一度決壊してしまったら止まるわけがなかった。抑えていた涙の量はあまりにも多すぎたから。
この人の前では泣きたくなかったのに、心から信じることができない申し訳なさと彼からの感謝で私の堤防は壊されてしまう。
せめて泣き声は出したくないと堪えようとするものの、溢れる感情を抑えることなんてできず、彼の肩に縋り、そのままされるがままに抱きしめられた。
驚いたのは一瞬だけ。そのまま彼から伝わる暖かさと、私を宥めるように動く両手に身を委ねて、再び涙がこぼれだした。そのまま只々泣き続けて、気持ちが落ち着いてきたのは一体どれくらい時間が経った頃だったろうか。
――ああ、これ、だめだぁ……。
人に抱きしめられたのなんて一体いつ以来だろう。幼い頃、まだ母が私のことを少しだけ見てくれた時にあったかもしれないが、もうほとんど覚えていない。はっきりと自覚できるのは、間違いなくこれが初めてだ。
落ち着きを取り戻した心は、あまりにも幸福すぎる諦めに流された。しかし、
「落ち着いたか?」
「あっ、うん……」
私が落ち着いたことに気づいたのだろう、彼が声をかけてきたので素直に頷いた。すると、後頭部と背中に回されていた手が離れていく。
思わず、掴んでいた服をぎゅっと握った。まだ離れたくないと、顔を押し付ける。すると、彼から少しばかりの躊躇いを感じた後、両手が元の場所に戻った。
何も言ってないのに、私の意図を察してくれた。それがたまらなく嬉しい。嬉しすぎて、もう少しと求めてしまう。
胸元を掴んでいた手を放し恐る恐る背中に回してみると、流石に驚いたのだろう、身体がビクリと震えた。それでも拒絶されることは無く溜息を一つつくと、ぐいと身体を引き寄せられた。
――う、うわ、うわぁ……!
密着感が凄い。瞬く間に体温が上がっていく感覚を覚える。
これはダメだ。これは絶対にダメなやつだ。間違いなく真っ赤になっているであろう顔をグイと押し付けた。見られてはいけない。バレたら恥ずかしくて死んでしまう。
離れるのが寂しくて、勢いで抱き着いてしまったけれど、その後どうなるかなんて当然考えてなかった。とりあえずじっとしているしかない。私がこの状況を望んだのだから、私から何かをするなんてできない。
――ど、どう、しよう……。
でも、ずっとこのままというわけにもいかないのだ。これ以上は私の身も心ももたない、オーバーヒートしてしまうのが目に見えていて、
――もう、それでいっか……。
諦めた。だって離れたくないから。この人が気づいたときにはきっと私は茹でだこになってるだろうけど、なんかその方が幸せだし、きっと慌てるだろうから、それを見るのも面白そうだ。
――こんなことした君が悪い。そういうことにしとこ。
多少なりとも強張っていた身体から力を抜くと、少しだけ動揺したように思えたけど気にしない。君が悪いのだ。私のことをこんなに熱くさせた、君が悪い。
責任は取ってもらうからねと、背中に回した腕に力を込めた。
俺がアイを抱きしめてしまってから、どれくらい時間が経ったか。
最初は感情の赴くままに抱きしめていたが、時と共に徐々に冷静になってきた。
――やっちまった……。
考えなしに動くからこうなるのである。下を見れば腕の中にすっぽりと収まっているアイさん。拒絶はされなかったから良かったものの、この後どう収拾をつければいいのかさっぱりわからん。この子とのコミュニケーションは本当にわからんことばかりである。
まあ、流石にちょっと色々すっ飛ばしてしまった感が凄いので、そろそろ離れようとアイに声をかける。
「星野、その、そろそろ……」
俺の声にアイはピクリと反応し、顔を上げる。そして、それを見て俺の思考は停止した。
日が落ちてきて暗くなってきた室内でもわかるほどに、頬を紅潮させるアイ。瞳は潤み、目尻には涙が流れた跡が残っているが、その表情は先ほどのような悲しみに囚われたものではなく穏やかなものだった。
「うん、ありがと、ね」
その言葉と共に、身体を離していくアイ。そして、改めて俺の顔を少しだけ窺ってから、顔を俯かせる。それを見て、俺は心配していたことを問う。
「あー、その、嫌じゃなかったか……?」
「えっ?」
俺の言葉を聞いて、アイはぱっと顔を上げた。顔は紅潮したままだったが、その表情はどうしてそんなことを言うのかと、疑問が浮かんでいた。
「どうして?」
「いや、急に抱きしめてしまったから。その、俺は男だし、流石に不快に思ったんじゃないかと……」
「思うわけないじゃん」
続けた言葉はバッサリと切られた。表情を真面目なものに変え、そのままアイが続ける。
「嫌だなんて、不快だなんて思うわけない。思ってたなら、とっくに突き飛ばしてるでしょ」
「……そりゃそうか」
「そうだよ。私は、君がしてくれたことに感謝しかしてない。手を差し伸べてくれて、本当に、本当に嬉しかったんだから。だから――君がそんなこと、言わないでほしい」
そう言って、アイは俺の頬に手を伸ばした。俺の目線を自分に向けさせて、意図がちゃんと伝わる様にと。
「ごめん、変なこと言った」
「わかってくれたら、いいよ」
謝罪に頷くと、アイは俺の頬から手を離した。そして、続けてニコリと笑ってから、ゆっくりと立ち上がる。それに続いて俺も立ち上がり、再びアイはベッドに、俺は椅子に腰を下ろした。
「でも、ちょっとだけビックリしたけどね。君がこんなに大胆な人だなんて、思わなかったよ」
「あー、もうしないから、からかうのは勘弁してくれ……」
先程とは打って変わって、笑いながら揶揄ってくるアイ。その姿に安堵しつつも、苦笑しながら答える。すると、
「えっ? もうしないの?」
途端に、アイは不安げな表情を浮かべた。瞳をまた潤ませ始め、今にも泣いてしまいそうといった状態だ。
「もう、抱きしめてくれないの……?」
「……ご要望とあらば、いつでも、喜んで」
続けられた問いに、俺は両手を上げて降参するしかなかった。
「なら、おっけー」
不安げな顔を見せていたのに、俺の答えを聞くと表情をコロっと変えてアイが笑う。それを見るとどうにも敵わないと思うしかない。俺は再びの苦笑いを返しつつも、それからしばらく久々の他愛のない話を続けるのであった。
「じゃあ、また飯の時に」
「うん、あとでね」
部屋を出る彼を見送った後、フラフラしつつも椅子を持ち上げて学習机の前に置き、崩れるように座り込む。
最後の方は前と同じように気楽に話すことができたけれど、その前があまりにも重すぎた。
嬉しさと、悲しさと、申し訳なさと、なんかもう色んな感情がごちゃごちゃになって、慰められて、抱きしめられて……。
そこまで思い返して、カッと顔が赤くなるのを感じた。
――身体、大きかったな。
自分が小柄な方であることも影響しているだろうが、抱きしめられて改めて彼の身体を大きいと感じる。クラスの子たちで列を作るときも、私は真ん中より前の方だが、彼はいつも一番後ろだった。多分、もう高校生くらいの身長はあるのではないだろうか。
そんな大きい身体で、まるで私の全てを包み込むように、ギュっとされてしまった。
もしかしたら、お父さんとかお兄さんに抱きしめられるとあんな感じなのかもしれないなと思ったが、何となく違和感を覚えて首を傾げる。
――うーん。でも、家族相手だったらあんなに恥ずかしいとは思わないよね。
とは言え、家族以外の男女の関係ともなれば恋人や夫婦といったものしか浮かばない。
――恋人、かぁ。
二人で想いあって、お互いが好きになって、愛し合って。もし彼と将来そんな関係になれたら、ああ、きっと、とても幸せなことなのだろう。こんなことを考えるなんてちょっと早すぎるし、ちょろすぎる気もするけれど、そこは傷心の私に対してあんなにぐいぐい押してくるあの人が悪いのだと諦める。
ぼんやりと思い浮かぶ光景に、頬が上がった。しかし、不意に疑問が思い浮かぶ。
――他人を想う気持ち、これはわかる。好きって気持ちも、わかる。きっと今のあの人に向ける私の気持ちだ。でも、愛ってなんだろう?
好きと愛の違いって、何だろう。
――難しいな、これ。
彼の側に居たいって思うし、また抱きしめてほしいって思う。でも、これが愛なのだろうか。
好きと愛の境界線が全くわからないし、そもそもの問題として、愛されたことのない私が愛を理解することなんてできるのだろうか。
――一人で生きていかなきゃいけない、ってことはなさそうな感じになったけど……。
恋人や夫婦というのは、愛し合う二人が作る関係だ。ならば、愛というものを理解しなければそういう関係を作ることができないということではないか。そこに思い至って、身体が一瞬震えるのを感じ、
「あー、煮詰まってるな、私」
深みにはまる前に、背もたれに身体を預けて、声を出した。焦って答えを求めるようなものでもないのに、何故か奥へ奥へと思考が進んでいってしまう。変に頭を使うことが多かったせいか、どうやら脳みそが茹で上がってしまっているようだ。
――なんか、色々あったな。ありすぎたよ……。
机に突っ伏して、項垂れた。
昨日からの一連の出来事のせいで私の感情は揺さぶられすぎている。まるでジェットコースターみたいとでも言うべきなのだろうか、乗ったことがないのでいまいち想像できないが。
絶望していたら希望を見せられて、泣いてしまうくらい悲しくなったら、その十分後には脳が沸騰するくらいの幸福感に満たされていた。本当に頭がおかしくなってしまいそうだ。
――でも、悪くない……かな。
思い返して、頬が緩んだ。そう、悪くないのだ。もし私の頭がおかしくなっているとしても、この生活が、この感情が続いてくれるなら、おかしくなったままでいい。
あの日々とは比較にならないくらい、今の状況はマシなのだ。暴言と暴力に怯え、最終的には飢餓の危機にも陥った生活より、穏やかに過ごせてご飯もあって、悲しみと向き合う必要はあるけれど、闇に落ちそうになった時に拾い上げてくれる人がいる生活。誰だって後者の方がいいに決まっている。
それに、家族は失ったけれど、私を大切にしてくれる人を得ることができた。
「まだちょっと怖いけど、ね」
心から人を信用できるようになる時が来るのかどうかわからないけども、少なくともその土台を得ることができた。感謝してもしきれない。
彼の顔を思い浮かべながら、このままの日々が続けばいいのにと、心から思った。
アイさんの破滅的な行動は間違いなく幼少期のフォローのなさにあると思うので、オリ主に色々頑張ってもらってます