ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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笛吹けども踊らず

 

 

 さて、どうしたものか。

 

 歌姫が逃げ出した後、残された革命家は一人思案していた。

 

 概ね予定通りではあるが、細かい部分で支障が生じている。問題となるのは自身の状態、とりわけネズキノコの影響だった。

 表情のコントロールが難しい。また、普段ならありえないミスを何度も起こしている。

 言葉選びを誤るだけならまだしも、フクロウと新聞紙を取り違えた時などは流石に肝が冷えた。

 これと同様の変調がウタにも起きているならば、今後の状況予測にも修正が必要だろう。一応の対策はとったが焼石に水だ。

 

「ところで、いつまで隠れているつもりだ」

 

 呟いた瞬間、背後から伸びてきた腕に拘束される。元より抵抗する気もないため、ローはされるに任せて力を抜いた。

 全くの無抵抗とは相手も予測していなかったのだろう。勢い余って身体が宙に浮き、つま先が空を切る。

 呼吸は正常、さほど圧迫感も感じない。とはいえ、さすがに宙吊りはいただけないかと思い直し、ローは胸元に回された腕を軽く叩いた。

 反応がないため小声で抗議する。

 

「降ろしてくれ。苦しい」

「…………」

「お前だって無理矢理持ち上げるつもりじゃなかっただろ。ほら、無駄に勢いづけたせいで背中が反ってるじゃねェか」

「…………」

「聞いてるか?」

 

 返答はない。代わりにとばかりに締め上げられた。どうやら対話を禁じられているらしい。

 思い返せば、王下七武海時代にも一部の海兵から露骨に無視をされていた時期がある。ローと話すと何故か信念が揺らぐとのことで、迷惑な勧誘者扱いを受けたのだ。

 挙句の果てについた二つ名が“宗教屋”である。

 ちなみに、離反するよう海兵達を唆した覚えはあれど、自陣へ勧誘したつもりは微塵もない。

 

「大丈夫だ。抵抗する気はない」

 

 背中越しに戸惑いが伝わってくる。実際、拘束が弱まっているのも感じた。

 対話禁止の命には従っても、ローの言葉に意識を傾けてしまっている。どうやら相手は相応の実力者ながらも幹部とまではいかないらしい。

 下に見られたものだ。内心面白くないものの、警戒を解くために他愛もない無駄話を続ける。

 

「勧誘もなしだ。昔、やらかしてな。カイドウには殴られるし、仲間からは説教されるしで最悪だった。以来四皇の部下には手を出さないことにしてる。本当だぞ」

 

 咳き込みながら男の腕を叩いていると、もう一人の海賊が姿を現した。

 金髪を結い上げた男で左の額に縫合痕が残っている。棒術の使い手なのか、身の丈程もある六尺棍を担いでいた。警戒の表れか、宙吊りのローを眺める視線からは感情が窺えない。

 右手を注視されていることに気付く。武装解除をと鬼哭を手放せば、今度は呆れたように眉を顰められた。

 

「余裕だな、“死の外科医”」

「むしろ捨て鉢なんだ。何せ服毒してる」

 

 薄ら笑いを浮かべてみせる。かえって気に障ったのか、相手の眉間の皺は深まるばかりだ。

 

「トラファルガー、お前に話がある」

「カンファレンスが望みか? それとも、ネズキノコの生きた症例で試したいことでも?」

「どちらも、と言ったらどうする」

「検討はしてやる。ただ、大事な話だ。とりあえず地に足をつけるべきだろ」

「……ロックスター、降ろしてやれ」

 

 金髪の男は深いため息と共に指示をだした。

 

 拘束を解かれ服の汚れを払っていると、足下に六尺棍が転がってくる。どうやら相手方も武装を解いてくれるらしい。

 視線を投げかけると、彼は肩をすくめた。

 

「大した意味はねェぞ。船医の対話に武装は不要、そう判断しただけだ」

 

 嘯いて腰を下ろしたのは赤髪海賊団の船医、ホンゴウだ。

 拘束を仕掛けてきた男がロックスターとやららしい。今はホンゴウの背後に控えている。言葉を発する気配はない。斥候兼護衛といったところだろうか。

 赤髪海賊団の二名は無言で視線を合わせた後、ローへと向き直った。

 

「カンファレンスってのは、うちの娘のことで間違いないな」

 

 ホンゴウが視線で着座を勧めてくる。素直に向かいへ掛ければ、彼は静かに問いかけてきた。

 

「ネズキノコを食べたと聞いてる」

「そうだ。そこに置いてあるバスケットからひょいひょい食ってやがったぞ。おれも同じものを食ったから間違いない」

「……ネズキノコを? お前がか?」

「ああ。黴臭くて食えたもんじゃない。まったく期待外れだ」

「味の感想は聞いてねェ」

 

 素気無く切り捨てられ、ローは眉間に皺を寄せる。

 ファミリーといい目の前の男といい、物事に関心を寄せないのはどうなのだろうか──などと、意味不明な不満を抱いたあたりで我に返った。

 今は医者として情報共有を行なっているのであって、冗談を言っている場合ではないのだ。

 どうにも脱抑制が激しい。自制を意識し背筋を伸ばしていると、ホンゴウが眉間に皺を寄せた。

 

「ネズキノコの毒に冒されているわりには随分と落ち着いてみえる」

「そうでもない。ただまァ、素面じゃねェからといって適当を言ってるわけでもねェ。そこは安心していいぞ」

「安心材料が見つからねェ」

 

 ため息一つ、ホンゴウが気を取り直したように向き直る。

 

「想定よりウタの症状が軽い。トラファルガー、お前が何かしたからだな?」

「何かとは?」

「質問しているのはこっちだ」

「そう言われてもな。お茶くらいならしてやったが……」

「はぐらかすつもりなら容赦はしない」

 

 鋭く言い放つホンゴウを見つめ、ローはかぶりを振った。

 

「はぐらかしてるつもりはねェよ。見てただろ。茶、いや、ジュースだな。飲み物に薬を混ぜた」

「薬? 解毒薬か」

「違う。ネズキノコの毒は精神にも作用するだろ。暴れられると面倒だから、そちらに効く薬を盛ったんだ」

「…………」

「本人の意思で適切に服用するのが一番だが、現状のままでは難しい。何も手を打たないよりはましだと判断した」

「……なるほど。お前も同じ飲み物を飲んだから、ある程度は落ち着いているというわけか」

 

 一応の納得を得られたらしく、ホンゴウから剣呑さが消える。ローは()()()()()()()、ただ口の端を上げてみせた。

 

 

 嘘ではない。

 嘘ではないが、ホンゴウは勘違いをしている。

 

 

 故郷のレシピを再現したホットジュース。ウタに飲ませたそれは正真正銘ただのジュースだ。

 温かい飲み物、果実、スパイス。これらも精神安定へ寄与しないとはいえないが、ネズキノコの毒と拮抗するほどの強烈な効果はない。

 

 薬を混ぜたのは、ウタがジュースを飲んだ()

 液体が喉を通過し胃に流れ込むまでの間にすり替えたのだ。

 

 多少繊細な操作が必要であるものの、人体の内部にある液体と薬瓶の中身を入れ替えることは可能。事実、ワノ国の牢中でドフラミンゴに鎮痛剤を拒絶された時にも類似の手法を用いて強制投与している。

 

 今回の投与の目的は無論、精神作用の抑制とエネルギーの補給だ。身体に大きな負担がかからない程度に調整したつもりではある。

 ただ、そもそもが不安定であったウタには効果が薄いのかもしれない。

 

 何にせよ、ホンゴウ、つまり赤髪海賊団としては、ウタの状態だけ知れれば十分だろう。

 いらぬ情報──例えば、ウタの経過を観察し治療を施したローが無治療のままであり、まったく素面ではないことについては伏せておいても問題ない。

 もちろん、医者としては明らかに問題行為であるので黙っているわけだが。

 

 ホンゴウと視線が合う。一応愛想良くしておこうかと笑顔を作れば、ひどく胡散臭い奇術師をみるような目で睨まれてしまった。

 

「他に知りたいことは? 経過が必要なら一通りまとめるぞ」

「頼む。あとは薬剤の内容を知りたい」

「わかった」

 

 手帳を取り出し、挟み込んでいた薬剤のメモに経過を書き足してからホンゴウへ渡す。

 目を眇めたホンゴウがたっぷり数秒黙り込み、やや申し訳なさそうな声で切り出した。

 

「すまねェが口頭で頼む」

 

 後ろからメモを覗き込んでいたロックスターもまた、古代文字でも見たような顔をしている。

 悪筆の自覚はあるので今更苛立ちはしない。

 要請に粛々と応え、薬効の確認ついでに解毒薬の用意についてもそれとなく探ることができた。少なくとも一人分は確保しているようだ。

 ローが準備し精製したものとは別の薬剤と思われる。速効性には難があるが、それでも急遽手に入れるには多少の無理を通したはずだ。

 真剣な顔で情報を整理する船医をよそに、ローはもう一人の海賊へと話を向けた。

 

「おい、あんた。ロックスターとかいったか?」

 

 ロックスターの眉がぴくりと動く。気を抜いていたのか口を引き結び直す彼に構わず、ローは続けた。

 

「赤髪に伝えてくれないか。『今回の件は高くつく。駄賃は本人から貰うから口出しするな』と」

「やめろ、トラファルガー。うちの船員にゃ粉をかけるつもりはねェんじゃなかったのか」

 

 ロックスター本人が拒絶する間もなくホンゴウが止めに入る。ペン先を突きつけられたものだから、ローは両手をあげて敵意がないと示してみせた。

 

「勧誘はしてねェ。伝言を頼んだんだ」

「屁理屈をいうんじゃねェ」

「屁理屈とはなんだ。こっちはお前らの娘のせいで相棒まで眠っちまってるんだぞ。寂しいんだ。一言二言話しただけじゃ何も起きねェし、少しのおしゃべりくらい許してくれてもいいだろ」

「お前、実は酔ってるのか。それとも、ネズキノコの影響でそんなうわついた状態に……?」

 

 ホンゴウは珍しい症例を見る目になっている。一歩退いて観察するホンゴウと二歩下がって距離を取るロックスターから遠巻きにされ、ローは眉間に皺を寄せた。

 

「扱いが気に入らねェな。話がないならもういいか。おれにも用事があるんだが」

「待て。トラファルガー、お前、何の目的があってウタに近付いたんだ」

 

 目的とは大層な。

 ローはかぶりを振る。

 

「何も。散歩中にガキを拾っただけだ」

「偶然だと?」

「偶然だろ。お前らと一緒でな」

 

 ホンゴウの気配が変わった。空気そのものに圧がかかるような感覚。船医とはいえ、彼もまた四皇直属の幹部ということなのだろう。

 ローはホンゴウの視線を無視して立ち上がる。

 “ROOM”圏内を探れば、ライブ会場を抜けた先の桟橋にウタの気配。状態から推測するに泣いているらしい。運がいいのか悪いのか、彼女のいる桟橋とは真逆、島の裏手に位置する湾岸に赤髪海賊団の船影が見えた。

 強大な気配を感じる。さすが四皇といったところか。

 

 これまで対話したことのある四皇は数人。カイドウにビッグ・マム、ティーチにルフィの四名だ。尤も最後の一人に関しては当時は四皇ではなかったはずである。

 一番新しい記憶は海賊島に出かけた際に話したティーチだが、軽い読書会程度の接触しかなかったため刺激には欠けていた。

 なんだかんだと付き合いの長かったカイドウを思い出し、いけないとは思いつつも悪戯心が芽生えてしまう。

 

「しかし、四皇の娘か。なかなか悪くない拾い物だ」

 

 ほんの軽口、他愛もない冗談のつもりだった。しかし、ホンゴウの表情が一気に険しくなったことで少しばかり罪悪感を覚える。

 喧嘩を売りたいわけでもなし、軌道修正が必要かもしれない。

 

「ただまァ、四皇の娘としての価値は下がったな。捨てたってんなら、お前らにとっては無用の長物だったわけだろ?」

 

 いけない。間違いなく言葉選びを誤った。

 赤髪海賊団自ら距離を置いたならば、ウタが「四皇の娘」として利用される危険性はそうたいてきに下がるだろうから安心していい。そう伝えたつもりが、全く別の方向に煽る発言になってしまった。

 常日頃から「読める空気を唐突に踏み躙るな」とピーカから口酸っぱく言われているというのに、気を抜くとこれである。

 本格的に圧を増し始めるホンゴウを前に、ローは無言で表情をただした。

 

 早めに対話を切り上げた方がいい。そう判断し、転がったままだった六尺棍を爪先で蹴る。これもまた挑発に受け取られるのではと、蹴ってから思い当たった。

 今更どうしようもなく持ち主の足下へ返っていくその軌道を眺めていれば、ゆらりと立ち上がったホンゴウが硬質な声で問う。

 

「トラファルガー・ロー、それとも“ジョーカー”と呼ぶべきか?」

「どちらでも」

「何にせよ、これが最後の警告だ」

 

 ホンゴウは手を出してこなかった。

 彼はその場を動かず、ただ低く囁く。

 

「ウタに手を出すつもりなら覚悟しろ」

 

 手を出すも何もウタ本人が自死を選んでいる。その辺りは気にしないのだろうか。それともまさか、ウタの選択にローが絡んでいると誤解されているのだろうか。心外である。

 とはいえ、そもそも不用心がすぎるのは確かだ。

 ローは首を傾げて問いかけた。

 

「おれみたいな悪党がかわいい娘を唆す可能性は考えなかったのか」

「仔細考えた上だ」

「孤島の善人に預けておけば安全だと? 考えが甘いな。強者の思考だ」

 

 赤髪海賊団の愛娘は人の弱さに溺れて死ぬ。彼らが後生大事に宝箱へ仕舞い込み、不用意に手を離したせいだ。

 弱者の身でこの世界を泳ぐ術を知らないウタは、人々の苦しみに触れた時、世の人々も自身と同じく溺れていると勘違いをしたのだろう。

 その結果、命を張ってまで世界を変えようとしているのだ。

 

 ウタの生い立ち、その詳細は知らない。ただ、本人の話しぶりや葛藤の様から彼女が養女であることには勘付いていた。

 赤髪海賊団は無関係の子どもを大切に育て、突発的な理由から手放したわけだ。その出会いも別れも意図したものではなく、本来ならば手順を踏んで離れるつもりだったのではないだろうか。

 

 突然別れの時がきて。

 そして、嘘をついた。

 

 赤髪達だけではない。

 善悪問わず、この世界では誰も彼もが嘘を吐く。偽りを敷き詰め歴史を築いては偽証が暴かれるのを恐れ、歴史ごと燃やし沈めて結局何もかもをなかったことのように扱うのだ。

 

 ローもまた、百年の嘘に与した。

 真実の痛みを知るがゆえに。

 

 真実は誰にも触れられず凍りついたまま。不用意に真実へ近付いた者はその冷たさに飲まれ、激しい痛みに身を灼かれるはめになる。

 赤髪にはそんな経験がなかったのだろうか。人は皆痛みを乗り越えられる、あるいは痛みと共に生きていけるとでも思っているのかもしれない。

 それは強者の驕りだ。

 

 ローは薄く微笑み、片手を胸に当てて宣誓する。

 

「警告はありがたく受け取ろう。お前らの愛娘に手は出さない。元々、そんなつもりもねェ。ただ借りを返そうってだけの話だ」

「借りだと?」

「ネズキノコを盗み食いしたからな。掠め盗った分の借りは返す。約束は守るべきだろ」

 

 ホンゴウが眉を顰めた。不可解なものを見る目だ。当然だろう。仔細を説明するつもりなど欠片もない。

 

「安心しろ。途中で放り出したりはしねェよ。引き延ばしたところであと数時間。海兵共が鬱陶しいが、暇つぶし程度にはなる」

 

 ウタに真意を知られたくなかった赤髪達がかつてそうしたように、ローもまた意図を隠した。

 紡ぐ言葉の全てが真実でも嘘でも同じ。手法は変わらず猜疑を煽ることは容易い。

 何せ、トラファルガー・ローとの対話は毒よりタチが悪いと専らの噂なのだから。

 

 真っ直ぐに睨み返してくるホンゴウを見つめ、ローは表情を消す。

 

「急ぐといい。一応、死体を預かるくらいのことはしてやる」

 

 数秒の沈黙の後、挑発に応えることなくホンゴウが踵を返した。無言で遠ざかる彼の背を追い、ロックスターも去っていく。

 

 完全に二人の気配が消えるのを待ち、黒衣の男は額に手を当てた。普段より表情の落差が大きいためか、やや疲労を感じる。

 親指で笑窪のあたりを揉みしだき、ぽつりと呟く。

 

「そろそろ泣き止んだ頃か?」

 

 思い返すのは、最後にみたウタの表情。

 意図的に彼女を刺激したのは確かだ。

 ホンゴウらが接触を試みていることには気付いていた。場を整えるにもウタ本人がいては話にならない。ローから距離を置いてもウタがついてくる可能性があったため、逆に彼女を追い出した。それだけだ。

 泣くほど追い詰めるつもりはなかった。

 罪悪感を感じているわけではない。単に泣いている子どもが苦手なのだ。

 面倒が勝ち、衝動的に対処してしまう。同情した挙句うっかり気絶させ、最終的には計画を乗っ取る三下悪役ムーブをかましてしまう可能性すらあった。

 三流がすぎて、ドフラミンゴあたりに知られたら怒られそうだ。額に青筋を立てて激怒する姿が目に浮かぶ。

 

 思考がバラけていくのを如実に感じ、ローはかぶりを振った。

 

「これはちょっと、まずいな」

 

 困ったものだ。脱抑制が顕著な今、自身の悪意があらぬ方向へ向かいそうで恐ろしい。

 そもそもが普段から好き勝手をしている身だ。悪党としての舵取りに口を出してくるトレーボルや呆れて軌道修正をかけてくるピーカなどのブレーキ役がいない今、自制は必須だった。

 ただ、自制に必要な理性が根こそぎ機能不全を起こしているのが問題なのである。

 

「面倒くせェ……」

 

 ローは思わずぼやいた。

 ウタのことだけではない。

 胸ポケットにしまったイヤホン型集音器により、現状はファミリーの皆に伝わっているだろう。後々、大目玉を喰らうことは間違いない。

 

 どうせ説教されるなら、いっそ好きに動き回るべきでは。そう囁いてくる本能の声に、いつまで抗えるだろうか。

 

 隙あらば顔を出す悪戯心と少しの善性、そして煮えたぎる怒りと衝動。

 ウタとの会話で幼少期を想起したことがきっかけになり、一種の子供がえりに近い状態を引き起こしている。最近、ファミリーに過去を打ち明けたり今後の相談をしたりで気が緩んでいたのだろう。

 故郷の話については、どうせ死ぬ他人になら開示の練習がてら話してもいいと思ったのだ。今となっては判断を誤ったとしか思えない。

 とはいえ、酩酊状態に近い今だからこそ話せることもある。ウタに話す体を装い、集音器を通じて耳をそばだてているであろうファミリーへ過去のアレコレを伝えるのも悪くはない。

 昔馴染みの幹部共は誤魔化されてくれないだろうが、若手ならばどうだろうか。

 情状酌量を狙い心象操作をするのも一考だ。

 

 そこまで考え、いくらなんでも小悪党がすぎると思い直す。

 

「まったく、三下にも程がある」

 

 両手で顔を覆い呻くその姿ははたから見れば苦渋に満ちていた。

 

 

 

 

 

 歌姫はぼんやりと波を眺め続けていた。

 

 どれほど涙しても海は懐かしい船を運んできてくれはくれず、今となっては泣き疲れても眠気すらこない。

 袖口で涙の跡を強引に拭ったところで立ち上がる意味すら見出せず、ウタは茫洋と桟橋に腰掛けている。

 

 かつり、と音がした。

 

 ここ数時間で聴き慣れた靴音だ。

 能力で移動できるくせに、彼はわざとらしく音を立てる。ウタに心の準備をさせようという計らいだろうか。

 首を擡げるのすら億劫で、ウタは海面に視線を落としたまま囁いた。

 

「放っておいてよ」

「最後まで付き合う約束だろ」

「約束なんてどうでもいい」

 

 吐き捨てた言葉はウタ自身を苛んで、その痛みがまた別の苦痛を呼ぶ。自暴自棄というには暴力的な感情がウタの頬を歪ませた。

 

「何しに来たの」

「おしゃべりの続きだ」

「もういいよ」

「じゃあ護衛」

「海軍も帰ったしいらない」

 

 素気無い拒絶を叩きつけても靴音は止まらない。無遠慮に傍らへ立った革命家を無視していると、しばらくして、彼は小さな声を溢した。

 

「悪かった」

「……なんのつもり」

「お前達のことを知らずに適当なことを言った。それを謝りに来たんだ」

 

 何を言うのかと思えば、謝罪とは。悪党が聞いて呆れる。そう思い、ウタは鼻で笑った。

 

「あんなのただの八つ当たりじゃない。どうしてあなたが謝るのよ」

「最後まで付き合うなら誠意をもって事にあたるべきだろ」

「またそれ。もうどうでも良いって」

 

 文句を言いながらウタは立ち上がった。他に行く場所があるでもなし、元来た道を辿りライブ会場のスタンド席へと向かう。

 眠るファン達の間を抜け歩んだ。頼りなく雲の上を歩いているような感覚。案の定小石に躓いてよろければ、背後から伸びた手がウタの腕を掴んで引き止める。

 物騒な刺青も見慣れてきた。

 

「放して」

 

 面倒に思えてその腕を振り払う。袖に何か仕込んでいるのか、やけに重たい感触が手に伝わってくるものだからさらに苛ついた。

 

「ついてこないで」

「たまたま向かう方向が一緒なんだ」

「嘘吐き。嘘は嫌い。大嫌い」

 

 ウタはぶつぶつと呟き足早に進む。

 泣き腫らした目元を見られたくない。そもそも今は誰とも顔を合わせたくなかった。

 俯き加減に歩くウタの後ろを一定の間隔を空けたまま、靴音はついてくる。さらに歩く速度を上げればローが声を上げた。

 

「待ってくれ」

 

 呼びかけを無視して進もうとしたウタは、しかし、数歩先で縫い止められたように立ち止まる。

 なぜだろう。進めなくなった。

 呼び止める声が僅かに揺れていたからだろうか。それとも、この期に及んで何か期待してしまっているのだろうか。

 ローに背を向けたまま短く問う。

 

「何」

「悪かった。謝罪と弁明をしたい」

「いらないってば!」

 

 胸のざわめきに耐えられなくなり、勢いよく振り向いたウタは地団駄を踏む。

 

「私が悪かったって言ってるでしょ! これで私とあなたの話はおしまい! それでいいじゃない!」

 

 叫んだ拍子に前髪が揺れる。涙の跡を見られたくなくてフードを目深に被り直した。

 薄暗くなった視界が惨めで淋しい。そう感じる自分の浅ましさにほとほと呆れ、ウタは口元を歪めて嗤う。

 

「それとも何。許されたいの? 謝ったら楽になるんだっけ? そう思うなら勝手にすればいいじゃない。別に止めないよ」

 

 これは一体、誰に向けた言葉なのだろうか。

 ローに投げつけた惨い言葉達が乱反射し、ウタ自身にも突き刺さる。

 歯の根が合わず震えた声は酷く醜悪だった。

 

 視界の端で黒衣が揺れる。

 近付きもせず遠ざかりもせず、ただそこに佇んでいる影。寄り添うというには冷たく、監視しているというには生ぬるいその存在。

 彼はぽつりと呟いた。

 

「わかった」

 

 相変わらず凪いだままの声からは感情が読み取れない。込み上げる不安を堪えきれずにウタが肩を揺らせば、ローは声を和らげて続ける。

 

「そのまま聞いてくれ。いや、聞きたくねェなら耳を塞いでくれてもいい」

「何言ってるの。そんなの意味ないじゃない」

「いいんだ。結局、お前には関係のない話なんだから」

 

 ウタから視線を逸らし、ローが目を伏せる。そうしているとどこを見つめているのかすら朧げな金の光がゆっくりと瞬いた。

 

「赤髪とお前の関係について適当なことを言った。浅慮だったな。すまねェ」

 

 ローの謝罪は端的ながら真摯だ。真面目な謝罪を聞き入れないのも後味が悪い。ウタはフードを押さえていた手をしぶしぶ下ろし、彼の方へと向き直る。

 ウタが聞く体制に入ったことに気付いたのか、黒衣の男は微かな笑みを浮かべた。

 

「赤髪達がお前と真剣に向き合っていた。そう、おれは言ったよな。どうしてそんな考えに至ったかを話したい」

「……あなたの考え?」

「ああ。今から話すのはおれの経験、そこから生じた推論だ」

 

 流れからして、彼の子ども時代の経験談だろうか。ウタは先ほど聞いた過去話を思い返す。

 

 両親と妹。仲の良い家族。

 失われた故郷と消えない思い出。

 

 掌の上のコインに過去のよすがを求めるように、目を伏せたまま彼は話し出した。

 

「おれの両親は命に携わる仕事をしていてな。日々人の生死に触れる分、あっけなく終わりがくることも知っていた」

 

 記憶を辿っているのだろうか。

 金の瞳が揺れている。溢れる光は鈍く、そのくせ色褪せない何かを映して瞬いていた。

 血の気のない唇が薄く弧を描く。

 

「後悔しないようにと考えていたんだろう。二人は何事にも全力だった。特に、人に関わることはなおさら」

 

 ローの両親は多忙を極める中でも他者と交流し、その繋がりを決して蔑ろにしなかったらしい。

 また、ローの勉強にもとことん付き合い、妹ともよく遊んでいたそうだ。

 

「くだらねェ冗談も言う。抜けてるところもあった。ただ、不思議なことに、おれはあの人達に片手間であしらわれたことがねェんだ」

 

 呆れるほど真摯で、どんな問いに対しても答えを返さんと頭を捻り、良い意味でも悪い意味でも諦めが悪く、よく笑いよく泣く。

 そんな人達であったと、ローは振り返る。

 

「叱るにしても巫山戯るにしても必ず向き合ってくれた。どんな時も目を合わせて話してくれた。だから、おれは二人の姿を覚えていられる」

 

 そこまで一息に言い切り、ローが視線を上げた。

 

「記憶を美化しているだけと言われれば否定できない。否定はできないが……最近、色んな奴らと話していてこう思うようにもなった」

 

 彼はペンダントの飾り紐をなぞりながら囁く。

 

「同じ日々を共に過ごす。逃げずに向き合い、共に悩み考える。それが父様達の生き方で、愛情だったんじゃねェかと」

 

 訥々と溢れる言葉は普遍的で、ともすれば中身がなく軽い印象さえ与えてしまうほど平凡だ。

 しかし、ローの声は重さに耐えかねるように擦れていた。

 

「おれの考えが正しいのかどうかはわからない。子どもの頃のように問いかけようとも答えは返ってこない。永遠に」

 

 言葉を失ったウタを見返し、ローが笑う。

 

「最初に言ったように全部おれの推論だ。父様と母様のことも、お前と赤髪達の関係も。だから、聞き流してくれていい」

 

 その笑みをみて初めて気付いた。彼の印象がゴードンと似ている、そう思った理由を。

 

 亡国の革命家。

 彼が時折浮かべる笑みは喪失を受け入れ、受容した者のそれだった。

 

「人は死ぬ。ましてや海賊なら荒事は日常茶飯だ。今日明日別れがくる可能性だってある」

「…………」

「だからこそ赤髪達はいつだって真正面からお前に向き合っていたのかもな」

 

 いつその時がきてもいいように。

 記憶に残る姿がウタにとっていいものであるように。

 

 ウタは俯き、唇を噛んだ。

 

「……でも、シャンクス達は、あいつらは」

 

 シャンクス達は悪党だ。

 ウタを利用し国を潰した。

 それは彼らが必死に紡いでくれた嘘。

 

 ウタは嘘が嫌いだ。

 

 優しい嘘はあまりに重い。

 言葉にできないほどに。

 

 言い淀むウタを遮り、凪いだ声が嘯く。

 

「なんだっていいじゃねェか。真実がどうあれ、お前の前ではいい父様達だったんだろ。記憶まで否定する必要はねェよ」

 

 ウタの記憶。

 赤髪海賊団との日々。

 思い出はいつも鮮やかで色褪せない。忘れようと幾重にも重ねた努力を打ち消し、些細なきっかけで鮮明に甦る。

 

 今もまだ、瞼を閉じれば懐かしい赤を思い描けてしまう。

 潮と酒に焼けた笑い声がこだまして、まるですぐ近くで見守ってくれているような気さえする。

 

 分かっていた。

 赤髪海賊団との日々、その思い出がいつまでも鮮明であり続けた理由。

 

 

 ウタが彼らを恋しく思っていたから。

 そしてなにより、彼らがウタを大切に思ってくれていたからなのだ。

 

 

 眦に滲んだ涙を誤魔化そうとして、ウタは目を大きく見開いた。

 

「ばかみたい」

 

 そう、馬鹿だ。

 

 赤髪海賊団はウタを信じて泥を被り、ゴードンはきっと自身の苦しみをも欺いてウタを育てた。いつの日か、バケモノが人々を幸せにする未来を信じて愛情を注ぎ、信念を貫こうとした。

 シャンクスもゴードンも騙されたのだ。彼らはウタが世界中の人を幸せにできると信じてくれていたたのに。

 

 結局、ウタはバケモノのまま、夢物語は夢のまま終わってしまう。

 全てを閉じ込めたあの夜のままに。

 

「全部、夢だったら良かったのにね」

 

 涙の代わりに溢れたのは、自責と寂寞を織り交ぜた本音だった。顔を歪めて吐き捨てたウタはふと我に返り、ローへと視線を傾ける。

 ぼんやりと地面を眺めていた彼は、ウタの視線に気付いて口の端を歪めた。

 

「夢か。やっぱり、そういうもんなんだな」

「え?」

「夢なら良かったって言ったろ。そうだよな。悪夢なら目覚めて終わりだ」

 

 独り言のように呟き、ローはへらりと笑う。

 

「お前の夢、はやく醒めるといいな」

「なにそれ。嫌味?」

「なんでそうなる」

 

 真顔で否定してくるあたり、悪気はないのだろう。

 ローはエレジア崩壊の真実を知らないはずだ。シャンクスとウタの関係云々以前に、単純に『大海賊時代が終わりウタの新時代がくればいい』程度の意味合いで言っているのかもしれない。

 ぶすくれたウタは再びフードへと手を伸ばす。

 

 そして、顔を伏せる拍子に見てしまった。

 ペンダントを握るローの左手を。

 

「ローさん、ごめんね」

「急にどうした。なにを謝る」

 

 ローが首を傾げる。

 国を亡くし、拾われ、かつては海賊の道を歩んだ革命家。きっと多くのものを失ってきたはずだ。彼がその手を伸ばし、縋れるものなどそう多くないのだろう。

 幼い頃のお守りを握りしめたまま、彼の左手は痛々しく引き攣っていた。

 

 やはり、ウタの言葉はローを傷付けたのだ。

 彼の心の柔らかい場所を暴いてしまったに違いない。

 

 悪いことをした。

 素直にそう思う。

 

「なんでもない。謝りたかったの」

「若い奴の考えることはわからねェ」

「出た。おじさんのふり」

 

 揶揄うウタを眺めたまま、ローが小さく笑った。呆れたような、ほっとしたような、複雑な色の滲む笑みだ。

 ウタも口の端を上げた。

 

 互いが互いを真似るように笑みと戯れを重ね、徒に時間を費やしている。

 本当に益体もない関係だ。否、関係というには互いを知らない二人なのだが。

 

 再び歩き出したウタを追うように靴音が続く。冷たく聞こえていたはずのそれは、今はどこか柔らかく響いていた。

 

 

 

 

 

 

 歌姫と革命家は何をするでもなくスタンド席を歩き回っていた。

 

 一歩踏み出した拍子に観客の一人へ土を蹴り掛けてしまう。観客の顔についた汚れをガーゼで拭き取り、ローは辺りを見回した。

 誰一人起きてはいない。寝入る数名を突いたり揺らしたりするも反応はなかった。外的刺激では決して目覚めないというのは本当らしい。

 睡眠麻酔代わりに使えないだろうかなどと他所事を考えていると、前方を歩いていたウタが急に足を止める。

 どうやら何か見つけたようだ。

 歌姫の横顔を覗き込めば、その視線は観客の一人、継接ぎくたびれた服を纏う少年へと向かっていた。

 

「知り合いか?」

 

 答えはない。

 ウタの肩越しに覗き込む。

 その少年は他の民衆と同じく安らかに寝息を立てていた。他と違うところといえば、その手足。僅かであるが、ところどころに赤が滲んでいる。

 擦り傷に打撲、どう見てもエレジアについてからできたものだ。先の海軍とのいざこざで掠ったのだろうか。

 

 立ち止まったままのウタを追い越し、少年の状態を確認する。

 派手に出血してはいるが幸い大した怪我ではない。大衆的な表現をすれば、唾でもつければ治る怪我だ。

 少年本人は眠ったまま、痛みを感じている様子もなかった。しかし、歌姫にとっては違ってみえたのだろう。

 

「どうして」

 

 ウタはよろけ、そのまま座り込んでしまった。

 虚に彷徨った紫の目がローを見る。

 切実に訴えるその色を無視できず、ローはため息を溢した。

 

「少し待て。処置する」

 

 少年の身体に触れる。土を払って患部を清め治療を施していくうちに、ぽつりぽつりとウタが話し始めた。

 

「その子、私のファンでさ。ウタワールドで少し話したんだ。羊の世話をしてるんだって」

「成程。確かに働き者の身体だ」

 

 栄養に偏りがあるのかやや肌が荒れているものの、少年の四肢は存外筋肉質で、呼吸も深く安定している。その逞しさは山岳地帯の広大な牧地を歩む内に培われたものだろう。

 医者視点では概ね健康で結構といったところだが、ウタは釈然としない様子で眉根を寄せる。

 

「働き者って。まだ子どもなのにおかしいよ」

「そうか? それはそうと、この筋肉はなかなかのもんだぞ。お前も触ってみろ」

「素人が無断ではちょっと。さすがに悪いよ」

「そうか。セクハラだもんな」

「骨の人の時に言ったこと、まだ怒ってるの?」

 

 機嫌を損ねたのか、ウタが声を低くする。ただ、凄まれても何一つ脅威に感じない。ローはかぶりを振り、流れるように続けた。

 

「怒ってねェよ。ところでくるぶしの腫れも確認したい。足を支えてやってくれないか」

「こんな感じ?」

「膝裏を持って、そうだ。上手いじゃねェか」

「よかった……──じゃないよ」

 

 流れで少年の足に触れる羽目になったウタが胡乱気に呟く。

 

「ローさんって詐欺師みたいだよね」

「革命家は詐欺師の一種だ。未来なんて見えやしないくせに先は良くなるから頑張れと考えなしに焚き付ける」

「サイテー」

 

 形は違えどウタ自身も革命家に分類されるはずなのだが、彼女には自覚がないらしい。

 彼女の革命は始動さえすれば確実に変革を齎すのだから、当然といえば当然だった。

 民衆の望みを読み違えなければ、の話だが。

 

 歌姫は頼りなさの滲む小声で問う。

 

「まだ小さいのに働かなきゃいけないなんて、やっぱりおかしいよ。悪い人達のせいで人手が足りないのかな」

「否定はしない。だが、大抵の農場は家族や村ぐるみで営むもんだ。子ども時代から手伝いをしながら技術や礼節を学ぶ」

「でも、まだ遊びたい盛りでしょ」

「遊びも仕事も生活の内だろ。たとえば、貰った駄賃でお前のライブ代を賄うとか」

 

 一般論として金や資源があれば増える選択肢もある。ただ、何を望むかは個々の問題だ。羊飼いの少年のことなど何一つ知らないわけで、ローとしては推測で答えるしかなかった。

 返答が気に入らなかったのだろうか。ウタが眉を顰める。納得できないがうまく反論もできない様子だ。

 

「大概の人間は不自由な中で自分にとっての最善を選ぶ。理不尽に見えても、他人の選択そのものを批判する権利は誰にもねェ」

「……でも」

「分かってる。お前が許せないのは理不尽な環境と、それを強いる奴らだ。他人の生き方自体を否定したいわけじゃねェんだろ」

 

 治療が終わり、元の位置に少年を横たえる。彼の安らかな寝息を耳にし、ウタもまた、安堵のため息を落としていた。少しは落ち着いたらしい。

 少年の隣に腰掛け、ウタが膝を抱える。

 

「この子も今の生活が辛いから私のライブに来てくれたのかなって思ったんだけどな」

「違ったのか?」

「仕事があるから帰るって言われちゃった」

 

 至極現実的な理由だ。ただ、ウタからすれば理解できないものであったのだろう。

 歌姫は俯いたまま、か細く呟く。

 

「本当はさ、あっちの世界が嫌だったのかも」

 

 ウタワールドでの出来事を語るウタはまったくもって幸せそうに見えない。これまでの彼女の話を総括すると、民衆から拒絶されたか、あるいは民衆の望みと自身の方針にズレが生じたようだ。

 客観的に見れば当然の結果だった。

 ファンや民衆などと纏めて呼んでも、彼らは個が集まっただけの群れ。当然ながら現実世界で積み上げてきた努力も人それぞれであり、個々の願いとて一つに纏められるようなものではない。

 

「帰りたいって言われちゃうし、挙句の果てに怪我までさせちゃって、どうしたらいいのかわからない」

 

 疲労と憔悴を滲ませ、救世主が弱音を溢す。

 

「みんなが望む世界なんて全然わからないよ」

「これから次第だろ」

「これから……? これからなんて、もう」

「もう、じゃねェよ。何のために世界のことを知ろうなんて話をしたんだ」

 

 ローは軽い口調で続ける。

 

「それとももう嫌になったか?」

 

 ウタが視線を上げた。紫の瞳は諦念に揺れている。しかし、それでもなお燻る微かな希望が彼女の根底を支えていた。

 ここにきて、未だ折れていないのだ。

 人々を救わなければと燃えている。

 世界の歌姫としての自負なのか、逃避の果てに生じた思い込みなのか。あるいは、他の誰かから託された願いに殉じようという純粋さなのか。

 彼女の根源は理解できない。それでも、確かに灯る熱が彼女の中にあることだけは分かる。

 それは一種の熱病でありながら、彼女の道を照らし続ける火種でもあった。

 

 度重なる逃避の末に歪んではいる。

 だが、それこそが灯火。

 ウタが本来掲げていた願いなのだろう。

 

 果てのない夢だ。

 治療のできない病だ。

 無理に手を差し伸べるべきではない。

 本人が望まぬならば、なおさらのこと。

 

「別にいいんだぞ? ここでやめても」

「それじゃ約束が違うよ」

「だが、お前が望まないならおしゃべりにも意味がねェ」

 

 軽く両手を上げ肩を竦めてみせた。

 

「もちろん、黙れと言うなら黙る」

「放っておいてって言ったら?」

「無理な相談だ。それこそ約束が違うだろ」

「無茶苦茶じゃない」

 

 恨みがましく睨んでくるウタ。口の端を上げてみせれば、彼女は悔しそうに唇を引き結ぶ。

 数秒逡巡した後、歌姫が折れた。

 

「これまで通りでいいよ。無言で付き纏われるくらいならお話ししてる方がマシ」

「それはよかった。黙ってついて回るのもストレスだったんだ。正直言って息が詰まる」

「完全にこっちのセリフなんだけど。しかも全然黙ってないし」

 

 勢いよく立ち上がった歌姫はローの方を見向きもせずに歩き出す。わざとらしく足音を立てて憤りを表しているらしい。

 しかし、言動とは裏腹に、萎れていた紅白の髪は僅かに持ち上がり、面映げに揺れていた。

 数歩先で振り向き、彼女は言う。

 

「しっかり教えてよね、センセー?」

 

 結局のところ、ウタはずっと孤独だったのだろう。だから、簡単に付け入られるのだ。

 簡単に人々の弱さに飲まれ、悪人の言葉にも耳を傾けてしまう。根底が善性で、思い込みが激しく、他者との繋がりや知識を持たず御し易い。

 

 まったく、危機管理がなっていないにも程があった。赤の他人どころか悪の他人のローをして呆れを通り越して心配になるほどだ。

 

「わ、ここ沈む! ローさんも気をつけた方がいいよ」

 

 泥濘に足を取られたらしい。

 早くもローに再度気を許しているウタを眺め、ため息と共に左腕を振るう。

 

 スタンド席からステージ袖へ。

 一瞬で切り替わった景色に目を丸くし、歌姫が笑った。

 

「すごい! 便利!」

「お前の能力もなかなかだ」

「褒めても何もでないよ。というか、ローさんには効かないんだし意味ないと思う」

 

 ウタが笑いながら否定する。

 

 しかし、残念ながら、本人に自覚がないだけで利用価値は高いのだ。ウタワールドだけでなく、睡眠作用や睡眠中の制御が可能な点を含め、様々な応用が考えられる。実際、教育あるいは医療分野などでも重宝される能力ではないだろうか。

 ウタは音楽特化の専門家で、これまでエレジアに引きこもっていた上に年若い。他分野での活躍など思いつきもしなかったのであろう。

 実に勿体無い。この能力が今日一日限りで失われると思うと惜しくなってきた。

 

 だからといって、手助けは駄目だ。

 干渉も程々にせねば。

 

 再度自制の二文字を脳内に浮かべて心に刻む。

 背筋を伸ばすついでに、放置されたまま床に張り付いていた世経を拾い上げた。

 

 相変わらずのインパクト第一、情報量は膨大ながら信用などカケラも編み込まれていない。

 真偽を見抜けないのは読者側の問題と言わんばかりだ。

 ちなみに、衝撃に乏しく面白みのない部分に関しては偽る必要も隠蔽する意味もないわけで、結果的には事実が記されている。

 信用のなさが逆説的に信用を生む稀有な例だ。

 

 地図の頁を手繰り、ローは僅かに目を細めた。

 指に力がこもり、紙面に皺が寄る。

 

 

 もはや滅亡の文字すら記されない空白地帯。今はただ白く抜かれた虫食いだけが祖国の名残。

 

 忘れ去られた白亜の町。

 

 

「ローさん、どうしたの? 何かあった?」

 

 ウタの声に意識を引き戻された。

 ローはかぶりを振る。

 

「どうもしねェ」

 

 元通りに新聞を広げて床に座った。冷えた石の感触が腰から伝わり、全身に広がっていく。

 とうの昔に冷え切っていたはずの身体はいまだここにあり、生き抜くための熱を生もうと震えていた。

 

 外套の前をかき抱くように合わせ、一人取り残された革命家は笑う。

 

「さて、続きだ」

 

 歌姫は不思議そうに首を傾げ、しかし、気を取り直したのか真剣な目で頷いた。

 

「雑談は終わりだね」

「そうだな。これからは勉強の時間だ」

「私、頑張るよ」

「期待してる」

 

 そう、期待している。

 

 本来関わる余地のない場所であるウタワールド。そこに影響を及ぼすには、ウタワールドの扉であり土台であるウタに干渉すればいい。

 とりわけ、その思考に。

 

 世界政府だけでなく赤髪海賊団までもが動いている今、ウタの計画が成功する可能性は低い。

 考えるべきはその後についてだ。

 

 命をかけた革命が失敗する様などこれまで万と見てきた。革命が頓挫しても全ての物語が終わるわけもなく人々の命は続く。

 ウタワールドでの経験は、人々に、そして世界にどのような変化を齎すだろうか。

 この変化を有効活用するにはどうすべきか。

 色々考えてはみたが、結局のところ、いつもと変わらない。

 

 手の届かない仮想世界であれ、目の前の現実世界であれ、とるべき行動は同じ。

 

 歯車を壊すのだ。

 

 一つ一つは些細な事であっても、全てがひとつなぎに繋がっている以上、一つ欠ければ動きは変わる。

 今はただ、時を見極めればいい。

 挿し込むのはただ一手。

 言葉ひとひら

 瞬き一つ。

 それだけで世界は壊せる。

 

 悪党は一人、声もなく笑った。

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