“怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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すでにすべて終わりぬ

 

 

 現実世界では青空ならぬ曇天教室が再開され、革命家と歌姫は世経を囲み、ああでもないこうでもないと言い合っていた。

 雨露の凌げる舞台裏、屋根の下で講義は続く。

 現在の話題は金の価値についてであった。

 

「金は大事だ。特にベリーはな」

「ベリー以外にもお金があるの?」

 

 ウタは首を傾げる。

 

「ああ。乱暴に言うと、ベリーは世界政府が価値を担保する共通通貨だ。世界政府の力が及ばない地域では別の通貨が使われることもある」

 

 初耳だった。

 そういえば、ローの故郷の話の中で『他所の金貨』などと言う言葉が出てきた気もする。

 詳しくは分からないものの、ベリーとは別の貨幣があるのだろうとウタは納得した。

 

「ベリーは便利だぞ。腐らねェから貯めておけるし、物の価値をはかる尺度にもなる。場所や相手を選ばず使えるってのもいい点だな」

「ふーん」

 

 シャンクスらと巡った田舎では物々交換が主体であることもしばしば。エレジアでは売買自体がほぼ行われず、交易船や補給船の対応はゴードンが行っていた。いまだに貨幣の価値がよくは分かっていないウタである。

 あるに越したことはないが、あったからといって全てを解決できるわけではない。ウタにとって『お金』とはその程度の認識なのだ。

 

「お金だけが大事なわけじゃないでしょ。ほら、命に値段はつけられないって言うし」

「そうでもない。命でも空気でも、何にだって値札をつけることはできる。値札の付け方に決まりがない分、了解を得難いだけの話だ」

 

 やや興味を無くしかけていたところ、ローが片手を開いて厳かに告げた。

 

「50億ベリー。おれが食った悪魔の実の値段だ」

「……それって高いの?」

「ちなみにさっきのジュースに使ったオレンジは一つ200ベリーする」

 

 例えにしても分かりにくい上に桁が違いすぎて飲み込めない。ウタは眉間に皺を寄せ、指折り考える。

 

 オレンジが十個で2千ベリー。

 百個でも20万ベリーだ。

 悪魔の実は50億。

 つまり、オレンジ2500万個分である。

 

 ウタは口をあんぐりと開けて叫んだ。

 

「ものすごく高いじゃない!」

「高いな。だが、能力に適した人間の手に渡れば妥当な額だ」

 

 何が妥当なものか。納得いかない。

 無言で睨みつけるウタを見返し、黒衣の男は自身の胸に手を当てた。

 

「おれならば50億ベリーの価値を生かし切ることができる」

「すごい自信だね」

「お前がいうことか? ウタウタの実の能力を使いこなせなけりゃ新時代なんて夢のまた夢だ」

「それは……間違ってないけど」

 

 確かに、ウタウタの能力がなければ新時代を作ることはできない。能力なしに人々を導き、平穏な世界を編み上げることなど不可能だ。

 不満ながらも認めたウタを眺め、ローがぼそりと呟く。

 

「ちなみにおれの懸賞金は約30億ベリーだ」

 

 懸賞金の相場がまったく分からない。だが、恐らく高いのだろう。なにせオレンジ1500万個分である。

 どれだけの悪事を働けば30億ベリーも懸賞金を掛けられる事態になるか。

 ウタには理解不能だった。

 

「ローさんって本当に悪い人なんだね。懸賞金が高いってことはそれだけ悪いことをしたんでしょ」

「懸賞金は悪事の数や規模だけで決められるわけじゃねェ。影響力ってのも換算される」

「なにそれ。どういうこと?」

「自分でいうのもなんだが、おれは顔が広い方なんだ」

 

 確かに、海軍の反応をみるにやたらと有名そうではあった。懸賞金が先か影響力が先かはさておき、名が知れているのは確かである。

 

「おれなんてまだまだだけどな」

 

 反応に困っているとローが嘯く。

 

「悪魔の実から考えると20億の損失だろ。十数年サボってたら随分無駄にしちまったらしい」

「…………」

「しかもな、30億のうち5億は偶然ついてきたオマケなんだよ」

 

 オマケと聞いて、ウタは思い出す。

 遠い子ども時代、食材の買い出しについていった日のことである。

 八百屋の店主は言っていた。

 

 あらあらかわいいお嬢さんね、今日はみかん一つオマケしちゃう。

 

 さしづめ、ローの場合はこうだ。

 あらあら見るからに悪党ね、今日から5億上乗せしちゃう。

 

 そんなわけがあるか。

 ウタはつっこんでしまう。

 

「絶対ローさんが悪いことしたせいだって」

「いや、あれはオマケだ。他所で起きたデカい事件のせいで悪党共の順位が総入れ替えになってな。事件に関係ないおれの扱いも知らない間に繰り上がった」

 

 嘘をつけ。

 ジト目で睨むと、繰り上がり30億ベリーの悪党は肩を竦める。

 

「なんにせよ少し遊びすぎた。最近は遅れを取り戻そうと日々精進しているわけだ」

 

 この男はどこからどこまで本気なのだろう。

 全部適当を言っている可能性すらある。

 ウタが唖然としていると、彼は片膝を抱えて歌うように囁く。

 

「とはいえ、お前が成功しちまえばおれの知識やこれまでの精進も無駄になる。世界が変わるなら、通貨やら価値やらも大きく崩れるからな」

「えっと」

「つまり、おれの計画と50億は水の泡だ。可哀想だろ。謝ってくれてもいいんだぞ」

「ごめんなさ────」

 

 一瞬言いくるめられそうになり、はたと気付く。ウタが謝る必要などあるわけがない。

 恨みがましく睨みつければ、黒衣の男は小首を傾げた。

 

「どうした?」

「謝らないよ。ローさんは悪い人なんだから、止めることができて良かったんじゃない」

 

 言い返せば、この大悪党ときたら重々しく頷くではないか。

 

「そう、お前はまさに救世屋ってわけだ」

「その呼び方やめてよ」

「事実だ」

「本当のことでも嫌なの! それと『屋』って何? 私、お仕事でやってるんじゃないんだからね!」

 

 憤然と訴えたところでどこ吹く風。黒衣の男は袖口で口元を隠した。重たげな袖が微かに揺れる。どうやら笑っているらしい。

 やはりこの男、悪人だ。

 ウタは腰をうかし、人一人分の空間を空けて座り直す。悪人とは距離を置かねばならない。しかも、相手はただの悪人ではなく意地の悪い悪人である。用心するに越したことはないだろう。

 じとりと睨みつけてやれば、ローは小さな咳払いをして真顔に戻った。

 

「どうだ。そろそろ緊張も解れて頭も回るようになったんじゃねェか」

「はいはい、どうもありがとう。意地悪までは頼んでないけどね!」

「意地悪? とんでもない。頭の体操だ。お前だって歌う前にストレッチの一つくらいするだろ」

 

 確かに身体を温めて筋肉を解したりはする。実際、今この時とて雑談のおかげで緊張も解れ興味も湧いてきた。だからと言って、意地悪をかまされるのは別問題ではないだろうか。

 とはいえ、元はといえばウタへの気遣いだ。また、軽い雰囲気に救われたところもあり文句もいいづらい。

 釈然としないまま座り直せば、悪人面の講師は広げたままの新聞を手繰り寄せ、授業を再開した。

 

「金の話の続きといこう。経済的な豊かさってのは安心に繋がる。だが、お前のファンは貧しい地域に住んでる奴らが多いよな?」

 

 ウタは少し考えて頷いた。

 

「ごはんも食べれない日があるって言ってた」

 

 今となっては世界中にファンがいるが、最初期に配信を聞いてくれたのは貧しい人々ばかりであったように思う。

 ウタが配信を始めた頃は世間が騒がしく、時勢の激動に揉まれ安寧を失った直後という者も多かった。

 特に海賊の被害が増えて大変だとウタも聞いている。

 

「一生懸命働いても海賊がきて台無しにしちゃうんだって。家を壊されたり食べ物を盗られたりもするみたい。ひどいときには家族を攫われたり、殺されたり……」

「貧しさの原因には色々ある。海賊だけが問題じゃねェ」

「でも、一番は海賊のせいだって」

「大海賊時代だぞ。その辺に石を投げりゃ海賊に当たる。海賊だけが原因なら、金持ちも貧乏人も平等に飢えて死んでる頃合いだ」

 

 貧富の差というものはよく分からない。だが、金というものは腰が重いようで、あるところにばかり留まり続けて動かず、苦しむ人のところへは流れることがないらしい。

 

「それってお金持ちが悪い人だから生き延びてるだけなんじゃないの」

「滅多なことを言うな。真っ当に稼いでる人間が大半だ」

 

 高額賞金首、つまりは悪人筆頭のローに真顔で嗜められ、些か気分を害したウタである。

 

「でも、皆言ってたよ。天上金の支払いがあるからどんなに頑張っても意味ないんだって。天上金って天竜人のお小遣いなんでしょ?」

「間違っちゃいないがそれだけでもねェ。天上金は世界政府の運営や海軍の派遣に使われてる。真っ当な使い途だ」

「それでも海賊と悪いお金持ちが皆を苦しめてるのは事実じゃない。ひどい王様とかも沢山いるんだって聞いたもの!」

 

 臍を曲げて顔を背ければ、ひび割れた舞台裏の壁が目に入った。

 野外音楽堂であったこの場所は町の中心部に比べると災禍の痕も薄い。だが人の手が入らないことで見る見るうちに寂れてしまった。

 エレジアが滅びなければ今もまだ稼働していただろう舞台だ。

 ヒビの隙間に入り込んだ苔に指を這わせ、ウタは目を伏せた。

 

 そうだ。

 エレジアも豊かな国だった。国民は真っ当に生き、そしてその多くが善良だった。

 音楽の未来のために邁進する人が集い、皆が幸せそうに笑っていたのだ。

 エレジアの風景をウタは覚えている。

 

「言いすぎた。ごめんなさい」

 

 押し殺した声で呟くウタを見つめ、ローが首を傾げた。なんでもないとかぶりを振れば、彼は僅かに眉を顰める。

 

「おれみたいな悪者の説教を真に受けるなよ」

「わかってるよ。今のはローさんに関係ないことなの。放っておいて」

 

 突き放すように冷たく言った。

 わざとらしかったかと思ったが、ローもそれ以上は何も言わず話題を世経へと戻す。

 彼は紙面へ指を滑らせて続けた。

 

「貧しい地域は各地に点在してるが、豊かな場所はというと逆に限られてる。豊かさを保つために、貧しい奴らを外へ追いやる場合もあるな」

 

 そう言えば、夫を亡くし村を追い出された女性からファンレターをもらったことがある。彼女は幼い子どもを抱えながらも何とか生き延び、ウタの歌に励まされていると言ってくれていた。

 何故、辛い目に遭った人に追い討ちをかけるのだろう。

 『豊かさを保つための排斥』などウタには理解できず眉を顰めた。

 不満を隠そうともしないウタの気を引くように、ローが世経の紙面を揺らして音を立てる。どうやら本格的な講義に入るつもりらしい。

 

「お前の知る辺りなら、フーシャ村のあるドーン島がそうだ」

 

 刺青の目立つ指が地図上を彷徨い、東の海(イーストブルー)に浮かぶ島を突いた。村はともかく島の名まで知らなかったウタは地図を覗き込み、そこに書き込まれた文字を読み上げる。

 

「ゴア王国、だったよね」

「そう、ドーン島を統治する国だ。都心部に行ったことはあるか?」

「山の向こうに町があることは教えてもらったよ。でも行ったことはないかな」

「赤髪もお前に見せたくなかったのかもな。あまり気持ちのいい場所とはいえねェ」

 

 何故だろう。フーシャ村は山や海に囲まれており、村の皆も優しかった。赤髪海賊団と共に巡った国の中では特別栄えているわけではないものの、のどかでいい場所だと子供心に思っていたのだが。

 ウタは不思議に思い首を傾げた。

 

「どんな国なの?」

「ゴア王国は一言でいえば貴族の領土だ。東の海じゃ一番美しい国とまで呼ばれていて、国民は皆、塀に囲まれた都市の中で豊かに暮らしてる」

 

 ますますおかしい。初耳だ。フーシャ村は確かに風光明媚であったが、そこにあったのは田舎町特有の美であって、ローが言うような繁栄の片鱗など感じたことはなかった。

 

「貴族なんか見たこともないよ」

「そりゃまあ、村は塀の外にあったからだろ」

「外に出る人だっているでしょ? 海を見に行ったり、村に遊びに来たりとか」

「ないだろうな。塀の外はガラクタや汚物、要らない人間が犇めくゴミ捨て場だ」

「待って」

 

 この男は、今、なんと言っただろうか。

 聞き違えたのかと思い、ウタは眉を顰めて声を低くする。

 

「要らない人間ってどういうこと?」

「病人、子どもに年寄り、生まれが卑しい者、余所者。つまり国の資源として期待できない奴らのことだ」

「資源って……」

「むしろ負債だな。国にとってはそいつらが生きてるだけでマイナスになる」

 

 人をモノのように表現するローではあったが、その声に嫌味や嘲りは一切含まれていない。それどころか、表情から察するに彼はいたって真面目だった。

 ローが悪いわけではない。ただ、表現に容赦がないだけなのだ。

 受講生が不快に思おうとつつがなく講義は続くようで、刺青の目立つ指が地図上に円を描く。

 

「塀で囲まれた内側が人の住む場所。人として認められなかった奴らが追いやられ、塀の外側でゴミを漁りながら暮らしてる」

「内側の人は裕福なんだよね。外の人を助けてあげたいと思わないのかな?」

 

 ウタとしては当然の倫理を説いたつもりだった。だが、ローには新鮮であったようで、彼は目を瞬いて不思議そうに問いかけてくる。

 

「助ける? どうして?」

 

 ローの仕草は子どもじみており、年齢とかけ離れあどけない印象すらあった。だからだろうか、純粋な少年を前にしているように錯覚する。

 適当に答えたくはない。だが自身の考えをわかりやすく説明するのも難しい。ウタは腕を組み、目を閉じて唸った。

 

「うーん……すぐそばで困ってる人がいたら、何となく手を伸ばしちゃうものじゃない?」

 

 捻り出した意見は理屈も何もないもの。残念ながら、ローを納得させるには至らなかったようだ。

 革命家は少し悩むような素振りを見せた後、彼なりの答えを弾き出す。

 

「どちらかといえば逆だ。富や発展の足手纏いになる人間は切り捨てられる。目先の金のためならば他人が死のうがどうとも思わない奴らは多い」

 

 短絡的すぎる。

 不快を通り越して呆然とするウタの意識を引き戻そうとしたのか、ローは再びフーシャ村のあるあたりを指し示して続けた。

 

「国の中心部から随分と離れている。案外、フーシャ村も棄民や国民として認められなかった逸れ者達が集ってできたのかもな」

 

 ロー自身は棄民にもゴア王国の所業にも特段思うところがないのだろう。語る様は恐ろしく無機質だ。

 

「美しい国を維持しようとすれば異物は排除し続けなきゃならねェ。それが無理なら、その国にはもう価値がない。あるいは、国ごと見捨てられることだってある」

 

 革命家は再び地図に指を滑らせ、ゴア王国から少し離れた国を指した。

 

「ここと、この国。森林由来の資源が尽きて最終的には財政破綻を起こした」

 

 革命家の指はひとところにとどまらず、地図の上で無軌道に踊り続ける。

 指先が描く軌跡はやがて海を渡り、いくつかの国を踏み躙るように跳ねては離れた。

 

「ここは宝石の産出国として有名だったが、山賊対策に手を取られている内に隣国に攻め入られた」

 

 指へ刻まれた言葉に違わず、指し示された国全てには同じ×印が付けられている。

 印の意味は滅亡。

 文字と印だけで記されたそれは何とも味気ない。だが、きっと多くの人が苦しみ息絶えたのだろう。

 事実を受け止めきれず指の動きを目で追うことしかできない。だが、ある国の上で指が止まった時、ウタは息をのんだ。

 

「そこは」

 

 その国の名を見たことがある。

 よく便りをくれた青年の住む国だ。

 国を守るために兵士になった、近々内紛が始まりそうだから勇気づけてほしい、と。ざらついた紙に滲んだインクで綴られていた文を、ウタは確かに覚えていた。

 

 あれは、いつのことだっただろうか。

 青年の字をいつから見ていない?

 

 ウタは焦燥に身を乗り出し声を荒げる。

 

「そこ、どうなったの? 滅んだって、住んでた人達は⁉︎」

「ここは国家の滅亡だけじゃ終わらなかったはずだ。国民の半分は死んだと聞いてる」

 

 間に合わなかった。

 そう思い、ウタは目を固く瞑る。

 

「どうした。知り合いでもいたか」

「うん。確かに戦争が始まるかもって言ってたけど、その後連絡がなくなって、私……」

 

 きっと、あの青年は死んでしまった。平穏な生活を望んでいただけの彼は、歌の届かない場所に行ってしまったのだ。

 

「なァ、救世屋」

 

 ぼそりとローが問う。

 

「この国で何が起こったか、分かるか?」

「わからない。でも、海賊の被害がたくさん出るって聞いた。あと、偉い人達も頼りにならなくて、国の中でも意見が割れて歪みあってるって」

「そうだな。よくある話だ」

「やっぱり戦争になったの?」

「内戦は起きなかった。滅亡には別の理由がある」

 

 大海賊時代において、人々に害なすものはなにも戦争や海賊に限らない。貧困は病を呼び、荒れた世は格差を生み、そして自然災害は人心が落ち着くのを待ってはくれないものだ。

 ウタにも理解できるように易しい言葉を用いていくつかの例を語りながら、ローは再び地図へと指を滑らせた。

 

「きっかけになったのはここだ。国境に火山があった」

 

 丁寧に整えられた爪が国と国の境目を突く。

 みれば、隣国にもまた、同じ×印が付けられていた。

 青年が住まう沿岸部の国は世界政府の加盟国、内陸部の隣国は未加盟国。両国には立場の差があったものの、結局は同じように滅んだという。

 

「国境沿いの火山が噴火して両国共に被害は甚大。先に崩壊したのは海沿い、お前のファンが住んでいた国だった」

「じゃあ、その時にはもう」

 

 あの青年は死んでしまったのだろうか。

 続く言葉を失ったウタの頬を海風が撫でていく。

 胸が焼けるように痛かった。

 

 今も思い出せるのだ。

 青年が送ってくれた言葉、映像。震え、滲んでいた文字。その全てを確かに覚えているのに、彼はもうここにはいない。

 気付かぬ間に消えてしまう。

 全部が嘘か夢であるかのように。

 

 唇を噛み、深く息を吐こうとした。だが、罪悪感に胸が抉られて呼吸もままならない。

 ならばいっそ全てを飲み下すべきだ。そう思い、顔を上げてウタは問う。

 

「隣の国はどうして滅んだの? 火山のせい?」

「いや、侵略されたんだ。海沿いの国の人間が山を越えて暴れ回った」

 

 同じ被害者なのに、どうして互いを傷つけ合うのだろうか。理解できない。

 言葉を探して彷徨うウタの視線を捉え、教師役の指が隣国を指した。

 

「元々、隣国の方が豊かだったんだよ。だから噴火後の復興も早かった」

 

 青年のいた国は海に面しており、継続的な海賊被害によって災害発生以前から経済難に陥っていたそうだ。

 しかし、内地である隣国はむしろ豊かであったらしい。隣国は国境の火山によって育まれる温泉産業を基盤に湯治や医療が発展していたという。

 両国間の格差は明瞭だった。

 隣国から青年のいた国へ度々支援の声が上がっていた程だと、ローは語る。

 

「もちろん、いきなり侵略に至ったわけじゃねェ。海沿いの国だって、まずは世界政府に支援を求めた。だが、充分ではなかったんだな」

 

 青年の国は困窮し、ついに天上金の支払いも滞るようになった。

 海軍の支援は遠のき、それでも海賊の被害は続く。

 

「それで、隣の国に攻め込んだの?」

「そうだ。食うにも住むにも困り、いよいよ略奪する他はない。良いか悪いか、海賊達に抵抗してきた経験のおかげで兵力には事欠かなかった」

「そんなのってないよ。だって、それじゃなんのために……」

「生きるためだ。結果的にはどちらも滅んじまったがな」

 

 ローの言葉は当然の問答に答えるように淀みない。両国の顛末はこの世界の常識で、問うまでもないことなのだろう。

 

 ウタはあの青年に生きていてほしかった。

 今もその気持ちは変わらない。

 

 だが、もし。

 もし、彼が噴火を生き延びていたとしたら、彼もまた略奪に加わらざるを得なかったはずだ。

 海賊による略奪に怯え、戦いを嫌っていた彼は、どんな気持ちで剣を振るったのだろう。

 彼は兵士だと言っていた。

 国を守るため戦う兵士なのだと。

 

「私が」

 

 ウタは声を震わせ呟いた。

 

「私がもっと早く決心していたら」

 

 胸が痛い。張り裂けそうに軋むのだ。

 

 目をきつく瞑る。頭の中が真っ赤に染まり、次第に暗くなっていく。苦しい。痛い。

 耐えきれずに大きく咳き込み、肩で息をした。そこで初めて、息もできないほど深く思考の海に沈んでいたことに気付く。

 溺れるように、深く。

 だが、皆はもっと苦しんできたはずだ。

 恐ろしいと思った。

 涙はでなかった。

 

 ウタの呼吸が整うのを待ち、ローがゆっくりと話し出す。

 

「なァ、救世屋。きついことを言うようだが、お前の能力で助けられない人間がいることは自覚してるか?」

 

 言葉の厳しさとは裏腹に、ローの声は柔らかだ。

 ゆるりと瞬く金の瞳。

 責めるどころか労わるように柔い光。

 返答に詰まり唇を噛むウタを見つめ、彼は静かに呟いた。

 

「そうか。分かってたんだな」

 

 声も出せず、ウタはただ顎を引く。

 それが精一杯だった。

 

 分かっていた。

 ファンの輪は世界中に広がっていく。信じられない速さでウタの名は広まり、歌はどこまでも届くのだと感じさせてくれた。

 それはきっと、辛い思いをしている人がそれだけ多いからなのだろう。

 だが、ファンから届く手紙を読んでいくうちに、ウタは気付いてしまったのだ。

 

 誰にも気付かれず、苦しんでいる人々の存在に。

 

 たとえば、孤島の老人。

 たとえば、戦場の兵士。

 たとえば、スラムの住人。

 

 ファンの手紙の中で、幾度も見た言葉。

『あの人にも聴かせてあげたかった』『戦場の彼にも届けば』『あいつらもウタの歌をきけばきっと』────

 音楽を聴くことすらできない場所にいる家族や恋人、貧しい隣人らへの思いが、そこに綴られていた。

 

「どうすればよかったの」

 

 歌声はどこまでも届くと思っていた。

 だが、そうではない。

 配信電伝虫やTDの普及していない地域の人々や、衣食住さえままならない貧困に喘ぐ人。聴覚障害を抱えている人。彼らを救う手立てなど、ウタにはないのだ。

 

 助けを求めることすらできず苦しむ人々。

 彼らも、いや彼らこそ助けられるべきなのに。

 彼らが受けた傷は癒えない。不安も痛みも消えて無くなることはない。

 

 どうしよう。

 どうすればいい?

 

 今更流れに抗う術があるはずもなく、ウタは隣り合う革命家を見つめる。

 縋っていい相手ではない。そんなことは分かっていた。それでも誰にも打ち明けられなかったこの葛藤を、誰かに受け止めてほしいと願ってしまったのだ。

 

「ローさん、私、嘘ついちゃった」

 

 声がみっともなく震える。

 なんとか閉じ込めていた欺瞞はいまや押し留めるものをなくし、堰を切って溢れ出してしまった。

 一度溢れた水はかえらない。

 心が萎れていく痛みに耐えられず、たまらず伸ばした手が黒衣の袖を掴む。

 

「私、世界中のみんなを助けるっていったのに……みんなが自由になれる新時代を作るって誓ったのに、嘘にしちゃったんだ!」

 

 ローはウタの手を振り払わずにされるがまま、だが同時に、決して受け止めようともしなかった。

 その素っ気なさに救われる。

 今慰められてしまえば、ウタは懺悔の言葉すら口にできなくなってしまうから。

 

 肩を震わせて罪悪感に耐えるウタをよそに、ローは地図を眺めていた。否、その目はただ目の前の画像を映しているだけで、何を見ているわけでもないのかもしれない。

 彼はウタの醜態にも動じず、それまでと同じ調子で口を開く。

 

「おれがやろうか」

「……え?」

「お前が出来る限り持っていくなら、残りはおれの取り分にしてやる」

 

 言われている意味がわからず、ウタは顔を上げた。

 ローは手にした地図の数箇所を指し、なんでもないことのように訥々と告げる。

 

「自由な時代、だったか。お前の新時代が始まった後、おれが残りの地域で革命を起こせばいい」

「はあ?」

「遺してく奴らが気がかりなんだろ。お前の歌が届かなかった場所はおれのなわばりにする」

 

 何を言っているのだ、この男は。

 相変わらず感情の読めない金の瞳に見つめられ、何を言っていいかわからず唖然としてしまった。

 絶句したウタに何を思ったのか、ローが注釈をつける。

 

「ただし、お前の思う自由はおれのそれと違う。そこは許せ」

「何。なんなの……?」

「何と言われれば、提案だ」

 

 事もなげに言葉を投げ渡し、革命家は言った。

 

「力が及ばない部分は後任に任せるべきだ。全部一人でやると宣言してたわけじゃあるまいし、任せる相手がいるならお前の言葉は嘘にならねェ」

「そんな屁理屈ある?」

「多少の暴論は我慢しろ。手の届かない場所のことに頭を悩ます時間はねェ。そんなことより、お前の新時代をどうするか考えるべきだ」

 

 無理矢理説き伏せてくるその様は慰め方を知らないと言うより、本気で後任を担おうとしているように見える。

 

 そう。

 本気なのだ、この男は。

 

 ウタは呆然としてしまい、出かけた涙も引っ込んでしまった。

 掴んでいた黒衣の袖をそろりと手放す。皺になった布地を撫で付けて均し、一呼吸おいて距離を取った。

 

「馬鹿言わないで。無理でしょ」

「見くびるな。出来る」

「そうじゃなくて、ローさんもネズキノコ食べたでしょ。分かってるの? 死んじゃうんだよ?」

「あと三日は死なねェし、三日もあれば解毒剤くらいダースで揃えられる」

「いや盛りすぎでしょ。能力使いながらの三徹なんて絶対無理」

 

 見栄か冗談か知らないが、表情が変わらないせいで今一つ伝わってこない。思わず素に戻って突っ込んでしまう。

 だがしかし、おかげで肩の力も抜けてしまったわけで。

 

「……でも、そっか。私一人でやるのは無理か」

「能力を鍛えて活動範囲を広めていればなんとかなったかもしれねェが、今のお前じゃ無理だな」

「そんなものなの?」

「そんなもんだ。一応、解毒剤を飲んで今回は中断。数年後にやり直すってのも悪くはねェ」

 

 それはつまり、今回のライブを諦めると言うことだろうか。

 ウタはかぶりを振った。

 

「駄目。今じゃなきゃ助けられない人がたくさんいるから」

 

 それもそうかと頷くローを尻目にウタはため息を吐く。

 

 ウタワールドでみた海軍の若き“英雄”に、現実世界で隣り合う悪党の革命家。ファンの皆の生活を脅かす悪い海賊に、昔と変わらない幼馴染や現在の姿を知る由もない父親のような悪党らしくない海賊達。

 世界は広く何層にも重なっており、彼らはウタの知らない場所で世界を変えていたわけだ。

 手の届かない場所を誰かに任せられる可能性を彼らの立ち姿に見るのはやはり無責任だろうか。

 だが確かに時間もなければ、他に手段などないわけで。

 

「うん……でも、うーん」

 

 悩む歌姫を眺め、革命家は笑っている。正義の人である“英雄”ならばともかく、悪党である彼を信用していいものか。悩ましい問題だ。

 ウタは膝を抱いて背を丸め、疑いと期待を織り交ぜたままの小声で問う。

 

「ちなみにさ、ローさんの思う自由って何?」

「『自分の力でしっかりと歩んで、どこへだって飛んでいける』ことだ。受け売りだがな」

 

 ウタの尺度で考えれば、それは自由ではなく強さだった。

 誰にでも出来るようで、その実難しい。

 鼻頭に皺を寄せたウタを眺め、今度はローが尋ねる。

 

「お前のは」

「え?」

「お前のいう自由はなんだ」

 

 自由。

 自由とは、なんだっただろうか。

 

 平和や平等、強者と弱者。奪う者に奪われる者。そんな馬鹿げた垣根を飛び越え、夢を超えた夢の果て。

 

 唇は言葉を紡がなかった。

 ウタの両手は何かをなぞるように宙に浮いたまま。何度瞬きを繰り返して目蓋を透かしても、見失ったその形を見出すことはできない。

 

「忘れちまったか」

 

 揶揄う声にかぶりを振る。

 

「忘れるわけない」

 

 自由とは、かつて当たり前のようにウタのそばにあったもの。

 全てを台無しにしてしまったあの夜、もう二度と手の届かない場所にいってしまった。

 

「自由、か」

 

 それでも、遠く微かな灯火が揺れるから。

 ウタは微笑み、胸に手を当てる。

 

「自由はね、幸せになるための第一歩なんだよ」

 

 誰かの幸せを奪わず、誰にも幸せを奪われない場所。誰も幸せを失くさない世界。

 

 自由で幸せだった子どもの頃に誓った。

 誰もが幸せになれる新時代のため、ウタは歌う。

 

「成程、参考にする」

「本当かなあ。信用できない」

「任せろ。革命はそこそこ得意だ」

 

 それはまあ、革命家なのだから当然だろう。

 ウタが気にしているのはそこではない。

 

「自由は? 得意じゃないの?」

「得意だぞ。むしろ自由すぎると周りの奴らに小言を言われる」

 

 断言できる。それは迷惑がられているだけだ。

 ウタは目を眇めて呟いた。

 

「本当に任せていいのかな。悩んじゃう」

「悩んで当然だ。救世主の後任なんて重責、行きずりの不審者に預けるもんじゃねェよ」

「そんなこと言ったってここにはローさんしかいないじゃない」

「せいぜい後悔するんだな。能力の研鑽や人脈作りを怠った結果だ。引き篭もってひとところに留まるからこうなる」

 

 確かに指摘は当然のことだ。ローは後を引き受けると申し出てくれたわけで、文句を言ってはいけないのかもしれない。

 それにしても腹の立つ言い草である。

 

「好きで引き篭もってたわけじゃないもの」

 

 ウタが口を尖らせて睨みつければ、ローは肩を竦めて宣った。

 

「まァ、それこそ今更だな。この十年、おれもお前もサボりすぎたってわけだ」

「私はサボってないし。一緒にしないでよ」

 

 限定的世界の歌姫は、推定20億減算の悪党に文句をつける。

 悪党は袖口で口元を覆い、僅かに目を細めた。笑っているのだろう。

 本当に失礼な男だった。

 

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