『地に獣』を踏まえてますが、なくてもOK。
ちょっと用事を頼まれてくれないか、と言ったのは、例によって夜中に窓を叩いた雁の仁獣である。
闇の中、満面の笑みで窓に張りついている六太を見て、筆を置いた楽俊はこそりと溜息をついた。
最初のうちこそあらぬ場所からの来訪に飛びあがっていたものの、こうも回数が多いと驚く方が馬鹿馬鹿しい。いまではすっかり夜の闖入者に慣れてしまった。
「今日はお一人なんですか」
尻尾を揺らしほたほたと窓辺に寄って招き入れると、身軽に飛びこんできた麒麟が苦笑する。
「あいつは監視付きで動けねぇの。相当仕事溜めてたからな」
わかりやすい返答に、はは、と楽俊も空笑った。
溜めていたというからには、その前はまたぞろそのへんを放浪していたのだろう。己の目で国や民の実情を見て廻りたいという気持ちはわかるが、どうして自分の知る王はこうも構わないたちばかりなのだろうか。
ふと隣国の女王を思い浮かべて、口元に薄い苦笑が浮かぶ。
「オレはオレでやらなきゃならない仕事があるもんだから、ちょっとお前に頼みたいことがあるんだ」
夜半のこと、声を潜めながら六太が両手を合わせて楽俊を拝んだ。
「慶の冢宰に書状を届けたかったんだけど、オレも尚隆も駄目でさ。かといって使令だけ行かせらんねえし、使者立てるほどの内容でもないし。そしたら朱衝が楽俊に頼んだらどうかって」
なるほど、と楽俊が頷いた。
金波宮には幾度か行ったことがある。他の官が行くよりも顔が知られている分気安いということか。
さすがに雁の官は抜け目ない。手が空いているなら誰でも使えということらしい。ちょうど大学は小試験あとの短期休暇である。そう長くはないが、金波宮まで行って帰ってくるには充分な日数だ。
やれやれと銀の髭を弾く。
どうせ断われはしないのだ。ささやかではあるが、日頃世話になっている恩返しだと思えば、たまには遠出もいいかもしれない。それに、久しぶりに友人の顔も見られる。
「いいですよ。おいらはさしせまってる用事もないし」
楽俊の快諾に、六太が大仰に頭を下げた。
「恩に着る! 勉強あるだろうに、悪いな。用意はしておくから、明日の朝こっちに来てくれ」
手を握らんばかりの六太の足元に、使令が顔を出した。
「……台輔、お早めにお戻りなされませと……」
「ああもう、朱衝のヤツ!」
どうやら玄英宮からの催促らしい。金の頭をかきむしった六太が窓枠に足をかけた。
「じゃ、そういうことでよろしく。慌ただしくてごめんな」
「いえいえ」
いつものことですから、とは、せめても言わないでおく。
じゃあと片手を上げて飛び去って行く騎影に手を上げ、楽俊はくつくつ笑いながら窓を閉めた。
「まさか、雲海の上を行くとはな……」
虎に似た騎獣の上で、楽俊は溜息をついた。
確かに、雲海の上は安全で、しかも目的地には早く着く。だが、一介の大学生、それも他国の半獣がはたしてのりつけてもいいものやら。
幾度目か覚えてもいない溜息に、騎獣が振りかえる。
「ああ、なんでもねえよ、たま」
ならいいがといいたそうなたまの頭を軽く撫でる。その手は小さな鼠のものではない。
非公式とは言え、仮にも麒麟から他国の冢宰宛てに書簡を携えてとなれば、まがりなりにも使者の体裁が要る。自分としても、さすがに半獣姿で行くのは気が引けるので人の姿を取ったのだ。
陽子は、そんなことしなくてもいいって言うかも知れねえけどな。
くるくるとよく表情の変わる友人を思い出して、くすりと笑った。
半獣差別に不満を持つ陽子は、宮中だからといって転化することないんだぞ、と言う。だが、今回は私的な訪問ではないのだから仕方ない。
人の姿を取るのは相変わらず窮屈だが、以前ほど面倒に思わなくなったのは、允許のためだと説得する友人の努力の賜物だろう。なるほど、このほうが騎獣にも乗りやすいし落ちる心配もさほどない。鳴賢に話したら泣いて喜ぶかもしれない。
ただ、この姿で金波宮の官に認識してもらえるかが、ちょっと気がかりではあるのだが。
雲海の隆起の狭間に見えてきた凌雲山の頂に、楽俊は改めて背筋を伸ばした。
延麒の書簡、冢宰の裏書のある旅券に秋官長からの一筆があれば、さしもの金波宮でも下にも置かれぬ扱いになるらしい。
権というものはたしかに便利だ。だが、これに慣れてしまう恐ろしさというものを、楽俊は知っている。生まれてからこれまで、彼はいつも権によって虐げられる立場の者だった。
自分が、以前この宮でほたほたと歩いていた鼠だと知れば、一体どんな顔をする事やら。
恭しく冢宰のもとへ案内する官の後ろで、楽俊はやや苦い笑いを噛み殺した。
先触れがあったのだろう、招き入れられた堂室では既に浩瀚が待っていた。跪いて礼を取ろうとする楽俊を押しとどめる。
「非公式とのことですし、過分な礼は省略なさってけっこうですよ。遠路ご苦労様です」
涼やかな挙措の冢宰は、下官を下がらせると来客に椅子をすすめた。
「延台輔の御書状だとか?」
「はい。延台輔にはどうしてもおいでになれぬとのことで、台輔に替わり私がお届けにあがりました。冢宰殿にはご寛恕いただきたいとのことです」
文箱を差し出した楽俊に、浩瀚が穏やかに笑った。
「いえ、こちらこそお手を煩わせて申し訳ない。延台輔がこちらにいらっしゃるときにでも、とお願い申し上げておいただけで、火急ではなかったのですが……。なにしろ、よくおいでになるので」
この口ぶりからすると、よほど頻繁に顔を出しているのだろう。含みのある言葉に、楽俊も頬を緩めた。
「楽俊殿にもお手数をおかけしました。大学の方はよろしいのですか?」
「ええ。今は中期休みで、幾日か余暇がありますので」
頷いた浩瀚が、では、と笑う。
「ニ、三日こちらに滞在なされてはいかがでしょう。客庁を御用意致します」
にこやかな申し出に、え、と狼狽えたが、相手は意にも介さなかった。
「皆があなたに会いたがっておりましたし、なにより主上も喜ばれましょう。たいしたおもてなしはできませんが、どうぞごゆっくり」
にっこり、というしかない笑顔の裏は、とてもではないが読めそうにない。
友人たちに会えるのは嬉しいし、顔を見るつもりもあったが、金波宮に泊まりとなると話は違う。なにしろ仮にも王宮であるから、巧の田舎出には気後れがする。
楽俊が是とも否とも言えぬうちに、浩瀚はさっさと下官を呼びつけている。
「ああ祥瓊、こちらの方を主上のところに御案内してくれるかな」
名を聞いて振り返った楽俊を、群青の髪をした美貌の娘が見返した。雁からの使者と聞いてきたのだろう。
優雅な身振りで拱手する。
「ようこそおいでなさいました。どうぞこちらへ」
上げた
会った当初とは別人のような落ち着きぶりに、懐かしさとともに安堵がこみあげた。
「久しぶりだな、元気そうで何よりだ」
礼を返して破顔する青年に、祥瓊がきょとんと首を傾げた。端で見ていた浩瀚が、やはりといいたげに忍び笑う。
「楽俊殿だよ、祥瓊」
言われた女史の少女は、意味が呑み込めなかったらしい。
二、三度またたきしてから、美人がだいなしなほどに大口を開けた。
「はあ?!」
典雅な仕草を放り投げて、祥瓊が叫ぶ。その驚きように楽俊ははたと思い当たった。
「そういや、前にこの格好で来たときは祥瓊はいなかったんだっけな」
あれは和州の乱の直後、桓魋が芳に行く直前の話。あのとき祥瓊は恭に向けて旅に出ていたから、彼女は人の姿をした楽俊とは会っていないわけだ。
「……そういえば、あのとき二十二って言ってたわね」
鼠の姿の楽俊は小柄で、どうしても子供に見えてしまうから、祥瓊の反応も無理はないかもしれない。
気を取りなおしたらしい祥瓊が、さっきよりはいくぶんざっくりとながらも、改めて拱手する。
「御無礼致しました。では御案内致しますので、こちらへどうぞ」
浩瀚の笑いを背に堂室を出ると、とたんに祥瓊が溜息をついた。
「雁の御使者だっていうから誰かと思ったわ。張清だなんて。おまけに人の姿なんてみたことないし、わかるるわけないわよ」
驚かされたのが気に入らないのか、先を歩きながら祥瓊が口を尖らせる。
「そりゃあ、一応延台輔の使者って形だからなあ」
やつあたりされても困るのだが、気持ちはわからないでもないし、楽俊としては笑うしかない。
今日はやたらと笑っているな、と思ったが、なるほど、苦笑というのにも色々な種類があるものだ。
「まあいいわ。幾日か滞在するんでしょ? 陽子が喜ぶわ。ちょっと疲れ気味みたいだから」
「あいつ、忙しいのか?」
眉を寄せる楽俊に、祥瓊が肩をすくめた。
「貧乏性なのよ。いつものこと」
まがりなりにも王を指して貧乏性などと言うのはここくらいだろうが、それだけ彼女たちも陽子の心配をしているという事だろう。美貌の元公主が柳眉を寄せる。
「楽俊のいるあいだくらいは、政務のことを忘れてくれるといいんだけど」
「祥瓊……」
王に政務を忘れろとはどういうことだ。
「あら、浩瀚様が楽俊の滞在を手配をしたんでしょ。だったら陽子に仕事させるわけないわ。そりゃ朝議はあるでしょうけど、あとは好きにさせてくれるわよ」
どんな冢宰だ、それは。
言いたい放題の祥瓊に頭を抱えたが、どうやら浩瀚も生真面目な王の息抜きを画策していたようだし、自分の来訪は渡りに船だったということだろう。
回廊の外れから園林に出たところで、祥瓊が道の先を指した。
「さっきやっと仕事が一区切りついたところなの。あのへんの路亭で休憩するって言っていたから、たぶんそこらにいると思うわ。お茶菓子でも持ってくるから先に行っていて」
言い置いて踵を返す。無用心に見えるほど気軽いのは、お互いが知り合いだからという気安さだろうか。
やれやれと呟いて園林の小路を辿ると、こぢんまりした路亭の手前に大きな塊が転がっていた。
「……」
多いのは苦笑だけではなかったらしい。
ため息もこれで今日何度目かわからないが、多分今のが最大になるはずだ。
「仮にも王様だろうが、お前は……」
緑萌える芝生の上に転がっているのは、若き慶東国王。
簡素な官服姿で髪を一つにくくった飾り気ない姿で、健やかな寝息を立てている。その鮮やかな緋の頭は、狼に似た巨大な妖魔に凭せ掛けられていた。
景麒の使令である妖魔は、いささか困惑した様子で王を見ていたが、楽俊を見止めて軽く頭を下げるような仕草をした。ついで、長い尾をもたげて遠慮がちに陽子の手を叩く。
「……主上」
かけられた声に、陽子は小さくうなるような返事を返し、寝返りをうつ。
じとりと、班渠の額に汗がにじんだような気が、楽俊はした。
身の置き所のなさそうな班渠にかわり、のんきに眠る景王の横に膝をつく。
「陽子」
溜息交じりの楽俊の声に、陽子が薄目を開けた。
「らく、しゅん……?」
翠の瞳が焦点を結び、にこぉっと笑う。
目が覚めた、と思った次の瞬間、楽俊の袍に陽子の手が伸びた。がし、とつかまれ、寝ぼけているわりに強い力で引き寄せられる。
「うわた……っ!」
倒れこむ寸前で片腕をつき、なんとか体勢を立て直したが、掴まれた袍はいまだ離されてはおらず。
形としては、膝枕というやつ、なのだろうか。
偶然なのか無意識の技なのかわからないが、楽俊の膝の上で陽子は幸せそうな笑みを口元にのせ、相変わらずすやすやと寝息をたてている。
「……カンベンしてくれ……」
この光景を誰かに見られたらと思うと気が気ではないのだが、あまりに気持ちよさそうに眠っているのを起こすのも忍びないような気がして、無碍にもできない。
枕の役目を楽俊に譲った班渠が、そそくさと陽子の影に沈む。それを追いかけることもできず、楽俊は深く息を吐いた。
まあ、がんばって仕事をしているようだし、たまにはいいか。
緋色の髪に、指を絡める。
もう少ししたら起こしてやるからな、と呟いて、やれやれと笑った。
暖かい陽だまりで、眠る少女と見守る青年。
うららかな晩春の光景だった。
「あらまぁ……」
「陽子もなかなかやるわね」
「もうちょっとあのままにしておきましょうか」
「そうね、せっかくだし」
優雅に枝を広げる立ち木の影から二つの人影が二人を伺っていることに、無論楽俊は気付いていない。
ちゃんと目を覚ました陽子が真っ赤になって慌てるのは、あと半時ほど後のこと。
初稿・2004.12.04
うちの浩瀚さんはこんなかんじですw