湊友希那が夜の街で怖い体験をする話。


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湊友希那が夜の街で怖い体験をする話。



湊友希那と夜の世界。

 その日の湊友希那はずっと落ち着きがなかった。

 それは時間が経てば経つほど増していく心の逸りだった。やがて太陽が沈み、月が支配する夜になると、友希那は、この自室から飛び出したいという欲求をいよいよ抑えることができなくなった。

 詩的に表現すれば、『夜が呼んでいる』といった具合だった。簡素な外用の服に着替え、財布だけを持ち、友希那は夜の街に駆け出した。

 夜は濃厚だった。墨のような深い暗闇で、空を見ると真円の月から色白い光芒が放たれ、闇に沈んだ街を照らしていた。

 回り道をしてコンビニに向かった。寂しげな夜の闇の中でも燦然と輝く人工的な硬い光は美しく、自分と同じように深夜徘徊をしている『同類たち』たちとの邂逅に非日常を見出し、その少し背徳的な雰囲気に、心がゾクゾクと震えるのを感じた。

 コンビニ内部を少し歩き、適当な飲み物と菓子を買って出た。

 外に出るとそこは闇の世界だった。日中ではどこにでもありふれていた光は貧弱な要素へと成り下がり、濃厚な闇が漂う静かな時間が流れていた。上を見れば月がいつでも自分を見下ろしていた。

 心地良いな、と友希那は思った。思いながら、深い呼吸をした。夜の空気を少しでも享受しておきたかった。鼻孔に流れる空気は心なしかどろりとしており、夜特有のしっとりとした雰囲気を感じることができた。

 友希那は歩き出した。当然辺りは真っ暗だった。時折、名も知らぬ鳥のフッホウ、フッホウ、という鳴き声が響いていた。友希那は無表情で歩いた。顔は無だったが心は躍っていた。ここは普段の街だったが見知らぬ観光地のように思えた。それだけの高揚感が胸中に咲いていた。

 ふと、友希那は辺りを見渡した。脳裡に違和感があった。辺りの薄暗い景色を鋭い目つきで視た。

 そこは知らない場所だった。比喩の類ではなく、正真正銘の無知の場所だった。

(行き過ぎた……?)

 本来曲がるべき道を曲がらずに直進してしまったようだった。しかしこの程度の間違いならすぐに修正できるはずだった。来た道を戻り、曲がるべき場所で曲がればいいだけの話だった。友希那は振り返った。これまで歩いてきた道があった。友希那はすぐに進んだ。

 おかしかった。

 いくら歩いても、自分が間違えた曲がり道にたどり着くことはなかった。少しの焦りを感じた友希那は素早く辺りを見渡した。そこであることに気付いた。周りの景色がまるっきり知らない場所だった。建ち並ぶ民家はどれも初めて見る家々だった。

「ど、どういうこと……?」

 完全に迷子になっていた。迷子であることを自覚すると、じっとりとした焦燥感が喉元に上がり、脳裡がひやりと冷たくなった。すでに今の友希那の中に、夜の美しさを享受する余裕など皆無だった。まとわりつく暗闇がどうしようもなく恐ろしく、心細く、辺りの全く知らない景色がとてつもなく、おぞましいものだと思えてきた。

 携帯電話を置いてきたことを激しく後悔した。どこを見ても当然、この時間帯に人など居なかった。まるで世界に自分だけが取り残されたような感覚だった。それに気付いてしまった途端、友希那の胸中に寂しさが波としてやって来た。それはそのまま脳裡の焦燥感と合わさり、果てしなく続く拭えない悲しみとして全身を震わせた。

 友希那は歩き出した。脳裡の湿った感情を誤魔化すために、やけくそ気味に歩いた。しかしそれは悪手だった。見ず知らずの土地でがむしゃらに歩き回るのは、迷子という事態を悪化させるだけだった。友希那はさらに解らない土地に侵入してしまった。それはまるで精巧に作られた迷路のようだった。歩いても歩いても知った場所には出なかった。人どころか猫一匹居ないということが、脳裡の焦りを加速させていた。もうこのまま一生家には帰れないような気がした。そんなふうに、落ち込みのある感情や妄想だけが脳内に蔓延り、やがて友希那の歩く足を止めさせた。

 そこはもはや完全に知らない土地だった。友希那が住んでいる土地の面影すら無く、無情に連なる初見の民家の列が、完璧に迷い込んでしまったことを切実に物語っていた。友希那はもう限界だった。本当に迷宮に迷い込んでしまったのではないかと思った。このまま家族や友人たちと一生お別れなんだと思った。すると両目から涙が溢れた。それは頬を伝って地面にぽたぽたと落ちた。こんなことになるなら、最初から夜に憧れて深夜徘徊などしなければ良かったと本気で思った。数十分前、一時の勢いに任せて家を飛び出した自分を殴り殺したい気持ちになった。

「嬢ちゃん、大丈夫かい?」

 その声に友希那はハッとした。そして声の方向を素早く見た。

 そこには男が立っていた。身長は自分よりも小さく、しかし灰色のセーターに包まれた腹はでっぷりと突き出ていた。頭には焦げ茶のニット帽を被っており、鼻がニンニクのような形でほんのりと赤かった。

「だ、誰ですか……?」

 友希那は涙声で訪ねた。しかし本当は誰でも良かった。とにかく他人の気配を感じたかった。

「おらはこの辺に住んでるいわゆるホームレスだよ。嬢ちゃんは?」

 男はにっこりと笑って答えてくれた。その声色には敵意の類は無く、本心から友希那のことを心配していることがわかった。

「わ、私はっ……、迷ってしまって……」

「そうかい。ならおらが道案内してあげようか?」

「良いんですか?」

「ああっ! ちょっとばかしお礼をしてくれればな……」男はにやりと笑った。その笑みはさっきまでの笑顔とは違い、明らかな悪意を孕んだものだった。「へっへっへっへっへ……」

 友希那は男を前に、背筋の辺りがゾワリと震えるのを感じた。神経が粟立ち、脳裡が激しく信号を発していた。なんだかこの男はいけないような気がした。一刻も早くここから逃げるべきなのではないかと思った。

「し、失礼しますっ!」

 友希那は叫ぶと同時に振り返って駆け出した。脳からの危険信号によって動いていた。手の中のコンビニで買った品々を捨てて、一目散に走り出した。

「待てよっ!」

 後方から男の声がした。自分のとは違う足の音もした。追いかけてきているようだった。友希那はがむしゃらに走った。とにかく男から離れたかった。具体的に男がどんな驚異なのかはわからなかったが、しかし男からは良くない雰囲気を感じた。もしかしたら道案内を餌に強姦されるかもしれなかった。実際にそうなるかは別として、とにかくそれほどの悪意を感じたことが重要だった。

「待ってくれよ! 待て待て待てえっ!」

「やめて! 来ないでっ!」

 友希那は走り続けた。肺が激しく動き、冷たいような熱いような空気が勢い良く出入りしていた。足はすでに限界で、棒のように軋んでいたがそれでも無理やり動かして走った。周りはもちろん暗闇だった。濃厚な闇の中を切り裂くように突き進んだ。これでさらに迷宮に迷い込み、本当にもう独りぼっちになってしまうような気がした。しかし今は後方の男から逃げるのが重要課題だった。あの驚異の塊から少しでも遠ざかるべきだと本能が言っていた。

 やがて友希那は立ち止まった。もう身体が限界だった。足の筋肉が悲鳴を上げ、肺がくたくたに弛緩していた。荒く呼吸を続ける友希那はまだ男が迫って来てると思っていた。だから素早く後ろを向いて確かめた。迫り来る男に抵抗しようと心を決めた。

 しかし後方に広がっているのは闇だけだった。

 夜の純粋な暗黒だけが、そこにあった。

 どうやら男の追跡を振り切ったようだった。どこかの瞬間で男の方が先に体力を使い果たし、友希那を追いかけるのを諦めたようだった。

 友希那は息を吐いた。男の魔の手に落ちずに済んだことが、何よりも強い安堵感として脳を潤していた。

 しかし友希那は、本当の意味では安心できなかった。男から逃げきったとはいえ、まだ自分は迷宮の中に居るはずだった。迷子であることは変わりなく、ここからどうすれば良いのか、その先の未来が、夜空のように真っ暗だった。

「あれ、友希那?」

 後方からのその声は聞き慣れたものだった。

 友希那は素早く振り返った。

「リ、リサ!」

 幼馴染の姿がそこにあった。彼女の顔を認めた瞬間、友希那の胸中に熱湯のような綻びが広がった。友希那は軋む足で彼女に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。

「おっと! ゆ、友希那、どうしたの? 何か息、上がってるけど……」

 友希那は幼馴染の胸の中で泣き出した。これまでの数多の緊張感と、そこから脱したことによる安心感によって不安定な情緒から涙が流れていた。

「よくわからないけど、安心して? 私はここに居るからさ……」と囁きながら、幼馴染はゆっくりと友希那の頭を優しく撫でた。

 その素手の温もりが、なによりも強い母性として、友希那の全身に伝わった。


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