太陽が昇っていた時間は暖かい。昼頃にチトセと久しぶりに話をして気分が高揚していただけにこの黄昏時の肌寒さは熱を奪っていく。
「ファンの意見てのは身勝手だよな。そう思うだろ? さりなちゃん」
さりなが今できる最高の笑顔を収めた一枚の写真。それを吾郎はスマホのトップ、ホーム画像にするくらいさりなという少女に入れ込んでいた。
そして、たまたま病院内で立ち聞きしてしまった患者さんの付添人の発言に愚痴を溢したくて屋上までやってきたのだ。
──今死ねばアイドルの子供に生まれ変われるんじゃね?
──でもさ、男と子供のいるアイドルって推せるのか?
あまりにもタイムリーすぎる会話。つい先程までB小町のセンターであるアイの妊娠が発覚したのだ。推しである以上、吾郎にとってその会話は色々と考えさせられる。
アイに好きな人がいる、それでも吾郎は推し続ける自信がある。だけど子どもができてしまえばより高みへ羽ばたくアイを見ることはできない……ファンとしては複雑だった。
「うぅ〜さっぶ! この時間って冷えるんだね〜厚着して良かった良かった〜ははっ!」
そんな吾郎の気持ちなんて当然知る由もない本人は、ライブで見せる笑顔そのままに吾郎の近くまで歩み寄る。
「あまり長居はだめですよ、星野さん」
「分かってるよ〜ただ先生とお話したかったから」
アイの名字は星野。そういえばチトセとさりなの会話はアイが中心だったけれど公表されていない事は一部を除いて一切喋らなかったな……と改めて鳴川 千十星の計算高さに尊敬すらする吾郎。
検査をするためにも本名は伝えてもらわなければいけないので今回の一件はまさに棚から牡丹餅といえる。
「僕と……?」
「そっ。ちーちゃんが先生と話しているのを見かけてさ、これは何か隠してるっ! って思ったから」
「別に隠すつもりは……チトセさんから聞いていないんですか?」
「なぁ〜んにも! ちーちゃん自分の話は一切しない子だから……酷いよね? 私には話してくれてもいいのにさっ!」
プンプンっと頬を膨らませてお怒りモードのようだ。そんな表情さえ可愛い。
しかし意外だった。てっきりアイには吾郎とちーちゃん──チトセが昔ここで出会ったと話していると思っていたから。もしかしたらアイには秘密にしなければいけなかったか? と冷や汗を流すが彼女に限ってそれはないなと勝手に思考を止める。
「先生はちーちゃんのカレシ?」
「まさか、そんな大層な関係じゃありませんよ」
「じゃあちーちゃんのファンっ!」
「違いますね」
「……もしかしてストーカー?」
「もっと違いますね。ていうかストーカーに話しかけるってチトセさん人が良すぎです」
「えぇ〜じゃあちーちゃんとはどんな関係なの〜?」
「──秘密です」
推しに話しかけてもらえる、こんなにも嬉しいことはない。ずっとテレビという箱から眺めているだけだったアイが今こうして目の前に、しかも吾郎と一対一で会話している。さりなが見ていたらきっと怒るだろうなと内心謝りアイに含みのある笑みを浮かべてこの瞬間に感謝した。
「ちーちゃんも先生も私に隠すなんて酷いっ! 私のこと嫌いなの?」
「それはありえない。なにせ君はB小町の絶対的センター、アイなんだから。嫌われてるなんて論外さ」
「……ちーちゃんを知ってるもんね、私のことも知ってて当然か」
「昔、患者に君のファンがいたんだ。それから僕も君を推すようになった」
「おぉ〜? その推しが目の前にいるのに堂々と宣言するね〜さてはファンサがご希望で?」
「もう貰ってます」
「へ?」
「その笑顔が見れた、それだけで充分です」
「……あぁ〜なるほどなるほど」
当たり障りのない見事な返しだろうと思っていただけにアイが考え込むように首を縦に振る動作に違和感を吾郎の心に残す。
「ちーちゃんが先生を気に入るのも納得だね──うん! この話はこれでおしまい!」
「え、ちょ……勝手に納得されても……せめて理由を──」
「んふふ〜ヒ・ミ・ツっ!」
「っ?!」
してやられた。彼女なりの意趣返しというやつか……やっぱり芸能界に身を置く者には敵わない。やれやれといった具合に吾郎は諦めて空を見つめる。
「君は……アイドルをやめるのか?」
「なんで? やめないよ?」
「──は? や、でも……」
考えてもいなかった発言に吾郎は反射的に視線をアイに戻す。アイドルを続ける? 子どもがいる状態で?
「私って家族が居ないから憧れてたんだよ。お腹に居るの双子なんでしょ? 産んだらきっと賑やかで楽しい家族になるよねっ」
「子どもは産む、アイドルは続ける……それってつまり──」
「そっ! 公表しない!」
したり顔で悪い事を企んでいるようのなにやけ方。子どもを産む事は確定しているとしてアイドルまで手放さないとは……あまりにも無謀、アイドルを辞めるその日まで隠せるのだろうか。
「隠し通せますか?」
だから聞きたかった。そこまでアイドルにこだわる理由、子どもを産んでまで続けることなのかを。
「アイドルは偶像だよ? 嘘という魔法で輝く生き物なの」
「嘘……ね」
どうやら明確な答えを出してくれる感じではないらしい。代わりにアイドルとは? について語り始めるアイ。
そして『嘘』というワードに吾郎はいつかの彼女の台詞を思い出した。
「嘘はね──」
──嘘はさ、
「とびきりの愛なんだよ?」
──
「そう……か」
「母としての幸せとアイドルとしての幸せ、普通なら片方しか選べないかもだけど──」
──どっちも欲しいっ。だって星野 アイは欲張りだから!
吾郎が思い描く偶像が静かに崩れた。それは失望からくる喪失感ではなく、アイというアイドルをようやく真っ直ぐに見ることができた安堵の気持ち。
思ったよりも図太く、強く、そして一番星のように眩しい……あんなにもライブ映像を見たのにやはり本物は格が違う。
「……和解した」
「え?」
ずっと考えていた。医者として、ファンとして、吾郎はどちらを選ぶことが正解なのかを。
吾郎にアイの生き方を諭すなんて烏滸がましいのは承知の上だ。それでも推しが妊娠をして何も思わないわけではない。父親は誰なんだ? とか、無謀すぎる……そんな否定的な言葉があと少しで出そうになってしまうほど現実逃避したい気分だ。
それでも聞いてしまった……星野 アイが母として、アイドルとして、その両方の幸せを掴み取りたいというのなら吾郎はそれに従うまでだ。
「星野 アイ、僕が産ませる。安全に元気な子どもを」
なぜならアイはどうしようもないほどアイドルで、吾郎はどうしようもないほどにアイの
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「そっか……吾郎くんがそう決めたのなら私はその気持ちを尊重するよ」
翌日。仕事の関係で東京に戻らなければいけないチトセは別れの挨拶をするために吾郎が勤める病院に来ていた。今回宮崎に訪れたのはアイと壱護だけでは不安だからと説明されたが吾郎は『アイの側に居たいからだろ』と内心思っていた。
そして昨日のアイとの会話を一部抜粋して報告しチトセはただ頷いた。
「どっちにしたってアイが産むと言ったら医者として協力するのは当たり前だ……だから最初から答えは決まってた」
「答えが決まっていたとしても吾郎くんの気持ちは決まってなかったでしょ? 今はスッキリした顔してるよ。うん、その方がカッコよくて私のタイプ」
「……こんな時まで俺をからかうか」
手で口を隠してクスクスと笑うチトセに吾郎は引き攣って笑うことしかできない。
「次はいつ来れるんだ?」
「あ〜実は今年はもう来れないんだ」
「──は? いやだってアイの出産もあるんだぞ?」
「うん、でも私はアイドルだから。ステージの上が私の居場所なんだよ」
それはつまり親友であるアイよりも仕事を選ぶということなのか……吾郎の知るチトセはいつだってアイを大事に思っていた。アイにとっては初めての出産、その不安は計り知れないだろう。加えて年齢と発育状況を見ても母子ともに絶対に安全に出産できると断言はできない。本人には言っていないがチトセには伝えていたからこそ吾郎は驚きを隠せない。
「なんか勘違いしてるみたいだけど別に仕事を優先したいからって理由じゃないよ?」
「ならどんな理由があるんだ?」
「アイは活動休止中だからB小町の仕事はない。けど個人の仕事はありがたいことに声かけてもらってるの、だからアイドル活動を続けるためには必要。アイが復帰したときにB小町はアイがいないので解散しました〜なんて酷でしょ?」
「それは……まぁ……」
理解はできるがそれが仕事を優先しないという事とどう結び付くのか、吾郎にはチトセが何を考えているのかさっぱり分からない。
「ぜ〜んぶアイがアイドルを続けるために私達B小町のメンバーが一肌脱いでるってこと。アイの側には吾郎くんがいる、そしてアイが東京に戻った時には私達がいる。何不自由なくアイが生きられるように私は東京に帰るんだよ」
「そういうことか……」
つまりチトセはこう言いたいのだ。
──私達が居場所を守るからお前はしっかりアイの面倒を見ろよ、と。
遠回しじゃなくハッキリ言ってくれればいいものを……けれどこれがチトセの照れ隠しなのだろう。アイドルをやっている人間は全員がアイやチトセのようにワガママで捻くれた思考回路をしているのか? と吾郎は笑い出しそうになってしまう。
「おっ……と、そろそろタクシー乗らないと飛行機乗り遅れちゃう──吾郎くん吾郎くん、ちょっとしゃがんで目を閉じて?」
「え? あ、あぁ……」
急いでいるなら早く行ったらどうなんだと愚痴りそうになったがチトセの突拍子もない言動は今に始まったことじゃない。言われるがままに、言われた通り目を閉じてしゃがむと足音が近づいてきてやがて吾郎のすぐ近くで音が消える。
「アイのこと、本気で考えてくれてありがとう。そしてこれは私なりのお礼だよ」
何を言っているんだ……そう聞き返そうと思った時には柔らかで温かい感触が頬に触れた。
「──え?」
「にひひっ……」
思考が停止してしまう異常事態。目を開けて最初に見えたのは頬を赤く染め唇に人差し指を当てているチトセの姿だった。
「え……うぇ?」
人間、理解できない事態に直面すると言葉が出ないらしい。聞きたいことが脳では用意できているのにそれが声に出せない。今、チトセは吾郎の頬にキスをした……それはチトセの反応を見れば一目瞭然だ。それでも次に出る言葉が喉に引っかかって発せられない。
「私ね、吾郎くんのこと好きだよ。もっともぉ〜っと一緒にいたいって思ってる」
「……あ……」
「でもごめん、やっぱり私には吾郎くんを
告白ではないことは分かっている。なにせ過去にそれはやり終えているのだから。だとすればこの行為はチトセにとって一つの終着点、吾郎を知りどう感じたのか……その答えを今ハッキリさせたのだろう。
「当たり前だろ? アイの復帰ライブ、楽しみにしてるから頼んだぞ──リーダー」
「うんっ! 最っ高のライブにするから! だから吾郎くんもその日は東京来てよね!」
──約束!
──約束だ。
二人の声が合わさる、こういう時は息ぴったりなのに。最後に見せたチトセの瞳には初めて出会った日と同じ強く眩しい星が宿っていて。完全無欠のアイドルは振り返ることなくタクシーへ乗り込みやがて見えなくなった。
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さて、時が経つのは年齢を重ねる内に早くなるようで気がつけばアイの出産予定日もすぐそこまで迫っていた。もういつ産気づいてもおかしくない、出産というのはいつだって突然にくるものだからと長年の経験からこの時期の吾郎は緊張の線をピンと張っていた。
「せんせ……出産って、思ったより大変だね」
「だからこそ僕達は全力で君を支えるよ」
「あはは……ちょっと元気出た」
初めて検査をしてからもう季節を一つ、二つ過ぎようとしている。田舎という未知の場所に興味を示して散歩していたのが懐かしい。病院の近くでダンスを踊ったり歌ったり……それが今では億劫になるほどにアイはベッドから抜け出そうとしない。
しきりにお腹を擦っては日に日に大きくなる我が子の成長を聖母のような眼差しで見ている様子を間近で眺めていた吾郎は『どうか無事に産まれてきてくれ』と切に願う。
「センセはさ、出産するところ何度も見てるんでしょ?」
「それが僕の仕事だからな」
「えへへ……じゃあちーちゃんが妊娠したらセンセに診てもらうってことで予約していい?」
「……あまり気乗りはしないけど……推しのご指名なら」
チトセとの関係をアイはよく知らない。きっと吾郎の医者としての立ち振る舞いが信用に繋がっての発言だと思うがそれでもチトセが妊娠……それは想像したくない。
「ちーちゃんの子どもと私の子どもが結婚したらもう神がかってるよね……幸せすぎて死んじゃいそうだよ」
「随分とまぁ先の話をするね。でも……そうなったら僕も嬉しいよ」
それは確かに幸せなことだ。アイは想像以上にチトセに対する気持ちが強いようで……さりながアイを語る時と同じように、もしくはそれ以上に熱が入っている。
施設で共に過ごし嘘を武器に生き抜いたからこそ二人は真に本音で語り合える仲なのだろう。
「出産の時には立ち会う。もし何か用事があって行けなくても代わりの先生が来てくれるから大丈夫だけど」
「やだっ、センセがいい」
「ははっ……」
吾郎の発言がアイを不満にさせそっぽを向かれてしまう。特に面白い会話をしたわけではないしチトセと比べれば幾分か良い距離感だ。それでもアイは吾郎という医者としてではなく一人の人間として信用できるかな……と思いつつある。
吾郎がアイの推しであることは知っているしなんならライブ映像を一緒に見たがあの時間は鮮烈だった。
──うぉぉぉっ!! アイっ! アイっ! フォォー!!
推しがすぐ隣に居るというのにサイリウム両手にオタ芸なんかも披露する乱れっぷり……いつも人の視線に敏感なアイもこの時ばかりは笑顔を崩し困惑していた。
──が、だからこそだろう。そんな姿を見たからこそ様々な一面を見せる面白い人、推しであっても過度な接触はしない、アイをアイドルとして見ないただの星野 アイとして扱ってもらえる点が好印象だった。
「ちょっと用事があるから家に戻るけど、何かあったらすぐナースコール押すんだよ?」
「はぁ〜い。ちゃんとすぐ来てよ?」
「分かってる」
事情を知る看護師にも根回しはしてあるから何かあれば吾郎の仕事用の携帯にすぐに連絡がくる。家も近くだから焦る必要もない……安全に、元気な子どもを産ませると約束したのだから慎重に動かなければいけない。
アイに一言告げて病院から出た吾郎はふと立ち止まり空を見る。吐く息は白く見えるくらい気温が低い、それでも夜空の星が今日はより輝いていて……アイの出産に星すらも祝福しているのかと少しロマンチックなことを思ってしまったと鼻で笑ってしまう。
アイの出産を終えれば吾郎とアイの繋がりはなくなる。チトセという心強いともだちがいるけれどコネを利用してアイに近づくというのはファンとしての吾郎には許されない。今までのように遠くから応援するだけ……そう、悲観することはないのだ。
「──あんた、星野 アイの担当医?」
そんな夢心地だった吾郎に現実は容赦なく刃を向ける。
田舎の夜道というのは街灯が少ない。それでも病院近くは安全を考慮して多めに設置してある。しかし明かりがあっても顔が見えないというのは不気味なもので。
「……」
この場には吾郎しかいない。だから振り返って声の主を見るがその姿は『異質』、その一言に尽きる。
「彼女が受診する際は偽名を使っている。病院で見かけたにしても公表されていない名字をなぜ知っている? 関係者? 名前を聞いてもいいかな?」
黒いフードで顔を隠す人物。声の質と低さから男だと断定するが吾郎の質問に答えるつもりはないようだ。
「……あの、話を──あっ! おい!」
しびれを切らした吾郎が一歩詰め寄ると男は舗装されていない横道へ走ってしまい反射的に吾郎は追いかけた。
もし仮に逃げた男を捕まえたとして吾郎にできることはせいぜい警察を呼ぶくらい。いや本来ならその場に留まり警察が到着するのを待つのが正解だろう。吾郎が追いかけてしまった理由は瞬間的に内から溢れた正義感とアイを守らなければいけない使命感が融合した第六感というやつが吾郎を走らせた。
「くそっ……見失った……」
横道に行けば広がるは木々が生い茂る山の中。しかも夜となればあの男を見つけるのは相当に苦労するだろう。
「ストーカー……か? 出産も控えたこのタイミングで?」
その線が濃厚だ。どこでどう知ったのかは分からないが男は『星野 アイ』と口にした、であるならば狙いはアイなのか……立ち止まって思考をクリアにして次に何をするべきか冷静に考える。
「ここは一度病院に戻って──」
そして出した結論はシンプルで合理的だった。そうして足を走ってきた方へ戻した時……吾郎の視界は闇に覆われた。
──生まれ変わりって信じてる?
今は山の中に居るはずなのに、なぜ病院にいるのだろう……そして、なぜさりなと話す自分を傍から見ているのか……あぁそうか、これは夢だな。吾郎はすぐに結論を出ししばし静観した。
『馬鹿馬鹿しい、そんなのあるわけないだろ』
『ぶぅ〜このモラリスト! じゃあじゃあ
『ん〜私も吾郎くんに一票かな』
『えぇ〜二人とも社会に毒され過ぎだよ』
『子どもが言う台詞とは思えんな……』
『あはは、さりなちゃんらしいけどね』
この場面は確か……チトセに大きな仕事が入ってきてその成功を祝っていた時だった気がする。
さりなが思いついたように発言した話題に吾郎もチトセも興味なしとさりなの反感を買ってしまったのはいい笑い話だった。
──じゃあさ、付き合ってみようよ、私達。
そしてまた場面は切り替わり吾郎の自宅。夢ってやつはこんなにもコロコロと変わるものなのか? と吾郎は困惑したが所詮は夢だと割り切った。
『あいを
『上手くいく保証なんてないぞ?』
『好きな気持ちがあるんだもん……もしかしたら好きがあいに変わるかもしれないでしょ?』
『君が俺に向ける感情は友好だ、アイを想う気持ちと変わらない。だからこんなのはやめよう』
『じゃあ期間限定でいいよ。いつか答えは出す、それまでの間は恋人でいよう?』
『……絶対に何もしないからな?』
『キスくらいならしてもいいよ? あっ、ディープまで許す!』
『最近の子はませてるな……はぁ』
彼女から言われた衝撃発言に最初は大人に憧れてのことだと呆れていたが、あの日に語り合ったチトセの過去を聞いてからは冗談ではなかったと自身の軽率な返答に後悔したものだ。
しかし良かった、結果的にチトセは吾郎を愛していないと言ってくれたのだから……もし本当の意味で恋人になったら社会的に死ぬ、そんな世間の評価よりずっとずっと耐えられない事態にはならなかった、だから良かったのだ。
──あぁ、携帯が鳴ってる。
そして再び闇に戻っくる。遠くで携帯が鳴り響く、つまりアイが産気づいた合図だ。なぜ過去を見ていたのかは分からない、気持ちを切り替えて早く病院へ行かなければと身体に力を入れようとするが指先一つまともに動かない。
──約束……したからな……安全に元気な子どもを……
状況が全く理解できない。自分は今どこにいるのかさえ分からずただ約束を守るために必死で脳を覚醒させようとする。
しかし吾郎の健闘を嘲笑うかのように少しずつ意識が遠のいていく。
これは休んでいくしかない、少しだけ……数分だけ目を閉じてそれから病院へ行こう。アイは怒るだろうが事情を話せば分かってくれる──だから。
──それから雨宮 吾郎の意識が戻ることは永久になかった。