無機質な部屋に通され、試験官の言葉に従い数十分程待機した。メディカルルームなのだろうか、気になっていた疲労感も消えている。
待機中は他の選手達との干渉を控えるように指示されており、部屋から出る事は許されなかった。
次第に決勝で熱った身体も冷めてくると、精神的にも若干であるが余裕が出てきた。
改めて室内の中を見渡してみる。が、特に何にも設置されていない。装飾用の花瓶は勿論のこと、真っ白な壁ばかりが視界におさまる。
椅子に机と、その上に置かれた分厚いグラスの中には、透明な水が半分ほど残った状態で置かれている。
そういえば、試験官の前で直ぐに飲み切るのが恥ずかしかったから、適度に残したんだった。ところで、トイレは何処にあるんだろう。
そんな事を考えていると、会場側の扉が開け放たれた。空気の入れ替わりを感じる。
「天野さん、お待たせしました。もう少しでエキシビジョンマッチが行われますので、こちらをどうぞ」
「なんですか、これは」
試験官が手渡してきたのは、何の変哲もない薄紙。それに目を通してみると、びっしりと文字が詰められていた。視界に入れて直ぐに辟易としたので、目を背けた。
「エキシビジョンマッチでのルールです。トーナメントとは微妙に異なる箇所がありますので、よく読んでおいてください」
にこり、と表情は崩さずそれだけ告げてきた。
その後、試験官はいそいそと扉を開けて出て行こうとするので、
「あの、試験官さん」
声をかけた。試験官は振り向いて僕に視線を合わせてから、
「どうかされましたか?」
「大したことではありません。ひょっとしたら僕の見間違いかもしれませんが、もしかして一次試験の時からずっと貴女が試験官を」
「ええ、そうですが。本戦出場選手を担当しているのは私含めて三人しかいないので、天野さんの顔はもう憶えましたよ」
決勝を制した事からか、或いは元々の口癖なのか。試験官の玉兎は僕に対して敬語をやめない。たぶん、癖だろう。
それがどうかしましたか、と訊ねられたので、言葉を返す。
「いえ、少し気になっただけなので。お仕事、ご苦労様です」
「天野さんも、頑張ってください。貴方はきっと、綿月家でも高位に上れますよ」
試験官はそう言い残し、扉を開けて外に出て行った。
無機質な待機部屋に残された僕は、特にするべき事もなく手渡された薄紙の書類を凝視するばかり。
来るべきエキシビジョンマッチを控え、精神的にも肉体的にも緊張すると同時に、武者震いで心を震わした。……ところで、トイレは何処にあるんだろう。
* * *
──エキシビジョンマッチ。
登用試験を大規模に行う事で、綿月家の名声を高めると同時に経済効果を狙う目的があるそれには、もう一つの狙いが隠されていた。
恐らく、それを知る者は僅か一握りしか存在しないだろう。淡々と、かの目的は達成へと向けて着実に動きをみせていた。
その目的とは、なんて事はない。単なる一人の少女の、晴れの舞台に過ぎない。
将来的に綿月家を──月の世界を守護する存在になるであろう、英雄の大舞台。
その圧倒的な力を前に、全ての月人は彼女達一族を畏れ、敬う事となる──筈であった。
ここでは"彼女"の天野も、敢えて"彼"となる。
肉体は女性であるものの、心は男。そんな"彼"は、エキシビジョンマッチの開幕と同時に、特別控え室から姿を現した。拙いながら、迷いを知らぬ勇み足。
「"エキシビジョンマッチッ! 皆様、大変長らくお待たせ致しましたッ! 間もなくッ、月の歴史に残るであろう世紀の対決が始まりますッ!"」
実況の声が木霊する。不気味な程に静まり返った武道会場。
先程まで行われていた本選トーナメントでは、鼓膜に異常を来してしまうと錯覚してしまう程の歓声に包まれていたのに。
「"先刻、トーナメントを制覇した天野選手が今! その勇姿を我々の前に現しましたッ!"」
彼が武道会場で紹介され、若干の歓声。申し訳程度のそれは、直ぐにおさまった。
しかし、間もなく。武道会場は大歓声に包まれる。轟々、と爆音にも劣らぬそれは、振動音だけで会場を震わせた。
月の民達が待ちに待ち焦がれた、綿月の息女が現れる。悠然と、軽やかに。
訳の分からない実況が何か口上を述べたが、大歓声の前に露と消えた。それを聞き取ろうとする者も、誰もいなかった。
武道会場に姿を現したのは、薄紫色のポニーテールの少女──綿月依姫。彼女が登場した瞬間、会場は大歓声に包まれた。
ファンファーレが彼女の為だけに演奏を開始すると、巨大な花火が何本も打ち上げられた。遠くからは彼女を崇拝する者達が、声を大にして叫んだ。特徴的な色の大旗が、乱暴に振り回される。
大歓声に掻き消される実況は、掠れ掠れに、
「"綿月依姫選手が今ッ! 武舞台に入場しましたッ! 彼女が武舞台に登ったのは、幾年ぶりでしょうかッ!"」
怒声にも近い声調で、それだけ言い切った。しかし、大歓声より再び掻き消された。
彼の前に姿を現した少女の名は、綿月依姫。
様々な実績を有し、その圧倒的な力を都中に知らしめ、最強の二の字を欲しいがままにしている彼女。
世間の彼女に対する注目度は非常に高く、この一戦で経済が動くのではないかとも推測されている程。
彼は依姫の顔を視界に入れて、直ぐに視線を逸らした。目を瞑る。
己の知り得る面影を、彼は眼前の綿月依姫から感じ取ってしまったのだ。思わず生唾を飲み込み、じわりと額に汗をにじませる。口の中が乾き始めた。
会場を湧かせる大袈裟な実況、爆声にも劣らぬ大歓声の中、依姫は彼に向けて言葉を発した。淡々と、落ち着いた声で、
「本選の優勝、おめでとう。私が綿月家の次女、綿月依姫です」
「ありがとうございます、綿月さん。お会いできて光栄です」
視線は合わせず、彼が一礼。微笑む依姫は、頭を下げない。ただ表情だけは崩さずに、
「今は互いに武を競う者同士。窮屈な言葉はやめにして、互いに全力を尽くしましょう」
依姫はそう言い放ち、何もないところから突然、刀を出現させた。
彼はその事に驚愕し、冷や汗を流した。彼女も能力者か、と。
「……そうですね。噂に高い綿月さんと闘えるのですから、今はそれだけに集中します」
「ふふ、そう。今宵、模範試合の時分……ここは一つ、演戯が必要よね」
愉快に表情を崩す依姫に対し、彼は表情を疑問に染めた。
そうした上でどういう意味ですかと、淡々とした言葉で問いかける。依姫は出現させた得物の刃先を指でなぞりつつ、
「パフォーマンスの話よ。せっかくの大舞台だもの、瞬きの間に終わらせてしまっては、観衆達の興も削がれるというもの」
「……」
「私は"神霊の依代となれる能力"を持っている。聞いたことあるでしょう、"八百万の神"……ってね」
依姫は言葉を続ける。
「誤って殺めてしまっては、取り返しのつかない事になるから。あらかじめ手の内を知ってれば、避けることもできるでしょ?」
淡々とそう述べる依姫の表情は、不気味な笑みを浮かべていた。さも余裕だと言わんばかりの態度さえ感じられる。
戦闘の行方、勝敗よりも"パフォーマンス"を重視している彼女に、彼は苛立ちを覚え、憤慨した。
自分が"舐められている"と察した彼は、ならば目の前のこの女に"あっ"と言わせてやろうと強く思った。猛る思いを抑え、懐旧する暇さえ忘れた。言葉など発さず、ただ試合開始の合図を待つ。
やがて会場を包んでいた歓声が薄れ始めると、実況がスピーカーの音を割らせながら、
「"全月民が注目するこのエキシビジョンマッチッ! 今大会、最大の目玉ッ! 闘いの火蓋が今、切って落とされますッ!"」
同時、試合開始の重厚な合図と共に、煌びやかなファンファーレが鳴り、それが試合開始の合図となった。
恐らく全ての月に住む国民達は、闘いの行方などどうでも良いと考えているに違いない。
それは最強と噂されている綿月依姫が、ぱっと出の"警備隊試験の試験者風情"に負ける筈がない。そう確信しているからである。
闘いの行方よりも、彼女が魅せる数々の技や武術などに興味があり、試合の行方など端から"綿月依姫の勝利"で完結している事柄なのだから。
「──さて、始めましょうか。手加減してあげるから、全力でかかって来なさい」
依姫がそう言い放ち、ダガーナイフを引っ下げて肉薄してくる彼を見据えた。予想よりも少し早い彼の動きに、依姫は眉間を狭めた。
「ッ!」
「……あら」
静かな掛け声と共に、ダガーナイフが依姫の刀を猛襲した。双方の得物が、金属音を奏でる。
彼の予想外の腕力に驚いた依姫は、思わず刀を大きく反らしてしまった。彼はその隙を見逃さず、猛攻に出る。
次々と繰り出されるナイフの刺突を、依姫は上体を左右に逸らし、二、三歩程後退しながら避け続ける。
決して遅くはないその一撃は、僅かであるが依姫の予想の斜め上をいくものとなっていた。
彼女は狭めた眉間を元に戻し、淡々と、
「貴方、相当の腕前ね。どうして今まで武術大会に参加しなかったのかしら」
「……さぁ。僕にも分かりません」
彼は何も答えず、口を噤んだ。再び攻撃に集中し、得物を振り回す。
小さいながらも神速の一撃を放つダガーナイフは、近接戦闘に運んだ彼に大きな有利をもたらした。
けれども依姫は焦燥感を見せなかった。
右に、左に。攻撃を避けた瞬間、得物である刀の柄を両手で握ると、精密な動作で確実に、彼に向けて迎撃を開始した。
「ふっ、武器の選定を間違えたわね。私に勝負を挑んで来る者に、そんな可愛らしい得物を持った人はいなかったわ」
「何……ッ!」
依姫の刀が大胆な軌道を描き、疾風の如く襲来。
互いの得物同士が激突する瞬間、依姫の刀が器用に翻される。彼の所持していた得物の刃先が、綺麗に破損した。
「あらら、ちょっとやり過ぎちゃったか」
依姫が申し訳なさそうにそう呟いた。
彼の得物であるダガーナイフの刃が損傷し、武道会場の何処かへと吹き飛び、消えた。
残されたのは、ナイフの柄の部分と、損傷した刃を繋ぐ極僅かな金属部のみとなった。
「祇園様の剣はあまり使わないのだけれど、今後は控えないと駄目そうね」
やれやれ、といった風に依姫が再び呟く。
完全に彼に対して慢心している素振りを見せるが、事実彼女の腕前は常人を遥かに逸脱しているので、それも当然である。
「さて、そろそろパフォーマンスの時間を……っ」
手の平を空中でひらひらとさせ、そう呟いた依姫であったが、刹那その表情が歪んだ。視線を鋭くし、眼前へと意識を集中させた。
「──破ッ!!」
地を砕き、短距離を瞬時に詰める。彼は依姫に肉薄し、拳を突き出した。
初撃こそ間一髪のところで避けられてしまったが、接近したのを良い事に二発、三発と繰り出し、終いの回し蹴りが彼女の胴体部を捉えた。
依姫は鈍い痛みを意識し、重い吐息を漏らしてから、
「……ッ、と。そう、パフォーマンス。良いわね、ちょっとだけ吃驚──っ」
然も余裕、といった風にそう言い放った依姫だが、次の瞬間には余裕に満ちた表情を大きく崩した。
彼女が慢心している隙にと、彼は依姫に飛び掛り、地面に向けて投げ倒す。
脚部に僅かな痛みを覚えた彼女は、自分が足技をかけられた事を理解し、思わず眉間に皺を寄せた。
仰向けで武舞台に倒れた依姫の上に、彼が覆いかぶさる。華奢な両腕を押さえつけた。
彼女の右腕を彼が左手で押さえ、左腕は右膝をグッと押し付け、動けぬよう固定した。彼の空いた右腕が、依姫の頸を締め上げる。
「ぐっ……く、ふふ……へぇ、やるわね」
「煩い、さっきからパフォーマンスの事ばかり気にして、油断していた君の負けだ」
「ふふ、私の負けだと言うけど、果たして本当にそッ……ぐッ」
依姫の言葉の途中、それ遮るかのようにして彼は彼女の頸を締め上げ、鼻頭を殴打した。
苛立ちを覚えていた彼にとって、依姫の言葉は己の神経を刺激する言葉に他ならない。四の五の言わせまいとした。
流石に、押し倒すという体勢でマウントを取っていては、会場も穏やかではなく、騒然とし始める。
あの綿月依姫が、ぽっと出の試験者に押さえつけられ、無様な姿を晒しているのだから。
この状況には観客は勿論の事、実況者にも熱が入り、大袈裟な実況が会場中に響き渡る。
頸を締め上げられ、鼻頭を殴打された依姫。つぅ、と一筋の赤い線が彼女の鼻先を通過した。
鼻出血。鼻頭を腫らし、彼女には似付かわしくない無様な姿。けれど、依姫の瞳は依然、彼の眼を捉えていた。
彼女の瞳が猛禽類の如く変化した。深紅の瞳が彼を睨み据え、鼻先を伝う赤い線が拭われる。
「……火之迦具土神よ。神の劫火を御身に宿し、不倶戴天の敵から我を守り給え」
呪文のように、虚空へと向けて放たれた言葉。依姫の意味不明な言葉に彼は表情を疑問に歪めたが、間もなく──
「──ッ!?」
刹那、須臾にも近い瞬刻の内。
依姫の四肢が炎を放ち、彼の身を焼滅させんと、生命体の如く蠢いた。
彼は瞬時に飛び退き、間一髪それを避ける事に成功したのだが、衣服の端が少し焦げつかせ、肌を少し焼いた。
淡々と、深紅の瞳で彼を見据えたまま、依姫が答える。
「全てを焼き尽くす神の火。愛宕様の火の力はどう?」
着崩れた衣装を直しながら依姫が立ち上がり、両腕に劫火を纏いつつ彼に訊ねた。不思議と、彼女の衣服は燃える素振りすら見せない。
「私は八百万の神をこの身に憑依させ、力を行使することが出来るのよ」
「……神の力?」
「そ。こんなにも熱い火、今までに感じた事ないでしょう。神人の劫火……日天子にも見劣りはしない」
炎を纏った拳を静かに突き出し、依姫が言い放った。
額から嫌な汗を滲ませた彼は身じろぐ事なく、目の前の依姫に対してどう対抗してやろうかと模索していた。
八百万の神を身に宿して、行使する事ができる。
つまり、他にも様々な不思議な能力を使うことができる相手に、どうやって闘えばいいのだろうか。
剣術の腕前も相当のものであり、迂闊に切り結べば……いや、彼には既にまともに使える武器は残っていない。
今までとはまるで違う対戦相手に、彼は酷く困惑した。神の力を操る、月で最強と謳われる女性を相手に。
そして今まで"誰にも負けない"と思っていた彼の自信を、依姫はあっと言う間に崩壊させてしまったのだ。
瞬間、依姫が地を蹴った。。
会場全体を大いに湧かせる神の力を行使し、彼に襲い掛かる。思考する暇をも、彼女は与えない。
「──大御神はお隠れになった。夜の支配する世界は決して浄土になりえない。"天宇受売命"よ、我が身に降り立ち、夜の侵食を食い止める舞を見せよ」
彼女が右手を大きく掲げると、全身から神々しい光を放ち、包まれた。
会場を照らす電光ライトなど物ともせずに、更にそれすらも覆ってしまう程の強い光を放ちながら、彼女はゆっくりと動き出した。
「……何のつもりだ」
「さぁ? 知りたければ、試してごらんなさい」
挑発的な表情で煽り言葉をかける依姫に、彼が攻勢を仕掛ける。
武器を破壊されてしまい、頼れるは己の四肢のみとなった彼は、依姫に近接攻撃で臨む。
拳に力を込め、鳩尾を目掛けて殴打。地を蹴り、脚部を撓らせての斬蹴──が、それらの攻撃が彼女に届く事はなかった。
依姫は美しい舞を踊るような動作で、それら全てを避けてみせた。彼が胴体に拳を突き出せば上体を逸らし、足払いを仕掛ければ丁寧な無駄のない跳躍をし、丁寧に避ける。
「貴方の攻撃は私には通らない。それでも攻撃を続けるというのなら」
幾度となく体術を駆使して攻撃を仕掛ける彼に、依姫は舞うような動作で迎撃。
彼の僅かな隙を突いて放たれた依姫の拳は、彼の腹部を容易に捉え、膝を曲げさせた。
「……ッこの」
「無駄よ。天宇受売命の力を使役した私に、貴方の攻撃は通らない」
──アメノウズメノミコト。依姫が使役した神霊により、彼の攻撃は宙を舞い飛ぶ蝿を仕留めるよりも困難になっていた。
更に二手、三手と拳撃を仕掛けるものの、全て避けられる。そうして見舞われる迎撃。彼女はとても涼し気な表情で、眼下に彼を置く。
「ぐッ……これがお前の能力……」
「ふふ、圧倒的過ぎたかしら。これではまるで、私が悪者みたいね」
片膝をついて苦言を洩らす彼に、依姫は然も"悪い事をしたな"という表情で、使役していた能力を解いた。
そして再び刀を出現させ、片手で握り締める。祇園様の剣を確実に握り、空いた方の手で再び伝い始めた赤い線を拭うと、
「けど、もう少し痛めつける必要がありそうね。……次はちょっと規模が大きいかな」
誰に言うでもなく、依姫はそう呟いた。
彼を再起不能にする目的は勿論の事、会場に訪れた大衆達に、世間へ誇張された情報を流すメディア達に対して、能力を披露する為に。
「"火雷神"よ。七柱の兄弟を従え、我に仇名す者を焼き払え」
依姫がとある神を使役した。
火雷神とは、雷が起こす現象を示す神の一つであり、他にも七つの神が存在する。
彼女が呼び起こした火雷神、七つの神々は、会場全体に雷雨を引き起こした。
天井のない会場は大雨により騒ぎとなり、精密機器を持ち込んでいたマスコミ関係者は、大慌てで水濡れ対策を始めた。
更に歓声とは一風変わった騒々しさに変わった観客席には、綿月家のスタッフ達が雨避けの道具を提供するなどして対応していた。
「さぁ、今度はしっかり避けないと、本当に死ぬよ」
「……っ」
彼の目の前に現れたのは、巨大な竜の形をした炎の塊。竜王を象徴としたような豪炎。まるで意思を有しているかのように、彼を睨む。
大雨の中、雷鳴が鳴り響く。それらは彼の周囲に次々と落雷し、動きを著しく制限させた。
──こんなもの、まともに受ければ間違いなく死ぬ。
そう危惧した彼は、直ぐに行動する。避雷しないよう注意しつつ、襲い掛かる豪炎を辛うじて避ける。
そして彼は、逃げながら考えた。
一体どうすれば、神々の力を行使する奴に勝てるというのか。
あんな巨大な炎の渦を発生させ、自然の力である雷でさえも軽々と操ってしまう。接近しても不思議な神の力で攻撃は通らず、下手に奴に触れようとすれば、地獄の劫火に阻まれる。
僕が扱える能力は、せいぜい"分離させたり結合させたり"と、そういった類のもの程度。
八百万の力を使役する能力の綿月に、勝てるわけなど……
「……神を、使役する……?」
思わず呟いた言葉。だが瞬間、彼の付近に落雷し、無様に吹っ飛ばされた。
大雨により濡れた武舞台の上を滑り転がり、全身がびしょ濡れとなる。その惨めで滑稽な姿に、依姫は憫笑を零した。
しかし彼は、何かを閃いたと言わんばかりの表情をしていた。
決して絶望はしていない。やがてそれは、確かな勝機に満ち溢れた表情に変わる。沸々と、静かに顔を上げる。折り曲げた膝を真っ直ぐにし、ゆっくりと立ち上がる。
「……どうして今まで気付かなかったんだろう。こんなに逃げ回る必要なんて……最初からなかったのにっ」
彼は閃いたと同時に、悔しそうに表情を浮かべ苛立ちを露わにした。
遠目からそれを見ていた依姫は、その状態を疑問に思ったが、それだけ。特に闘いに支障はないだろうと、警戒する事はなかった。
雷鳴が鳴り響き、豪雨に見舞われる武舞台の上。彼は真っ直ぐに依姫へと視線を向け、一直線に駆け出した。
刃が欠けてしまい使い物にならなくなったナイフは懐に隠し、無手で依姫へ攻勢を仕掛ける。
「ほう、まだ仕掛けてくるんだ。実力の差というものが、理解出来ていないみたいね」
攻勢に出る彼を、依姫は冷静に迎え撃つ。
祇園様の剣を片手に提げ、無手で迫る彼を一振りで後退させてみせた。が、尚も諦めぬと、彼は依姫に向かって拳を突き出す。
剣が振るわれる度に彼は後退し、その隙を縫って再び依姫の懐へ猛襲を仕掛けた。
彼が近付けば近付くほど、小回りの効かぬ剣での立ち回りは不利になっていった。
「……っ、まだこんなに動けるのね」
依姫が表情を顰め、そう呟く。
やがてどちらかが手を伸ばせば触れられる距離にまで肉薄すると、依姫は祇園様の剣を片手に、神を使役した。
小煩い蝿を打ち払うが如く、灼熱の権化を。
「火之迦具土神よ。神の劫火を御身に宿し、不倶戴天の敵から我を守り給え」
再び愛宕様を使役し、依姫の両腕が灼熱の劫火に包まれた。
しかし、それでも彼の拳撃は止まらない。
「ふっ、馬鹿ね。自滅する気?」
形振り構わず仕掛けてくる攻撃に、依姫は両腕を置き添えて防ごうとするが──
「──っな」
「馬鹿なのは君の方だ。綿月依姫っ!」
劫火に包まれていた両腕が、端から何もなかったかのように元に戻った。
愛宕様の火もなければ、祇園様の剣も消失し、先程まで騒がしかった雷雨も嘘だったかのようにピタリ、と止んでいた。当然、彼女の腕にも愛宕様の恩恵はなく。
そうして彼は、慢心に包まれていた彼女を思い切りぶん殴った。
愛宕様の劫火を用いて防御する手筈だった彼女に、それを避けられる余裕もなければ、耐えようと筋肉を締める余裕もなく。
「…………ッ、うぁッ……かっ」
顔面を思い切り拳で叩かれた依姫は、後方に転がり倒れた。
何とか立ち上がる素振りを見せるも、敢え無く片膝をついてしまう。苦悶の表情を浮かべ、呼吸を荒くした。
頬にはうっすら紫色の痣が出来ており、唇の端から血液を流していた。
「神をその身に宿して使役するのなら、それを"分離"させてやればよかった……何故、今まで気付かなかったんだろう」
「な、……何ですって……」
疲労に身を包んだ彼であったが、悠々とそう呟き言い放った。
彼の能力である、"分離させたり結合させたりする能力"により、彼女がその身に宿した神霊を、分離させた。
一か八かの賭けによる行動であったが、彼の予想が彼女の能力を上回ったのだ。
攻撃する直前に神霊を分離させる事により、完全に依姫の虚を突き、強烈な一撃を見舞うことに成功した。
「よくも私に一撃を……痛っつぅ、かなり効いたわよ」
頬をすりすり、と撫でながら、依姫はそう口にした。
「……嘘」
「貴方も能力持ち……って事ね。私の神霊が看破されるだなんて、予想外」
未だに健在そうな依姫に対し、彼が頭を抱えた。
依姫は口端から流れる血液を拭い、再び戦闘態勢に入る。が、また血が流れる。
健在な素振りこそ見せるが、決して傷は浅くはない。それはただの強がりに過ぎず、彼女は言葉を紡ぐ。悠然と孤高に、
「久しぶりに燃えてきたわ。貴方のような人がまだ存在していただなんて。世界はまだまだ広いってことね」
「僕の方こそ、月がこんな世界だったなんて、夢にも思ってなかった。君のような強い人がいるってこともね」
「……ちょっと待って、月がこんな世界って、どういうこと?」
「……う。今のなし、聞かなかったことにして」
失言にも近い彼の戯言に対し、依姫は疑問の声をあげるが、彼は答える素振りを見せない。
ならば致し方なしと、探究心の強い彼女は、彼に向けて再び祇園様の剣を出現させ、構えた。
「ふーん。いいわ、別に。無理矢理口を開かせるのも乙なものだし」
「……おお、怖い。さて、と。そろそろ決着をつけようか。……大どんでん返しは近いな」
彼は依姫にそう言い、静かに手をかざした。彼自身の能力を行使し、依姫の能力を制限させる為に。
間もなく、依姫の持っていた祇園様の剣が消失した。神霊に関する事象も全て分離し、今後一切の使用を制限させると言わぬばかりに。
「ふふ、そう。無手で来い、ってことかしら」
面白可笑しそうに、だが額から汗をにじませながら、依姫が言った。
「そうだよ。最後に頼れるのは己の肉体のみ、って言うだろう」
依姫と彼が得物も持たずに、武舞台にて対峙。
武舞台は戦闘が行われる前と比べると、あちこち損傷しており、雷雨に打たれ炎に焼かれ、落命により大穴まで築いている始末である。
「──破ッ!!」
最初に動いたのは、依姫。
姿勢を低くし、地を蹴る。強靭な脚力にて一瞬で彼との距離を詰める。
「……ッ」
まさに神速といった速度で肉薄してきた依姫に、彼は身動き一つ取るのを忘れ、
「遅いッ!」
迎撃の体勢の彼ではあるものの、一瞬にして懐に飛び込んだ依姫が、彼を抱え上げて一気に投げた。
柔道でいうところの背負い投げを受けた彼は、綺麗な弧を描いて武舞台に叩きつけられる。
ぐぅ、と体内の酸素を一気に吐き出して苦痛に表情を歪めるが、依姫の攻撃は終わらない。追撃と言わんばかりに彼に馬乗りになり、顔面を目掛けて拳を叩きつける。
「これで動けない……砕けろッ!」
拳を天高く振り上げ、彼に向けて直に振り下ろす。
鋭利な風切り音と共に振り下ろされた拳は、彼の頭部を破砕せんと容赦なく叩き付けられた。鈍い音が何度も繰り返された。
彼女の拳が彼を襲う度、武舞台の会場が衝撃により壊れ、彼の後頭部から赤黒い血液が流れ始めていた。
依姫に顔面を何度も打ち抜かれ表情を歪める彼だが、単調に行われるその攻撃を見切り、彼女の拳を受け止めてがっちりと握った。
「ッ、喰らえ」
「……なッ!」
そうして彼は能力を行使する。すると依姫の拳が一瞬にして裂傷し、鮮血を周囲に撒き散らした。
「ぐぁッ……!」
予想外の攻撃に苦痛の表情を浮かべる。だが、彼の攻撃はそれだけに終わらない。
馬乗りの体勢になっていた依姫を、全身に力を加え力ずくで吹き飛ばした。
吹き飛ばされた依姫は直ぐに立ち上がり、再び彼に向けて攻勢に出る。月で最強と謳われる彼女は、近接戦闘術にも長けている事を証明する為に。
純粋な拳と拳のぶつかり合いにも関わらず、依姫と彼の実力は拮抗していた。
彼女が彼を叩きつければ、今度は彼が拳の応酬をする。
一発、二発、三発と何度も何度も繰り広げられ、会場の熱は次第に高まっていた。
「"──す、凄いッ、凄いぞッ!! 依姫選手も天野選手も、互いに一歩も引けを取らぬ接戦を繰り広げているゥゥッ!! 一体誰が、このような試合展開を想像していたのでしょうかッ!!"」
最早実況の声など、彼らには届かない。
地面に倒れ伏した彼に、思い切り拳を突き立てる依姫だが、間一髪で彼がそれを避ける。空を切った依姫の拳が、武舞台を破壊した。
更に今度は彼が依姫を押し倒すと、同じように拳で殴打する。
既に決闘ではなく、喧嘩や取っ組み合いと表現した方が相応しかった。
「…………っ、はぁッ」
数分もの間続けられた殴り合いは、やがて終着点を見せ始める。
両者とも息を切らし、裂傷や打撲傷に表情を歪めながら、相対する。
「……はぁッ、こんなにも……ッ、苦戦するなんて……私らしくないッ」
「……いい加減に、倒れろよッ……」
肩で息をする両者は、苦言を呈したり皮肉を洩らしたりと、段々と正常な思考能力すらも低下させていた。
衣服はボロボロ、雨に濡れて湿っており、裂傷で血液が付着し、更に幾度となく拳を叩きつけられたせいで、くたくたになっている。
決着が着くのは時間の問題であろう。
観衆達の誰もがそう思っていた時、彼が懐からある物を取り出した。
「……それは」
「君が壊してくれたナイフの柄……ずぅっと、懐にいれてた……」
呼吸を乱しながらそう説明を始める彼であり、その表情は不敵な笑みを浮かべていた。
「僕の能力は……"結合させたり分離させたり"する能力だ」
「それが、どうしたのよ……っ」
「鍔から先が無くなったこのナイフだが……僕は今からこれを"結合"させるッ!」
彼はナイフの柄を腰の辺りの位置で固定させ、刃先を彼女に向けた。
そうして能力を行使し、ナイフを結合させると言いのたまう。依姫は疲労し思考するのもままならず、ただ呼吸を乱していた。
──壊れたナイフを結合させる。
それはつまり彼の持っている柄の部分に向けて、"会場の何処かへ落ちた刃が飛来して戻ってくる"という事であり、刃が依姫を貫くという事──
「喰らえッ、綿月依姫ッ!!」
事は一瞬で終わる。刃が柄の部分へ向けて飛来し、突き抜ける。
「──うッぁ……!」
肺から、枯れた喉から、体内中の酸素を排出すると同時に、苦痛を意味する低く短い悲鳴をあげた。
刃が依姫の身体を貫く、その瞬間に彼は能力を止めた。完全に貫いてしまえば、致命傷になってしまうから。
けれども刃は依姫の肉を深く抉っており、背中部分であろうが大きなダメージには変わりなく、その場でよろめいた。
だが、それでも。
最強と謳われた彼女は、攻勢を仕掛けてくる。此処で引いてしまっては、最強の名が薄らいでしまうから。
大きく負傷した身に鞭を打ち、彼に向けて拙い足取りで距離を詰め、普段と変わらぬ──いや、今までよりも力を込めて、拳を放った。
「……破ッ!!」
「……此れで終いだッ!」
彼も最後の一撃だと言わんばかりに、拳にありったけの力を込めて、放った。
会場中の全ての人達が試合の行方を注視している最中、彼らの攻撃は一瞬で終了した。
彼の拳が、依姫の鳩尾深くを抉っており、依姫は拳を放った体勢のまま、ぴくりとも動かなかった。
対して依姫の拳は、彼の顎を綺麗に打ち抜いていた。彼もまた、攻勢のまま動かない。
ほぼ同時に急所へと拳を打ち込まれた両者は、拳を放った姿勢のまま動くのを止めると、やがて重力に従いその場に崩れ落ちた。
────気絶。
依姫は、鳩尾に強力な一撃を打ち込まれ、気絶していた。
そして彼も顎を殴られ、強烈な痛みで意識を失いかけ、その場にぶっ倒れた。刹那、盛大な実況が会場を支配する。
「"決着ゥゥッ!! 綿月依姫選手、立ち上がりませんッ!! 天野義道選手も同じく、動く素振りを見せないッ!! これは──"」
彼は失いゆく意識の中、ひたすら思った。
此処で立ち上がれば、僕の勝利で全て完結する、と。
そうして必死で立ち上がろうと四肢に力を込めるが、全くと言って良い程動かない。悔しさよりも、痛覚により表情は歪む。
顎を打ち抜かれたせいで意識が遠く。言葉を口にする事すらできず、口の中が鉄の味で満たされていた。
「"引き分けですッ!! 熾烈な決闘の行方は──"引き分け"で完結ですッ!!"」
やがて引き分けという形でこの場が収まってくると、彼は考えるのを止めた。それ以上、何も考えられなかったから。
既に戦闘は終了し、今更立ち上がったところで、どうにもならないのだな、と悟ったのだ。
そうして彼は、薄れゆく意識の中に精神を溶け込ませた
* * *
──綿月家警備隊登用試験、トーナメント試験が終了した。
本選トーナメントの優勝者は天野義道となり、準優勝に法華津蓮、三位に西院堂郡司が入賞した。
トーナメント試験終了後に催される筈だった面接試験に、彼だけ姿を見せる事はなかった。
エキシビジョンマッチによる負傷により意識を失っていたとして、面接試験を受ける事が出来なかった彼は、その点を考慮した上で公平な選考をすると説明がされた。
恐らく彼が目覚める頃には合格発表が届けられるとの事であったが、その事実を彼は知る由もない。
各メディア達が集い、盛大に取り上げられた大規模な大会により、その経済効果は数百億にまで上っていると発表され、各方面で話題となった。
また数々の試験者に対する厚遇や大会の調整、会場の修復作業等々により、費やした費用も相当な額となったようだ。
そしてエキシビジョンマッチの勝敗の行方は、数多の審査員の厳正な審査により、"綿月依姫の判定勝ち"に至り、その不動の伝説を更に固める結果となった。
それでも彼の活躍は各方面で取り上げられ、今度の行方が注視されており、綿月家に採用されるのはほぼ確実だろうと噂されている。しかし、綿月家側は外部に合否を洩らさず、詳細は不明だ。
このような結果となった登用試験であったが、彼は未だに目を覚まさない。
彼を担当している試験官が看病している事も、ボロボロとなった衣服を脱がして処置をしている事も、何も知らない。
以上となります。
ようやく原作キャラクターが登場となります。
以降から基本的には原作キャラクターが主軸となり、物語が進行します。