アイとのファーストコンタクトから一年ほど経っただろうか。
冬が過ぎ、春が来て、学年が上がり、そしてまた夏が来る。同じ施設にいるということで学校側が気を使ってくれたのだろうか、進級してもクラスがアイと分かれることはなく、席が離れることはあれど登下校は一緒にする日々が続いていた。
この一年でアイも環境に慣れたのだろう、施設の子たちやクラスメイトとも少しずつではあるがコミュニケーションを取る機会が増えてきているようだ。このまま順調に行けば普通の生活を手に入れることができるのではないかと錯覚してしまうほどに平穏な日常。
しかし、俺の内心は日が経つごとに暗然たる思いに苛まれていく。
何故なら、俺は知っているのだ。アイにそんな日々が続くことは世界が許さないことを。
もう少しでアイの母親の刑期が終わる。そしてその日、アイは絶望という闇に沈められるだろう。
この世には何をやってもどうにもならないということはある。
過去に起きたことは覆すことはできず、これから起きることであっても変えることができない事象というのはそれなりに多い。
世の中やってもダメなことばかりとはどこぞの魔術師の言葉であるが、今起きていることこそが正にそんな『ダメなこと』なのだろう。
転生して子供の年齢で既に大人の知識を得ているとはいえ、社会的に見ればただの未成年者。後見人無くして働くこともできず、家を借りることもできない。まして、同じ年齢の女の子を引き取ることなど不可能だ。
どうあがいても、俺はアイが絶望に沈む姿をただ見ていることしかできない。
それがあまりにも歯痒いと、申し訳ないと、悔しいと思う。
――泣いてほしくないんだけどなぁ……。
最初はただかわいそうだから救いたいと、その程度の想いだった。だが、この一年ほとんどの時間をアイと過ごしてきたせいで、俺は完全に焼かれてしまったらしい。
アイが泣くのは見たくない。悲しんでいる姿を見たくない。笑っていてほしい、穏やかでいてほしい。
「もうすぐ、お母さんが迎えに来るんだよねぇ」
「当日はさ、新しく買った服とかで待ってたほうがいいかな?」
「久々に会うから、何話せばいいかわかんないかも」
母親への信頼や期待、もうすぐ会えることに対する喜び。そして、ほんの少しの不安と共に言葉を紡ぐアイ。虐待を受けていたというのに、アイは母親が迎えに来てくれることに対しては何一つ疑いを持っていなかった。
そんな彼女に、俺は無難な言葉を返すことしかできない。そして、その度に何もできないという事実を叩きつけられるのだ。
――子供って、本当に何もできないんだな……。
結局、そんな無力感に苛まれ続けながら俺はその日、その時を待つことしかできないのだった。
アイの母親の出所当日。
来なかった。流石に手続きやらなんやらで忙しいのだろうと、アイは自分を納得させていた。
二日目。
来なかった。まだ忙しいのかなと言って、アイは笑っていた。その笑顔は、綺麗な【嘘】の笑顔だった。
三日目。
来なかった。アイから笑顔が消えた。
四日目。
来なかった。アイは自室から出てこなかった。
結論から言おう。出所した母親は遂に娘を迎えに来ることはなかった。
ネグレクト状態の家庭で親が罪を犯し子供が施設に入れられた。そして、そのままフェードアウトしただけ。残念なことにそれなりにありふれた事案であるのかもしれない。
親はいい。必要のないものと実質的に縁が切れてさぞ身軽になったことだろう。
だが、子供はどうなる?
親から暴力を受け続けた。それでも愛されていると信じて待ち続けたのに、最後の最後まで裏切られた。そんな仕打ちを受けた子供は一体どのような気持ちになるのだろうか、想像することすら憚られる。
幸運なことに俺は両親に恵まれた。今生では両親に会うことは叶わなかったが、少なくとも前世では良い両親に愛情を与えられ、育ててもらったのだ。
親に裏切られた経験がない、そんな自分がアイの心情を理解できるわけがない。察することもできるわけがない。
どうすればいいのか、わかるわけがない。
どんなことを口にしてもきっとアイには届かないだろう。絶望に沈んだ彼女の心に響く言葉など、俺に言うことはできない。
だから、邪魔と言われるまではせめて傍にいようと思う。
五日目の夜、アイはとうとう外に飛び出した。
母親のところに行くつもりかと、施設の職員さんが慌てて追いかけようとする。しかし、それを制して俺が行くと言って後を追った。
アイはもう既に自分が捨てられたことを理解してしまっている。だから、母親のところに行こうとするなどありえない。今アイは自棄になっているだけだ。
想像通り、アイの姿はすぐに見つけることができた。施設から百メートルも離れていない公園の中で一人、ブランコに座っていたのだ。
顔を俯かせているアイがどんな表情をしているのかは窺えない。だが、見たいとは思えなかった。きっと、絶望するだけだから。
彼女を刺激しないようゆっくりと近づいていく、が反応は無かった。
どしゃ降りの中外に飛び出したアイはずぶ濡れだ。きっと寒いだろう。持ってきたジャケットを肩にかける。
あとは傘を開いて雨が当たらないようにする。
反応はない。だが、それでもいい。
邪魔か、帰ろうか、アイにそう言われるまではこうして待っていようと思う。
夜の公園に子供が二人。一人はブランコに座って俯き、もう一人は傘を広げて立っているだけ。さぞ不気味な光景だろう、通報されてもおかしくない。
それでも、今の俺たちにはこの時間が必要だ。
アイは絶望という闇を実感し、浸るために。俺は、この無力感と虚しさを心に刻むために。
その後一時間ほど経って施設の職員さんが連れ戻しに来るまでの間、俺たちの間に会話は無かった。
次の日。朝食にも、学校に行く時間になっても、アイは部屋から出てこなかった。
一応、アイの部屋の扉をノックしてみる。
「星野、起きてるか?」
反応は無い。然もありなんと、久々に一人で学校に行くことになった。
普段ならばテレビの話やら、天気の話やら、適当な会話をしながら歩いている。だが、今日はそれがない。学校への道がとても長く感じた。
とはいえアイがいないこと以外で何か変わったことはなく、授業を消化し帰路に就く。
施設に戻って話を聞いてみると、お手洗いの時以外は部屋にこもり続けていたようだ。食事もとらず、部屋も明かりが消えているという。
俺からも少し声をかけてみてほしいと言われたので、それは当然と頷いてアイの部屋への前と向かう。
朝と同じようにノックをした後、
「星野、大丈夫か? 腹とか減ってないか?」
聞いてみるが、朝と同じように答えは無かった。結局その日、そして次の日もアイと顔を合わせることなく、次にアイと会ったのはそれから三日後、朝食の時だ。
「おはよ」
「――っ! あ、ああ。おはよう、星野」
食堂へと向かう廊下の真ん中で、以前と何も変わらない体で挨拶してきたアイ。ならばとこちらも普段通りに応える。すると、おやおやと俺の前に出て身体を寄せると上目遣いでこちらを見た。
「あれ、それだけ? ――君は何も言わないんだね、何度も無視したのに。もしかして、そんなに心配してくれてなかった?」
飛び出してきたのは軽口で、それと共にニヤリと笑うアイ。一見すれば以前と同じ様子に見える。だが、俺は気づいてしまった。幸運にも気づけてしまった。彼女の笑顔が【嘘】で固められていることを。
「――そんなわけないだろ」
クソほど心配したわ、マジで。でもねぇ……、
「なあ、星野。無理に笑わなくて、いいんだぞ?」
アイの【嘘】の笑顔はこれまで何度も見る機会はあった。他人に不快感を抱かせないようにこやかに笑う、アイが母親との生活で獲得した処世術。それは十代の子供が行うには見事なものであったが、だが、今日のそれは笑顔というにはあまりにも歪んで見えた。
「っ、何のことかな? 私、別に無理なんかしてないけど?」
「そう言うならいいさ。でもさ星野、お前眼が……」
死んじまってるよとは、続けることはできなかった。
星の様に輝く彼女の瞳、それがどす黒く染まっている。いや、実際にはそんなことはないのかもしれないが、俺にはそのように感じられた。しかし、
「眼? 眼が何? 私の眼、何か変だった?」
「あ、いや……」
「私、別に変なとこ無いと思うんだけどなー。ま、気のせいでしょ!」
アイの圧と勢いに俺は何も言い返せない。まるで俺を拒絶するように彼女は食堂へと向かっていく。それを引き留めようと一瞬手を伸ばして、そのまま下した。
――引き留めてどうするんだ。何を話していいのかすら、わかってないのに。
彼女の力になれない、そのやるせなさに溜息を一つついてから俺も食堂へと向かう。
その日を境に、俺とアイとの間で会話がなくなった。