東方外来禄 -往年幻想物語-   作:くりすてぃあーね2世

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巻ノ三十八 偉人と悲人

 目的の薬品を入手した彼は、それを羨道の下へ送り届けようと考えていた。

結局のところその薬品は彼の望む効能を引き出す物ではなく、ならば何故そんな薬品を入手してこいと指示してきたのか疑問に思うところであったが、深くは詮索しない事に決めていた。

 

 彼が必要としているからこそ、入手してこいと指示をしてきたのだろう。

彼は命の恩人でもあるし、その願いを聞き入れぬわけにもいかない。寧ろ薬品は既に入手しているのだ、面倒臭いからといってそれを放棄するなんて事は出来ない。

 

 天道はそう思考し、当の薬品を厳重に梱包した。月の都の中で最も規模の大きい運送会社に依頼し、彼の下まで届くよう手配した。

驚くべきことに、手続きはあっさりと済んだ。まるで駄菓子屋で甘菓子を購入するかのような、その程度。

 

 連絡もなしに荷物だけ一方的に送りつけるのは失礼だろうと、彼は羨道へ向けて電話をした。

遠く離れた者同士の音声を繋げる機器は、彼も使用した事があるので何も問題はなかった。

 

 

 結論から言えば、羨道は彼を大いに祝福した。

テレビ中継でトーナメントの模様を観戦していたのだろう、あれ程の活躍をすれば絶対に合格できると確信していたからこその、賞賛であった。

 それは彼が"不合格だった"と告げるまで続き、事実が伝えられた途端、羨道は我が事のように落ち込み、彼を慰めた。

しかしそれは無用な事であり、結果的に"綿月姉妹の下で従事している"という旨を告げると、再び嵐のような賞賛が彼を包んだ。

 

 そして目標である薬品が思いの他早く入手できたので、それを羨道宛てへ発送した事を告げた。

誰にでも言い辛い事の一つや二つはある、彼もまたそういった事の一つや二つは有しているので、羨道に対して探りをいれるという行為はしなかった。

寧ろ快く薬品を受け取ってもらいたいとさえ考えていたので、羨道が製薬するといった"魔力を増長させる薬"は不要だという旨まで、確実に告げた。これ以上迷惑もかけられまい、と。

 

 羨道はその事を疑問に思ったのか色々と訊ねられたが、彼が"八意永琳"の名前を出すと、その質疑もピタリと止んだ。

『彼女は天才だから、安心して君を任せられる』

含むようにして告げられたその言葉は、羨道と永琳は知り合いなのだろうか、と彼に推測の余地を与えた。

それとなくその事を訊ねてみると、どうやら研究者の間では八意永琳とは"神的存在"であり、世間一般市民でさえも彼女の名は知らぬ程有名だったらしく、彼は大いに驚嘆した。

失礼な話であるが、彼は永琳に薬を盛られ、まんまと秘密を暴露させられてしまった相手だ。永琳に対しては、あまり良い感情は持っていなかった。

 

 その他、様々な世間話を終え、彼は羨道との通話を切断した。

『また会う時もあるだろう』と、最後に告げられた言葉はそれだけだった。

彼が疑問に思う事は多々あるが、羨道に薬品を渡すことが出来たので、今は良しとした。

永琳曰く"燃料"に近いその薬品は、重機等を稼動させる為に使われるのではないかと、彼女は推測していた。

 

 さて、今日も彼は職務だ。今日は豊姫の下で事務的な仕事や、調理などで奉仕をしなければならない。

彼は大急ぎで身支度を整え、すぐさま行動に移った。窓からほろほろとこぼれる春の陽射しが、彼の心を優しく包み込んだ。

 

 

 

* * *

 

 

 

 彼の一日は多忙の極みを呈していた。

綿月家警備隊とは比べ物にならない程、彼一人に対する仕事量は膨大であった。

 

 まずは依姫との早朝鍛錬から彼の一日は始まり、その後に依姫と豊姫、二人分の朝食を作らなければならない。

早朝訓練がなければ朝食作りが先行されるのだが、それでも一日の開始は早かった。

 

 朝食を作ったら休憩かと問われれば、そんな事はない。

綿月姉妹達によって管理されているスケジュール表に則り、昼過ぎまで職務を行わなければならないのだ。

ある時は依姫と再び稽古を重ね、ある時は依姫と都の警邏を行い、またある時は豊姫の雑務処理の手伝いをする。これらは全て、主に午前中に行われる日程だ。

 

 昼食も勿論の事、彼が調理しなければならない。朝は控えめで作らないと豊姫が煩く、昼食に至っては午後の動力源だといって、精のつくものに拘らなければならない。無論、朝食は一日の活動源であるが。

兎にも角にも食事関係は全て彼が担当しており、姉妹達の要求を呑みつつ調理しなければならない為、かなり骨が折れる仕事だった。

この点に関しては致し方ないと、彼も受け入れているのが幸いか。常人ならばあまりの激務により、夜逃げしていたかもしれない。

綿月姉妹達の住む屋敷の一室を借り、日々そこで生活をしているのだから、寝床を無償で提供して頂いている代償だと半ば諦めているらしい。

 

 そして午後にもなると、身体もかなり解れてきている時間帯。

午前中と似たような日程をこなしつつも、時間を消化する毎日。

 実は彼は、綿月姉妹達"二人"の付き人として行動しているので、午前中と午後で付く側が変わるのだ。

つまり午前中は主に依姫に、午後は主に豊姫に、といった感じで従事しているのだ。彼としては天真爛漫かつ、朗らかな豊姫に就いていた方が気が楽だと感想を述べていたようだが。

勿論であるが、突発的な用事や急な呼び出し事に関しては、その限りではない。突然午後に依姫に呼び出されたかと思えば、突然厳しい鍛錬が始まったり。心の休みどころがなかった。

 

 そうして嵐のような日中を終え漆黒の夜が訪れると、今度は夕食の準備である。

夜に関してはがっつりと、豪勢なもので一日を締めくくるのだ。幸いにも材料や設備、調味料に関しては何も問題はないので、心置きなく作ることが出来る。

その点は流石に綿月家だなと、彼は納得の声をあげた。錆びたガスコンロの上にヤカンを載せて湯を沸かす生活も、過去の事だ。

 

 流石に夜になったら訓練は行われない……時の方が多い。稀に依姫が訓練を継続する事があるので、彼は夜になっても日々肩を震わせていた。

それでも最近は豊姫が『デザートが食べたい』と強引に彼を連れ出してしまうので、訓練が行われる事は本当に稀なのである。その点に関して、彼は豊姫に深く感謝をしていた。

 

 晩餐も終わって風呂も終わり、綿月姉妹達と幾許かの会話を楽しんだ後、漸く彼の一日が終わりを迎える。

無論、油汚れや食べ粕の付着した食器類を全て洗い終わった後、だが。

何だかんだで姉妹達よりも床に就く時間が遅く、仮に"残業代"という概念が存在するのであれば、それだけで彼の懐は大いに暖かくなること間違いなかった。

 

 

 本当に多忙で、仕事に追われながらも精一杯生きている彼であるが、不思議と後悔の念は一切なかった。

むしろ月に訪れてから最も充実している日々を送っている、とさえ思う程である。

生真面目な依姫と天真爛漫な姉の下で従事していると、予測不可能な事が度々起こり、彼は退屈せぬ毎日を送っていた。先月も、先週も、昨日でさえも。

 そうして本日も、彼は依姫と共に行動していた。付き人としては珍しく、隣りに並んで歩いていた。

 

 

「平和ですね、依姫さん」

 

 彼が隣りを歩く依姫に対し、何の気なく呟くように言葉を吐露した。

互いに帯刀して警邏に勤めているのだが、この月の都市で不埒を働く者は僅かしかおらず、日々の警邏は最早ただの散歩と化していた。

今日は午後に警邏の予定が入っていた為、一日中依姫に付いて職務を遂行していた。無論、散歩化しているとはいえ立派な警邏。手を抜くような事は決して有り得ない。

 隣を歩いていた彼がふと呟いた言葉に、依姫は視線を向けず正面を向いたまま、

 

「平和で何よりよ。貴方もそろそろ、警邏には慣れてきた?」

 

「はい。僕の一日の中で、唯一の安穏とした時間ですので」

 

「……どういう意味」

 

 依姫の返しに、彼は失言したと言わんばかりに顔を顰めた。ジト目の依姫に、顔向け出来ない。

激しい訓練や修練の時間とは大きく異なり、警邏の時間はとても穏やかな時間であると同時に、自然や人々の営みなどに身近に接する事ができるため、とても有意義な時間なのだ。

有意義といえば聞こえは良いが……彼にとって、心休まる休息の時間と言い換えても語弊はなくて。

 場の空気を少々濁してしまったと思った彼は、話題を変えようと言い繕うようにして、

 

「そ、そういえば。依姫さんは来季から、警備隊の隊長に昇進されるのですよね」

 

「ええ。それがどうかしたの?」

 

「ならそれなりの指導術だとか、そういうのは勉強しなくても」

 

「まさか。個人的に学んでいるわよ。けれども、今までは玉兎達に指導していた経験もあるから、然程気にしてないけど」

 

 やれやれ、といった風に両の手を遊ばせ、依姫がそう言い放った。

彼女は以前、素行の悪い玉兎達相手に指導を行っていた身であり、そして今度からは人間達相手にも指導を行う身となるのだ。

大規模な警備隊には幾つもの隊が存在し、素行の悪い玉兎達によって構成されている部隊から、選りすぐられた人間達によって構成されている部隊と、大小様々ある。

いつまでも依姫を玉兎隊の隊長格に留めておくのは勿体無いと、試験での活躍も相成り来季から昇格、といった形になっていると、彼は聞き及んでいた。

 

「昇進するのは構わないんだけどね。あの娘達相手に指導できる教官が、他にいるのか心配よ」

 

「……玉兎隊の事ですか」

 

「そ。上っ調子で自主鍛練もまともに行わないんだから、あの娘達」

 

 拳を握り締め、何だか悔しそうな表情でそう呟く依姫を見て、彼は不思議に思った。

あの依姫が指導に苦しむとは、玉兎隊とは余程捻くれた連中なのだろうか、と。自分の場合は抵抗すれば、即座に鉄拳制裁が待っているのに、とさえ思っていた。

 

「後任の教官に引継ぎもしないといけないんだけど、まだ候補となる人がいないのよ」

 

「自ら玉兎隊の指導をしたいって人がいないんですね」

 

「ええ。誰でも出来るってわけじゃない上に、候補となる資格のある人は皆、今の立場から降格になる人ばかりでね」

 

 素行の悪い玉兎隊の隊長など、所詮は底辺の管理職に過ぎぬという事だ。激務薄給……その上組織的な地位も低い。

そんな割の合わぬ職務を引き受けるお人好しなど存在せず、今の今まで依姫が担当して指導に当たっていたのだ。

仮にこのまま後任が現れなかった場合は、依姫が兼任して指導を続行するか、最悪は玉兎隊は解散という結果になるだろうという事は、彼にも予測が出来た。

 

「はぁ……誰か立候補してくれないかしら」

 

「……」

 

 依姫の呟きに彼は、ただただ黙を貫く事しかできなかった。

 この日も平和な月の都の警邏を済ませ、日没前には他の警邏班と交替し、別の職務に当たった。依姫の表情は明るくも、どこか憂鬱としたものに包まれていた。

 

 翌日も、その翌日も彼は淡々と与えられた職務をこなしていった。

月の都での生活は、彼が想像に描いていたよりも幾許か……否、かなり平々凡々かつ、十年一日の如き生活であった。

始めこそは環境に適応するのに精一杯でありながらも、初めての経験や体験などばかりで新鮮さに満ち溢れていた。

しかしそれも数ヶ月もすれば、何の事もない。満月が満ち欠けるように、何気ない生活へと成り下がっていたのだ。

 

 依姫や豊姫の相手は相変わらず、波乱万丈の極みを呈しているが、それでも身体がその刺激に慣れ始めていた。

天真爛漫な豊姫に振り回され、生真面目な依姫に扱かれて。しかしながらそんな生活も、もう少しで変わってしまう。

来季には依姫も警備隊隊長として就任する為、彼に費やす時間が減ってしまうからだ。扱きの日々は辛かったと思う彼もその事実に、もの寂しさを覚えずにはいられなかった。

 就任するにあたり、依姫は様々な問題や悩み事を抱えていた。その中の一つである"玉兎隊の隊長"の後任が存在しない件について、彼も思い悩んでいた。

 

 自分が立候補してしまおうか──そう考えていたのだ。

しかし彼はあくまで"綿月姉妹の付き人"に過ぎず、"玉兎隊の隊長"という役職を与え任命するには、些か難儀する問題でもあった。

理由としては、警備隊はあくまで綿月家という組織の管轄下に置かれている為、彼自身に与えられた"綿月姉妹の付き人"というのは、綿月豊姫、依姫両名による個人的な役職……つまり、言ってしまえばペットに過ぎないのだから。

無論彼は人間なので、ペット扱いを受けることはないのだが、そんな一介の人間がいきなり隊長格に上がるなど、到底考えられぬ話でもあった。

 

 

 そんな折、彼の下へひとつの連絡が入ってきた。

 

「天道ー、いるー?」

 

 何処からか、不意に自分を呼ぶ声が聞こえてくる。

そう思った彼は周囲に視線を配り、それがひとつ壁を隔てた先から聞こえてくるものだと理解し、近くの扉を開いた。

 

「はいはい、此処にいますよ」

 

 彼が扉を開いて間もなく、一人の少女と対面した。ふわりとした金髪が、空気圧で揺れる。

扉の前に居たのは、綿月豊姫であった。彼は扉を開けてすぐに、彼女の胸のあたりに視線を向けた。見ると彼女は洒落た網籠を両手で抱えており、その中には沢山の桃で埋め尽くされているのが分かる。

 

「今日は直ぐに出迎えてくれたわね。良い子、良い子」

 

「……はあ」

 

 器用に片手と片膝を使って網籠を支え、空いた方の手で彼の頭を撫でて褒める豊姫。

嬉しいとも悲しいとも取れぬ言葉を吐露した彼は、網籠からいくつか転がっていった桃に目を向けるばかりであった。

ごろん、と積まれていた桃が網籠から落ちて、床の上をころころと転がり彼のつま先にぶつかる。彼はそれを拾い上げ、豊姫に向けて言葉を吐く。

 

「またこんなに摘んで。依姫さんに怒られますよ」

 

「大丈夫、見つかる前に食べてしまえばいいのだから。さぁ、早速何か作って」

 

 どん、と近くの机の上に網籠を置く豊姫。衝撃でまたひとつ桃が転がり落ちそうになったが、豊姫がそれを支えた。

外見から察するだけでも十個以上はある桃に対して、彼は難儀した。桃で埋め尽くされた網籠と豊姫を交互に見てから、

 

「と言いましても、こんなに沢山用意されたところで、使うのは精々一個、二個程度ですよ。残りはどうするんです」

 

「一人で食べるよりも、二人で食べた方が美味しく感じるからね。一緒に食べましょうよ」

 

 彼女がそう微笑んで伝えると、共犯者は多い方が良いからねと、呟くようにして最後に付け加えた。

彼はさぞ辟易したであろうが、元より断るつもりなどなかったので、素直に網籠を抱え厨房へと消えていった。ふぅ、と密かに吐いた溜息もなるべく小さくして。

 

 

 暫くして厨房から戻ってきた彼を待っていたのは、豊姫の急かしの言葉であった。

「遅い」と冷たく言い放たれた彼は、その理不尽さに顔を顰めるも、淡々とデザートを豊姫へと提供した。

 

「お待たせしました。といっても、どれも似たり寄ったりですが」

 

「わあ」

 

 ぽん、と両の手の平を合わせて豊姫は歓喜の言葉を洩らした。

彼女の目の前には様々な、桃をふんだんに用いた料理が並べられていた。

 

「桃のパフェに、こっちは焼いた桃です。それでこっちがピーチパイで、これは杏仁豆腐に桃を混ぜたもの。で、これはお酒に漬けた桃です」

 

「へぇ、素晴らしい品揃えね。よくもまぁ、こんなに思いつきますわね」

 

 これは褒め言葉だろうと思った彼は、素直に受け止め喜んだ。

そもそも月の書店に置いてある料理本から得た程度のレシピなので、本当に美味しいかどうかは食べてみないと分からないのだが。勿論そんな事は伝えず、淡々と言葉を並べる。

 

「これは桃で作ったジュースです。果肉たっぷり、歯ごたえもバッチリです」

 

「美味しそうね。さ、天道も座って、一緒に食べましょ!」

 

 早く早くと豊姫に急かされながら、身につけた小さなエプロンも外さずに彼は着席し、豊姫と対面した。

彼女はにこにこと微笑んでおり、彼は心中思った事を素直に吐露する。

 

「いいんですか、豊姫さん」

 

「どうしたの?」

 

「こんなに甘い物ばかり……太りますよ」

 

「……う」

 

 彼の言葉を耳にした豊姫は、一瞬にして笑顔に皹が入り、罰が悪そうに彼へ視線を向けた。

 

「だ、大丈夫よ。最近は運動もしてるから、身体が甘い物を欲しているの。ほら、私甘党だから」

 

「……はぁ」

 

 それは関係ないのではないかと彼は思ったが、口にはせず心の中で留めておいた。

けれども実際問題、豊姫に関しては依姫よりも身体能力は高くなく、鍛練も毎日欠かさずに行っているというわけでもない。運動はしない日の方が多い始末だ。

 だがそれでも、彼女の身体能力は一般の月人と比べると、遥かに強いという事は、彼も存じているところである。

というのも全ては彼の推測に過ぎないが、この前豊姫が屋敷の二階から飛び降りるところを彼が目撃し、慌てて中庭に駆けつけてみたところ、平然とした表情で桃を摘んでいる豊姫を見て、実は自分で思っているよりもずっと屈強な人なのではないか、と彼はそう思っていた。

なので間食の一度や二度で太るという事はないだろうと考えた彼は、無粋な言葉をかけるのは止めて豊姫と共に桃料理を食する事にした。

 

「あまり食べ過ぎると、今晩の食事が食べられなくなりますよ」

 

「大丈夫だってば。ほら、依姫に見つかる前に食べましょ!」

 

 フォークを勧める豊姫に釣られ、彼も同様に食事を進めた。小さなデザート用のフォークを手に取る。

彼女は仕事場だとしっかりしているのだが、プライベートな事になると途端、口調や態度が見た目相応な女の子っぽくなり、彼的には依姫よりも関わりやすいと思っているようだ。

依姫は普段から生真面目なため、たとえプライベートであっても、公的な状況と変わらぬ態度で接しないといけないので、疲れる。……と、彼は食事をしながら、豊姫にそう愚痴をこぼした。

 

「へぇ、そうなの。あの娘の生真面目っぷりは生まれつきだから、一々気にしていてもしょうがない事よ」

 

「そうなんですがね。でもやはり、豊姫さんと比べてしまうと、一層際立つといいますか……」

 

 彼は依姫と豊姫、交互に付いて回っている為、依姫の厳しさに中てられた反面、豊姫の優しさや包容力を受けると、その差を肌身で実感してしまうのだ。

勿論依姫にも彼女なりの良いところや優しさなどを知っているので、彼女の事を批判しているという事は一切ない。むしろ、一人の武人として敬意さえ抱いているといっても過言ではないのだから。

 

彼の愚痴を淡々と聞いていた豊姫は、やがてけたけたと笑い出すと、パフェの一角を専用のスプーンで切り崩し、それを口元に運んだ後に言葉を放った。

 

「あはは、警邏中に市民と話してただけで仕置きをされたの?」

 

「ええ……何の前触れもなく、突然」

 

「ふぅん、そう……もしかしたら、貴方との距離関係がまだ掴めていないのかもね」

 

「距離関係、ですか」

 

「そ。昔っから武道に精通してたもんだから、異性との交流をほとんど経験した事がないの。それでいきなり、自分と対等の実力を持つ異性が現れたものだから、困惑しているのかも」

 

 依姫に関してそう推測する豊姫だったが、それは彼女自身にも言える事であった。

同性ばかりの環境で育ってきたのもあり、普通なら身体能力は男性の方が上なのにも関わらず、女性である依姫に敵う男性は一人としていなかった。

それどころか、彼女の足元にすら届かぬものばかり。そんな環境下で育ってきたものだから、"男とは弱い生物"と考えてしまっているのかもしれない。

 そんな折に、彼が現れた。

神霊を行使する依姫を相手に、喉笛を噛み千切らん勢いで善戦し、彼女を苦戦させたのだ。

彼の内情はさて置き、突然現れた異性の実力者に対して依姫はどう接していいのか……それどころか、拮抗した実力の男性に対してどう接すれば良いのか──そこから始まっていた。

職務中ならば男女分け隔てなく接する事の出来る彼女も、プライベートな関係になると、途端に距離関係を保つ事が出来ずに、困惑してしまうのだろう。

 

「そうね……依姫は真面目な娘だから、今まで通りで良いんじゃない?」

 

 豊姫はそう言いながらも、目の前にあるパフェをいつの間にか平らげており、ピーチヨーグルトにまで手を出していた。

 

「下手に言葉を並べても、訝しげに思われるだけでしょうし。気詰まりな関係も時間が解決してくれるでしょう。それこそ、依姫が自然と心を開くまで、ね」

 

「……そうですね。僕は一介の従者に過ぎませんし、余計なお節介は──」

 

 彼が言葉を紡ぐ途中、豊姫はフォークの先端を彼に突きつけた。鋭く、研ぎ澄まされた刃物のように言葉を返す。

 

「それもいけないわね。貴方は、ただの従者じゃあないのだから」

 

 豊姫はまるで語り手に成りきったかのように言葉を紡ぎ、更に続ける。

 

「仮にも貴方は、依姫の膝を崩した唯一の相手。にも関わらず自らを蔑むような言動を行うのは、依姫に対する侮辱行為にも等しい」

 

「……すいません」

 

「天道……よく聞いて。私達は一度たりとも、貴方を端くれ者として卑しめた事はないわ。私は勿論のこと、依姫も貴方とは対等の立場になりたいと考えている筈よ」

 

 豊姫がそう言葉を放ち彼を諭すと、周囲は静寂に満たされた。

自分と実力が近い──或いは上の実力の者が、次の日には従者となり謙った態度を取る。そんな事、誰とて応対に困る事は必然である。

何よりも綿月姉妹は、彼を対等の立場と考えており、形式的には付き人であるものの、心情では彼に対して敬意にも似た感情も抱いているのだ。

依姫と対等の実力を持ちながら、料理に精通しており、環境の適応力にも優れている。そんな何気ない事であるが、実際に全てこなしている様を見ていれば、綿月姉妹でなくとも驚嘆に値する程だ。

 豊姫に諭された彼は、ふぅ、と吐息した。俯き気味だった表情を少しだけ上げ、豊姫の鼻頭に視線を向けて、

 

「でも依姫さんは、屋敷でも僕に対する当たりが強いんですよ」

 

「……そうなの?」

 

「仕事以外の話なんて、ほとんどした事ないですよ。接する時間が長いので、何とかして仲良くなりたいんですが……」

 

 勿論、建前上では付き人として彼を雇用している為、職務中は上下関係を明確にするのは極当たり前の事である。

彼と綿月姉妹は同じ屋敷で共同生活をしているので、職務が終わった際も屋敷では仲良く従者間の交流をしている。

 けれどもそれは、豊姫だけだった。

依姫に関しては、屋敷で生活をしている時も彼につんけんした態度を取っており、彼はその事に関して思い悩んでいたのだ。

 

 そして同時に彼は、ある事を考えていた。考えていたというより、既に意思を固めていた。

それは依姫が日中の警邏の際に、洩らしていた言葉に関して。口元に指を当てて思案する豊姫に向けて、彼が言葉を続ける。

 

「実は玉兎隊の後任が決まらないとかで、依姫さんが思い悩んでいまして。僕で良ければ、何とか力になれればなと」

 

「そういえば、そんな事も言ってたわね。後任が現れなかったら、私が引き受けようと考えていたのだけれど……」

 

「そうなんでしたか」

 

「ええ。そうね……その事に関して力になりたいって言うのなら」

 

 豊姫は食事の手を止めた。彼の表情を見据えて、にやりとほくそ笑むようにして言葉を放つ。

 

「天道、貴方がやってみては」

 

「……良いんですか?」

 

「ええ、勿論。決定権があるのは私じゃないけど、依姫の鍛練についていけてるのなら、玉兎隊の指導なんて簡単、簡単。お茶の子菜々よ」

 

 軽い口調でそう言い放つ豊姫は、再び食事の手を動かし始め、近くのデザートに手を出した。

フォークの先端が桃の切り身を貫き、果汁がしたたり落ちる。それを口元に運び、ほおばる前に、

 

「貴方さえ構わなければ、話を上げておくけれど」

 

 豊姫が、そう言った。彼の答えを待つまでもなく、桃の切り身は彼女の口の中へ運び込まれた。

彼女の提案に対して彼は、思考するまでもなく軽快な口調で答える。その口調はまるで、近くの店までの買い出しを了承するが如く、

 

「よろしくお願いします」

 

 とだけ。小さく頭を下げ、豊姫に言葉を返した。

彼女はにこりと微笑む。それを了承した旨を彼に告げた後、再びデザートを食べる。

 

 その後も大量に作られた桃のスイーツ類を二人で食べながら、彼らは世間話に浸っていた。

半刻ほども経過すると調理されたデザートも徐々に姿を消してゆき、多くは豊姫の腹の中へと綺麗におさまっていた。

彼は豊姫の食べた量の半分も食べると、「もう食べられない」と限界に達し、後の時間は豊姫の食事風景を眺めるだけであった。

 

「あ、そだ」

 

 不意に豊姫が何かを思い出したのか、短く呟く。

それには彼も少し驚いたのか、どうしたんですかと言葉を返した。

 

「お師匠様から言伝を預かっていたの、忘れてたわ」

 

「お師匠様……ああ、八意さんですね」

 

「ええ。"今晩、話があるから研究所まで来い"とね」

 

 最後となる桃の白ワイン漬けを食べていた豊姫が、さらっとそんな事を言ってのける。

それを聞いた彼は、ふと窓の外へと視線を向けてみる。……言うまでもない、とっくの昔に外は暗がりに包まれているのだ。

 

「あの、豊姫さん」

 

「ん、なに?」

 

「今晩って、今がその今晩では」

 

「そうね。あー、美味しかった。また作ってちょうだいね」

 

「……もしかして僕、既に遅刻してるのでは」

 

 恐る恐る訊ねる彼に、豊姫は悪びれる素振りすら見せずに、急がないと大変な目に遭うわねと、他人事のように述べた。うふふ、と苛めっ子の微笑みで、彼に優しい視線を向けていた。

 

 彼女の言葉を聞いた彼は、すぐさま部屋から飛び出す。脱兎の如く、小走りで永琳のいる研究所まで向かっていった。

片付けるべき食器も片付けず飛び出た様は、豊姫の頬笑を誘った。

 

 

 

* * *

 

 

 

 月の裏側に存在する世界にも、漆黒の宵闇は訪れる。

それは自然の事象によるものなのか、或いは人工的に造りだされた幻想によるものか、彼には分からない。

彼は無我夢中で永琳の活動している研究所へと駆け、約束の時刻が当に過ぎているのも理解している為、誠意を見せて詫びを入れる魂胆で、ひたすら駆ける。

 

 そうして到着した研究所は、不気味なほど純白な明かりに包まれており、周囲の宵闇を照らしていた。

体内の酸素を口から吐き出し、拙い足取りで所内を移動し、やっとの事で辿り着く。永琳の研究室へ通ずる扉の取っ手を、恐る恐る引こうとする。

──否、引こうとした瞬間、扉は自動的に開いた。彼は心の中で吃驚しつつも、その内部へ視線をやった。

 

「…………」

 

 研究室の中に、永琳の姿はなかった。

彼女の叱責を恐れていた彼は、若干安堵したような表情に切り替わる……が、それは直ぐに疑念のものへと変わった。

 

「誰よ、あんた」

 

 唐突にかけられた、その言葉。誰もいないと思っていた部屋の中に、一人の女性がいたのだ。

そしてその女性の吐いた、あまりにも失礼な言動に対し彼は辟易とした。

名前も知らぬ、顔を見るのも初めて。にも関わらず自分に対する不躾な応対に対し、こいつは誰だと不信感を露わにする。そうして彼のとった行動は、

 

「……」

 

 黙を貫く事であった。

きょろきょろ、と視線を部屋中に渡し、本当に永琳がいない事を確認した後に、近くにあった椅子に乱暴に座った。キィ、と背もたれが悲鳴をあげた。

腕を組み彼を睨み付ける女性に対し、彼も似たような態度で応対した。背もたれに深く腰をかけ、彼も腕を組んだ。極めつけに、足も組んでやった。

 

「ちょっと、私が話しかけてやってるのに、その態度は何?」

 

「……はぁ、それは申し訳ない」

 

 面倒臭そうに言葉を返す彼の態度に、女性は憤怒を一瞬だけ露わにしたが、直ぐに平然と取り繕い言葉を紡ぐ。

 

「知ってるわよ、あんたの事。豊姫と依姫のペットでしょ」

 

「……」

 

「永琳から聞いているもの。依姫に手痛く指導されている、ってね」

 

「あっそう」

 

 女性の言動に対し、彼は本当に興味がなさそうに言葉を返した。まるで児戯の戯言を相手にするかのように、彼の言葉は心底どうでも良さそうな感情すらこもっていた。

それが女性の神経に触ったのか、女性は少々語気を強めて言葉を放つ。

 

「こんな不躾な態度を取られたの、生まれてこの方初めてよ。しかも、こーんな貧相な奴に」

 

「……あっそう。見ず知らずの人に、そんな事を言われる筋合いはないけどね」

 

 この時点で彼は、女性が何者なのなのかを理解しておらず、その辺にいる小洒落た一般市民程度に思っていたようで、ただただ面倒臭そうに素っ気無い態度を取るばかりであった。

無論、女性の言動が他人の神経に障るものばかりなのも問題であるが、この女性に関してはそれが許されていた。

しかしながら現在の彼にその事は到底理解出来ず、敬意の欠片も見せぬ発言で応対していた。

 

「お前が何処の誰だか知らないけど、お前の人生の為にもその失礼な態度はやめた方がいい」

 

 警告を含めて、彼がそう言った。女性は眉を狭め、声を高くして言葉を返す。

 

「はぁ? どうして私があんたにそんなこと言われないといけないわけ」

 

「……ところで、八意さんはまだ来ないのか」

 

「さあ。そのうち戻ってくるんじゃない」

 

「八意さんが戻ってきたら、頭の中を診てもらえよ。常人並の思考が出来るようにな」

 

 そう彼が煽るようにして言葉を放つと、女性は憤怒し一層態度を悪くした。

取り留めのない言葉を放つ女性に彼は辟易とし、「こんな稚拙な女は初めてだ」と心の中で悪態をついた。

更に日頃のストレスのせいか、彼の悪態は心中に留まらず、言葉として吐露される。

 

「大体、なんでお前は僕に対して絡んでくるんだよ。僕はお前の名前も知らないし、好きな食べ物だって知らない」

 

「別に、ただの暇つぶし。永琳ったら、人を呼び付けておいて自分が遅刻するんだもの、このやり場のない苛立ちを晴らそうと思って」

 

 さらり、とそんな事を言ってのける女性は、悪びれる素振りすら見せず、その表情は清々しい程までの憫笑を浮かべていた。

彼は更に辟易とし、相手をする事を諦めて女性が居る方とは別の方向に視線をやり、深い溜息を吐いた。

 

暫 くの間、女性が執拗に彼に話しかけ、玩具の様にして言葉遊びを繰り広げていたが、黙秘権を行使した彼の口から言葉が放たれる事はなかった。

次第に女性も飽きてきたのか、言葉を発する事を止めようとした時、室内の扉は静かに開け放たれた。

 

 

「……ごめんなさいね、少し遅れちゃったみたい」

 

 声の主は扉を開けて直ぐに、つま先を二度ほど軽く地に叩きつける。八意永琳だ。

 

「遅いわ、永琳」

 

「天道も、待たせて悪かったわね。輝夜の相手は大変だったでしょう」

 

 永琳は彼に対し、そう質問した。

 そう、彼が今まで粗言を放っていた相手は、月の姫たる蓬莱山輝夜その人であった。

腰よりも長く伸ばした漆黒の長髪に、眉を覆う程度の長さに前髪は切り揃えている。

ピンク色の服に加え、赤い生地に月、桜、竹、紅葉、梅──と、様々な模様が描かれているスカートを穿いており、醸し出す雰囲気はどこぞの名家や貴族のお嬢様、といった風であった。

 

 そんな彼女に対して語気を強めた発言を繰り返した彼は、永琳の言葉を聞いて

 

「……この人が蓬莱山輝夜ですか?」

 

 呟くように、永琳に問う彼。心底信じられない──そういった想いも込められていた。

対して彼女は表情を微笑に変え、語るようにして言葉を放つ。

 

「そ。漸く二人の都合が合う時がきてね。これを機に紹介できるかと思ったのだけれど」

 

「自分の都合が合わなかったと」

 

 彼の突っ込みに、永琳が苦笑を浮かべた。

前々から両者を引き合わせようとしていた永琳だが、今日に至り漸くその時間を取る事が出来た。

けれども両者の出会いは最悪の模様を呈しており、お世辞にも第一印象は良好とは言えないものであった。

 

「僕の予想していた人とは全然違った」

 

「ふーん、そんなこと言うんだ」

 

「八意さんが姫と呼ぶ人だから、もっと高貴な人かと思っていたけど……ただのじゃじゃ馬でしたね」

 

 皮肉を言う彼に、輝夜は苛立ちを包み隠さず露わにした。

余程酷い事を言われでもしたのか、輝夜の性格を熟知している永琳は、彼を叱責する事も真意を質そうとする事もせず、可笑しな笑みを浮かべるばかりであった。

 

 そもそも永琳は、二人に自己紹介をさせるだけの為に引き合わせたわけではない。

彼の"望むもの"を輝夜が有している為、それを上手く手にさせる事が出来れば────という、単なる老婆心によるもの。

しかしながら現在の状況を観察するに、邂逅してまだ間もないというのに、互いに皮肉を言い合い罵り合うという犬も食わぬ険悪な雰囲気。このままでは彼の望むものどころか、言葉すら交わさぬ関係になりえない。

そう思った永琳は、場の空気を切り替えるかのようにし、透き通った声色で言葉を放つ。ぎゃあぎゃあと喚き散らす輝夜に気を遣おうともせずに、

 

「輝夜。貴女そういえば、月の魔術が得意だったわよね」

 

「うっさいこの貧弱庶みッ──ん。……何、永琳。月の魔術がどうかしたの?」

 

 不意に言葉をかけられた輝夜は罵声も言葉の途中、永琳へと振り向き問い返した。

彼はと言えば、大して口も強くないくせに女性と口論をし、豊富な言葉の数々に翻弄され、苦虫を噛み潰した表情をしていた。

そんな彼も表情はそのまま、永琳の方へ視線を向けた。

 

「彼に指導してやってほしいのよ」

 

「……は?」

 

「だから、彼に月の魔法を指導してやってほしいの。彼はあの娘達の従者でもあるし、素質はともかく実力は貴女の想像よりも遥かに上をいってる筈よ」

 

「嫌よ。だって、こんな礼儀も知らない馬の骨に、高潔な月の魔術を指導するなんて……無理無理、ぜーったい無理!」

 

 頑なに拒む輝夜に、永琳は深い溜息を吐いた。

 

「どうしても?」

 

「どーしても。だってこいつ、生意気なんだもの。頭を地に埋めて土下座するのなら、考えてあげなくもないけど」

 

 ぷりぷりと怒った輝夜は、人差し指を彼へ向けて真っ直ぐ差し向け、そう言い放った。

再び吐息した永琳は椅子を座りなおし、輝夜に対して声色を変えて言葉を紡ぐ。

 

「聞いて、輝夜。古来より伝承されてきた月の魔法術に関して、貴女の右に出る者はいないわ。貴女を指導した私が言うのだから、むしろ誇っても良い事よ」

 

「……急にどうしたの、永琳」

 

 輝夜の両頬に優しく触れ、視線を真っ直ぐに見据えて言葉を続ける。

 

「貴女は一族の中でも最も優れている月の姫。貴女は何を遣らせても優秀だったわね……学術も作法も、勿論月の魔術に関しても」

 

「えへへ……そう?」

 

「そうよ。貴女は私の自慢の教え子。可愛い輝夜……私のお願い、無碍にしないで聞いてもらえないかしら」

 

 語りかけるように優しく、羽毛のような柔らかさで言葉を紡ぐ永琳に、輝夜は大いに頭を悩ませた。

永琳から師事を受けていた身として、また師匠でもある永琳からの願いに、箱入り我が侭娘は思考に思考を重ね、致し方なしとばかりに言葉を放つ。

 

「……仕方ないわね、永琳がそこまで言うのなら、教えてやっても良いわよ。月の魔術をね」

 

「っそ。ありがと、輝夜」

 

 柔和な微笑みに満たされた表情をそのまま輝夜に向けた永琳は、短く礼を告げると表情を元に戻し、彼へ視線を戻した。その表情は、しってやったり、と。そう静かに語っていた。

一瞬の出来事に彼は、実はこの蓬莱山輝夜、八意永琳に洗脳でもされているんじゃあないのか、と不信感を露わにしたものの、その思考は永琳からの視線を感じた瞬間、霧散した。

 

「貴方の悩みについて、少し考えていてね。面白そうだから、薬以外にも協力できないか考えていたのだけれど」

 

「……それが月の魔術ですか」

 

「ええ、察しがいいわね。扱えるかは試してみないと分からないけど、依姫と肩を並べられるくらいなら、少なからずの希望はあると思うのよ」

 

 彼と永琳がそう会話をするが、状況を理解できぬ輝夜は口を尖らせて言葉を挟みいれる。

 

「ちょっと、二人とも何の話?」

 

「輝夜はまだ知らないのよね。彼の事なんだけれど──っ」

 

 事情の端末を輝夜へ説明しようとする永琳へ向けて、漆黒に包まれた視線を向ける彼の表情は、およそ悪意に満ちていた。

"次の言葉を発したら僕も穏やかではない"と言わんばかりの彼は、ジッと永琳を睨み付け、無言の圧力をかける。

 

「……あー」

 

 それに気付いた永琳は、不意の出来事に思わず言葉を濁しつつも、何とかこの場を穏便に済ませようと、善処した。

師である永琳を凝視する輝夜に対し、天才によって創り出された言葉は、上流から下る清水のようにして紡がれる。

 

「天道は持病を持っているの……それも先天的な、不治の病を。私も出来る限りの診察をして、薬も処方したのだけれど、結果は芳しくなかった」

 

「……ふーん、そうだったんだ」

 

「そして私は彼に提案したの。完治は不可能でも、それらを緩和する手段がある、と。月の一族の英知を結集して生み出された秘中の秘、月の魔術がね」

 

 迫真の演技で言葉を創り出す永琳に、彼は思わず背筋を震わせた。自分も或いは、こんな風にして虚言を吹き込まれていたのだろうか、と。

 

 けれども永琳の言っている内容は、強ち間違いではなく、彼としては病気とカテゴライズしても良いという程に、性転換については思い悩んでいた。

それが"月の魔術"で治せるというのだから、彼は内心では嬉々としており、今すぐにでも月の魔術を学びたいと考えていた。

 

 その後も彼女の架空の話は続き、輝夜はそれをただひたすら黙って聞いていた。時には何やら考えるような仕草をしたりと、熱心に聞いていた。

そうして永琳の言葉を全て耳に入れた輝夜は、再び思考するような仕草を見せた後、穏やかに口を開いた。

 

「……そう。そんな事情があったんだ、あんた」

 

「あ、ああ。魔術で少しでも病を緩和できるんなら、その力にすがりたい。蓬莱山、是非協力してほしい」

 

 飾り気の無い簡素な言葉と共に、彼はこの日初めて、輝夜に向けて頭を下げた。

今の今まで畏敬の念を込められたお辞儀や、畏怖や敬意を払って伏し拝まれた事しかない輝夜は、彼の純粋な願いの込められたお辞儀に対し、心を震わせた。

初めての経験に、どう応対すれば良いのか、その問いに対する答えは明白にならず、彼女は頬を指で優しく掻きながら呟く。

 

「……ん、別に構わないって言ってるでしょ。同じことを何度も言わせないでちょうだい」

 

 普段通りの、棘のある言葉ばかりを選び、それを形にして言葉を紡いだ。

腕を組んで泰然とした表情を作る輝夜に、彼は若干であるが頬を緩ませて言葉を述べる。

 

「ありがとう、蓬莱山。本当に」

 

「ふん、謝意を述べるなら月の魔術を会得してからにしなさい。それと、その呼び方やめて。蓬莱山なんて呼び方、政府の連中くらいよ」

 

「……そっか。よろしく頼むよ、輝夜」

 

 そう優しく言葉を紡ぐ彼の心中に、敬意など微塵もなかった。それは傍観していた永琳には察しがついていたようであるが、言葉をかけられている本人である輝夜は、それに気付いていない模様。

どころか『敬い嘆願している』とすら思っており、彼女の中での天道は『持病持ちの可哀想な奴』と確定してしまっていた。

 

 輝夜と彼の奇妙な出会いは、"月の魔術"という不思議な引力によって引き合わされた。

彼を取り囲む"月人の輪"は次第に大きくなり、彼という存在は彼女らにとって、欠かす事の出来ぬ存在と変貌する。

 しかし、それはもう少し先の話である。

彼が月で成長を遂げる物語は、まだ続く。

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