カーテンの隙間から差す日差し。軽快に響く雀の鳴き声。耳障りなそれに眉根を寄せ、ずれたパジャマを直しながら気怠い身体をゆっくり起こす。
――よく眠れなかったな……。
意識が完全に繋がっているわけではないから浅い睡眠には入っていたのだろうけど、熟睡とは流石にいかなかったようだ。寝起きは悪い方ではないが、流石にちょっとぼんやりする。
寝ぼけ眼で時計を見れば朝五時半を過ぎたところだ。普段起きる時間までまだあるし、今日は手伝いがあるわけでもない。ならば二度寝しようかと考えて、パジャマがしっとり湿っていることに気づいた。
――先にシャワー浴びちゃおう。
この施設はありがたいことにスポンサーのおかげで予算が多いらしく浴室を二十四時間使うことができる。朝シャン勢も多いわけではないのでこの時間なら空いているだろうと、着替えと入浴道具を用意し浴室に向かった。
扉にかけられたフックに『使用中』のプレートをかけて鍵を閉める。給湯器のスイッチを入れた後手早く服を脱いで浴室に入れば、まだ朝も早いというのに既に蒸し暑さを感じさせた。
蛇口をひねり、温度を確かめてから頭からお湯をかぶると、温かさとお湯が肌を流れる心地よさに軽く身震いする。暫し、それに身を委ねながら冴えてきた頭で思考を巡らす。
今日私はどうすべきか、という問題に答えが出ることは無かった。尤も、こちらからアクションを起こすにしろ起こさないにしろ受け身にならなければいけないので、元々深く考える必要がない問題だったことに気づいたのはそれなりに冷静になってからであったが。
結局、私が考えなければいけない問題は一つだけ。あの人のことを信頼できるかどうか、ということだ。
あの言葉は嘘ではないと、信じたいと本当に思っている。でも、心のどこかでもう一人の私が囁くのだ。
――あの人も、最後に裏切るよ。
彼の言葉で、私は一晩だけでも母の裏切りを忘れることができた。とても、幸福な時間だったと思う。それだけでも、彼に全幅の信頼を置いてしまえそうなくらいには、本当に素敵な時間だった。
でも、そのままずっと前向きにいられるなんてそんな都合のいいことが起きるわけがない。むしろ、あんな言葉をかけられたがゆえに、母の裏切りをより重く、強く意識してしまう。
人と人を結び付けるこの世で最も強い繋がりは血の繋がり。じゃあ、そんな血の繋がりを持った人にさえ裏切られた私が、会って一年程度の同い年の男の子に裏切られない保障などどこにあるのか。
仮に、もし、私が彼を信じたとして、裏切られたらどうする?
母はギリギリであったけど耐えられた。だって、あの人はずっと私に酷いことをしてきたから。今思い返せば、良い思い出なんて数えるほどしかなくて、本当に地獄のような生活だった。
でも、彼は?
慣れない生活に戸惑っていた私を支えてくれて、二人でたまにバカやって怒られたり、笑ったり。私がこの施設で穏やかな生活をすることができたのは間違いなく彼のおかげだ。母に裏切られた後も一番最初に寄り添ってくれたのも彼だった。
そんな彼を信じて裏切られたら私はもう、耐えられないだろう。
もし現実に起こったらその時には、きっと――。
「怖いな……」
ちょっと想像しただけで背筋が凍るような感覚を覚えて、堪らず身体を抱きしめる。
温かいお湯が肌を伝い流れていく。しかし、それは身体の奥まで熱を伝えることは無かった。
「――おは、よぅ……」
「あ、ああ。おはよう、星野」
朝食の場で、尻すぼみの挨拶に少々どもりながら返す。アイはちらちらと視線をこちらに向けてくるが、何か話そうとはせず、ただじっと座っている。
昨日までのアイの態度とこの状況を鑑みるに、やはり昨日の話を聞かれていたのだろう。
――こりゃあかんわ……。
こちらを窺うアイの表情はどうにも不安げで、今にも俺に何かされるのではないかと怖がっているようにも見えた。挨拶はしてくれたので昨日よりはマシな距離感な気もするが……いや、大して変わらんか。
――そりゃ警戒もされるよなぁ。遠ざけようとしてた人間に急にあんなこと言われたら。
とはいえ、昨日までの状態よりは改善されたのは事実。ここを逃すとこのままずるずると離れたままになると、漠然とだが感じている。だから――少し踏み込んでみるべきかもしれない。
朝食を食べ終え、学校に向かう。最近は一人で先に施設を出ていたアイが今日は待ってくれていた。無言ではあったものの、久々に一緒に登校するのだ。ならばと、その途中で俺は意を決して切り出す。
「あー、星野。今日学校から帰ったら……少し、話せないか?」
歩き始めてから一度も視線が合うことはなかったが、ここで初めてアイは俺の方を見た。そして、やはり無言のままであったが、それでも俺に分かるようにこくんと一度頷いた。
――勇気出して、良かった……。
安堵のため息を一つつく。その後会話はなかったものの、学校への歩みはいつもより少しばかり軽かった。
施設に帰ってきて暫くしてから、俺はアイの部屋に向い扉をノックする。
「星野。今、いいか?」
暫くして扉が開き「入って」とアイの声がしたので遠慮なく部屋に入ると、アイが勉強机の椅子を引っ張ってきてくれた。
「ありがと」
「うん」
椅子に座ると、俺に向かい合うようにアイはベッドの真ん中に腰を下ろした。ベッドよりも椅子の方が高いこともあって俺がアイを見下ろす形になったが、目の前の少女は気にすることなくこちらをじっと見ている。こうまで視線が合うのも久々で何とも気恥ずかしく感じたが、黙っていても仕方ないので話を切り出す。
「積もる話はあるんだけどさ、まずは……昨日、俺とおばちゃんの話、聞いてた?」
「うん……。ごめんね、盗み聞きなんかして。ホントは飲み物だけ飲んで戻るつもりだったんだけど、私の話が出てたから気になって……」
「いや、謝らないでくれ。誰だって自分のことが話されてたら気になるしな」
しょぼんと眉尻を下げて申し訳なさそうにするアイに慌てて気にするなと手を振った。少なくともアイのことを悪く言ったわけではないし、そもそも内密の話でもなかったのだから。だが、これだけはどうしても聞かなければならないと、話を続ける。
「ただ、その、最後のやつも、聞いちゃった……よな?」
俺の問いに、アイは少しばかり逡巡してから頷いた。
「まあ、そうだよな……」
アイは頷いた後、そのまま視線を伏せる。まあほとんどわかっていたことだから、これ自体に驚きはなかった。とは言えどう思ったなどと聞けるわけもなく、ここは素直に謝ろうと口を開いて、
「急にあんなことを言って、ごめん。不快に思っ『不快なんかじゃないよ』――星野?」
俺の謝罪はアイの強い言葉に止められた。そしてそのままアイが続ける。
「不快だなんて、そんなこと思うわけない。私は――すごく、嬉しかった。本当に、泣いちゃったくらい、すごくすごく嬉しかったよ」
あまりにもストレートな言葉と共に、アイは俺と視線をぶつけた。星空のように輝く瞳にじっと見据えられた俺は思わず視線を逸らす。すると、それに構わず言葉を続けた。
「まだ私に優しい言葉をかけてくれる人がいたんだって。私はまだ一人じゃないんだって。お母さんに捨てられたってわかってからずっと寒かったのに、暖かくなって……。すごく幸せな気持ちになった」
アイは何かを思い出すように言葉を紡ぎ、笑みを浮かべる。それは、久々に見た本当の笑顔で、心の奥から沸き上がった喜びに俺も頬がゆるんだ。
「ありがとう。私のこと、あんなふうに言ってくれて」
「星野のその顔を見れただけでもお釣りがくるよ、ホント。こちらこそありがとうだ」
互いに礼を言って、ふふと笑う。俺の笑顔がアイにどう映ったかわからないが、少なくともアイの笑顔はとても幸せそうに見えた。
――ああ、やっぱり、笑っててほしいな。
心の底から思う。この子には笑顔でいてほしいと。
正直話をする前はどうなることかと不安であったが、こうして笑顔が出ているなら大丈夫だろうと、ほっと一息つく。
しかし、その直後にアイは笑みを浮かべながら涙を流し始めた。
背筋が凍る。もしかして何かまずいことを言ってしまったのかと慌てて近寄ろうと腰を上げた瞬間、アイは手を挙げて俺を制した。
「ごめん、何でもないから。ちょっと、感情が高ぶっちゃっただけで……」
それを聞いて、俺は上げた腰を再び下ろす。だが、アイは流れる涙を拭っていたが止まる気配はないようだ。
「おかしいな。嬉しいはずなんだけどな。泣くつもりなんて、無かったんだけどな……」
涙に震えた声で、アイが続ける。
「怖い。すごく怖いの。嬉しいのに、幸せなのに、こんなこと信じちゃいけないって、どうしても思っちゃう。君も、いつか酷いことを言うんじゃないか、離れていっちゃうんじゃないかって、思っちゃうんだ……」
「……そうだよな。あれだけのことがあったんだ、そんな簡単に人を信じるなんて難しい……よな」
震える身体を抑えるように、アイは自分を抱きしめた。
アイに幸せになってほしいという思いは俺にとっては紛うことなき真実だ。だが、人間関係なんぞちょっとしたことでこじれるものだ。まして俺とアイは未成年、今後もこの状況が続くなんて保障は何一つ存在しなかった。
「信じたい。でも信じれないの。こんなに気を遣ってくれてるのに、お母さんよりずっとずっと優しくしてくれてるのに、それでも、私は……」
流れ出る涙を見て、堪らず、歯を食いしばる。目の前の少女はまだ小学五年生。十一歳だ。まだまだ親の、他人の助けを必要とする年齢なのだ。
それなのに、この子は他人を頼ることに対してこれ程までに恐怖し、涙している。
いったいどれほどの地獄を見てきたのか。どれほど痛めつけられてきたのか。
もう我慢できない。
立ち上がり、ベッドに座ったアイの前で膝立ちになり、目線を合わせる。すると俺の視線から逃れるように顔を俯かせた。
その寸前に見えたのは黒い星。嘘偽りのない、アイの闇を現出させる瞳だった。
そっと、頭を撫でる。するとアイは一瞬ビクリとしたが、抵抗されることは無かった。
そのまま暫し頭を撫でながら、思う。アイが話してくれたことは心に負った傷を自分でえぐり返すようなものだった。そして、今まさに俺に話すということで、他人を信じきれないという新たな傷をも晒している。
「ありがとう」
えっ、とアイが顔を上げた。その表情には涙を流しつつも困惑が浮かんでいるが然もありなん、自分が信じられないと言った相手が何故かお礼を言ってきたのだから。でも、俺はこの言葉しかないと思った。
本来ならば、貴方を信じられないなんて言葉は自分の心の中にしまっておいて、波風立たないようにするのが普通だろう。そうすれば、少なくとも相手を傷つけることは無いし、それに対する反応で自分が傷つくこともないのだから。
だが、アイは自分が傷つくことを恐れてなお、その恐怖を押し殺して俺に自分の感情を伝えてくれた。『信じたい。でも信じられない』という俺を傷つけかねない言葉を、あえて晒してくれたのだ。
だから、俺は感謝を伝える。
「ありがとう、俺に言ってくれて。言葉にしたくないことを、俺に伝えてくれて、ありがとう」
「っ……、どうして。そん……な……」
俺の言葉を受け取ったアイはゆっくりと身体を倒してくると、俺の胸元を両手でつかみ、額を右肩に載せて嗚咽を漏らした。それを受け止めるように、頭を撫でていた手を後頭部に回す。
髪を梳くように頭を撫でれば、アイはより強く顔を押し付けてきた。空いていた手を背中に回し軽く引き寄せる。すると、アイはされるがままにベッドから降り、俺に身を委ねた。
ベッドの側で、膝立ちのままアイを抱きしめる。アイの涙が止まる様子はない。華奢な身体を強く抱きしめたくなる衝動を何とか抑えながら、アイの背中をポンポンと叩く。そして、腕の中の少女を不安にさせないように心を静めながら強く思った。
――くそったれだな。
十歳の子供にこれ程の苦しみを与えるこの世界に、俺は憎しみを抱かざるを得なかった。
星野アイさんじゅういっさいのシャワーシーンとイチャイチャ(闇)をお届けしました。