大人のエヴァンゲリオン

子供たちのエヴァンゲリオン

二つのシリーズを繋ぐ外伝作品です。

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大人と子供のエヴァンゲリオン

   西暦二〇五〇年

 

「シンジくん、相変わらずモテるわね……」

 

 呆れるようにあたしに言ったのは、そばかすが目立つお下げ髪の親友、洞木ヒカリだ。

 

 いつも通り、ヒカリ、シンジと連れ立って登校し、校舎の玄関で靴を脱いだ。シンジが下足箱を開けた途端に、バサバサっ、ドサッと音がして、ああ、また今日もか……とあたしはこめかみに指を当てた。

 

「あ、やっちゃった……」

「ちょっともう、毎朝の事でしょうに! いい加減学習しなさいよ!」

 

 どんくさいシンジが下足箱から取りこぼし、床に散らばったラブレターの山をあたしは家からわざわざ持参しているゴミ袋に手早く回収する。シンジはオタオタして、あたしに向かって「ごめん」と謝る。

 

「やっぱり全部回収しちゃうの?」

「どうせ返事がしきれないんでしょ! 最初に処理に困って泣きついて来たのは、あんたじゃないの!」

「それはそうなんだけど……でも少し勿体ないなあ」

 

 その言葉にあたしはギロリと目を剥き、シンジを睨み付けた。

 

「女を遊びで弄んだりしたら、心の底から軽蔑するわよ……あんたに真剣な想いがあるの?」

「そ、それは……そこまでの想いはないけどさ……」

 

 そこで、ヒカリが呟いたのが、冒頭の台詞だ。あたしとシンジの不毛な言い争いに待ったをかける意図だったのかも知れない。

 

「ま、あたしの方がさらにモテるけどね」

 

 あたしは回収を終えるとそう言って栗色の長い髪を手でかきあげる。その髪が邪魔をして、あたしの濃紺の瞳が、シンジの姿を一瞬見失い、白いシャツを探して彷徨う。

 再び捉え直した時、シンジは「じゃ、あとは頼むね」と一言だけ残すと、あたしのことになどそれ以上構わず、とっとと廊下を先に行ってしまう。そこで友人の鈴原トウジに行き合い、おはようと挨拶を交わしている。

 

「ちょっ、こら待て……バカシンジっ!」

 

 あたしは自分の下駄箱の中から、シンジに数倍する恋文の山を回収しポリ袋に入れていく。膨らんだ半透明のゴミ袋を肩から後ろに提げ、まるで季節はずれのサンタクロースのように教室に向かう。

 

「ったく……なんだって、このあたしが毎朝こんな手間暇を……」

 

 教室に入り、一番後ろの列にある自分の席に着くと、あたしは教室の隅で動き回ってるロボットゴミ箱を声を出して呼んだ。

 

「ゴミ箱! ……大量投棄」

 

 そう呼ばわると、ゴミ箱同士で通信し、他の教室からも同型のゴミ箱がやってきて後ろに列を為す。あたしはその自ら蓋を開けたゴミ箱たちに、まるで餌でも与えるように一定量ずつラブレターを放り込んでいく。投げ込み終わると学内ネットに繋がるゴミ箱に、差出人への定型お断りメールの送信を指示してようやく一息付いた。音声認識AIも最近では長足の進歩を遂げていて、かなり複雑な指示でも理解する。

 

「相変わらずの光景やなぁ。なんか腹立つで、惣流」

 

 いつも何故か黒ジャージ姿でいる似非関西弁のダサ男子、鈴原トウジが毎朝の難癖を付けてくる。

 

「ちったぁ、ちゃんと読んでやったらどうなんや。皆、真剣な想いをお前にぶつけとるんやないか!」

「欠片も興味ない。顔を見て告白して来ない時点で論外よ」

「お前がそういう態度やから、誰も面と向かっては告白出来んのちゃうんかい……っとに血は争えんな、性格そっくりやわ」

 

 誰とそっくりなのかは言われずとも分かっているが、それはむしろ誇りだ。あたしはあのひととそっくりで構わない。あのひとは、永遠の憧れだ。

 

 それに、シンジは知らないけれど、あたしにはラブレターを書いて寄越した男の子たちの気持ちには決して応じられない理由があった。

 

「まぁまぁトウジ。悪気はないんだよ、ああ見えて」

 

 シンジがあたしを擁護してるんだか、バカにしてるんだか分からない様なことを言う。あんたのせいで応じられないのに、暢気なものね……。

 

「シンジセンセも相変わらず、ああいう女に弱いのう……」

「僕は別に弱かないよ」

 

 シンジは、憮然とした声と表情で言い返すが、鈴原はその見え見えの強がりを一笑に付す。

 

「お前の親父もそんな強がり言うとったが、お前のお袋さんに一個も勝てた試しはなかったで。せやから、そういう血なんや。お前らは」

 

 鈴原はそう言って鼻で笑う。良くも悪くも真っ直ぐな性格で、実はヒカリの想い人でもあるが、あたしには事ある毎に突っかかってくる、いけ好かない男だ。

 

「ちょっといい加減にしなさいよ、鈴原!」

「痛ててて……か、堪忍や、委員長!」

 

 ヒカリがつかつかと近づいたかと思うと、鈴原の耳を強く引っ張って、叱正したのだ。鈴原はさっきまで威勢良く息巻いていたのに、もうそれだけで青菜に塩だった。

 

「もう委員長じゃないわよ……」

 

 ヒカリはそう呼び方を訂正し、それからシンジ、続けてあたしに顔を向ける。

 

「シンジ君と碇クン、この子とアスカはれっきとした別の人間なのよ。鈴原がついあの二人と重ねてしまうのは分かる。でもあの子たちはもう……」

「……すまんかった。せやな。これはワシらの未練やな」

 

 確かにヒカリと鈴原はある意味では取り残されたような存在だ。だからこの子たちが「あの二人」に感じる複雑で一方通行な想いも分からないではない。

 でも、その言い方は誤解を招くって。

 

「ちょっと、人の親をまるで死んでしまったように言わないでくれる? 今朝もピンピンして、ネルフに出掛けて行ったわよ。ねっ、シンジ?」

「うん、母さんの運転する車で、二人仲良く仕事に行ったね」

 

 昨今どこの家庭も大体そうだろうが、うちのパパとママも共働きだ。職場も同じ。パパはネルフという国連直属の特務機関の司令で、ママはその下で副司令を勤めていた。

 

 だからうちは結構裕福で、家も官舎だけどなかなかに広い。親子二世代にわたって勤めてくれているお手伝いさんもいるし、大きくて真っ白いグレートピレニーズという犬も飼っている。外から見たらあたしもシンジも、お嬢様、お坊ちゃんだと言って良かったが、ママは結構厳格で、人並みのお小遣いしかあたしたちには呉れないでいる。

 

「子供のうちから、贅沢なんかしなくていいの。あんたたちにひもじい思いや惨めな思いをさせる積もりは毛頭ない。教育も望むなら充分に与えてあげるけど、何でも欲しがるものを買い与えて甘やかして、未来あるあんたたちをスポイルする積もりはない」

 

 いつだったか簡潔にそう言って、その後は同じ事を二度言う必要はないわよね、一度言えば十分、あなたたちならちゃんと理解できる筈だからという態度を貫いていた。

 

 立派な母親だと思う。

 

 パパは同じ事について、こういう言い方をした。

 

「僕は誰に対しても偉そうなことをいう積もりはないよ、そんなに立派な人間じゃないからね。ただ、君たちは僕の子供だから、少しだけアドバイスをしてあげたい。……僕がこれまで生きてきて、本当に欲しいものは決してお金では買えなかった。でも、その欲しいもの、守りたいものの為に、遮二無二、頑張っていたらお金には困らなくなっていた。だからお金はその人の頑張りへの評価だと思う。お金はだから卑しいものじゃないよ。でも……自分が得られている評価や業績は自分の努力や能力だけで成し遂げられたものだなんて思ったら大間違いだと思う。……だから、自分をいつも助けてくれる人たちの事を考えたら、自分のお金でも自分の為にだけ使うのはちょっと怖いな」

 

 自分のお金でさえ使うのが怖いなら、親の金だっておいそれとは使えないわよね……。

 

 パパは考え考え、ゆっくり話す。それはまるで二度と過ちを繰り返すまいとでもするかのように。だから、ママよりも話が長くなる事が多い。結論はママよりも断定的ではなく、曖昧で、ちょっと怖いな、なんて言う結び方がパパらしいんだけど、でも、ママと言ってる事の中身が違うわけではない。

 

 だから、あたしはパパはちゃんとしてると思うし(沢山の人がパパの悪口を言うんだけれど)、大好きなんだ。ママは、パパが喋る時、ちゃんとパパの言うことを真剣に聞くのよ、といつも言っている。

 

 そんな素敵なパパとママだけど仕事はとても忙しいし、深夜残業はもちろん、休日出勤もざらだ。それを二人はいつも申し訳なさそうにしている。

 

 幼い頃、あたしとシンジはいつも寝室の同じベッドで一つシーツにくるまりながら、囁き合ったものだ。

 

「今日も父さんと母さんは帰りが遅いね。僕、寂しいよ」

「そんなのあたしだって寂しいよ。でも、それはセカイを救うためなのよ」

「セカイって何?」

「あたしもよく知らないけど、大事なものだって。あたしもシンジもそこに含まれてるんだって」

「つまり、セカイって家族みたいなもの?」

「たぶんね!」

 

 いみじくもあたしたちはそんな風に、世界を家族の拡大版のように捉えていたが、パパとママも同じように考えているのを後に知った。パパもママも世界に愛されてきたとはとても言えない境遇で育った。だから二人が世界に対しなおも愛を抱いているのは本当にすごい事だと思う。

 

 パパは昔、サードインパクトのトリガー……依り代となった少年で、ママと同じくエヴァンゲリオンと呼ばれる巨大な汎用人型兵器のパイロットだった。パパやママの実名が載ることはないが、事件やエヴァの存在は、現代史の教科書にも載っていて誰でも知っていることだ。誰が何処から聞き込んでは広めているのか分からないが、教科書にはないパパとママの名前は新しい学校に上がる度に生徒に知れ渡っていた。世界を完膚無きまでに破壊して、沢山の人たちを人類補完計画の融合禍に落とし込んだ公共の敵(パブリックエネミー)なのだと。

 

 厭らしいことに、そんなあたしたちを単にイジメの標的にしようとする人間ばかりではなく、ネルフの高官の子女であるあたしたちに媚びようと近づいてくる人間もいるのが疎ましかった。人類がいよいよ滅びるという危機の時には、友人として特権的な庇護を得られることを期待でもしているのだろうか。嫌われ、憎まれるのと、媚びられ、利用しようと近付かれるのの両極端の反応、そして容姿だけが目当ての求愛に、あたしたちのまだまだ幼い心はいつも傷ついていて、孤独だった。それで、シンジとあたしはいつもお互いだけが友達で遊び相手だったのだ。

 

 だから、いけ好かなくとも、あたしに対して遠慮も媚びもない鈴原や、怒るべきは怒り、叱るべきは叱る洞木ヒカリに出会うと、あたしもシンジも素直に心を開いて、友人になることが出来た。元々はパパとママ、それぞれの親友だったという二人だ。パパやママを引き合いに出されて辟易したりする事もあるけれど、親友だったというのがよく分かる本質的に善良な子たちだ。二人はかつてのサードインパクト時にLCLに溶け込んで、そのまま戻ってくることがなかった。そうした人間は少数派ではあったが、世界全体では少なからぬ人間が赤い海に溶け込んだまま戻って来ずに法的には死亡扱いとされていた。つまりは世界に無数の遺族が存在するわけで、パパが聞くに堪えないような誹謗と中傷を受ける理由でもあった。

 

 時を経て二人はネルフが開発中の「選択的LCL復元(カファルナウム)システム」により、個人を特定して元の人の形を取り戻させる実験により救い出された。赤い海はそれ自体が、一個の生命体であるという単体生物だ。その一にして全、全にして一という極めて特殊な性質が、まるでプラナリアをどこから切っても同じプラナリアが現れるように、一定量のLCLさえあれば、世界のどこで溶け込んだ人間であろうと、元の形に復元できるという一見奇異な実験結果を導出している。ただし、赤い海に溶け込んだ頃の年齢のままに復元されるということと、事前に全ゲノム解析データを保有している必要があるなど、現時点では改善点の多いシステムだ。ヒカリと鈴原の二人はかつてのエヴァパイロット候補者として、全ゲノムデータが旧ネルフやマルドゥック機関に保存されており、復元実験には最適かつ稀少な存在だったのだ。

 

「ね、ヒカリ。そんなにあたしとママって似てる?」

「アストリッドは勿論アスカとは違うわよ。目元はお父さん似だし、鼻だってそんなに高くない」

「せやな。……考えてみたら、お前のおかんなら男からの手紙は全部、足で丁寧に踏みつけとった。律儀に返事を返すお前は案外親父似かも知れへんな」

 

 そう、あたしは惣流・アスカ・ラングレーではない。

 

 あたしは旧姓碇シンジと、惣流・アスカ・ラングレーの間に生まれた娘、惣流・アストリッド・ラングレー。家族にはよく縮めて、アストと呼ばれている。ママの親友で同僚のマリおばさまや霧島マナ一佐からは、明日鳥(アストリ)ちゃんなんて呼ばれることもある。

 

 ママのアスカの名前を漢字で書く場合、明日香と飛鳥の二通りに書ける。その両方から漢字を取って組み合わせたんだよんと考案者のマリさんは妙に自慢げだった。そして定番の、私はアストリちゃんのオシメを替えてやったこともあるんだからと鼻高々だ。明るくて飄々としていて嫌いじゃないけど、少し大人気ないおばさまだ。

 

 考えてみれば、本人でもなく親でもなく知り合いのおばさまが漢字表記を考えたなんて、変なの。でも、あたしは結構気に入っていて漢字でサインする時なんかは時々使っていた。

 

 そして、霧島一佐はそんなマリおばさまとママの第一の親友の座を巡って競り合う女性だが、どんな仕事でもそれが誰の為にする仕事で、どうすればその誰かを幸せに出来るのかを考え抜いて自ら動くひとだ。だから当然のようにネルフでも男女を問わず人気抜群で、もちろんあたしにとっても憧れの女性だった。前からよくうちに遊びに来ていたが、今はあたしとシンジが請け負った「ある仕事」について監督と指導をしてくれている。

 

 あたしのママは当然一人だけど、いつもあたしたちの事を気にかけてくれているマリおばさまと霧島一佐を加えて、三人のママがいるような気もしていた。

 

 この場には居ない三人の大人の女性の事をちょっと考えていると、ヒカリが再び口を開いた。

 

「シンジ君……ううん。ジュニア君もお母さんのアスカ似だよね。だからモテるのよ」

「そうなのかな。自分ではよく分からないな」

 

 鈴原の隣に立つ亜麻色の髪の少年──シンジは応じた。ヒカリにそんな風に評されて満更でもない様子のシンジは、あたしの兄にあたる。……惣流・シンジ・ジュニアとあたしは双子の兄妹なのだ。

 

 性格はパパシンジに似て、穏やかで少し気弱なシンジだったが、あたしとは双子だから、お互いに遠慮がない。他人とでは築けないそんな関係が心地よかった。ピアノが好きでコンクールで何回も入賞してたから、将来はそういう道に進もうと毎日一生懸命に練習していて、あたしはシンジの曲を聴くのが大好きだった。気が付くと、夕暮れの音楽室で、視線がシンジの細い指先の動きを追っている。

 

 だからいつしか気付いてしまったのだ。あたしは「お兄ちゃんシンジ」を愛しているということに。おそらくきょうだいとしてよりも、異性として。

 

 やっぱりヤバいわよね、この状況。

 

 でももしも、パパとママがあの赤い海の浜辺でいつまでも二人きりだったのなら、あたしとお兄ちゃんであるシンジとはきっと結ばれていたんだろうな。だって世界があたしたち家族だけなら、他に相手はいないんだもの。

 

 ■

 

   西暦二〇一五年

 

 昨晩、あたしとシンジは結ばれた。それはサードインパクトと呼ばれる未曽有の災害が地球を襲った日であり、海は赤くなり、空は(くら)くなり、地は割れ、鳥も獣も見えなくなった。よりにもよってそんな日に、その赤い海を臨む浜辺で、シンジとあたしは男と女になった。憎しみと欲望と不安と切なさを重ね合わせて、一つに溶け合って、本来は生殖の為にヒトに用意されていた行為を行った。

 

 人類はすでに七百万年の歴史を数えていた。それは個体のヒトにとっては気の遠くなるほどの年月であったが、地球や生命全体の歴史で言えば、僅かな瞬きほどの期間に過ぎなかった。一時、繁栄を誇り、地上を支配するに至った人類は、かつて地上を支配したが今はもう存在しない古代種と同様に、その歴史にあっけなく幕を引くことになった。

 

 なぜなら、地上にはもう人類が、あたしとシンジしか居なかったからだ。

 

「大丈夫だよ、また殖える」

 

 あたしはシンジに向かっての言葉なのか、そうでない独り言なのか不分明なまま、そう言った。

 

 むろん、それは単なる気休めだった。人類にはかつて絶滅に瀕した時期があった。現生人類には驚くほど遺伝的多様性がなく、それは瓶首(へいしゅ)効果という仮説で説明されていた。七万五千年ほど前に、何らかの災害で極端に人類の数が減少し、その後、かろうじて生き残った僅かな始祖から再度の人類の増加が始まったと考えられている。その極端に減少した時の人類を皆が共通祖先に持つが故に人類の多様性は狭められることになった。でも今度は……流石に二人ではどうしようもない。運良く二人が沢山の子供に恵まれても、子供たちの世代は己の父母兄弟姉妹と交わらなれけば、相手が居ない。それは人類の尊厳との訣別であり、もはや禽獣の道と同じだった。

 

 やはり、人類は滅びたのだ。

 

 シンジは膝を抱え込んで、独りで海を見ていた。寂しそうに、しかし、彼を脅かす他者の存在が殆ど居なくなってしまったことに安堵するように海を見つめていた。彼の見つめる先には赤い海が横たわっている。それは生命のスープだった。磯臭い香りの代わりに、血の臭いを風が運んでくる海には、シンジとあたし以外の全ての人類……セカンドインパクトで二十億の同胞を失ってなお生き残った六十億人弱が溶け込んでいた。

 

 六十億人!

 

 途方もない数の人間を溶かし込んだ赤いスープにあたしは怖じ気づいたが、シンジはそれを前にして、ただ寂しそうに見ているだけだった。シンジにとっては他者とは結局のところ、どうしても交われない存在で、いつかは相手から裏切られるか、さもなくば、自分から裏切ってしまう存在だった。ならば、LCLの海に溶け込んでいようといまいと何も変わらないのだった。シンジは今、何も他者に期待していない。

 

 シンジはずっと独りになりたかったのだろう。親の愛を知らず、友を順番に全て喪い、何も信じることが出来ず、やることは全て裏目に出るばかりだった。奮起も、勇気も、矜持も、優しさも、シンジの中にあるなけなしの価値のある物は、全部外にさらけ出されて、全てが丁寧に足跡を付けるように、踏みにじられていた。悪意と不信と虐待しかそこには無かった。こんな世界、滅べばいいのにとシンジは思ったのだろう。そして、彼の願い通りにそうなった。

 

 だけど、シンジはついに独りにはなれなかった。この世界には一人ではなく、二人が残った。シンジの世界には異物が残った。その異物とは、あたしのことだ。惣流・アスカ・ラングレーというあたしだ。あたしは、シンジを詰り、馬鹿にし、罵倒し、批判し、あるいは拒絶する。あたしは、シンジを求め、嫉妬し、汚し、その愛を求める。あたしはシンジがどうしようもなく嫌いだった。あたしはシンジがどうしようもなく好きだった。彼を憎んでいた。彼を愛していた。シンジなどどうでも良かった。シンジでなければどうしてもいけなかった。シンジの全てが要らなかった。シンジの全てが欲しかった。他には何も要らなかった。あたしの全てをあげたかった。シンジを殺したかった。シンジに殺してほしかった。二人で死にたかった。二人で生きたかった。あたしの感情は愛という箱にも、憎悪という箱にも到底入りきらず、もう一つの箱の方に自然と溢れ出していた。

 

「……」

 

 その時、シンジは言葉を喪っていた。あたしを浜辺で抱いて、その純潔を奪った後、しばらくして、彼があたしの純潔の引き替えのように、言葉を喪失したことに気付いた。

 

 一時的なものかは分からないが、その失語症は、人類がその社会と文明を喪った以上、言語ももはや必要なくなったとあたしに告げているようだった。だけれども、シンジの聴覚は正常で、あたしが怒鳴ればビクつくし、ちゃんと話は聞こえている。……しかし、対話は出来ない。

 

「あたし、その辺を散歩してくる」

 

 その言葉とは裏腹に、あたしは別に遠くに行くのでもなく近くの岩場をよじ登り、シンジを上から眺める。月明かりの下、あたしのコーカソイドとしての白い肌が照らし出される。シンジとあたしは昨夜の交わりの後は、創世記の楽園から追放される前のアダムとエバがそうしていたように、神様が創造した時のままの姿で過ごしていた。ヒトはもはや知恵を喪った獣のように生きていく他に道はなく、禽獣に等しいのだから何も恥ずかしいとは思わなかった。人類がシトを戦いで破っても、ヒトは結局、知恵の実を喪うと予言されていたのはこの事かとも思った。知恵とは文明であり倫理の事に他ならなかった。

 

 二人のプラグスーツは波打ち際に打ち捨てられたままだった。青と赤のプラグスーツはまるで中身が消えた抜け殻みたいに見えた。今、世界中でこんな風に、主人を突然に失った抜け殻みたいな服が、大量に散らばっていることだろう。

 

 それを見て、もはやエヴァンゲリオンもプラグスーツも必要がなくなった……あたしはエヴァ弐号機に乗ることは金輪際ないのだと知って、そこで初めて烈しく動揺し、立ったまま大声を上げて泣き始めた。ママが中に居てくれたエヴァを喪った寄る辺無き身で、心細くてたまらなかった。いつの間にかあたしはしゃがみ込んでいた。

 

 シンジはあたしの泣き声に気付いて、体育座りの姿勢をさらに小さくした。あたしの泣いている声を聞きたくないのだろう、こちらを振り向くことなく、頭ごと耳を膝の間に入れて、殻に閉じこもるような姿になっていた。

 

 シンジはあたしを見てくれない。二人きりになってもあたしを見てくれない。あたしの大切な純潔を与えても、ようやく男と女として結ばれても、あたしに向き合ってはくれない。ママやパパの代わりにあたしを抱きしめてはくれない。あたしの家族にはなってくれないのだ、と。

 

 そう自覚すると、あたしはこの状況に初めて恐怖を感じ始めた。シンジとあたしだけが存在する世界。しかしシンジがあたしを見てくれないのなら、あたしは独りになってしまう……それはきっと本当に独りだけの世界よりも、一層恐ろしい世界だった。シンジの恐れていた、たった一人だけの他者からの拒絶というのが、今度はあたしに向かって襲いかかる恐怖となった。

 

 それで、あたしは悟ったのだ。シンジの心をあたしから隠してきた靄が今、(ひら)けたような気分だった。

 

 あたしは泣くのを止めて、岩山の上で立ち上がった。シンジの方に向かって岩を駆け下り、飛び降りながら下っていく。怪我でもしたら、この医者も看護士も誰一人いない世界では命取りなのだということを考えもしなかった。

 

「シンジっ」

「……あ……う」

 

 シンジは覆い被さるような上からの気配と声に身体を堅くし、ゆっくりとあたしを見上げた。

 

「あたしは、今初めてあんたの感じていた怖さが本当の意味で分かった。なんであんたがあたしを消したいと思ったのかも。だってこの世界には逃げ場がない! 嫌われても、もうどこにも消えてなくなれない! あたしたちは二人で生きていくしかない、もうそうしないとこの限界の世界では生き残れない、でもそれなのに、相手に嫌われたり憎まれたりしたら、その事を目の前に一生突きつけられながら、相手のそばで生きていくしかないんだ! だから怖かったんだね……」

 

 シンジは目を伏せたり、あたしに視線を戻したりと戸惑いを見せていたが、しかしあたしの言うことを否定するつもりはない様子だった。

 

「あたしはシンジに拒絶されたくない」

「……う……」

「だけど、シンジの恐れも分かる」

「……く」

「近付き過ぎると、あたしたちは傷つけあう。ヤマアラシのジレンマだってリツコが言ってた。でもそれって、近付こうとしない言い訳にはやっぱり出来ないよ。たとえ傷つけ合ったって距離を詰めないとあたしたちどうしようもないじゃないか。それはこの世界でたった二人残されたから仕方なく言ってるんじゃない。もっとそれより前からの話だよ!」

 

 もっと二人で、お互いにちゃんと向き合っていたら、もしかしたら、こんな世界にはならなかったのかも知れない。シンジと二人、背中を守りあって、量産型エヴァを全部撃退して……絵に描いたような大団円で。みんなが口々に笑顔で「おめでとう」と言っている──

 

「そんなだったら、どんなに良かったか。幸せだったか……」

 

 あたしは、有り得たかもしれない、しかし決して有り得なかったに違いない夢想を語りながら、段々と声がか細く、小さくなって行った。

 

 もちろん、そんなものは只の夢だ。シンジは世界を救えない。シンジはあたしを救えない。あたしもシンジを救えない。誰も彼も、人類である以上は、他人のことを理解し、救ってやることなど出来ない……

 

 世界はもう終わったのだ。シンジとあたしは新世界のアダムとエバになる。しかしその新世界とは終わる世界だ。その世界であたしはシンジと子を成し、やがては子とも交わり、いずれはシンジのように言葉も忘れる。文明はもはや消え去り、文化は哀しい調べのようにいつか聞いた意味も分からぬ歌として忘れ去られ、あたしたちは人の尊厳さえ喪って、単なる獣になる。

 

 それでも幸せなのだろうか。

 

 きっと幸せなのよね? だってあたしは、シンジと結ばれる事が出来るんだもの。シンジと子を成し、共に生きていく事は出来るんだもの。

 

 世界にはあたしとシンジを邪魔するものはもはや存在しない。第三者の消えた空っぽのせかいにはそんなものは存在しない。あたしたちはすべてをわすれて、けだもののようにまじわりいきていく……。

 

 だけど。だけれども。そんなのは。

 

 あたしは情けなかった。あたしたちの末路がこんな風に惨めであることに納得が行かなかった。たった二人きりになって、世界をサバイバルするのは構わない。医術の助けを失っても、生身に与えられた短い寿命の中で精一杯生きればいい。……でもあたしたちはヒトだ。人間だ。リリンだ。かつて世界を制した万物の霊長だ。だから獣に堕するのは、やはり悔しい。口惜しい。

 

 あたしは俯いてうずくまっているシンジに手を伸ばそうとした。

 

 ねぇシンジ、あたしたち、これからどうしたらいいんだよ!

 

 そう叫んで、つかみかかろうとしたが、シンジは急に顔を上げて、遠方に視線をやっている。

 

「あすか……あれ……」

 

 その時、シンジが遠浅の海を指差した。

 

「あ、あんた……言葉……」

 

 シンジは突如として失語症から回復していた。声はかすれて上擦り、舌も上手く回らないようで、まだ喋るのは難儀そうだったが、あたしと交わった後では初めて言葉を発している。それはある種の予兆だった。人類は再び言語を必要としている……。そして、それによって動かされる社会を。

 だから、彼が指差した先の赤い海には、何も見えなかったけど、あたしにはシンジの言いたいことが分かる気がした。

 

「戻ってくるのね。……みんなが」

「うん……」

 

 LCLから人々が戻ってくる。人類はまだ終わらない。シンジとあたしは新世界のアダムとエバにはなれない。

 

「……本当にそれで、いいの?」

 

 サードインパクトの依り代になったシンジには恐らくはまだ神人的な力が残されている。彼には人々の帰還を拒める力がある。いや、彼が人々の帰還を望んだから、みんなは帰ってくるのだろうか? きっとそうなのだ。シンジはあたしと二人だけの世界、あたしと結ばれることが確定した世界、あたしを妻にし己を夫にし人類にはもはや未来のない世界、あたしとシンジがお互いを否応なく選ぶしかない世界──それを拒絶するというのか。

 

 シンジが望む、人々が戻ってくる世界にはシンジ以外の男とあたし以外の女がいて、だからもうあたしとシンジが最終的に結ばれるかどうかは分からない世界だ。でも、あたしもシンジも選択肢のある中で、なおお互いを選ぶことは出来る。

 

 シンジはそんな世界を望むのだろうか。あたしとシンジが結ばれるとは決まっていない世界で、他の選択や結末も存在する未来の定まらない世界で、そんな世界でなお、あたしと一緒に歩んでくれるというのだろうか。それは想像よりもずっと苦しい日々かも知れない。一緒にいても引き裂かれ、幸せになろうとする事を罵られ、無様で不似合いな男女だと嘲笑られ、別れることを御為ごかしに勧められて、祝福さえもしてもらえない。そんな苦しみを想像すると、苦い胃液のような味が口内に上がってきた。

 

「……いいんだ」

 

 シンジは首を振った。縦にとも横にとも分からないような、曖昧でおかしな首の振り方だった。

 

「泣きたくなりそうだけど、でも、他に誰もいないからしょうがなくその相手と……なんてのは意味がないから……」

「そう」

 

 シンジはいつの間にか立ち上がっていた。あたしは、シンジと手を繋いだ。お互いの指と指を絡めて、固く固く手を握った。ゆうべ、シンジと身体と身体が結ばれても、こんな風に何かと対峙して、二人で未来に立ち向かおうという気にはなれなかった。未来は昨日まで断絶していた。世界は昨日で終わっていた筈だった。その先にあるのは、死んだ世界の続きでしかなかった。でも、きょう世界は再び生まれ変わる。未来が再び生まれる。しかし、その先の未来が明るいものとは限らない。シンジとあたしは遂に結ばれないのかも知れない。でも不安と可能性の両方があり、何事も未来は確定していないのだから、歯を食いしばってでも、立ち向かおうという気になれる。世界が丸ごとあたしたちに牙を剥いたって、だからこそあたしたちは戦って、戦い抜いて、最後には、添い遂げるのだ、と。

 

 だって、あたしは多分、世界で一番負けず嫌いな女なんだから。

 

 手を繋いでいるシンジが身じろぎをし、体をよじった。その顔を見ると、赤らんでおり、どうやら初めてあたしの裸身を意識しているらしかった。あたしも、その反応を見て、羞恥心が兆すのを感じた。エバが蛇に唆されて知恵の実を食べ、初めて己の姿に恥じらいを感じたように、あたしにも羞恥心が戻ってきた。

 

 だからイチジクの葉の代わりに、あたしは、自分のプラグスーツを取ってきて、素早く身に付けた。手首のボタンを押すと、瞬時にプラグスーツはあたしの身体の線にその形を合わせる。そのなだらかな女の形は、裸の時と同じで、きっとこの先もシンジを悩ませ続けるだろう。もはや、あたしとシンジは子供のままでは居られない。あたしはシンジの方にもあいつのプラグスーツを放る。

 

「もう、楽園には居られない」

 

 シンジにはそれだけを告げた。あたしたちはエデンの東に行かなくてはならない。もうここには戻れない……天使ケルビムときらめく剣の炎を後に残して、あたしとシンジは歩き出さなくてはならない。

 

 あたしと着替え終わったシンジは再び手を繋ぐ。よろけるシンジの手をあたしはまるで姉のように引いてやる。エバはアダムより先に知恵を手に入れた。だから女は賢しく男を先導する。それはいつの時代でも同じだ。

 

 やがて、二人が歩いていく先の、赤い海の向こうにある水平線が輝く光で縁取られるようになった。

 

 曙光だ。再び夜が明ける。

 

 そして、あたしとシンジの二十年が始まる。

 

 ■

 

   西暦二〇五〇年

 

「惣流副司令」

「なんですか、碇司令?」

「いや……今日もお疲れ様。それだけ言いたかったんだ」

 

 司令塔での指揮訓練を兼ねたシミュレーションが終了し、スタッフも部屋から去る。ガランとした指揮所の中に二人だけが残された。

 

「あたしたちだけだから、他人行儀な言い方はやめない?」

「そうだね。……あの、そろそろ座ったら、アスカ?」

 

 シンジがそっと副司令席の椅子を差し出した。アスカは素直に応じる。

 

「……うん、そうする」

 

 アスカは椅子に腰掛けると、黒いストッキングを穿いたカモシカのような脚をシンジの目の前ににゅっと突き出した。

 

「あーもう、一日中立ちっぱなしで足が棒のようだわ」

「ちょ、ちょっとアスカ。一応ここは職場なんだからさ」

「んなことは分かってるわよ。いきなり服を脱ぎ始めたりはしてないでしょ? ……それにあんたしか居ないから、こんな風にしているのよ」

 

 アスカは自分の手で両脚を臆面もなくマッサージし始めた。むくんでしまった脚をほぐしているらしい。朝の八時から始まったシミュレーションが、途中の昼休みを挟んで、ようやく夜の六時過ぎに終わった。アスカは執務中、ずっとシンジが席に座る横に立ちっぱなしだった。じっと動かず立っているのは、普通の立ち仕事とは違う辛さがある。

 

「だからやめとけばと僕は言ったのに。別に副司令はずっと司令の横で立ってなくちゃ行けない訳じゃないんだから」

「でも昔、冬月副司令はそうしてたじゃないの、あの歳でさ……だからあたしでも当然出来ると思ったのに」

「あの人は別格だよ。何というか僕らとは鍛え方が違う。さすが昭和の人だよ」

 二〇〇一年、平成十三年生まれのネルフ司令は同い年の副司令に言う。

 

「あたしだって子供の頃から、チルドレンとしてそれなりに鍛えてたつもりなんだけどな」

「でも、アスカは女の子だしさ。それに僕らだってもう四十九だ、そんなに若いわけじゃない」

「あたしはまだ誕生日前で四十八だから! ……ハァ、歳の話はしないで欲しいわ。もう歳は取りたくない」

「そうは言うけど、不老(ふろう)不壊(ふえ)のシトみたいに歳を取れなかったら多分ツラいと思うよ。僕らは身体が老いるけど、それに合わせて精神も老成していける。そしていつかは当然だけど祖先と同じくこの世を去って、子供たちに席を譲る。僕らヒトの永遠はそういう永遠だ」

「そりゃそうだけどさ」

 

 大人になったシンジは、アスカよりも十数センチは背が高い。言動も相応に大人びているが、それはシンジが人生に真剣に取り組んでいる事の証だった。

 

 シンジの周りにはアスカはもちろん、今や、沢山の部下、いや友人たちがいる。……真希波・マリ・イラストリアス、霧島マナ、北上ミドリ、鈴原サクラ、多摩ヒデキ、剣崎キョウヤ、山岸マユミ、マリイ・ビンセンス、松風ネネ、伊藤ナディア……。皆がシンジの前歴、シンジの背負ってきた罪の十字架を全て知りながら、彼を支えてきた。歯痒いほどに関係の進まないシンジとアスカをずっと静かに応援してくれていた。

 

 人は過ちを犯すが、償えない罪など無く、懸命に日々を生きる人間にはきちんと人々の理解と優しさが与えられる。シンジとアスカはかつて世界が自分たちに牙を剥いていると考えていた。でもそれは見方の問題だった。世界はある意味ではそれへの見方も含めて、自分自身で作るものだった。シンジが大人になれたのは、彼自身の力というよりも、周囲の人々の優しさに毎日のように触れて、人間を信じる気持ちになれたからだった。だからシンジは再建した特務機関ネルフの総力を挙げて、人類を守ろうとしている。人の尊厳と文明と文化と、そして何より人を思いやれる人間の優しさを絶対に守り抜きたかった。

 

 そして、一番守りたい存在は……。

 

 シンジの視線が和らいで、傍らのアスカを見つめた。時の経過からは誰しも逃れられない。アスカだって昔の写真と見比べれば、着実に年齢を重ねている。でも、シンジにはそんな事は全く気にならなかった。変化はいつだって緩やか、穏やかで、二人の間を流れる時間はずっと同じだ。どちらかが取り残されることは決してない。

 

「それに、アスカはいくつになっても可愛いよ」

「ばか」

「僕はいつまでもアスカと一緒に歳を取っていけるのが嬉しいんだ」

「なによ……あんた、お小遣いの値上げでもしてほしいの?」

「もう。すぐそうやって茶化すんだから……恥ずかしいの? 僕から真剣に想いを向けられるのが」

「……だって」

 

 シンジのやつも言うようになった。アスカが拗ねたように唇を尖らせる。

 

「ネルフでのシンジは格好良いもの。司令のお仕事も頑張ってるし。近くであたしはずっとそれを見てきた。ドキドキするのは当然よ……悪い?」

 

 まるで中学生のあの頃に戻ったみたいに、乙女の顔をしてアスカは言う。

 

 だって、それは単なる憧れとは違う、生涯最初にして最後のホンモノの恋だったのだから。アスカの熱情はあの頃のまま、保存されている。

 

 サードインパクト後、一度はアスカと別れた後、シンジは人が変わったように勉学に打ち込んで、この国でトップレベルの大学に入った。そこでは偏執的なまでに学際的に多様な学問に取り組んだし、束の間、アスカと同棲していたこともあった。その時の同窓が、アスカ、真希波マリ、北上ミドリらであり、意識してではないにせよ、官庁や大企業と同じく新生ネルフでも一大学閥を形成するに至っている。

 

 並行して、シンジは亡き父ゲンドウが秘匿していた裏死海文書を発見し、人類全体の命と未来を賭博の抵当に入れてゼーレに対する脅迫紛いの駆け引きにより、新生ネルフの司令になりおおせた。出世や権勢が目的ではなかった。日本政府による非道な実験動物的取扱い、やがて来るフォースインパクトや人類補完計画から、アスカを守る居場所を作るのがその目的だった。

 

 アスカさえ守れれば、シンジは自分の幸せはどうでも良かった。シンジは自分ではアスカと二人幸せになる資格がないと信じ込んでいた。シンジがその頑なさから解放されるまでに、実に二人が出逢ってから二十年にもなる月日を要したのだ。

 

「アスカも素敵だよ。仕事でもプライベートでも輝いている。僕はそんなアスカが眩しすぎて怖かった。自分のものにしてはいけない気がしてた……だからアスカをずっとずっと待たせてしまった」

「シンジのせいだけじゃないわよ。あたしたち、サードインパクトから二十年もの間、ずっと勘違いしてたんだ。あたしたちの恋はあの赤い海の浜辺で結ばれたときにもう叶っていた。大人になって身体の関係だけで、か細く結ばれていると嘆いていた時だって、本当はお互いのことをずっと想い合っていた。あたしたちが求めて叶わなくて、ずっと足りないと思っていたのは、実は切ない恋なんかじゃなかった」

 

 そう、それが根本的な誤謬だったのだ。すでに叶えられている恋を、この上どうすればいいのかが分からなくて、二人はずっと足掻いていた。ゴールインしているのに、それが分からなくて、更なるゴールを探そうとしていた。二人の叶えたい本当の願いは何なのかも知らずに。

 

「あたしたちはずっと家族に戻りたかったんだ。出逢ってすぐにミサトの家で暮らし始めてから、あたしたちは生まれて初めて気の置けない家族が持てた。冷たくて壊れた家庭しか知らない、孤独しか知らないあたしたちが初めて持てた暖かい家族が、あたしにとってのシンジで、シンジにとってのあたしだった。だから、あたしたちは恋を叶えたくて苦しんでたんじゃない、そんなものはとっくに叶っていて、あたしたちは二十年間、元の家族に戻りたくて苦しんでいたんだ。元々家族だったあたしたちが、再び家族に戻るまでの二十年間だったんだよ」

 

 込み上げそうになる感情をどうにか抑え込んでいるアスカの潤みを帯びた言葉にシンジは頷いた。

 

「二十年もダメな僕を見捨てないで居てくれてありがとう。僕と家族に戻ってくれてありがとう。アスカが一緒に新しい家族を作ってくれて、毎日感謝してる」

「確かに二十年間、あんたには泣かされ通しだった。時々、ゼーレ相手に暗闘してる時は格好良かったけど、そのたまに格好良い時でさえ、あたしを置いてけぼりにして、勝手に死んだり、遠くへ行ってしまうんじゃないかと不安にさせられた。だから、その後の一緒になってからの新しい二十年は償いに笑顔を貰おうと思ったのよ。あたしの笑顔、シンジの笑顔、子供たちの笑顔……みんなで笑って過ごしたいんだ」

 

 きっとそんな風に笑顔が中心にあるのなら、シンジとアスカが司令と副司令として支える新生ネルフは今度こそ世界を救うことが出来る。人の苦しみや犠牲や不信を前提とせず、毎日笑い合って過ごせるのなら、青臭い理想論かも知れないけど、今までの《周回》とは別の結末を迎えられそうな気がするのだ。

 

「笑顔の二十年間か。僕はそれをアスカにちゃんとあげられてるのかな?」

「……それは簡単に分かるじゃない。朝、鏡の中で自分の顔を見てみるの。シンジがちゃんと笑顔を浮かべていられるなら、あたしも子供たちも笑顔でいられてるってことよ」

「うん……そうだね」

 

 そうか、僕は笑えるし、アスカたちも笑えている、つまりは……。シンジはおずおずと微笑んだ。それはアスカの好きなシンジの笑顔だった。曖昧でどこか不安げで、でも勇気を出して他者に近付こうとする時のシンジの笑顔だ。アスカがずっと見たいと思ってきたシンジの笑顔だった。

 

「その次の二十年は、僕たちどうなるんだろう。もう、お爺ちゃんお婆ちゃんだけど」

「偕老同穴。ともに老いて、同じお墓に入る。それであたしたちはようやく永遠に一つになるのよ」

「同じお墓? 日本式の?」

「うん、それでいいよ。墓石に惣流家代々之墓と彫って、シンちゃんとあたしが入る。子供たちやそのパートナーや孫たちもいつかはそこに。賑やかそうじゃない? ……もうあたし、一人はイヤなんだ。あの世でも騒がしいぐらいが丁度いい」

 

 そもそも、どうして人は生殖するのだろう。単なる快感だけが目的ではない。人はみな親から生まれ、誰かの子として世に生を受ける。それが理想的なものであれ、理想とは程遠いものであれ、そうしてアプリオリ……先験的にもたらされた家族の形を人は大人になって再現しようとする。

 

 なぜそうするのか。それは、人が殖えることで、この地上から寂しさが消えていくことを知ってしまったから。独りは寂しい。二人なら少し寂しくない。でも三人、四人と家族が居れば、もう寂しいなんて気持ちはどこかに消えてしまう。

 

 だからきっと、人は子供をこしらえるのだろう。騒がしくて、忙しなくて、自分の自由や夢の半ばを棄てて、ただ重荷を背負うようで、時には汚穢にまみれ、夜泣きに起こされ、子の病に狼狽し、額に汗を浮かべながら労苦に耐えて、それでも人は子を成し、殖えようとする。

 

「子供たちといえば、アストとシンジのことなんだけど」

「ああ……うん、どうしたの?」

「アストがシンジにちょっとベッタリ過ぎるのよね」

「ん? 双子の兄妹だから、そんなものじゃないの?」

 

 シンジの反応は男親特有の暢気なものだ。

 

「いや、シンジはそこまででもないんだけど、アストがかなり一方的で……」

「ふーん……しかし、シンジシンジって言われると、自分のことみたいでややこしいな」

「何を今更。混ぜっ返さないでよ。父と息子が同名のシニアとジュニアなんて海外だと普通よ。あんたも納得して付けた名前じゃないの」

 

 アスカは相談の件を暫し諦めた。話が発散して落ち着かない。子育ての悩みはその日一日の全てが終わり、二人だけのベッドでじっくり寝物語の中ででも相談するべきなのだろう。

 

「すごくアスカはこだわってたよね。そんなに気に入ってるんだ、シンジって名前」

「あんまり色んな男の名前、覚えたくないのよね、面倒だし」

「そんな理由……?」

「どうせ、大きいシンジも子供と同じだしね。なら同じ名前で呼べた方が便利よ」

 

 アスカはニヤニヤと笑いながら、挑発するようにシンジの反応を窺っている。要するにシンジのことをからかっているのだろう。昔から、そういう悪戯っぽい態度は変わらない。

 

 ──シンジの事が大好きで、シンジという名前も大好きで、だから息子にもシンジという名前を付けたなどという本音を開陳するには、まだ夜が早すぎる。そういう想いはもっと夜が更けてから、ベッドの上で情熱的に夫に囁いてあげたいのよね。

 

「アストの方は命名、色々真面目に考えてくれてたのに。僕とジュニアの方は雑だよなあ……」

 

 分かってないシンジの愚痴は無視し、アスカはよくぞ娘の話題をと胸を張る。賢くて見目麗しいアストリッドは自慢の存在だ。息子のシンジジュニアも勿論可愛いが、母キョウコとの関係に傷を抱えていたアスカにとって、娘との関係は特別だ。

 

「アストリッドはノルウェーの王女やベルギーの王妃の名前でもあるのよ。もちろん、ドイツにも居る名前だけどね」

「マリさんがずっとアスカを姫と呼んでたのを襲名した感じだね」

 

 シンジが笑うと、アスカは立ち上がり芝居がかった台詞で腕を広げる。

 

「そして何よりアストリッド・リンドグレーン!」

「……うん、『長くつ下のピッピ』の作者だったっけ」

 

 シンジは命名の由来として何度も聞かされている世界的に有名な児童文学の名前を挙げる。ニンジン色の髪をした少女ピッピ・ナガクツシタを主人公にした物語だ。シンジも子供の頃に読んだ記憶がある。

 

「ピッピはね、ママを幼い頃に亡くして、船長さんだったパパも行方不明。サルのニルソンさんをお供にして、たった九歳で独り暮らしをしているの。……だからかな、小さい頃はなんだか自分を重ねちゃってね」

「アスカ……」

「それで、あたしがピッピに夢中だって知った新しいママが、サルのぬいぐるみをプレゼントしてくれた。ニルソンさんの代わりって訳ね。でもそんなもの、すぐにズタズタに引き裂いてしまった。今はママに悪気があったのではないと分かってる。だけど、その時のあたしはピッピのように親なんか居なくても独りでも強く生きたかったんだ。そのあたしの神聖な願いを汚された気がしたのかな」

 

 本物の母の代わりには決してなれない新しい義母が、アスカがか細くも守ろうとしていた空想の中の最後の砦にまで土足で入り込んでくる気がアスカにはしたのだろう。だからどうしても許せなかったのだ。

 

「でもピッピは『世界一つよい女の子』なんだ。明るく天衣無縫に生きててね。だからアストリッドにもそう生きてもらいたいの」

 

 確かにアスカはピッピに少し似ているかも知れない。向こう気が強いくせに、天国から自分をいつも見守ってくれているママを健気に想い、遭難したパパ(南の島で王様になっているとピッピはかたく信じている)にいつかお姫様として迎えに来てもらうことを夢見ている『世界一つよい女の子』なのだ。世界中を旅してきたという彼女の吹く法螺(ほら)は滅法面白いが、見方によっては、寂しさを紛らわす強がり、一種悲惨で痛ましいユーモアとも解釈できる……。

 

 シンジは物語の少女に自分を重ね合わせていたアスカの幼い日の寂しさを思い、視線を合わせるが、アスカは微笑みながら、首を横に振る。あたしにはもうシンジたち家族がいる、だから大丈夫だよ……。しかし、シンジは気が咎めるままに言った。

 

「でも僕らは子供たちに天衣無縫に……自由に、生きてほしいのに、僕らの親が命じたのと同じような事をさせようとしているんだよね……」

 

 シンジが見据えた正面の巨大スクリーンには、シミュレーションで表示させていた、再建されたエヴァンゲリオン初号機F型と、弐号機F型が映し出されたままだった。第二世代の所謂ステージ2エヴァと呼ばれる機体だ。

 

「その件ならもう何度も話し合ったでしょ……。あたしはあの子たちの未来は自身の手で切り拓いて欲しいと思うし、あんたは子供たちに、誠実に丁寧にリスクも含めてちゃんと説明してた。そして乗るか乗らないかは最終的にあの子たちの意志と判断に委ねた。どの道、あの子たちが乗ってくれなければ、世界はまた滅びるけれど、あんたは決して強要はしなかった」

「それでも僕は親なんだ。子供を死地に赴かせるようなことをして許される筈がない……と何度も何度も考えてしまう」

「新エヴァのコアも、結局あたしたちの乗ってたエヴァからの流用品だから、中に入ってるのはユイさんとあたしのママの惣流・キョウコ・ツェッペリンよ。実験の結果、やはり遺伝的に繋がりのある孫の二人だけが実用的なシンクロ率を叩き出せた。それにこの為にあんたは、リモートエントリープラグやダミープラグ2を開発し、安全にパイロットが戦えるようにと随分前から備えて来たんじゃないか」

「……あの子の時には間に合わなかったけどね」

 

 シンジは、遠い目をして過去を見ていた。シンジ自身が生み出した己の性転換クローン体である六分儀アイという少女の事を考えているのだろう。彼女に纏わる悲劇は今でも養父のシンジと育ての親にも等しかったアスカの胸を刺す。

 

 けれどもアイの事だって、出会いは出会いだ。シンジは彼女に強いた運命の苛酷さに瞑目して後悔するけれど、それでも今では彼女を生み出さないほうが良かったとは思っていない。彼女に出会えて良かったといつも思っている。それはアスカも同じだった。アイは二人にとって、初めての子供に等しい存在だったのだから。

 

「……シンジ、あたしはこれまでの人生の中で、エヴァンゲリオンについてずっと考えてきた。エヴァは人生における苦難の象徴や一例に過ぎないんだよ。たとえエヴァのパイロットにならなくたって、エヴァから逃げ出したって、いつかはあの子たちも人生における苦難や試練と戦わないといけない日は来る……人生はそれ自体が戦いだよ。何物とも戦わないで済ませられる人生なんて存在しない。それが早いか、遅いか、の違いだけなんだ」

 

 戦わなくちゃ、生きている限りは。

 生き残るために、足掻かなくちゃいけないんだ。

 それは、人類が課せられた重荷だが、生きる意味そのものでもあるのだから。

 

 それに、その重荷を背負う人生が辛いものだとばかりは限らない。だって、あたし独りではなくて、シンジと二人で歩めるんだから。シンジとの間に儲けた子供たちも一緒なら尚更だ。

 

「あの子たちは自分でエヴァに乗ることを選んだんだよ。それがあたしたちの時とは違うんだ。大丈夫だよ、あの二人なら。自分で選んだことに後悔することはない。だって、あたしとシンちゃんの子供たちなんだから」

 

 アスカは誇らしげに豊かに育った胸をそり返して言った。

 

 たとえ、エヴァが存在しない世界を望んだって、シンジと一緒でなければ、つまらない。

 エヴァが存在し続ける世界でだって、幸せになることは出来る。シンジと二人、そういう生き方を探し求めてきた。

 立ち向かうべき人生の苦難、その象徴ともいえるエヴァが存在しない世界なら幸せになれるなんてのは間違いだと言い切れる。大切なのはエヴァの有無じゃない、愛する人と一緒にいられるかどうかなのだから。

 

「それに、あたしはエヴァに乗っていて、人生で一番大切なものを見つけられたよ。一番大切な人に出逢えたよ。シンジだってそうでしょ? エヴァに乗るのも悪いことばかりじゃないよ」

 

 シンジは肯いた。

 

「そうだね。僕はエヴァンゲリオンに乗って、アスカに出逢った。僕らはあの時、エヴァパイロットだった。あれは僕たちの苦しくて、つらくて、切なくて……でもかけがえのない青春だった」

 

 シンジは隣にいるアスカに視線を合わせるように立ち上がった。どちらからともなく、二人は手のひらを重ね合わせる。

 

「帰ろうか、僕たちの家に。子供たちが僕らの帰りを待ってる」

「シンジの作るご飯を食べたい食べたいと首を長くしてるかもね」

「それはアスカでしょ」

「ちぇ……バレたか。もうお腹がペコペコよ」

「何が食べたい?」

「ハンバーグにカリーヴルストに、付け合わせはザウアークラウト!」

「ドイツ尽くしだね」

「あ、あとスパゲッティでいいなら、あたしも作ってあげるわよ。もちろん、怒りんぼのアラビアータね!」

 

 それはシンジが学生時代にアスカに教えた、懐かしさに切なさも混じった思い出の料理だった。イタリア語で怒りんぼという意味の料理名と色からアスカを思い起こさせる赤いスパゲッティだ。

 

「流石にそれ全部作ったら食べ過ぎじゃない?」

「そうかしら?」

「ちゃんと食べきれるならいいよ。僕はアスカの体型がD型装備みたいになっても、ちゃんと愛せるから」

「言ったわね、バカシンジ!」

 

 シンジは苦笑しながら軽口を叩き、やがてアスカも怒ったような素振りをやめて、噴き出した。三十五年前に求めて得られなかったお互いの笑顔がそこにはあった。

 

 ──僕の家族と幸せは、エヴァンゲリオンが呉れた。

 だから今なら言える。

 

 エヴァンゲリオン、本当にありがとう。そして、これからもよろしく、と。




初出:はな丸さん主催LAS合同誌「君のそばで眠らせて」

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