──知らない天井だ。
不意に意識が覚醒する。眼前に広がったのは、何処までも真っ白い天井であった。
左右に頭を動かして、状況を確認してみる。どうやら僕は、ベッドの上で寝かされているようだ。
点滴などは置かれていないし、白いカーテンで仕切られているわけでもない。、室内に置いてあるのは、僕が横になっているベッドと、簡易な机、質素な椅子しか置いてない。
重症を負い、治療を受けている最中というわけでもなさそうだ。、単純にあの試合の後、意識を失って搬送されただけなのだろうか。前後の記憶が薄い。
特に身体に痛む箇所はない。顎に分厚いガーゼが貼られている程度だ。これなら動けそうだと確信し、上半身を起こして周囲を確認してみた。
「……あ、あれ」
室内は何の変哲もない無機質な部屋だったが、ふと自身の衣服が普段のものとは違う事に気付いた。極僅かな違和感を感じた。
普段着ているようなゆとりのある服ではなく、患者着のような衣服がいつの間にか着用させられていた。
元々着ていた衣服は衣服は何処にあるのかと、室内を見渡してみた。それは直ぐに見つかる。
机の上に丁寧に畳まれて置かれていたので、一先ずは安心。履いていた靴も薄っすらと輝きを放っており、磨かれている事が窺えた。そして、小さな疑問。
「どうして僕の服がそこにあるんだ。一体誰が着替えさせたんだ……何故気付かなかったんだ」
急いでベッドから起き上がり、畳まれていた衣服を手の内へと確保。床に揃えられていたスリッパを無意識の内に蹴飛ばしてしまい、片方のスリッパだけが床を滑った。
僕は即座に患者着を脱ぎ捨て、普段着ていた私服に袖を通した。……患者着は薄手の水色をした衣類だった。一枚脱いだ途端、素肌が露出された。性別がバレた可能性が高い。
どこの誰にバレたかまでは分からないが、まさか男がサラシを巻いているなんて思わないだろう、そいつが女装癖のある変態ならば話は別であるが。
着替えはものの数十秒で終了した。
患者着のアウター部分を脱ぎ捨て、ボトムもひょいと脱いで私服のズボンを穿いた。
さて、この後どうしようか。若干身体に痛みを感じるが、落ち着いてもいられない。
迂闊に外に出て、騒ぎになるのは困る。面倒なことを起こすのは良くない。
性別を詐称している事が、誰かに知られてしまっているかもしれない。そう考えると、やはり落ち着いてはいられない。
何かしらの手を打ちたいが、今の僕にはどうする事も出来ない……運を天に任せるしかない。今のうちに、言い訳の一つでも考えておこうか。
様々な不安要素を思考し、辟易としている最中。ふと部屋の扉が開いた。気落ちして眉間に皺を寄せた表情だったが、構わずにそこへ視線を向ける。
「あ、天野さん。目を覚まされたんですね」
扉を開けた主は、試験官である玉兎だった。普段からニコニコしてるその顔も、今の僕には憫笑にしか見えない。
玉兎は救急箱のような物を持ってきており、僕が目を覚ましていたのが然も意外だったかのような表情をしていた。
「お体の方は大丈夫ですか? どこか痛む箇所があったりは……」
「いえ、問題ありませんが……一つ、お聞きしたい事が」
近くにあったテーブルに救急箱を置くと、きょとんとした表情で玉兎は顔を向けてきた。
僕が聞きたい事は、とてもシンプルな事柄である。
「目が覚めたら、この患者着を着させられていたのですが。誰かが着替えさせた……ということですか」
「……えーと、一応私が担当してたんですが、何か問題ありましたか?」
「貴女がですか?」
「ええ。天野さんって、女性みたいな体付きしてますよね。どうしてサラシなんて巻いてるんです?」
さらっとした表情で、玉兎がそう訊ねてきた。
どうやら、目の前のこの兎が僕の事を着替えさせたに間違いない。本人がそう言うのだから、確定だ。
しかし、それは不幸中の幸いにも等しい。
男がサラシを巻き、女性のような肉付きをしているにも関わらず、尚も女だと疑わない辺りどこか抜けているのか。
或いは僕の事を試しているだけなのか。玉兎は月の民と微妙に思考が違うらしいので、よく分からない。頭の良い馬鹿、という奴なのだろうか。
玉兎の質問に対して少しばかし思考し、いくら玉兎が馬鹿正直者であろうとも、言い訳の一つもなしでは流石に拙いと思い、
「えーと、これは……そう。プロテクターの一種です。急所を守る為にあらかじめ仕込んでいたもので……ほら、詰め物だって」
「ああ、なるほど!」
やはり頭足らずなのか、馬鹿正直なのか。僕の言葉を疑うこともせずに、素直に受け入れる。不幸の中の幸い。
あまりこの手の話題を続けて、再び突っ込まれたりしたら堪ったものではない。話題を変える事にした。
「そういえば、此処はどこなんですか」
「綿月家保有の小病院です。担当の看護婦として、私が手当てをしていたんですよ」
「……そうなんですか。あれ、でも君は試験官としてずっと活動していたじゃあないですか」
「試験官としての仕事は臨時で派遣されたものなんですよ。私の本職は看護婦なので。ああでも、試験官としての仕事はまだ残ってるんですけどね」
驚いた。試験中に何度も顔を見たなと思ったが、同一人物だったらしい。
ごそごそ、と玉兎は懐から何やら取り出した。大きめの封筒に、立派な文字と大きく真っ赤な押印がされている。
「どうぞ、連絡便です。実は天野さんが意識を失っている間に、面接試験が実施されていたんですよ」
「……え」
「試合での健闘による辞退ですので、ある程度の考慮はされていると思いますが。あ、当然ですが中身は開けていませんので、私にも分かりません!」
えへん、と胸を張ってそう言い放った玉兎だが、普通他人宛ての手紙を真っ先に読む者はいないだろう。
本選トーナメントの後に、面接試験が行われていたらしい。
僕は綿月依姫との試合により意識を失っていたので、その試験に参加する事ができなかった。採用者側の都合により、再実施も行われないとの事。
けれども面接をしていなからといって、まだ不合格になったというわけではない。
その点を考慮した上での選考がされるという事なので、綿月依姫と非公式ではあるが、試合をし善戦した上での辞退……悪いようにはされないと願いたい。
「あれ、そういえば僕は、どれぐらい意識を失っていたんですか」
ふとした疑問を覚えたので、玉兎に訊ねてみた。
「えと、カルテによりますと……約三日間ですね。脳に異常が及んでいる可能性があるという事でしたので、念の為ですが精密検査も行いましたよ」
「……精密検査?」
「はい。八意様が直々に視て下さったので、後遺症などの心配はありませんよ!」
軽快にそう言い放つ玉兎だが、僕としては言葉に引っかかる。
それは精密検査を行っているという事。そんな勝手なこと、しないでもらいたい。
恐らく玉兎の口ぶりからして、検査を担当していたのは"八意様"という人物に間違いないだろう。
このまま放ってくのも一つの手である。"八意様"という人物と僕は、面識すらないのだから。
けれども、そいつに変な噂を流されでもしたら堪ったものではない。
八意様という人物がどのような奴なのか、現時点では計り知れない……が、一見する価値はある。あわよくば、口を封じる事さえできれば。
「そうですか。では、その八意様って、一体誰なんですか」
「えっ、八意様を知らないんですか? あの綿月様達が"お師匠様"と仰いでいらっしゃる、あの八意様ですよ」
「……おや、まあ」
予想の斜め上をいっており、驚いた。
そこらにいる医者のご老体を想像していたのだが、訊ねてみればそいつはあの綿月姉妹の師、という事らしい。どうやら放っておいたとしても、関わらざるをえないだろう。
一応だが、その人が何処にいるのかも聞いてみる事にした。
「その八意さんって人、普段は何処にいる人なんですか」
「うーん、八意様は多忙なお方なので、普段は研究所にいたり綿月様達とお話されていたり」
一度お会いしてみては如何ですか、と玉兎が僕に提案してきた。
綿月家に深く関与している人物らしいので、僕のもう一つの目的の為にも、八意という人物とコンタクトを取る必要がある。
だが推測するに、かなり高位な人物という事も見受けられる。
あまり不用意に近付き無礼な行為を振舞ってしまえば、反感を買う事は間違いない……わざわざ会いに行くという事は、今はしなくて良いかも。
その後も玉兎と世間話を嗜んだ後、彼女は荷物や資料をまとめ、
「それでは、私はこれにて。天野さんはこの後、どちらに」
そんな事を問われたので、少し思考してから、
「どちらにと言われましても。試験は終わってるみたいですし、帰宅しても良いのですか」
「ええ、勿論です。選考通知は既に行われていますので、結果を見てみるのも良いのではないでしょうか」
「本当ですか。てっきり、口頭で告げられるものだとばかり」
「そんなまさか。通知形式は私には分かりませんが、便箋やら電話やら……何分試験者が多いものでして、円滑に進む手法で行われているかと」
既に合格発表は行われているらしい。玉兎は駆け足で、選考通知について簡単な説明をしてくれた。その後、急ぎ足で退出した。
どうやら帰宅しても構わないとの事なので、僕は早々に身支度を開始した。
色々と手続きが必要なのではないかと考えていたのだが、それは杞憂に終わる。割りと淡白なものだな、と道すがら思った。
もしかしたらこの小病院は、それなりにアウトローな施設だったり……と、そんなわけないか。
登用試験の全日程が終了したので、契約期限の迫っているホテルに帰還する事にした。
この地より遥か数時間先にあり、帰りの乗り物の中で惰眠を貪った。車より早く、快適だった。
* * *
ホテルに帰還した後、普段通りに部屋に戻ったのだが、本選トーナメントの影響もあってかちょっぴりだけ僕の知名度が上がっていた。
支配人らしき男に「おかえりなさいませ」等と言われ、深く頭を下げられたので、対応に困った。真似をして深く頭を下げておいたが、あれで良かったのか知ら。
部屋に戻り、僕は直ぐにベッドの上に飛び込んだ。
綺麗に整えられたシーツが僕の体重によりくしゃくしゃになると、低反発仕様のマットが深く沈みこむ。
「ああ……もう夕暮れか。今日、何もしてないな」
仰向けの体勢のまま、机に添え付けられた時計を見てみる。時刻は既に十七時を回っており、窓の外は黄昏模様を呈していた。
意識が回復し玉兎と軽い世間話をした後、直ぐにホテルに帰宅したので、今日という日は本当に何もしていない。
そういえばお腹が空いた。まだ何も口にしていない気がする。あ、水だけは飲んだ。
お腹も空いているけど、身体もムズ痒い。気絶していた間、風呂にも入っていなかったので、髪の毛もちょっと嫌な感じがする。
そうだ、先ずは風呂に入ろう。
食事が提供される時間はまだ先なので、惰眠を貪っていてもしようがない。
僕は即時、部屋にある小さな風呂場に移動し、衣服を脱ぎ捨て湯を浴びる事にした。ホテル内にある銭湯は利用しない。
ユニットバスの簡易的な風呂場で湯を浴びた後、身体の表面に付着した水分を拭き取り、動きやすい服に着替えて部屋に戻った。
いわゆるジャージのような服なので、風通しも妙に良く、過ごしやすい。心地よさを肌で感じる。
たかがシャワーを浴びた程度なので、直ぐに身体も冷えてくる。体温を保持する為、ベッドに飛び込み部屋に添え付けられているテレビの電源を入れた。
「……どれもトーナメントに関しての内容ばっかり」
どの放送局も、試験で行われたトーナメントに関しての内容ばかり。ドキュメンタリーやドラマの類などは一切放送していなかった。
各試験者……選手達にスポットを当てたインタビューやら、選手達の経歴の説明……そしてピックアップされた試合のシーン等々。
何となく漠然と視聴していると、五輪大会の放送を見ているような感覚に近く、ぼーっと見ているだけで随分と時間が過ぎていたのに驚いた。
「本質は警備隊登用試験なのに。どーしてこんなに盛り上がっているのか」
僕としては、ただそれだけが疑問であった。
僕の生きてきた世界と、この月の都の文化の違いに過ぎぬのだが、生活する環境が違えば人間の価値観そのものすらも変えてしまうという事なのか。
月人は小さな催し事に対しても、積極的に参加する節があるのだろうか。恐らく今回も、それに基づいていたという事か。
「落ちた人は目も当てられないな……」
思わず、そう呟いた。
これだけ大規模に行われた試合展開、取材などで大言を叩いていた者が不合格になったら……考えただけでも、惨め過ぎる。
本選トーナメントには三十二名の選手が参加しており、予選に関しては三千人以上が参加していたというらしい。
その中から綿月家の警備隊に採用される者が、およそ数十名程度。狭き門とはこの事である。
「あ、僕の試合が流れてる」
ぼーっとテレビを見ていたのだが、放送内容はやがてエキシビジョンマッチに関しての内容となり、"綿月依姫"と大々的なテロップが表示されていた。
僕もトーナメント優勝者としてピックアップされていたのだが、それよりも綿月依姫に関しての記事が多かった。自分の映像が映ると、小恥ずかしい気持ちになる。
淡々とそれを見ていたのだが……
「なん、だと……」
『エキシビジョンマッチの勝者は、綿月依姫で完結』
大々的なテロップに加え、僕がボコボコに殴られているシーンや、綿月依姫が神霊を行使している部分ばかり。
最終的には両者とも意識を失い、判定は審査員達に託されたところ、観衆達を魅了する技の数々や、手数の多さが判断材料となり、綿月依姫の勝利という結果に。
「そんな、僕が判定負け……せっかく善戦したのに。納得がいかないぞ」
引き分けで終わっていたと思っていたのにも関わらず、世間は綿月依姫を勝者として選んだ。
ナプキンの法則というものがあるが、最初に勝者に選ばれた綿月依姫こそが、至高にして最強という事になる……少しぐらい、僕の善戦が評価されても良いと思うのだが。
「はあ……ま、いいか。エキシビジョンマッチは選考に影響しないって言ってたし、トーナメント自体は優勝したんだ。少しぐらい、知名度は上がってるか」
前向きに考えよう。
ホテルの支配人も僕に対して敬意のようなものを表していたし、そもそもトーナメントには優勝しているのだから。
合格通知が楽しみだ。……そういえば、既に通知は行われているとの事だが、僕宛にはいつ頃届くのだろうか。
「よし、食事にしよっと」
明日辺りには届くだろう、玉兎に日にちまで確実に聞いとけば良かった。
流石にお腹が空いてから大分時間が経過していたので、腹の虫が僕に猛抗議を仕掛けていた。
それらを制した後、ベッドから乱暴に立ち上がりホテルの食堂に向かおうとした時、ふと床に何かが落ちたのに気付き、目を向けた。
「……まだ開けてなかったね、これ」
落ちたのは、玉兎から手渡されていた連絡便とやら。
およそB4サイズの大きさの封筒だったので、部屋に着いた後も乱雑に机の上に置き散らかし、そのままであった。
食事に行く前に目を通してみよう。もしかしたら通知に関しての説明も記載されているかもしれないし。
封筒の口部分を結ってある紐を外し、中身を取り出す。
中に入っていたのは同じくB4に近いサイズの綺麗な紙であり、そこにはびっしりと文字が敷き詰められていた。読むのも億劫になってくる。
「……何々、今後の日程について」
封筒の中にあった紙には、今後の試験の日程について記載されており、内容に関しては既に終わった事である。日にちも、既に過ぎていた。
トーナメント試験終了後に面接試験を実施する、という旨が書き連ねられているだけ。読んでも仕方ない。
けれども最後の方まで目を通してみると、そこには僕の名前が記載されている。追記のような形で、面接試験中止の旨が記載されていた。
丁寧にこのような事まで封筒に入れて送りつけてくる辺り、綿月家の人事関係者は糞真面目な連中なのだろうか。いや、これが普通と考えるべきか。
「お、もう一枚入ってる」
読み終えた紙を封筒に戻したのだが、封筒の中にもう一枚、更に小さい封筒が入っているのに気付き、取り出してみた。
今度の封筒は先程よりもずっと小さいもので、真っ白な厚紙で作られた封筒。
そのままにしておいてもしようがないし、中身も気になるので直ぐに開封した。
封筒の口を開けた瞬間、ふわりと何かが浮き上がり……空中に"1"と表示された。間もなく、霞んで消えた。
画期的な未知の技術だなぁと思いつつ、小さな封筒からこれまた小さな紙を取り出し、目を通す。
今度は合格通知に関しての事なのだろうか。やけに綺麗で分厚い紙なので、恐らく記載されている内容は重要事項だと思うのだが……
「えーと、何々……各試験者を対象に慎重に選考を重ねました結果、まことに残念ながら今回はご期待に添えない結果に──」
一瞬、何が書いてあるのか理解できなかった。
何度も強く目を擦った後、再び紙面に目を通す。
「……選考結果のご通知。……ご期待に添えない」
書いてある内容がよく分からない。紙面をひっくり返して裏面を見てみたが、何も書かれてない。
表面に書かれている内容は、機械的な精巧な文字で、"ご期待に添えない"とだけ書かれてる。
「……そんな、まさか。不合格? この僕が?」
ありえない。ありえないだろう。だって僕は、本選トーナメントで優勝したんだぞ。
あの綿月依姫にだって一矢報いたのに、どうしてこの僕が不合格になるんだ。分からない。分からなかったから、通知書を投げ捨てた。
けど、躍起になっても仕方ない。意地になり通知書を拾い上げ、もう一度読んでみたが、内容は変わらなかった。
既に通知はされていた。あの玉兎が渡した封筒の中に、それが入っていた。ただそれだけの事。
僕は今まで、不合格だったのにも関わらず、既に"合格した気"で行動していた……のか。いや、大会の時から既に、その気だったに違いない。
喉の奥から何かが込み上げてくる。途端に吐き気や眩暈に襲われ、立っているだけなのに辛くなってきた。はぁ、と深く溜息が出た。
耐えられなくなって再びベッドの上に倒れこみ、いつの間にかくしゃくしゃになっていた通知書を広げて、また丸めた。空腹感など、既になくなっていた。
何故、どうして。あんなに活躍したのに、落ちたんだ。
一体何を基準にして選考が……いや、なんで僕が落ちた。
自己中心的な思考回路に陥り始め、考えるのも億劫になる。もはや食事どころではない。ベッドから起き上がる気すら起きない。
負の思考に脳内が満たされた途端、僕は思考する事をやめた。
* * *
所変わり、綿月家では少々問題が起きていた。
エキシビジョンマッチが終了し大規模な大会が閉幕を迎えてから数日後、綿月依姫は意識を回復させた。
彼よりも若干回復は遅れたものの、肉体的ダメージに比べると回復は早い方であった。
そして目覚めた依姫は看病に訪れていた姉、綿月豊姫、師である八意永琳に対してこんな事を口にしていた。
「……お姉様。私はもしかして、負けてしまった……」
頬にガーゼを貼り、普段着姿のままベッドに寝かされていた依姫は、その体勢のまま言葉を呟いた。
大観衆の前で意識を失ってしまう程の決闘になるとは、依姫は勿論の事、豊姫も永琳すらも予想にしていなかった為、彼女らは酷く困惑していた。
それも審査員達により"判定勝ち"という結果に至った事により、冷静さを取り戻したのだが……その事を知らぬ依姫は、未だ思考の整理がつかずにいる。
「いえ、結果は貴女の判定勝ち。世間では貴女と彼の試合に関しての話題で持ち切りよ」
「判定勝ち……私が……──痛ッ」
ベッドから半身を起こした依姫が唇を噛み、小さな悲鳴をあげた。
「ああ、まだ起き上がったらダメよ、依姫。また傷口が開いてしまうわ」
豊姫が労わるようにし、依姫に向けてそう告げた。
彼の攻撃により背中を大きく負傷しており、依姫自身が思っているよりも、その傷は深かったのだ。
「あの男に対しての疑問は積もるほどあるけれど、どうして最後まで能力を行使して戦わなかったの?」
豊姫がそう依姫に訊ねた。
「……恐らく、相手の能力によるものだと思います。使役していた神霊が全て遮断されて、行使することが出来なかった」
「……相手の能力?」
「ええ。祇園様の剣も消えてしまって。正直、混乱しました」
ふぅ、と当時の状況を思い出し、小さく吐息する依姫。
静寂が療養室を襲う。
豊姫は見舞いで用意した桃の切り身を、こっそりと摘んでいた。依姫の為にと用意した筈なのだが、気付いたら手を付けているのは彼女だけだった。
カルテのような物に目を通し、何かを書き込んでいる永琳は、黙々と作業をしているだけ。
誰も何も口にしない状況が幾許か続いたのだが、始めにその状況を打破したのは、依姫であった。
「……八意様」
「ん、何かしら」
依姫に名を呼ばれるも、作業の手を止めぬ永琳は、言葉だけで応対する。
言い辛そうに表情を変える依姫だが、呟くようにして言葉を続ける。
「その……あの者に関してなのですが、警備隊に採用されたら是非、私の下に」
「あ、もしかして依姫、もう彼の事が気に入っちゃったの?」
「違いますよ。素質もあるし、能力だって持ってるんですもの。他の隊にやるのは惜しいって思っただけです」
からかうようにして豊姫にそう言われるも、口早に否定の言葉を並べる。
「じゃあ、入隊式の時にでも直接指名してやればいいんじゃない?」
「指名、ですか?」
「そ。『天野、前に出て来ーい!』……とか言ってみたりしてさ」
豊姫の言葉に依姫は、言いませんよと、溜息混じりに否定した。
穏やかな表情で桃の切り身を口に含みつつ、豊姫は依姫を茶化したりと、会話の絶えぬ仲の良い姉妹達であった。
「ね、構いませんよね、八意様!」
迷いのない笑みで依姫は永琳にそう訊ねた。
対して永琳は小さく溜息を吐きながら、手元のカルテのようなものを近くのテーブルへ置き、依姫に向き直り口を開いた。
「妄言もそこまで。彼は不採用よ」
さらっと、何事もなかったかのように、言葉を紡いだ永琳。
先程まで表情を笑みに染めていた綿月姉妹は一転し、その表情は疑念に包まれた。困惑すら覚えた。
さぞ疑問に感じたのだろう、依姫が「は?」と小さく呟き、師である永琳の言葉を待った。
「不合格。言葉の通り、合格基準に満たなかった。彼が入隊式に訪れることはないし、貴女と再び仕合うこともないでしょうね」
「……不合格? ど、どうして……彼が」
テーブルの上に置かれていたカルテのようなものから紙の束を摘み、選別するようにして指で紙を捲る。
やがて目的である一枚の紙を手にした永琳は、それを依姫達に見えるように提示した。
「"学力試験における選考基準外"……上層部での結論が、これね」
「ちょ、ちょっと待って下さい。何ですか、それは。それなら何故、最初の試験で不合格にならなかったのですか」
依姫ではなく、豊姫が永琳に対し、疑問をぶつけた。
永琳は面倒臭そうに、何度目かの溜息を混じえつつ、
「採用試験に関しては、全て現場の判断で行われていたの。学力試験の採点も、体力試験の結果も、全て現場の玉兎達の判断ね」
彼女は言葉を続ける。
「本選トーナメントが開催される直後になって、選考に関して一つのミスが生じたのよ。それが、彼の存在」
「選考のミス……?」
「そう。本来ならば学力試験で"不合格"となっていた筈の者が一人、何らかの原因によって"合格"として試験を潜り抜けていた」
馬鹿らしい、本当に。そんな表情で、淡々と言葉を述べる。
発言するのも、説明を続けるのも馬鹿らしくなってきたなと感じた永琳は、呆れ混じりに言葉を続ける。
「ヒューマン……いや、ラビットエラーとでも言えば良いのかしら。後になって、上層部で試験の不手際が露呈してね。
既に開催を控えた本選トーナメントの参加人数を、開催主側の不手際で調整できるものかと、本選トーナメントは滞りなく進行しちゃったわけ。後で適当に理由を付けて、不合格にすれば済む話ですからね」
「そ、そんな……あのような逸材を、見す見す逃すなんてことが」
「当時は名も知れぬ"一参加者"に過ぎなかったのだからね、まさか貴女と刃を交え、あまつさえ相討ちという結果に持ち込むだなんて、誰も想像できなかったでしょう」
淡々と説明を続ける永琳に、綿月姉妹の表情は暗に落ち始めた。
「文武両道、質実剛健。綿月家の求める人材に、彼の実力が満たなかった。ただ、それだけの話」
「……私から直接、異議を申し立てれば」
搾り出すような声量でそう言い放った依姫だが、永琳の口から即座に否定の言葉が吐き出された。
「やめておきなさい。迷子のペット探しの依頼じゃあるまいし、貴女の言葉で簡単に覆る問題ではないのよ」
「ですが私は、来季から警備隊の隊長に就任する事が決まっています。頭の悪い部下の一人や二人……」
依姫はそこまで言葉を紡ぎ、口を閉じた。
自らも感じたのだろう、己の発言の一知半解を。なんと浅はかで、思慮の足らぬ発言であったかを。
永琳も物言いたげな表情を崩さず頭を抱え、これまた呆れ混じりに、
「あのねぇ、警備隊は仲良しクラブじゃないの。貴女が一番よく知ってるでしょ。仮にも隊長に就任する身なのだから、思慮の浅い発言は控えなさい」
「は、はい……申し訳ありませんでした」
遂には師である永琳に叱責された依姫は、ひどく表情を歪めながら、俯いた。
姉である豊姫もこの場は何も発言する事はせず、周囲の空気に馴染むのみ。
やがて静寂が室内を支配する。何やら作業を続ける永琳の作業音のみが木霊し、誰一人口を開こうとはしない。
依姫はまだ何か模索するかのように俯くのみで、豊姫に至っては目を瞑るのみである。桃の切り身は、既にお皿から姿を消していた。
「────思いついた!」
「ッ、……どうしたのよ、豊姫」
肩を一瞬震わせ心底驚いたような、そんな表情で永琳は豊姫を見据えた。
大声で何かを思いついたと発言した豊姫は、普段通りの穏やかな表情に笑みを交えながら、堂々と言葉を紡ぐ。
「ペットよ、ペット。百年河清を俟つよりも、貴女が直接彼を勧誘してしまえばいいんじゃない?」
口を大にしてそう言い放つ豊姫。
つまり、いつまで経っても実現しない事を期待するよりも、自ら行動して実現を目指せ、という事だ。
姉の言葉を聞いた依姫は、顎に指を当てて思考した。
「……妙案かも。野に放つのは惜しいし、仕合の決着もつけたいし……」
「そうそう。依姫が直接、彼を雇用しちゃえばいいのよ。役職は……護衛とか、執事さんとか」
豊姫は人差し指を差し向けて、「バトラーとか!」と嬉々とした表情で話した。
彼を使用人として綿月家という組織を経由せず、綿月依姫が個人的に彼を雇用してしまえ、というのが豊姫の提案であった。
恐らく永琳の"ペット"という発言を経て、その考えに至ったという事は容易に想像できた。
「けど、彼にも家族や身内がいるでしょ。私個人の思想で、彼の人生を大きく変えてしまうのは……」
「んもう、依姫はちょっと消極的過ぎ」
豊姫から目を背けて否定の言葉を並べる依姫に、豊姫がベッドに身を乗り出して言葉を放つ。
「よく聞いて、依姫。強者は弱者を支配しなければならないの。いえ、そういう使命があると言ってもいいわ。たとえ判定勝ちという結果に終わったとしても、実力は貴女の方がずっと上……貴女は、彼を従える運命にあるのよ!」
「ね、姉様?」
「それにっ! お医者様でも月の温泉でも惚れた病は治せぬ……ってね──あ痛っ」
刹那、豊姫の頭部に依姫の拳が襲った。
即時否定の言葉をつらつらと連ねる依姫に、豊姫は苦笑しつつも言葉を続けた。
「ま、そういう形での邂逅も良いと思うけど。一つの手段として、選択肢として頭に入れておくと良いわよ」
「……ありがとう、姉様」
姉妹での会話が一通り済んだ後、傍聴していた永琳が依姫に「それで、どうするの」と訊ねた。
依姫は若干思考し、決意めいた表情で顔をあげると、純白のシーツの上に手を付いてベッドから降りて立ち上がり、言葉を紡いだ。
「探しましょう、あの男を。もう一度会って話がしてみたい……今はそれだけ」
「そ。貴女がそう決断するのなら、好きにしなさい。職務に支障をきたさない程度に」
「当然です」
着崩れた衣服を治しつつ、痛む身体に鞭を打ちながら依姫は歩み出す。痛覚を刺激されたのか、表情を若干歪めた。
豊姫に"傷が癒えていない"と諌められたものの、彼女はそれでも迷わず室内の扉を開き、行動を起こした。
不合格という結果に終わり、憔悴しきっていた彼を探し、綿月姉妹が広大な月の都にて捜索を開始するのは、間もなくの事。
以上となります。
この辺りから綿月姉妹達が登場し、物語に絡んでくる頃ですね。
修正作業をしながら投稿しておりますので、諸処に至らない点が出てくるかもしれません。ご了承くださいませ。
オリキャラや独自の細かい設定は極力無くしたいと考えておりますが、それが中々に難しく難儀している次第であります。
筆者もオリキャラを描写するのは苦手なので、原作キャラが登場するまでは非常に筆が重く感じられました。
それでは、次話もよろしくお願いいたします。