、夜の空を見てみましょう。今夜の東京は晴れ、日の入りは18時52分。梅雨が明けると雲も少なくなって、星が見えやすくなります。でも東京は街の明かりがたくさんあるので、一等星でも見つけるのはなかなか難しいでしょう。少し、街を暗くしてみましょうか……」
「夏の夜空の目印は、いくつかあります。東の空を見てみましょう。一番明るく輝く星を見つけてください。こと座の一等星、ベガです。そこから右下に下がったところ、もう一つ明るい星がありますね。こっちはわし座の一等星、アルタイル。そう、織姫星と彦星ですね? この二つの星の間には、天の川が流れています。一年に一度……ちょうど今日、織姫様と彦星様がこの天の川を渡って、会いに行けるのです」
都内某所の科学館。屋上の展望台からは煌々と輝く東京タワーを望めるその場所には、学芸員としてウマ娘が勤めている。その名はアドマイヤベガ。ウマ娘の存在を知っている人なら誰でも分かる、ダービーウマ娘とあって、彼女が登場する夕方のプラネタリウムは平日であっても満席だ。俺は今日も何とか仕事を終わらせ、滑り込みで星空のよく見える席を確保した。温もりがありながら、落ち着いた少し低めの彼女の声は、思わず居眠りをしてしまうほどに心地よい。だが、彼女はそれでもいいと言っている。都会の明かりにまみれ、一等星ですら見えにくいこの街で星に興味を持つことは、とても大事だから、と。
「……うあぁ、今日も良かった」
「ちょっと」
「……わ、アヤベ」
「どうしてあなたがここにいるの。仕事は?」
「早く終わったから。頑張って終わらせてきたと言うべきか」
「……その言い方だと、今日が初めてではないように聞こえるけれど」
「……」
「はあ……」
ついにバレてしまった。今までは投影が終わったらすぐに人混みに紛れて、見つからないようにしていたのだが、七夕に聞く
「これくらいの説明なら、家でいくらでも聞かせてあげるわよ。あなたの知識じゃ、ここでの説明は物足りないでしょうし……それに」
「やっぱり『よそ行き』の声を聞かれるのは、恥ずかしい?」
「分かっているならどうして」
「だから、こっそり聞いてたんだ。星について語る君は、すごく輝いているから」
「……ッ」
ぎゅっ、と彼女が拳を握る。まだ自分が褒められることに慣れきっていないのだ。それに、子供にも興味を持ってもらう説明にはまだ届いていない、という向上心もある。
「でも、星の話はまた家でも聞かせてほしい」
「……それでいて、プラネタリウムに来るのもやめないんでしょう?」
「まあな」
「そういえば、あなたは勝手についてくる人だったわ。好きにしてと言ったのも、私だし……」
トレセン学園の卒業後、ウマ娘たちが歩む道はそれぞれだ。たとえG1級の活躍をしたウマ娘でも、全員がレースの道に進むわけではない。その中でもアドマイヤベガと彼女の同期の子たちは、特にそれぞれ我が道を行っている。テイエムオペラオーは世界を飛び回る舞台女優。ナリタトップロードはウマ娘のバレーボール日本代表。メイショウドトウはテイエムオペラオー専属の脚本家として、世界中に至高のショーを届けるために切磋琢磨している。その中では、アヤベの選んだ道は地味に見えるかもしれない。だがこれは、
「……じゃあ、先に帰ってる」
「待って。今日はこれで終わりだから……10分待ってくれたら、一緒に帰れるわ」
「分かった」
俺は今もトレーナーとして、学園に残っている。アヤベだけではない、何人ものウマ娘を担当し、彼女たちそれぞれに合った道を勧めてきた。その中には、アヤベと同じような境遇の子もいた。つまり、双子として生まれてくることのできなかったもう一人の姉妹がいて、どこかその子のことを想っている節がある子。もしもアヤベの心の支えに少しでもなれた、という実績がなかったら、後に担当した彼女たちも苦しめていたかもしれない。
もしもアヤベを担当していなかったら。アヤベに突き放されたまま、深く関わることを避けていたら。アヤベに一生ついて行くという覚悟を決めていなかったら。俺はトレーナーを続けることすら、ままならなかっただろう。どれか一つでも欠けていたら、アヤベのことを助けられなかった後悔で、この身が縛られ動けなくなっていただろうから。
「お待たせ。帰りましょうか」
「ああ」
「……もうすぐ、期間限定の公演が始まるの。ペルセウス座流星群に焦点を当てたお話……喋る内容を詰めないといけないから、独り言が多くなるけれど」
「もちろん」
帰り道ですら、アヤベは星々に真摯に向き合う。自分を縛りつけていたのは妹ではなく、自分自身であったという事実に気づいた今でも、アヤベは時々書き置きを残して、一人星と語らいに夜に出かける。たまに俺も誘われて、二人で夜を明かすこともあるが、一人でいる方が星が近くまで降りてきてくれる気がする、と彼女は言う。俺がたまに同伴するのは、アヤベが自分を責める思考回路にいつの間にか引っ張られていないか、二人きりの場所で確かめるためだ。
「あの、あなた」
「うん?」
「私のは独り言だから……そんなに真面目くさった顔で、聞かなくてもいいのよ。あなたはあなたの話を、してくれれば」
「……じゃあ、俺も独り言を」
実はトレセン学園卒業後に一年ほど、アヤベ・オペラオー・トップロードの三人が社会人レースの世界で一緒に走っていた時期がある。三人が三人とも、まだ足りない、もっと走りたいと思っていた頃だ。アヤベは心底楽しそうに走っていた。もちろん、妹に勝利を捧げたいという気持ちが、完全に消えたわけではない。しかし悲痛なほどの自己犠牲の精神は消え、勝利することの喜び、走ることの気持ちよさを妹と共有したいという前向きな気持ちが、彼女の足から感じられた。その姿に、俺は目も心も改めて奪われた。そして、トレーナーと担当ウマ娘の枠を超えて、彼女を生涯支えたいと思った。
その後オペラオーが舞台女優としてスカウトされ、ドトウを連れて突然イギリスに発ったことで別々の道を歩むことになった。星の勉強をもっとしたいとアヤベが言った時に、俺は胸の内を彼女に伝えた。結果的に、それがプロポーズになった。困ったような、しかしどこか嬉しそうな彼女の顔は印象的で、あれから何年も経った今でも鮮明に覚えている。
「……今、アヤベにすごく似ている子を担当しているんだ。月のように優しい光を振りまく柔和な子だけど、レースの時は人が変わったような気迫を見せてくれる。でも、星に思い入れが強すぎる節があって。自分の競走人生が短いことを、星の
「……」
「まだ競走人生が決まったわけじゃない。怪我もないし、すごく元気だ。でも学園卒業までは、自分の足が、体がもたないと考えてるみたいで……何が、そういう思考にさせるんだろうな。人間にも分かるものなのか、それともウマ娘にしか分からないのか……」
「……これは、トップロードさんがお友達から聞いた話なのだけれど」
互いに独り言を言う、というルールを破って、アヤベが言葉を返してきた。会話になることを期待していたのは間違いないが、俺はアヤベに思わず注目する。
「たとえ競技として走っていても、ここまで思い入れの強い人間の子はそうそういないらしいわ。おそらく『ウマ娘であること』が、何か思いを強めている……この世界のものではない何かに、精神を引っ張られている」
「アヤベも、そう思うのか」
「それは、一番近くで見ていたあなたが、一番よく分かることでしょう」
「……まあ、な」
「結果的に、あなたがいなければ、私はどうなっていたか分からない……もしもあの時のまま菊花賞を走り切っていたら、という夢を今でも見るくらいだから」
ちら、と不意にアヤベがこちらを見てくる。俺がよほど真面目くさった顔をしていたのか、ふふっと笑ってまた前を向いた。
「怖い夢見たんなら、言ってくれ。心配するだろ」
「あなただって、少々怖い夢を見たところで、私に言ってきたりなんてしないでしょう。それと同じよ」
「……っ!」
「私にとって、その夢は、あの時のことはもう『怖くない』。妹が、あなたが、オペラオーが、ドトウが、トップロードさんが。みんなが私に、私のために走るように言ってくれるから。応援してくれるから」
「そうか。そうだよな」
「星はね」
あまりにも明るすぎる空では、一等星すら上手く輝けない。きっと少し高めの山にでも登らなければ、夏の大三角は望めないだろう。だが星々が輝いているだろう空を見上げ、彼女は美人の笑顔を見せていた。
「星の命は、有限なの。私たちには想像もできないほど長い時間をかけてだけれど、やがて輝きを失い散ってゆく……でも、そこで終わりじゃない。その欠片が集まって、また新しい生を受ける」
「……」
「自分を星に重ねるのは、悪いことではないわ。終わりだけでなく、始まりの象徴でもあることを、知っていればね」
おそらくこれからも、彼女には何度も転機が訪れる。もちろん、俺にも。ずっと不変のままでいられるわけがないのは、誰もが同じだ。そのたびに立ち直ってきた。立て直してきた。次があっても、きっと大丈夫だ。彼女に、みんなという存在がいる限り。
「ありがとう」
「礼には及ばないわ」
ほとんど日が沈んでいるというのに、蒸し暑い道を二人並んで歩く。さりげなく俺から手を伸ばすと、するりと彼女が握ってきた。先日まで続いていた鬱屈とした雨が嘘のように、清々しいほどに晴れていた。
「今日は、星がよく見えそうね」
「行こうか」
「ええ。行きましょう」
一番きれいに星空が見られる夜に、二人で出かける。確かに自分の道を、自分の足で走っているということを、伝えに行くために。