短編1話完結。
仁王の阿形は、猿。
織田信長は、わずかな手勢で馬を駆ける。雨が降る桶狭間。奇襲の好機に恵まれたものの、今川義元が率いる大軍を相手取るには、歴然の死線だった。
先手は取れた。進むにつれて今川の兵が増えていく。義元のいる本陣はまだ遠い。
うつけか、あるいは英傑か。武運に裁かれる時が来た。信長はみずから先陣に立ち、刀を取る。
街道に出た。敵兵の姿はない。形勢を立て直されるより早く追いかける。馬を進めようとした先に、藤吉郎が飛び出した。
「お待ちを、うお。おっと!」
行く手をさえぎり、馬に押されてよろめく。
「行商人か。何者だ?」
信長の前で、兵に囲まれる。幾本もの刀と槍が藤吉郎に向けられた。
「邪魔立てするな!」
「戦であるぞ。なにをしておる!」
「藤吉郎」
雨中にもよく通る信長の声。沈黙が走る。馬上から藤吉郎を見る。
「お知りおき頂くほどの名ではございません。猿とでもお呼び願います」
頭を下げ、身をかがめる。その姿はまさに猿だった。
「では猿よ。何用だ。戦と知っておろう」
藤吉郎は美濃から尾張に移り、斎藤道三の縁で織田家に加わる。つい先日だった。顔すら知らない者も多い。家中での役目が決まるより早く、今川の進軍が報じられた。
「この道は危険です。本陣に正面から向かいます。今川は奇襲を知り、道中の守りを固めているでしょう」
「して、どうする」
信長も案じてはいた。切り崩した布陣が立て直されていく手応えを感じる。
「裏手に回り峠から廃村を通ります。本陣のすぐ近くに出られるようです」
「たわけが!」
従者のひとりが割って入る。
「あの峠は通れん。う、姥捨山だったのだ。あやかしが出ると言われておる」
「左様です。よって、今川義元も兵を置いていません」
「我らをあやかしと戦わせるつもりか!」
「相棒が戦います。そろそろ頃合いでしょう。通り道をご案内に参りました」
「相棒だと?」
とまどいの中、信長が口を開く。
「あの半妖か」
「道三様もごひいきにして頂きました」
兵士達は互いに顔を見合わせた。迷いが不審感と混ざり、次々と吐き出されていく。
「なにを言い出すか!」
「信じられん!」
「お前……今川の間者か?」
「あやかしに出くわしたらどうする!」
「そうじゃ。織田の大一番ぞ、こんな下賤に任せられるものか!」
「戦をひっくり返して、どうしてくれる!」
「ははは」
詰め寄られて、藤吉郎は笑う。
「ははははははは」
抑揚のない、まるで笑い声ではないかのような音が、雨粒に反響した。
「どうしようもねえよ!」
一転、激昂。武士ですら思わず気圧される。
「生きて帰れるなんて、思ってやがるのか?」
「な……な、に?」
「死ぬ気なんだろ。どうせ死ぬなら、ついてこい。あとは勝手にしろ」
信長を見た。返答を待つ。
「気に入った」
短く言う。遅かれ早かれ、見定めようとは思っていた。人は機を選べない。訪れた機に殉ずるしかない。
「案内せよ。信長の天運を見せてくれよう。だがな、猿」
「ははっ!」
「しくじれば、おぬしも死ぬ。信長の供回りを望んだからには、その黄泉路は楽ではないぞ……?」
魔王が猿を連れる。道は新しい時代を敷き、踏み外せばどこまでも転落する。
「心得ております」
うわずりそうになる声を抑えた。
仁王の吽形は、鬼。
信長は桶狭間に物見を差し向けていた。死は覚悟している。怖くはない。しかし、死ぬための戦いではない。劣勢の中に勝機を探す。
峠を抜けると、陣幕の家紋が見えた。今川本陣まで来た。途中で妖怪に襲われたが、居合わせた秀に助けられる。
今なら本陣に切り込める。寡兵でも雨に乗じて戦える。信長と合流しては、今川に時間を与えてしまう。兵を集められるより早く、義元を討つ。
「行くぞ!」
一斉に走り出す。秀も続いた。素性は不確かなまま、峠から同行していた。
閃光。
落雷だとわかるより早く轟音が響く。雷は先頭にいた兵士を焼き、雨に濡れている地面まで焦がした。
「な、なにぃ?」
爆発のような雷が、頭上から直撃した。
一瞬で事切れた仲間を前に、うろたえ、周囲を見回す。悪天候とはいえ雷の様子はない。近くには背の高い木々が立つ。目にした落雷が信じがたい。
空高くに小さな光が浮遊する。火花を散らしながら渦巻き、集まる。
「何事だ?」
「あれは……雷、なのか?」
物見達が困惑する。上空で束ねられた光は、垂直に叩き落された。再び雷に打たれる。たやすく命が失われる。
「また、だ」
見上げた雨の奥に、奇怪な光が浮かんだ。次の雷が来る。信長に味方していた天が、織田の兵を襲う。
「おい、逃げろ!」
「お、お、俺か?」
雷の下に立つ物見がいた。足元で小さく泥がはねる。落雷の前触れ。走って離れる。雨空を見て目を見開いた。まだ頭上に雷がある。
「雷が、追いかけて……」
落雷に討ち取られる。もはや明白だった。雷は今川本陣を守っている。敵兵を見つけ、追いかけてくる。さながら、弓矢で狙い撃つかのように。
次の雷光が空に浮かぶ。弓が引き絞られる。
「洞窟まで退く、急げ!」
号令。本陣から遠くない位置に、知られていない洞窟がある。以前は山賊が住処にしていた。領内の地形を熟知した信長が、物見に教えておいた。
空がなければ雷は届かない。走る兵士に、雷の矢が放たれる。落雷が続く。戦死とすら言えない死が積み重なる。
元より少数の物見のうち、洞窟までたどり着いたのは、わずか数名だった。
雷鳴は止まった。思わず安堵の息が出る。雨は降り続ける。戦は終わらない。時が経つほど織田は不利になる。
「あの男はどうした?」
生存者を数えて気付く。秀の姿がない。洞窟の外を見る。
秀は洞窟に逃げず、近くに置かれた今川軍の資材に飛び込んでいた。簡易的な屋根があり、雷は避けられる。
「生きてたか。おいお前、そこを動くなよ!」
秀はしゃがみこみ、近くにある小石を拾う。
地面に並べた。周囲で倒れる兵を見る。石の位置を動かす。木の棒を手に取り、地に線を引く。首をひねり、思案していた。
思い返す。雷が落ちた。すぐに次の雷が落ちた。織田兵を狙っていた。逃げても追いかけてきた。
石の並びを何度も入れ替える。棒で線を引く。
「砂遊びをしとるのか?」
物見がいぶかしむ。
地に並べた石。棒で引いた線。見えない理を読み取ろうとした。
時間と距離を計る。ついに答えが出た。石の隣に石を置く。完成した盤面に、青い目が光る。
「見切ったようだの」
我に返る。顔を上げると、老人の霊が立っていた。
「なんだ。わしが見えるのか。何度も声をかけたのだぞ」
平手政秀。すでに他界した、織田信長の家臣。少年期の信長は家中に味方が少なく、平手は理解者として、よく支えてきた。
信長の天運が試される戦に応じて、義による霊となり、常世から現れた。
「おぬしの考えた通りだ。機を見て地を選べば、道は開かれる」
秀が立ち上がる。刀を取り出し、泥を拭く。鎧の紐を結び直した。
地に並べた石と、本陣までの道を見比べる。
「信長様の助太刀をと思ったが、おぬしにできるか、見届けてくれる」
秀は足を踏み出す。
上空に雷光が浮かび、火花を散らした。洞窟の出口から見ていた兵が叫ぶ。
「やめろ、また雷が落ちるぞ!」
少し歩き、立ち止まる。息を吸って吐く。自身の呼吸を数えて合図にした。歩き、止まり、また歩く。
雷が秀のすぐ近くに落ちる。当たらない。次の落雷も、立ち止まった目の前を焦がした。
追いかけてくる雷の矢が、今は秀を避けて降る。
陣幕の前で振り返る。平手と顔を合わせた。
「行くがよい。だがな、小僧。信長様なら、一目で看破しておったぞ」
秀は本陣に踏み込む。雷の射手と対峙する。やまない雷雨を終わらせる。