東方外来禄 -往年幻想物語-   作:くりすてぃあーね2世

37 / 42
巻ノ三十六 彼の名前は

 ──月の都の何処とも知れぬ場所に、彼はいた。

試験不合格という結果、現実を受け止めた彼は鬱蒼とした表情で、延々と続く道をただ歩くばかり。

 

 試験の為にと、用意した幾許かの資金は既に底が見えていた。羨道という男の下にすら、帰る事は許されない。

彼は羨道に対してだけ、簡単な連絡だけ済ませていた。

 

 試験に落ちたという旨だけを告げた彼は、羨道の言葉を放心しきった状態で聞いていた為、今後の行動について全くの無関心。

漸く落ち着いてきた頃になると、時既に遅し。資金が底を尽きかけ、帰りの運賃すら間々ならぬ事態に陥っていた。

 完全に僕の落ち度だ、と試験に不合格した時とは違う感情で憔悴していた彼は、延々と彷徨い歩き続けるだけ。道草すら食えない。

 

──夢も希望もあったもんじゃない。

 

 誰が言った言葉か彼は心中、悪態をついた。

このような悪態をつきながら彷徨っていたのが、今からおよそ数日前の事。

 

 

 現在は、何度かの野宿を経験しながらも、彼は何とか身銭程度は稼げる状態にはなっていた。

その稼ぎ場というのが──とても小さく、古ぼけた菓子店。

今時、瓦屋根の店舗というのも、この店ぐらいだろうなと、彼は心の中で感想を述べた。

 

 無論、小さく知名度も低いこの店に、常連の客など数える程度しかいない。古着に身を包んだ老人ばかり、皺くちゃの顔を拝む毎日。

それなのにも関わらず店舗側が彼を雇ったのには、いくつかの理由があった。

 

 それは至極明快単純、主に菓子作りを担当している職人が病に倒れ、復帰に数週間ほどかかるとの事で、その代理で短期間の──いわば、アルバイトに過ぎなかった。

けども、そんな事は構わない。最低賃金間近の時給だとしても、彼は厭わなかった。

お金を稼がなければ、構築された月社会の中を生きる事は出来ない。それは彼が生活し続けていた現代社会でも同様の事実だったので、彼は甘んじてその境遇を受け入れた。

 

 

 ぽてっとした藍色の作業帽子に、これまた藍色の古びた作業着姿の彼。作業装束に身を包んだ彼は、古臭い厨房にて菓子作りに勤しんでいた。

菓子作りは、料理を作るよりも難しい作業である。僅かな分量ミスでさえ、菓子の甘さは大きく変わってしまうからだ。料理人を目指す人は、まず菓子作りから始めると云われる程である。

そして今日で二週間目となるであろうその作業の中、そろそろ復帰するであろう職人に怯えつつも、身銭を稼ぐ日々は続いていた。

 

「天野くん、そろそろ休憩にしていいよ」

 

 そんな声が彼方から響き渡り、彼はキリの良いところで仕事を中断し、店の居間部分に移動。その表情は、何だか不貞腐れたかのような、仏頂面だった。

 

 ──どうしてこんな生活に陥ってしまったんだろう。

もう少し頑張ってれば、あの時こうしていれば……そんな負の思考ばかり、彼の脳内を駆け巡る。

それでも目の前の仕事は片付けなければ、一日の食事すら間々ならない。生々しい現実が叩きつけられ、彼は心底辟易とした。

 

 休憩中に賄いの菓子を頬張り、一息ついていると、またしても彼方から店主の声が響く。彼は頭を動かさず、聴覚だけでそれを聞き取る。

 

「あ、ああ、天野くぅん!」

 

「……どしたんですか、店長」

 

 すっかりやさぐれてしまった彼を尻目に、店主は慌てふためきながら言葉を続ける。

 

「この店で一番、甘くて美味しい物を作ってくれッ!」

 

「……は?」

 

「だから、甘くて美味しい物だ! 天野くん、君作れないか?」

 

「……そんな不明瞭なもの、作れませんよ。そもそもこのお店、和菓子店でしょう。スイーツが食べたいなら、他所へ行ってくださいって言えばいいじゃないですか」

 

「言えるわけがないだろうっ……相手を見てから言えッ!」

 

「じゃあ、僕が言ってきますよ」

 

 そうして彼が客人を相手にするテーブルへ向かおうとすると、後ろ襟首を捕まれて引き戻された。

一瞬にして怖っ面に変貌した店主に、"余計な事はするな"と睨みを効かされる。はいはい、と面倒臭そうに、反抗心を向き出しにして彼は言葉を返した。

 

 

 厨房に強制的に戻された彼は、古びたシンクの前で熟考した。

客人は恐らく何処かの貴族か何かの、お偉いさんだと推測した彼は、普段通りの和菓子を提供したら大目玉を喰らうんだろうなと思い、少し手の込んだものを作ろうと考えた。

けれどもこの古ぼけた店に、そんなものを作れる道具がなければ、材料もない。厨房の隅を駆ける、黒漆の昆虫もどきを出してやろうかと考えたが、やめた。

 

 ならば、どうするかと考える。

暫く考えたが、答えは出てこない。

数分程考えても答えが見えず、やはり黒漆の昆虫もどきを調理しようかと考え始める。しかし、そんな時に限って奴は現れない。

 

 いい加減手を付けずにいたら拙いだろうなと彼は思考した。なので、とりあえずそこら辺にある物で適当に作る事に決定し、

 

「味でダメなら見た目で勝負しよう」

 

 お世辞にもこのお店は良店ではないので、味の方は保障できない。

それならば"創作"し、彩りを行ってから提供すれば良いじゃないか。

 

 彼はそう思考し、切れ味の悪い包丁を棚から取り出し、握った。刃先を洗って、水分を拭き取った。

先ず始めに、近くのカゴの中にごろんと転がっていた桃を手に取ると、それを包丁で綺麗に切り分ける。

桃饅頭を作る為に置いてあった桃だろうが、構う事はないだろうと、ザクザクと切る。皮を向いて、それをつまみ食いした。

 

「大き目のお皿に切り分けた桃をのせて、中心にヨーグルトをかけて……」

 

 桃の切り身の上にミントの葉を添えて、真っ赤なクコの実で均等に飾って……

……と、独り言をぶつぶつと呟きながら、彼は創作を続けた。

 

 創作料理という言葉があるが、創作料理にはろくな物がない。

やはり完成された基本の料理が最も美味しく、料理の伝統や文化を無視して作った物は、ハズレが多いのが現実である。

 そうして彼が現在作っているのは見紛うことなく、創作物に違いない。

 

 純白のお皿の中心に桃の切り身、更に中心に穢れに染まっていない、とろとろのヨーグルトをかけた。

その上にクコの実という実を使用し、真っ赤な飾り付けを施す。中心にミントの葉をのせ、視線が中心に集まるように細工する。

極めつけだと言わんばかりに、カラメルソースをお皿にかけ、全体的な飾り付けをして終了とした。

 

「……こんなんで良いだろう。これが限界だ」

 

 最後の最後に、白銀の粉……なめるととても甘い粉を上からまぶし、雪に染まった世界を表現する。

本当にこれが限界だ、と呟き、彼は厨房から軽い足取りで客人の下へと向かった。

 

 

「おお、完成したのか天野くん」

 

「あ、ええ。完成ですね。正直、僕にはこれが限界でした」

 

 店主は彼が作った料理を目にし、驚いた。

 

「凄いな、よくこんなものが作れたな」

 

「別に、普通じゃないでしょうか。創作は少しだけ勉強した程度なので、これが限界です」

 

「創作?」

 

「あー……つまり、これです」

 

店主が興味深々に訊ねてくるが、鬱陶しく感じた彼が実際に作った料理を店主の目元まで掲げ、面倒臭そうに説明を切り上げたが、

お皿にカラメルソースをかけたら食べ難いんじゃないか、と店主に問われ、彼は辟易とした。

只の飾り付けなのでそんな無粋な食べ方はしませんよ、と返してから口早に、

 

「では、行ってきます」

 

「くれぐれも、失礼のないようになっ!」

 

両の手を握り、拝むかのようにして彼にそう告げた店主の顔は、ひどく歪んでいた。

 

 

* * *

 

 

 彼は客人が誰かも知らぬまま応対を試みる。

どうせ店の得意先の、お偉い様程度だろう、と彼の推測はそこで終了していた。

迷いのない足取りで客人の下まで料理を運ぼうと、店の厨房と、テーブル席のある部屋を隔てる扉に手をかけ、静かに開けた。

 

 

「…………」

 

 彼は丸いお盆……トレイを左手に持ちながら、眼前で自身を見据えている女を凝視した。

金髪で、へんてこりんな帽子を被っている、貴族風のお嬢様。……彼の、彼女に対する第一印象は、そんな感じであった。

 歩き出そうと足を踏み出すその前に、彼は客人である金髪の少女を見下ろしながら、挨拶。

 

「いらっしゃいませ」

 

 泰然とした態度で言葉を切ると同時に、女性から視線も外す。早々にテーブルの上へ料理を置いた。

対してその女性は一瞬たりとも彼から視線を外す事はなく、彼がテーブルの向かい側に回る最中も、視線を逸らす事なく見据えていた。

 

「……どうぞ、ごゆっくり」

 

 食器とテーブルが接触する際の音を極力出さぬよう、細心の注意を払いつつ料理を置いた。

適当に言葉を述べて、彼は客人の前から姿を消そうとするが、

 

「ちょっと待ちなさい」

 

 不意に呼び止められた彼は、若干驚いたように表情を変えて振り返った。心の中で驚きつつも、面倒臭さがそれを上回る。

客人である金髪の少女は手に持っていた扇子を開き、口元へあてがう。そのまま、彼に疑問をぶつけた。

 

「こちらの料理は」

 

 淡々と、それだけ。瞬間、静寂が訪れた。

一拍、二拍。彼は何度か呼吸を繰り返してから、間の抜けた声で、

 

「……はい?」

 

 聞き返した。

金髪の少女は彼を一瞥してから、再び問う。その言には苛立ちは見えず、

 

「だから、何という料理なの。とても典雅で独創的……まるで一つの芸術作品みたいね。食べ方とか、あるのでしょうか」

 

 少女はちょいちょい、と彼に向けて手招きをし、此方へ戻ってくるよう合図を出した。

予想外の事態に困惑を隠せない彼であるが、客人である者の言葉に逆らうわけにもいかず、素直に従った。

 

「教えてくださらないかしら」

 

 穏やかでとても大らかな微笑みを向け、少女は彼にそう言葉を紡ぎ、願う。

対して彼は口を開き悩み、精一杯の敬服心を持ってして、

 

「……こちらの料理に、名前はございません」

 

「あら」

 

「僕があり合わせの材料で作りました。即席の品でございます」

 

「……まあ。じゃあこのカラメルソースの流形線も、中心から微妙にずれているミントの葉も、全て貴方の手作りなの?」

 

「その通りです。お気に召しませんでしたか」

 

 仏頂面で、とても接客を心から楽しんでいる風体には見えぬ彼は、淡々と言葉を重ねた。

一方で少女の方はそんな事など気にも止めず、世間話を楽しむ風に口を開く。

 

「いいえ、桃は私の好物だもの。早速だけど、頂きますわ」

 

 本当に楽しそうに、嬉々としてフォークを手に取り、中心の桃の切り身を串刺した。

桃から垂れ落ちるヨーグルトがお皿の上に落ちるも、桃に満遍なくかけられたヨーグルトが、桃の表面から消え去る事はなかった。

 

 彼女は一口だけ桃の切り身を口に含み、頬に手を添えた。悩ましげな、黄色く高い声で感想を述べた後に、

 

「とても美味しいわ。名前がないのがとても残念ね……次回注文する時は、なんと訪ねれば」

 

 唇の端をヨーグルトの純白で染めた少女は、無垢な瞳を彼に向けてそう訊ねた。

彼女の言葉を聞いた彼は、視線を落とした。よくもつまらない事を聞いたな、と言わんばかりの表情で、

 

「次はありませんよ」

 

「……あら、どうして」

 

「近いうちに、仕事を辞めますから。これが最初で最後の、僕の手作り料理です。普段はあんこを練ってますから」

 

「……ふぅーん、そうなの。残念。今時菓子を創作する人も珍しいし、勿体無い」

 

 元々量の少なかった料理だが、それを食べ終えた少女は言葉を続ける。

 

「どう、私の下で働かない?」

 

「……はい?」

 

「どうせ今の仕事は辞めてしまうのでしょ。それならば私の下で、その腕を振るってみないかって。パティシエとか?」

 

 自ら言っておきつつも、疑問をぶつけてくる少女に彼は辟易としつつ、更に大きな疑問に包まれた。

 どうやら少女は彼の手作り料理を気に入り、どうせ仕事を辞めて放浪するのなら、自らの懐で暖め育てようという魂胆に違いなかった。

甘い物、特に桃が好物の少女にとって彼の手作り料理が、彼女を虜にするのはいともたやすい事であった。

 

 

 何の気もない、ただのスカウトだ。

別に彼が"天野義道だから"と言った理由でもない。そもそも彼女は、彼が"天野義道"だとすら気付いていないのだから。

大会当時とは大きく違い若干やつれた顔、ふるぼけた作業着姿のこの華奢な男が、まさかあの天野義道だとは、彼女ですら想像しなかった。中身が女性という事も、当然気付かない。

 

 彼女の名は"綿月豊姫"。

天野義道という人物を、妹の依姫と共に捜索の最中、途中で飽きたのか古びた菓子店で小腹を満たしに来ただけ。

 

 彼に向けて真っ直ぐに視線を交わし、微笑む豊姫。やがて追撃の言葉を放たれる……が、それは慌しい来訪者により、遮られた。

どたどた、と大袈裟な足音が次第に大きくなると、古びた扉が乱暴に開け放たれた。冷たい風の流れる方へ、それぞれが視線をやると、

 

 

「やっと見つけましたよ……何をしてるんですか、こんなところでっ!」

 

 低い鈴の音色が、扉が開いた事を知らせる。開かれた扉はあまりの力強さに、反動で再び閉まってしまった。

 来訪者は、垂れた兎の耳が付いている帽子を被っており、ひどく呼吸を乱しながらも豊姫に向けて言葉を放つ。

 

「突然行方不明にならないで下さいっ! 危うく捜索願をもう一枚、作成しそうになったんですからね……」

 

「あらま」

 

「あらま、じゃないですよ! さ、早く戻りましょう。あのお方にお仕置きされるのは嫌ですからね」

 

「うふふ、あの子も仕事熱心ね。私も早く見つけなきゃね、彼を……あ、ちょっと待って!」

 

 豊姫と玉兎のやり取りを傍観していた彼だが、長引きそうに感じたのか早々に部屋を後にしようと踵を返した。

"待って"と豊姫が声をかけるも、彼は知らぬ顔で扉に手をかけた。あくまで、聞こえぬふりを貫き通すという姿勢である。

 しかし彼が扉を開くよりも先に、それは開け放たれた。厨房側から、店主である男が先に扉を開けたのだ。吃驚する彼を尻目に、男は恐る恐るといった風に言葉をかける。

 

「ど、どうだい天野君、調子の方は」

 

 声をかけられた彼は、返事すら返さないまま視線を背けた。前からも後ろからも板挟みにされ、辟易とした表情をしていた。

 豊姫の耳にも店主の言葉が届いたのか、普段の穏やかな表情が一瞬にして崩れ去り、背中を見せる若男を凝視。まぶたを半分だけ落として、目付きを鋭くさせた。

 

 ──天野?

 彼女の脳裏に、店主の言葉が木霊のように繰り返された。

 

 一方で彼はと言えば、店主に対して"あー"だとか"いー"だとかのたまい、言葉を濁していた。

此方の方を見向きもしない彼に、再び言葉を放つ豊姫。だがそれは言葉として彼が認識するよりも先に、玉兎の言葉により上書きされ、掻き消された。

 

 

「んもうっ! 今日という日だけは従ってもらいますからね、豊姫様っ! 依姫様だって、いつまでも気が長い訳じゃあないんですからっ」

 

 ぷりぷりと怒る玉兎は、そう高々に叫びながら豊姫の腕を引っ張り、店外へと連れ出そうとしていた。

そして彼はといえば、店主に対して言葉を紡いでる最中に聞こえてきた、"豊姫"、"依姫"という言葉に反応し、漸く後ろへと振り返った。

 

 彼と豊姫の視線が交差する。極僅かな一時の間、彼らは見つめ合った。

お互いに何を考えているのか推測すら出来ぬ状況で、天野義道と綿月豊姫は今日、邂逅した。

 

 

「……名前に反応しましたわね」

 

「きゃっ!?」

 

 腕を引っ張っていた玉兎を夢中で振り払い、豊姫は彼を見据えたまま腰を上げた。

木造りの床が軋み、尻餅をついた玉兎は痛そうにお尻を擦っていた。スカートが捲れたが、背後に誰もいなかったので隠そうともしなかった。

 

 視線を交差させる彼と、豊姫。だがそれも、暫くすると彼のほうから視線を逸らし、厨房に繋がる扉に手をかけた。然も興味がないと言わんばかりに。

 

「お待ちになって。先日は、我が妹がお世話になりました。実は私、かねてから貴方のことを探していましたの」

 

 ぺこりと彼に向けて深く頭を下げ、豊姫が丁寧に挨拶をした。

彼はそれに反応し、再び振り返る。訝しげに、まぶたを落として豊姫に視線を傾ける。

 ──何故、依姫の姉である豊姫が自分の事を探していたのか。

いくつもの疑問の中で、最も推測のつかなかった事柄がそれであり、間もなく言葉として紡がれた。

 

「……あの、どうしてわざわざ僕の事を」

 

「愚問です」

 

 疑問を投げかけた彼であるが、即座に言葉を返される。言葉を詰まらせ、上唇と下唇が強く結ばれる。

 豊姫は目を瞑り、論者を諭すようにして言葉を紡ぐ。

 

「無能な選考委員会に変わり、私達が貴殿を迎え入れようと思っただけのこと」

 

「迎え入れる……って」

 

 意味がわからない、と。彼はそれを言葉にしようとしたが、遮られる。

 

「言葉の通りです。警備隊の枠組ではなく、直接私達の管轄下に……っと」

 

 そこで言葉を切り「ちょっと待って」と呟き、彼女は懐から何かを取り出し、それを見つめた。

取りだしたのは、難しい文字が書き連ねられている書類。若干目を通したかと思えば、再び懐に戻してしまった。

 豊姫は指を天高く掲げ、迷いなく口を開く。

 

「では、先ずは参りましょう」

 

「参りますって……っ!」

 

 指鳴らしと同時、彼の眼前の光景が一瞬だけ暗転する。瞬き程の時間で、周囲の光景ががらりと変貌していた。

まるで一瞬にしてテレポート……"瞬間移動"をしたと錯覚してしまう程に、それは一瞬の出来事であった。周囲にはあの玉兎も、鬱陶しい店主もいない。

 驚いた彼は両足で二歩、三歩と小さく地を踏み締める。足の裏から伝わってくる感覚で、"これは夢ではない"と理解し、豊姫に視線を向けた。

 

 

「……何をしたんですか」

 

「うふふ、少々戯れをね。安心して、危害を加える気はないから」

 

 瞬時に移転した場所は、先程の古びた菓子店とは大きく変わり、小奇麗で広々とした空間。

まるで何処かの"貴族の屋敷"のような、そんな高貴な風格さえも見せるその部屋の中央で、豊姫は再び彼に向けて、頭を下げた。

 

「先ずは、自己紹介が必要ね。初めまして、私は綿月豊姫と申します。此処は我が屋敷の一室……さ、安心して腰を落ち着けても構わないわよ」

 

「……僕は天野義道です。では、失礼して」

 

 

 彼は緊張の糸を張らしつつも、ある一つの思いを内に秘めていた。

 ──千載一遇。

そう、まさに千載一遇のチャンスではないのだろうか、と。

警備隊登用試験に不合格になり、帰りの身銭もなくなり不貞腐れて日雇いで収入を得る日々。お世辞でも、生産性のある日常の過ごし方とは言えない。

そんな時に、あの綿月姉妹の長女、綿月豊姫と出会った。

 

 そしてあろう事か、綿月豊姫から"勧誘"される次第となり、彼女らの思惑は分からないものの、好機には変わりないと彼は強く思った。

 

 彼は近くにあった洒落た椅子を選び、そこに腰を落ち着けた。

眼前に広がるは、アジアンテイストな刺繍のテーブルクロス。小さなテーブルを、それが覆い飾っていた。

 彼と対面する形で豊姫は座っており、彼女は懐から再び書類を取り出すと、それを彼にも見えるようテーブルの中央へと提示した。

 

「それで、勧誘の話だけど」

 

 朗らかな表情で豊姫は話を進める。彼は「はい」とだけ返事をし、書類に目を向ける。

 

「豊姫……さん。一つ良いですか」

 

「ええ、何でも」

 

「どうして僕なんかを綿月家に……その、僕は試験にも落ちましたし、適正だって分かったものじゃあ」

 

 彼が引き気味に豊姫に向けてそう告げると、彼女は言葉を繋ぐようにして「あー」と呟き、少し思考した後に口を開く。

 

「色々あるけど、一番は気に入ったから……かしら」

 

「……僕をですか?」

 

「そ。事の発端は私ではないのだけれど。けれど、こうして互いに顔を合わせて言葉を交わしてみれば、色々と見えてくるものもあるわね」

 

 相変わらず朗らかな微笑みで言葉を紡ぐ豊姫は、フィーリングも大事よね、とにこやかに呟いた。

 

 書類に目を通している彼に、豊姫は続けざまに言葉を放つ。

手に持っているのは筆の類であり、何やら書類に書かれている内容の一部に対し、横線を引いて修正を行っていた。

 

「よしよし。さ、天野君、読んで!」

 

「はい。えーと……」

 

 書類に記載されていたのは、綿月姉妹と仕事上での契約を結ぶことに関しての説明だった。

規約と表現するほど堅いものではなく、かといって約束事というほど軽いものでもなく、職務内容や待遇に関しての説明も含め、簡潔にまとめられていた。

最終的には主に対しての忠誠を誓う云々という事項にサインしなければならないのだが、彼は一つ疑問を抱いた。

 

「あの、この修正してる箇所って」

 

「あ、それは気にしなくていいのよ」

 

「でも……」

 

「気にしないで。さ、依姫が戻ってくる前に早くサインっ!」

 

 豊姫は席から立ち上がり、彼の背後に回って肩を押した。

サインの催促、"さっさと書け"という意思表示のつもりなのだろう。

 

 彼が疑問に感じたのは、最後の一文に対してだ。

何故か"綿月依姫"という文字に横線が二本引かれており、その横に堂々と"綿月豊姫"と書き加えられていた。

 

「これはつまり、主人が依姫さんではなくて、豊姫さんになるって事ですか」

 

「ん、そうね」

 

 悪意を欠片も見せずに、豊姫は肯定した。

依姫が作った書類なのよね、と小さく呟いていたのが、彼の耳にも届いた。若干、眉間を狭めた。

 彼は幾ばくか思考し、今後の行く末を考えてみたが──別に、姉妹のどちらが主人であろうとも、大した差はないだろうと結論立てた。淀みのない動きで、筆を走らせた。

 

「できました」

 

「はい!」

 

 豊姫は子供のように嬉々として、彼から書類をひったくった。

上部から下部へかけて、隅々まで目で文字を追いかけ、書類に不備が無い事を確認した豊姫は満足そうに頬を緩ませ、

 

「うん、問題なし。後は押印して契約完了ね」

 

 豊姫が書類に押印をすれば、彼と綿月姉妹の主従関係が成立する。

主人を綿月豊姫と定めた契約書はテーブルに広げられており、近くの引き出しから判子のようなものを取り出した豊姫が、朱肉に先端を擦り付ける。

ぐにぐに、とこれでもかという程に押し付けられた判子の先端は、真っ赤に染まった。

 

 さて押印するぞという刹那、彼はふと違和感を感じ、身を縮めた。

どこか神聖な、神々しさも含められたその違和感は、室内に設けられた扉の向こう側を発生源としており、彼は恐る恐る口を開く。

 

「豊姫さん。扉の外から何かが」

 

「……ッ、もう戻ってきたのね」

 

 舌打ち。一瞬、ほんの一瞬だけ表情を鋭くさせた豊姫は、ドンと判子を書類に押し付けた。

そしてテーブルに広げられた契約書を手に取り、綺麗に折りたたみ──

 

「あっ……」

 

「えっ」

 

 彼と豊姫が同時に驚愕の声を洩らすと同時に、眼前から契約書が消滅した。

粉が舞い上がるようにして霧散した契約書は、最早元の形を取り戻すことは不可能となった。

 

 驚愕の表情を浮かべる彼、悔しそうに唇を噛み、朗らかとは真逆の表情をする豊姫。

完全に契約書が消滅した後、扉の向こう側から感じていた神々しい気配が消え去り、静かに扉が開け放たれる。

 

 

「勝手に私の作った契約書を持ち出して、何をするつもりだったんですか、姉様」

 

「……あら、依姫。修練は終わったの?」

 

「とっくに終わっていますよ。午後からは私と姉様で、捜索報告書を処理する予定でしたのに」

 

「それならもう問題ないわ。現にこうして、彼は目の前にいるじゃない?」

 

 左手の平を彼へと向けて言葉を放つ豊姫だが、「見れば分かります」と依姫は冷たく言葉を返した。

扉から現れたのは薄紫色のポニーテールの少女、綿月依姫であった。

その表情は少々苛立ちを覚えているのか、決して穏やかなものではない事だけは直感で分かる。少なくとも彼は、圧倒された。

 

「姉様の捜索報告を聞いて、玉兎達に指示を出していた私の時間は、ただの徒労に終わりましたね」

 

「良いじゃないの、偶には風を追いかけて外に出ても」

 

「勝手に遠くに行かれては困ります。捜索する身にもなってください……屋敷から数時間もかかる隣接都市に行かれてたなんて」

 

「兎達の良い訓練になったと思えばいいじゃない。そういえば私のところまで来たわ、あの子。将来有望ね」

 

 にこにこと微笑みながら、妹である依姫を嗜める豊姫。

依姫は何か言いたそうに眉間に皺を寄せていたが、次第に無駄な行為だと悟り、深く溜息を吐いた。それから、ゆっくりと彼に視線を向けた。

 

 姉とは違う鋭い視線にたじろぐ彼。武舞台の時とはまた違った威圧感に、どう対処すれば良いか分からなかったようだ。

試合とは違う。プライベートな関係では、力を行使しての会話はできないし、普通はしない。見た目は凡そ同年代くらいの女性相手に、彼は困惑した。

 

「……どうも、お久しぶりです」

 

 探しに探した言葉がその言葉。まぶたを落とし、依姫から視線を逸らした。

頭を深く下げて依姫に言葉を紡いだ彼に、彼女は少し吃驚して表情を歪めたが、直ぐに平然を取り戻して言葉を紡ぐ。

 

「ええ、お久しぶり。ようこそ、我らが屋敷へ。さっきの契約書は忘れて頂戴……改めてお話ししましょう」

 

 腕を組みながら、早口でそう言葉を紡ぐ依姫。相変わらず、眉間には深い皺が刻まれていた。

どうやら神霊の力を行使して裏で色々と動いていたらしく、豊姫の行動は彼女に筒抜けであったようだ。

説教じみた、依姫の話が始まった。

 

 

 

* * *

 

 

 

「……まさか一週間ほどで見つかるとはね」

 

 洒落たアジアンテイストな造りの椅子に腰掛け、足を組んだ依姫がそう呟いた。

テーブルの向かい側には彼が座っており、依姫の隣りには豊姫が座っていた。

広げられた契約書は新たに作成されたものであり、契約主の名前には依姫の名が刻まれていた。隣りでは豊姫が不貞腐れた表情をしている。

 

「それにしても姉様、何故彼を気に入ってしまったのですか」

 

「決まってるじゃない。彼、とても美味しい桃のデザートを作れるのだもの。庭で元気に育っている桃の木があるのだから、彼がいれば食後は毎日デザートのフルコースを……」

 

 自信満々に言い紡ぐ豊姫だったが、依姫の冷たい視線に晒されているのに気がつくと、語尾を弱めてしまった。

 

「ま、何はともあれ、これで契約は成立ね。今後は私達の下で……」

 

 依姫が言葉を紡ぎながら彼に目を向けると、彼はぼーっと依姫の顔を凝視しており、疑問に感じた依姫は言葉を止め、彼に質問した。

 

「どうしたの、ジッと見て。私の顔に何かついてるの?」

 

「あ、いえ。依姫さんの顔が、僕の古い友人に似ていたもので」

 

「……そう」

 

 まぶたを半分だけ落として表情を曇らした彼を、依姫は深く言及しようとはしなかった。

恐らく過去に何かしらの葛藤があったのだろうと推測した依姫は、話題を変えるようにして言葉を放つ。

 

「ふぅん、間近で見てみると貴方、端整な顔立ちをしてるわね。失礼かもしれないけど、男っぽくない」

 

 不意に出された外見の話題。依姫に悪意めいたものはなく、思い浮かんだ事柄を率直に述べたまで。

けれど彼はそれを不服に思ったのか、皮肉気味に言葉を返す。

 

「はあ……。依姫さんは、割りと僕の想像通りの人ですが」

 

 彼と依姫が視線を交差させ、互いに見つめ合った。

表情の隅々までを凝視する依姫に対し、彼も負けじと彼女の顔を凝視する。

 

 彼の顔立ちは凡そ中性的というか、どちらかというと女性寄りの顔立ちであり、そもそも肉体が女性なので当然の事なのであるが、肩幅も男性と比べると小さい。

髪の毛は漆黒を呈す黒であり、およそ耳が隠れる程度のショートヘアーだ。最近はえりあし部分も伸びているので、ウルフヘアのようにも見える。

 

 互いに見つめ合っていた両者であったが、先に依姫が視線を外した。視線を外し、溜息にも似た何かを吐き出した。赤らけた頬が何を示すのかは不明だが、そのまま口を開く。

 

 

「そうだ、彼の呼び名を決めましょうか」

 

「呼び名?」

 

 彼と豊姫がほぼ同時に疑問の声をあげ、依姫に視線を向けた。豊姫は直ぐに合点がいったのか、成る程と呟く。

 彼女は何処からか筆と一枚の白紙を取り出し、テーブルの上に広げた。用意した筆を彼に手渡し、墨がない事に気付いた。

取って来ようと行動する依姫を豊姫が制し、手の平からパッと墨の入った受け皿を用意してみせた。

その一連の流れに驚く彼を尻目に、姉妹らが穏やかな笑みで表情を染めた。そのまま、依姫が彼に向けて言葉を放つ。

 

「この紙に、貴方の名前を書いてちょうだい」

 

「はい。……天野、義道……っと。どうぞ」

 

 さらり、と白紙に彼の名前が書かれた。墨があちらこちらに飛び散り、自らの下手さ加減に彼は辟易した。

 

 天野義道、とまるで習字のように書かれた紙を依姫達側に向け、彼女ら二人は何か思案するような仕草を始めた。

恐らく彼の呼び名を定めるつもりであり、そのヒントを彼の本名から得ようとしているのだろうか。依姫は瞳を閉じて、豊姫は悶々と思考していた。

 

 綿月姉妹達は、よく玉兎を"ペット"と称し、勝手に命名して配下に置いたりする事がある。

命名や呼び名等は全て彼女達のさじ加減。見た目に相応のものもあれば、不相応なものもある。女の子なのに、男らしい気高い名前を授けた事もあるそうだ。

それらは言わば癖なのだ。後輩にあだ名をつけるのと何も変わらない、気軽に呼びやすい呼び名というものは、互いの信頼関係を助長する効果があるのだから。

 

 数分程思考をした姉妹は、互いに呟きあってヒントを出し合った。

依姫が「天津麻羅」と呟いた。即座に、豊姫が一蹴。彼女は続けて「天ちゃん」と呟き、今度は依姫がそれを一蹴した。

 神々しくも仰々しい呼び名を授けようとする依姫に対するは、可愛らしくも身た目不相応な名前を授けようとする豊姫。

「義道だから"よっちゃん"」と豊姫が言い出した時には、傍観していた彼も流石に抗議の言葉を放った。勿論、依姫も意義を申し立てていた。

 

 試行錯誤、紆余曲折し漸く決定したのか、依姫が筆先に墨をつける。

筆が流暢に動き、純白の紙に命名を書き連ねる。当然、墨は飛び散らずに。

 

 

「できました。貴方の名は『天道』──天の道を往く者。以後、そう名乗りなさい」

 

 彼が執筆した天野義道という名前の、"天"と"道"の部分に丸印が施されており、依姫が彼にそう告げた。

若干不服そうな豊姫が、納得の行かぬ表情で呟く。

 

「"天道"という文字は、様々な史記や学書で用いられたりするけど、名前負けしていないかしら?」

 

「そうですね。ですが名前に負けぬよう、向上心を持って臨んでほしいと思っていますからね。そういった意味では、今は名前負けしていようとも全然」

 

「ふぅん、そう。負けたといえば、彼との模擬仕合を思い出すわね」

 

「……あ、あれは私の勝ちですが」

 

 名前負けしている事を突っ込まれた依姫だが、何故か突然模擬仕合の事まで突っ込また。命名を不服に思っていた豊姫の、児戯にも似た抵抗に違いなかった。

しかし豊姫の言うことにも一理あり、壮大な意味を込めて名を付けてしまえば、必ずリスクが付き纏って来るというもの。

 けれども彼に限って、いつまでも名前に負けているようではないだろうと、依姫は思っていた。いずれ名前に体がついてくると言い張り、言葉を曲げなかった。

 

"天道人を殺さず"、"天道是か非か"

 

 などと、天道という文字に関した様々なことわざがある。

この世の秩序や道理は、果たして本当に正しいのか。そんな意味を表していることわざだ。

天野義道というたった一人の、ちっぽけな人間にそのような名前など、不相応であると彼は自身でも感じていた。

この先の永い永い生活において、果たして彼は名前負けをせぬような風格を得ることができるのだろうか。委細不明である。

 

 尽きぬ疑問は多々あるが、彼は豊姫達の言葉を聞き入れると、そっと口を開く。

 

「……分かりました。今後ともよろしくお願いします、依姫さん、豊姫さん」

 

「此方こそよろしく、天道」

 

「歓迎するわ、天道。さぁ、先ずは厨房の場所と、美味しい桃の実がなる樹の場所を教えるから、頭に入れておくのよ?」

 

「姉様、それは後にして下さい」

 

 ……先行きを不安に感じる彼であるが、先の長い将来の事を考えると、それも露と消えた。

 

 満月が満ち欠けるような速さで過ぎていく月の生活は、最早永遠とも取れる感覚に近い。それはまるで、生き地獄。

しかしそれでも、彼は月の生活を謳歌する。

綿月姉妹達により、彼の本当の名前──天野義道は消失し、伏せられた。

 新たな名前、天道となった彼は、綿月姉妹達と共に、長くとも短い月の生活を営んでいくのであった──外来人として、謙虚に慎ましく。そして時には、冷酷さも兼ね備えて。

 

 

 







以上となります。
ここから綿月姉妹達を中心とした話になり、三人称視点になります。
いざ読み返してみると違和感が多いですね。
修正しつつ投稿をしておりますので、次話はもう少々お待ち下さいませ。
ここまで執筆し続けて気付いた事があるのですが、やはりダークな話の方が執筆しやすいですね。
それでは次話も、よろしくお願いいたします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。