風に吹かれた桜の花びらが、雪のように、やわらかく降り注いでいた。
門出にはお似合いのよく晴れた日で、ミレニアムサイエンススクールの至る所で泣き声と、笑い声が交錯している。
「……」
造花で飾り付けられたアーチを潜り抜けて、早瀬ユウカは足を止めて振り返った。
視線の先には、生徒たちに囲まれて笑顔を振りまいている先生の姿がある。
泣いている生徒もいれば、笑っている生徒も。腕に抱きついている生徒もいた。
彼はみんなから愛されていて、そしてみんなを愛している。決してひとりだけを愛することはせず、きっと最後のその瞬間まで、先生であり続けるのだろう。
そんな先生の笑顔を目にしっかりと焼き付けて小さく笑みをこぼすと、早瀬ユウカは前を向いた。
これで──これがいいのだと、最後の計算を終えて。
「もう帰っちゃうんですか?」
視界の端に映った銀髪の少女は外壁に背を預け、両手で持ったスクールバッグを膝のあたりで少し揺らしながら、にっこりと笑った。
「そんなところにいたのね、ノア」
探したわよ、と呆れながら、じとりとした視線を生塩ノアに向けた。
「ユウカちゃんがどうするのか、記録しておきたくて」
「そう。残念だったわね」
「はい。とても」
ふふん、と勝ち誇ったように笑った早瀬ユウカにも、生塩ノアはにこにこと笑顔を崩さない。
そんな彼女に小さくため息を吐いて、今度は早瀬ユウカが反撃に出る。
「ノアは? いいの、このままで」
「そうですね。私のはユウカちゃんのとは少し違いますから」
「どう違うのよ?」
「私のは恋じゃありませんから」
「こっ……! いや! 私も、その……」
「ふふ。恥ずかしがってるユウカちゃんかわいい」
頬を赤くして、俯いたまま「うぅ……」と言葉に詰まった彼女を見て、生塩ノアはやわらかく微笑んだ。
──ずっと幸せでいてほしい。その想いが叶っても、叶わなくとも。
そう願うことが、早瀬ユウカの親友である生塩ノアができる唯一のことだった。
「いいんですか? 先生は、明日はゲヘナの卒業式で、明後日はトリニティですよ。そのあとも……」
「いいのよ。私が決めたことなんだから」
「そうですか。では、仕方ありませんね」
「うん。仕方ないわ」
好きな人に、ただ好きだと伝えることは、とても難しいことなのだと知った。
生徒と先生であればなおのこと。卒業したあとでさえ、彼を困らせたり、気をつかわせたり、彼の負担になることは嫌だった。
何度も計算をした。告白だけならと、卒業したあとならと、せめて手紙でならと。
そのどれもが、答えには行きつかなかった。
結局浮かんできたのは申し訳なさそうに笑って、ありがとうと。そしてごめんねと謝る先生の姿だけだった。
その計算の先に『笑顔』という答えがないのなら、せめて彼の笑顔だけは奪いたくないと、早瀬ユウカは答えを出した。
もう十分に、いつでもどこででも、ページをめくると笑って振り返れる思い出をたくさんもらったのだから、これ以上望むことはないのだと。
「ノア。このあとは予定とかあるの? ないなら──」
「見つけた。もう帰るところだったんだ? ユウカ。やっぱりノアと一緒だったんだね」
後ろからかけられた声があまりにも優しくて、いとも容易く揺らいでしまいそうになった。
だから、さっさと帰ろうと思っていたのに。
そのやわらかな笑顔を見ると、優しい声を聞くと──
「……ぁ、……っ」
言葉が、そこら中にこぼれ落ちて。想いが、とめどなくあふれ出てしまいそうになる。
「ユウカ?」
早瀬ユウカは両手で口元をおさえた。
生塩ノアは、彼女がどうするのかじっと見守っていた。
先生は、早瀬ユウカに向けて微笑んだ。
「なんで……? どうして、私のところに来たんですか?」
「だって、今までありがとうございましたって、やっぱりそれだけじゃ寂しいよ。もう会えなくなるみたいで」
「会えます……。いつだって、どこででも……」
「でも、いつも口うるさいユウカが一言だけだったから」
「なんですか、それ……。嫌味ですか……?」
「ちがうよ」
彼女が涙声だったことには、先生も気づいていた。けれど、そこには触れなかった。
卒業というひとつの終わりが寂しいのだろうと思っていたから。
それは間違いではなかった。
しかしそれだけではなかった。
「……帰ります」
くるりと振り返った早瀬ユウカは、もう振り向かなかった。
外壁に背を預けたままの生塩ノアには目もくれず、右足を踏み出したのと同時に、小さく口を開いた。
「さようなら、先生」
「またね、ユウカ」
生塩ノアも、ぺこりと先生に向けて頭を下げると、先に歩き出した早瀬ユウカのあとを追った。
× × ×
「先生。なんですか、これは」
くしゃくしゃに丸められていた領収書を広げて、今週2度目の遅刻をしてきた先生の眼前にそれを突きつけると、早瀬ユウカは不機嫌そうに問い詰めた。
「……それ、ゴミ箱に捨てたはずじゃ……」
早瀬ユウカの携帯に、『ごめん、寝坊しました。遅れます』というメッセージが届いたのは、午前9時過ぎの頃だった。
とりわけて急ぎの仕事があったわけでもなかったので、気を利かせたユウカが、少し散らかった執務室を掃除しよう、と考えたのがことの始まりだった。
掃除といっても、大掛かりなものではなく、机の周りを整理したり、床に落ちてるゴミを拾う程度の簡単なもので、その作業の中で、ゴミ箱の横に落ちていた丸まった領収書を見つけた。
それはつい先日、横着をした先生がデスクについたまま、ゴミ箱へと投げ入れようとして失敗したものだった。
そのときはあとで拾って捨てておこう、と呑気に構えていたが、膨大な量の仕事を終えた頃にはすっかり、そんなことは頭から抜け落ちていた。
「ご丁寧にゴミ箱の横に落ちてましたけど」
「……」
しまった、と言葉にはしなかったが、一目でそれと読み取れる表情はしていた。
「またアプリに課金したんですね。それも、一度に5万円も」
「いやぁ……あんまり覚えてないかも……」
誤魔化すように、目を逸らして、言い訳にも満たない言葉を次から次へと並べ立てる先生を、早瀬ユウカは氷のような瞳で見つめていた。
「──というわけで、それは必要経費であり、本当に衝動的なものじゃなくて……あの、わかった……?」
「ええ。よーくわかりました」
冷ややかな瞳は、いつの間にかにっこりとした笑みに変わっていた。
安心した先生がほっと息を吐いた瞬間、彼女は手にしていたくしゃくしゃの領収書を、もう一度くしゃりと握りつぶした。
「わたし! 言いましたよね! 消費は計画的にと!」
「……!!」
それからこっぴどく叱られたのち、しょんぼりと肩を落としていると、甘々な早瀬ユウカは「こ、今回だけですからね」と簡単に先生を許した。
それは日常的で、たまに居合わせるだけの生塩ノアでさえ、その光景は見慣れたものだった。
「──ユウカは口うるさいよね」
午後3時を少しすぎた頃、休憩にと早瀬ユウカが淹れてくれた珈琲を飲みながら、クッキーを一口かじった先生は揶揄うように笑った。
「なんですかそれ。嫌味ですか?」
「ちがうよ」
「ちがわないですよね?」
「いや、ユウカの口うるさいところ、好きだから」
「な……っ!?」
手にしていたクッキーを口の中に放り込んで、さくさくと音を立てながら噛み砕き、のみ込んだ先生は目を細めて、目の前で真っ赤になっている早瀬ユウカの瞳を覗き込んだ。
「本当だよ」
「ぁ……ぅ……」
そういう意味の好きではないと、わかっているはずなのに、心臓は言うことを聞かなかった。
壊れたスピーカーのように、不規則で大きな音を響かせている。
あまりに静かな室内だったから、この音が漏れ出て、先生にも聞こえてしまっているんじゃないかと思った。だからまた、余計にうるさくなった。
────その両の瞳に見つめられると、なにも言えなくなる。
早瀬ユウカは、だまって俯くほかなかった。
「これから先もずっと、口うるさく叱ってね」
先生は、呑気に笑ってみせた。
× × ×
「ユウカちゃん」
依然として止まらずに、ずかずかと歩を進める彼女の後ろ姿に声をかけた。
なに、と短く返事をして、しかし足は止まらない。
「ユウカちゃん」
だから彼女は、その手をとって、無理やりに引きとめた。
「なによ……」
「……いえ。歩くのが速いので、待ってもらおうと思って」
ぽろぽろとこぼれ落ちていた涙を見て、生塩ノアはやわらかく笑うと、掴んでいた手を離してそっと彼女を抱きしめた。
左手を腰にまわして、右手であやすように背中を撫でて。
「ユウカちゃんは不器用ですね」
「……」
「私はいいと思いますよ。その気持ちを伝えて、困らせて、いっぱい悩ませちゃいましょう。ね?」
「……」
「わかるよ。ユウカちゃんの考えてること」
一番の親友だったから。ずっと、彼と彼女のことを見てきたから。ひとつひとつの思い出を、深く脳内に、記録してきたから。
「先生は──それを負担とは呼びませんよ」
「……っ」
──知っていた。
彼はずっと、そういう大人だったから。
そんな先生だったから、彼女は惹かれたのだ。
伝えたい。伝えたい。伝えたい。
この気持ちを、今すぐ彼に。
来た道を引き返して、桜が舞降るこの道を、走って。今すぐに、彼のもとへ。
好きだと、大声で。
きっと彼は、その場で断ることはしない。
ちゃんと向き合って、真剣に悩んで、答えを出してくれる。
「でも……」
「ユウカちゃんは面倒くさいです。意地っ張りだし、無理をしすぎるし、素直じゃありませんし」
「……ノア?」
「抱え込んで、相談もしてくれませんでした。勝手に答えを出して、でも心の底では納得しきれなくて、ひとりで泣いちゃうような、そんな面倒くさい子です、ユウカちゃんは」
「私、いじめられてるの……?」
「でも──」
生塩ノアは、人目もはばからず、抱きしめていた両腕にぎゅっと力を入れた。
「そんなユウカちゃんが大好きです。そんなユウカちゃんが、一番かわいいです」
桜の蕾が色づくような、うららかな笑顔を、涙で濡れた顔で見上げる早瀬ユウカに向けた。
「……ノア〜」
「あらあら」
早瀬ユウカも、彼女に両手をまわして、ぎゅっと力強く抱きしめ返した。
──好きな人に、ただ好きだと伝えることは、とても難しいことなのだと知った。
生徒と先生であればなおのこと。卒業したあとでさえ、彼を困らせたり、気をつかわせたり、彼の負担になることは嫌だった。
けれど、彼がそれを負担だと思わないのなら。
「伝えたら絶対、先生を……困らせちゃう……」
「私が許します」
けれど、一番の親友が、許してくれると言うのなら。
「ノアが許してくれても、意味ないわよ……」
「ふふ。そうですね」
伝えてもいいと言うのなら。
「わたし……」
「行ってらっしゃい、ユウカちゃん」
この気持ちは──もう抑えられそうにない。
見送る生塩ノアの優しい笑みを背に受けて、早瀬ユウカは来た道を走って引き返した。
心臓が痛い。
それは全力で走っているからか。それとも先生を想うからか。
この気持ちを、伝えられるからか。
「先生……!」
息を整えることも忘れて、ミレニアムサイエンススクールを出てシャーレへと戻ろうと歩いていた先生の後ろ姿に声をかけた。
「……うん。待ってたよ、ユウカ」
振り返った先生は、笑っていた。
「好きです……。好きです。私、早瀬ユウカは……先生のことが好きです!」
青空の下に、桜の花びらが降り注いでいた。
ふたりを形どるように、桜の花びらが。
門出にはお似合いのよく晴れた空の下に、ふたりを包むように、あたたかな桜の花びらが。