微睡み。
漂う意識の中。
全てを出し尽くし、精も根も尽きた。
今はただ眠い。
「オイ、起きろ」
だというのに、吾輩を呼ぶ声が聞こえる。
鬱陶しいと感じて、存在しない布団を被るように意識を妨げれば──
頭上から、水が降り注いだ。
「っ、ぷは……!?」
跳ね起きて、顔を上げる。
そうすれば目に映るのは……水桶を持った比古清十郎、その人であった。
「やっと、起きたか」
顔を拭いながら、起き上がろうとして──
「っうぐ」
全身の骨が軋むように悲鳴をあげた。
瞬間、この状況に陥った理由も思い出す。
比古清十郎の試験……そこで吾輩は限界を超え、全力で立ち向かった。
その際に身体に負荷がかかったのだろう。
だが、吾輩の記憶はそこで途切れている。
「清十郎殿……吾輩達は、貴殿のお眼鏡に適ったか?」
「ああ、てめーら二人の勝ちだ」
比古清十郎が腕を上げる。
そうすれば、腕当てが叩き割られているのが見えた。
吾輩はそんな一撃を入れていない。
であれば──
「剣心か」
視線を逸せば、吾輩と同じように地べたに寝転がる剣心がいた。
満身創痍、といった様子だ。
「さて、約束だ。稽古を付けてやる。立て」
「ぬ……」
吾輩は満身創痍である。
足の筋も、腕の筋も、骨の髄まで限界である。
立ちあがろうにも、力が入らない。
「オイオイ……もう立てねぇからって、寝てんのか?
煽るような比古清十郎の言葉。
吾輩はその言葉に苛立ちはせぬも、立たねばと使命感を得て……立ち上がった。
「……っ、ふぅ」
しかし、立つのが限界である。
そんな吾輩を見て、比古清十郎はニヤついた笑みを浮かべた。
「根性が必要な時は、腹に力入れろ。歯を食い縛れ。身体を筋肉で引き締めるように意識してみろ」
「っ、ふ……ぅ!」
力が入らない身体に、無理矢理、意識的に力を込める。
骨格を覆う筋肉が引き締まり、意図的に動かす。
……なるほど、疲労を無視して、無理矢理動ける訳だ。
「やはり、お前は筋がいい。そこの馬鹿弟子より、よっぽど俺に近いぜ。お前は」
自分に近い──という言葉は、比古清十郎にとって最大級の褒め言葉だろう。
彼は自身を最強の剣客だと認識している……そしてそれは、事実でもある。
であれば、近しいというのは、それだけで褒め言葉なのだ。
「ま、近いつっても、その辺の池にいる亀と、満月ぐらいの差はあるがな」
前髪を掻き上げつつ、そんな事を宣う比古清十郎に内心でげんなりとしつつ、目を向ける。
吾輩の全力、そして剣心の全力。
それを迎え撃ったにも関わらず、疲弊した様子すら見せない。
流石は飛天御剣流の正統後継者である。
「じゃあ、まずは……お前、さっきの戦いの中でやってたアレ……アレだ」
「アレ?」
「俺を見透かそうとしてた奴だ。してみろ」
具体性のない話だが、吾輩には理解できた。
目に力を込めて、意識を集中する。
身体の動き、挙動の上から見える筋肉の動き。
仕草、吐息、鼓動……目に映るものを見透かす。
「そう、それだ。所謂、観察眼の延長線上にある眼だな。余程、目が良くて、人体への理解がなきゃ出来ねぇ芸当だ。そいつはお前の武器になる」
見透かしている中、比古清十郎の右肩の筋肉が動いた。
腰は動かさず、外から見れば全くの動きはない。
にも関わらず、力が肩を通して腕、手に持つ剣と流れて──
「む……っ!?」
吾輩は咄嗟に後ろへ避けた。
その空間に対して、比古清十郎は剣を振り抜いていた。
すんでの所で吾輩は避けたのだ。
冷や汗をかきながら、比古清十郎を睨む。
だが、当の本人は何処吹く風だ。
「ほらな。不意打ちも効かねェ」
「何を、危ない事を……」
「俺はお前が避けられると信じてやった。俺の目が腐ってるとでも言いたいのか?そりゃ、師匠の顔に泥を塗るようなもんだぜ」
勝手に師匠と弟子の関係になっていたらしい。
だが、比古清十郎の弟子というのは、普通の剣客であれば喉から手が出るほど欲しい立場だ。
悪態も吐きたくなるが、喜びも半分ある。
「話を戻すぜ?その見透かす目は防御に使える……だが、それ以上有用な使い方がある。分かるか?」
「……相手の手の内を読んで、先手を取る……か?」
「違ぇよ、タコ」
「づっ」
剣の背で頭を小突かれた。
結構、痛い。
「俺を見ろ」
「……む?」
「今から剣を振るう、俺を見ろ」
比古清十郎は剣を手に、吾輩から少し離れた。
そして、ゆっくりと構えて……ゆっくりと、振り下ろした。
その姿を吾輩は透ける目で見た。
いや、“観た”。
全身の筋肉を無駄なく使い、関節から関節へと力を倍増させていく……緩慢ながらも、剣の術理の極地とも言える一振りだった。
そうして、吾輩へと目を戻した。
「見たか?感想はどうだ」
「……素晴らしい一振りだった、と思うが」
「それで、感想だけか?」
その言葉に吾輩は理解した。
すぐさま、真剣を抜いて……虚空へと構えた。
今見えた剣の術理。
足の指先から、膝へ、腰へ、肩へ、肘へ、手首へ、剣へ、剣先へ。
流れるように、流すように。
全身の筋肉を扱い、すべての関節を使う。
流体のように滑らかに、されど力強く。
脳裏に浮かぶ比古清十郎の一振り。
それを反映させるように……吾輩は剣を振るった。
「ふんッ!」
全身の疲弊感など、知らず。
平常時と同様、いやそれ以上に無駄のない一振りを放つ事が出来た。
無駄な力が一切存在しない、最短で最速の斬撃……その形が手にあった。
「ま、一度目にしちゃ上出来か。どうだ?目の有用性は分かったか?」
比古清十郎の言葉に、吾輩は意図を理解した。
「……優れた剣客の所作を、教本に出来る。表面ではなく、内面から理解できるという事か?」
「そうだ。ま、お前ほどの奴なら、参考になる剣客などそうはいねぇ。あまり意味はないだろう……だが、運がいい。俺様がいるからな」
「…………」
また、前髪を掻き上げた。
自惚れた仕草であるが、その容姿も相まって様になっている。
「さて、俺は今から剣を九つ振るう。先程の唐竹、袈裟斬り、逆袈裟、右薙、左薙、右切上、左切上、逆風……刺突。どの流派も、我流だろうが、斬撃そのものはこの九つ以外にない」
比古清十郎の言葉に頷く。
「お前は今から、この九つの斬撃を“全て”、俺と同等の領域に仕上げろ」
「…………」
「フン、力の差は分かってる癖に、少しも怖気付かないか。それでこそ、教え甲斐があるってもんだ」
そして、比古清十郎は剣を構えた。
「いいか。見せるのは一度だ。それに追従して、全て熟せ。最初は完璧に真似しなくていい……だが、完璧に覚えろ。分かったな」
「委細、承知した」
「じゃあ、行くぜ」
そこから、比古清十郎が剣を振るった。
唐竹。
袈裟斬り。
逆袈裟。
右薙。
左薙。
右切上。
左切上。
逆風。
そして、刺突。
九つの型を全て、目に見えるようにゆっくりと……だが、一寸の狂いもなく。
そうして一拍置いて、吾輩に目を向けた。
「さぁ、真似してみろ」
「……っ」
その言葉に吾輩は剣を構えた。
「…………」
そして、剣を振るう。
今まで振るってきた剣を上書きするように、一つ一つを重ねていく。
目に映る軌跡をなぞるように、身体を動かしていく。
脳に刻んだ記憶を、身体へ落とし込んでいく。
その過程をゆっくりと、流し込む。
そうして全てを観て、全てに追従した吾輩は……膝から崩れた。
「はぁ……はぁ……っ」
全身から汗が流れる。
限界を超えた上で、剣を九つも振るった。
立つ事すらままならない。
「まぁ、及第点だな。後は反復して、身体に刻み込め。そうすりゃ、少なくとも志々雄一派には負けやしねェよ」
そう言いつつ、比古清十郎は吾輩を担ぎ上げた。
「ぬ、ぉ……!?」
まるで米俵を担ぐかのように、肩に。
吾輩の背丈は高いのだが、比古清十郎も長身である。
大男が大女を担いでいる、という訳だ。
「おう、どうした?」
「……清十郎殿……些か、恥ずかしいのだが」
「寝床まで送ってやろうと言ってるんだぜ?感謝して、黙って担がれろ……っと」
そうして、比古清十郎は剣心も持ち上げた。
そちらは傍に抱えるような姿勢だったが。
大の女と、細身に男、二人を担ぎ上げている。
随分と力持ちである。
「……しかして、清十郎殿。剣心に奥義を教えるというのは……」
「んなもん、明日だ。この馬鹿弟子を叩き直さなきゃならねぇ」
「叩き直す……?」
「これじゃナマクラだ。鈍ってんだよ……剣じゃなくて、心がな」
何とも納得し難いが、師匠である比古清十郎の言う事だ。
頷いて、新たな質問を投げる。
「……して、吾輩は?どうすればいい?」
「お前は勝手に鍛錬していろ。教える事はもうない。良かったな、晴れて免許皆伝だ」
随分と適当な……少し呆れつつ、文句は口にしない。
比古清十郎は吾輩へ剣を教える事を急いていた。
それは何故か?
明日の保証が無いからだ。
飛天御剣流、奥義の伝授。
それは生命の危機を伴うものだと吾輩は知っている。
故に、これは清十郎の優しさなのか。
今夜の内に見せるものだけを見せて、未練を無くしたのだ。
これから先の解答を見せて、自分が例え、死んだとしても進めるように。
暗闇の道の先、進むべき道に灯りを点す行為であった。
「……感謝する、清十郎殿」
吾輩の言葉に、比古清十郎は反応する事はなかった。
だが、耳には入っていたのだろう。
「フン」
満足気に、鼻を一つ鳴らしていた。
◇◆◇
しかして、吾輩は薫や弥彦、操と由太郎の居る山小屋まで戻ってきた。
そうして、泥のように眠りについた。
全身の疲労を回復させ、損傷した筋繊維を蘇らせるように。
そうして、時間が過ぎて。
吾輩は目を覚ました。
「あ、先生!おはようございます!」
由太郎の言葉に、すわ朝かと外を見れば。
十二分に太陽が昇っており、眉間を揉んだ。
もう、昼過ぎらしい。
視線を逸らすと、薫と弥彦も居る。
だが、剣心と比古清十郎は居ない。
随分と寝てしまっていたようだ。
「由太郎。剣心と、清十郎殿は?」
「もう修行に行きました。僕達は、先生が目を覚ましたら帰るようにと伝えられまして」
「ああ、そうか……すまなかったな。寝坊したようだ」
「い、いえ!先生はお疲れでしたので仕方ありませんよ……薫さんもそう思いますよね?」
由太郎に話題を振られた薫が頷いた。
「ええ、確かにね。雷十太さん、不安になるぐらいボロボロだったから」
そう言われて、吾輩は身体の調子を確かめるべく起き上がった。
「あ、先生!安静にしないと──
由太郎の心配する言葉を聞きながら、全身の筋肉に力を入れて、身体の状態を確認する。
骨は元々、問題ない。
筋肉は……問題ない。
皮膚は多少の擦り傷があるが、既に治りかけている。
これも問題ないだろう。
「いや、問題ない。心配をかけたな」
吾輩がそう口にして、周りを見ると……何故か、引いたよう目で吾輩を観ていた。
「
「
操と弥彦がこそこそと喋っているが、耳に聞こえている。
まぁ、子供の言う事だ。
苛立ちはしないが──
「お前ら!先生に無礼だぞ!」
由太郎は怒っていた。
しかし、普段は弥彦を叱る薫は苦笑していた。
彼女にも、流石に思うところがあるのか。
……吾輩にもさっぱり分からない事がある。
この程度の自己治癒、剣客であれば当然なのだ。
怪我を負った所で数日で完治する……剣心だって同様の筈だ。
だというのに何故、吾輩だけが咎められるのか。
これが分からない。
「じゃあ、私達は白べこに戻るけど……雷十太さんはどうする?」
薫の言葉に少し悩みつつ、吾輩は首を横に振った。
「いや、吾輩はここに残ろう。清十郎殿とはまだ少し話したい事もある」
吾輩の言葉に薫は納得し、帰宅の準備を進めた。
そんな中、由太郎が吾輩に駆け寄った。
「先生、必ず戻って来ますよね?」
「む?無論、そうだが」
少し心配そうな顔だ。
しかし、由太郎は……吾輩がここに残ると口にした時、てっきり自分も居座ると言い出すかと思ったのだが。
吾輩が拒否するであろうと理解して、態と言わなかったのか。
成長ではあるが、由太郎はまだ子供だ。
子供らしい我儘を言わせられないほど、成長を強いられているのか。
そう考えて、吾輩は由太郎を抱きしめた。
「んぐ、っ、せ、先生!?」
「そう急くな。まだ子供らしく振る舞っていい……我儘など、吾輩に言っても良いんだぞ?」
「……あ、ありがとうございます……ですがその、は、恥ずかしいです」
「む?」
周りを見れば、穏やかな笑みを浮かべている薫。
面白がるような顔をしている弥彦。
顔を赤くしている操。
思春期の由太郎にとっては、確かに恥ずかしいか。
吾輩は手を緩めて、由太郎を解放した。
さすれば、顔を真っ赤にしていた。
余程、恥ずかしかったのだろう。
「すまぬ。恥ずかしかったか……もうしないようにする」
「え?あ、いえ、そういうわけでは……べ、別にして頂いても良いのですが」
「ぬ……そうか?」
何とも複雑な感覚らしい。
して、由太郎は弥彦に揶揄われながら、薫や操と共に帰路に付いた。
対して、吾輩は山小屋の前に立っていた。
太陽が登った下で、剣を抜く。
木の葉が風で舞う中、目を閉じた。
「……すぅ」
息を深く吸って。
「……はぁ」
息を深く吐いた。
全身の筋肉を硬直させ、弛緩させる。
脱力と緊張を交互に繰り返して、身体を強制的に目覚めさせる。
そして、目を開く。
宙に飛ぶ木の葉が、ひとりでに爆ぜた。
剣を、構える。
「…………」
再び目を閉じて、記憶を反芻する。
昨夜の九つの斬撃。
瞼に残った記憶を蘇らせる。
比古清十郎の放った九つの、力の流れを。
体の全ての関節を、筋肉を、流れるように再現していく。
そして、その記憶を肉体へと落とし込む。
順は不同。
まばらに、思うがままに、振るっていく。
一つ振れば、一歩近づく。
二つ振れば、半歩近づく。
牛の歩みのようにゆっくりではあるが、己が肉体へと馴染ませていく。
「……ふぅ」
して、そのまま剣身を震わす。
教わった袈裟斬りに、飯綱を乗せる。
真空を纏い、刃を空へ立てる。
そして──
「
比古清十郎式の袈裟斬り出した。
そして、目を開ければ──
「……これほどまでか」
目前にある、木々が寸断されていた。
手応えはなかった。
感じられない程に鋭く、水を割くよりも滑らかに斬撃を放ったのだ。
そして、特筆すべきは間合いである。
明らかに剣身が伸びていた。
しかし、斬撃を飛ばした訳ではない。
これは飛飯綱ではなく、纏飯綱だ。
それでも、斬撃の間合いは伸びていた。
纏う真空の量が増え、質が良くなったのだ。
しかも、これは習熟するための鍛錬の一撃である。
これをもし、全力で振るったならばどうなるか。
「……いや、まだ早い」
結果を早めに確かめるということは、己の天井を定める事に等しい。
まずは基礎だ。
結果はその先にある。
吾輩は剣を握り直す。
そして、振るう。
何度も、何度も、何度も。
昼食も食わず、振り続けて、空が茜色になる頃に──
「雷十太殿!」
剣心に呼ばれて振り返れば──
「……清十郎殿?」
剣心に担がれたまま、完全に気を失った比古清十郎の姿を吾輩は見た。
あの比古清十郎が気を失っている。
その事実は、吾輩に驚きを齎した。
「雷十太殿、少し手を借りたい!」
「吾輩に出来ることなれば──
比古清十郎を山小屋に寝かせて、剣心が薬を飲ませた。
曰く、傷を治すものではなく……強心作用のある薬だそうで。
「…………」
透かす目で観れば、肋骨が砕けているのが分かった。
内臓も損傷している。
いつ死んでも、死んでいてもおかしくはない。
そんな重傷である。
何故、こんな事になったか。
剣心は語ってくれた。
これは飛天御剣流奥義の伝授、その結果だ。
師の放った技を、奥義を以って弟子が越える。
それこそが、飛天御剣流奥義の伝承。
運命か、儀式とも呼べる、その結末。
結果は……剣心の奥義により、比古清十郎の技を破り、致命傷を負わせたのだ。
「……そうか」
吾輩はその話を聞きながら、罪悪感を覚えていた。
奥義の伝授によって、比古清十郎の肉体が傷付き、剣心の心が傷付く事は知っていた。
知っていた上で黙っていたのだ。
知らぬ筈の話を知らぬといい、見えたものを見ないふりをした。
それが最善の結末に向かうと知っていたからだ。
だが、それでも……目前で眠る比古清十郎を見れば、罪悪感が湧くというもの。
それでも──
「……今はただ、清十郎殿の強さに賭けるしかない、か」
山を下り医者へ見せる猶予はない。
薬にも傷を癒す力はない。
であれば、望みがあるとすれば比古清十郎の肉体が、
それだけである。
吾輩はただ、運命の帰着を待つ事しか出来ずにいた。