月の裏側に築かれた文明は、非常に高度な技術レベルを誇っていた。
例えば一年の合間に巡る四季の変化に関しても、全て人工的に操作されているものである。
自然による事象の変化だけでは、人間が健康的に営みを続けられる環境を構築する事が出来ず、そのため作為的に四季の変化、環境の変化を行っていた。
それは即ち虚構の四季であり、自然の季節の移り変わりを肌身で感じる事など、月に住む人間達には未来永劫あり得ない事でもある。
勿論、虚構の四季にも利点は存在する。
灼熱の太陽の影響を受ける事もなく、荒れた吹雪に見舞われる厳寒期すら訪れる事はない。精々、今日は寒いなと感じる程度だろう。
年間を通して過ごし易い季節が文明人達により構築されており、全ての月人達はそれを受け入れていた。
東から昇った太陽が、やがて西へと沈む。
月の裏側に築かれた文明都市にも同じ事がいえるのか、彼には分からない。
綿月姉妹の従者となり、月の賢者たる八意永琳と出会い、月の一族の姫である蓬莱山輝夜と邂逅した彼に、一つの転機が訪れた。
「──だから、違うって言ってるでしょ。力をもっと収斂させて」
幾月経過後、現刻。感情のまるで篭っていない、ひどく冷めた声が彼を襲う。
宵闇も世界を包んだ頃合、蓬莱山輝夜が天道という男と共に一室に篭もり、月の魔術の鍛練を行っていたのだ。
教官は言わずもがな、輝夜である。彼は生徒として鍛練に励みつつ、輝夜の鋭い小言を真摯に受けていた。その様はまるで、嫌味な教師が憎たらしい生徒を諭すかのようにして。
「あんたの内にある"神力"とは似て非なる力が、魔術を行使するには最適だっていうのに……肝心の本人がそれを扱えないだなんて」
「……うるさいなあ」
その手の方面に知識がある輝夜は、彼が体内に、そして精神の内に秘めている"不思議な力"を直ぐに察知し、それを"神力とは似て非なる力"と表した。
曰く、神々しさも含まれたそれは、ある種の"妖力"とも取れる力であり、月の魔術を行使する上で役に立つと思われたのだが……彼自身、それを扱った事が経験が皆無なのである。
昨日の今日まで遣ったことのない力を、今すぐに遣ってみろと示唆されたところで、満足に扱う事が出来る筈もなく。
輝夜の嫌味たらしい小言に苛立ちを覚えた彼が、何の気なしに呟く。
「うるさくて集中できない。少し黙っててよ」
「んなっ……」
苛立ちを露わにした彼は、輝夜が月の姫だろうとお構いなしに、敬意の欠片も見せぬ言動を放った。彼女が人間だったからまだしも、これが犬や猫の動物だったら、シッシと手で払われていた事だろう。
輝夜は彼の言葉に一瞬だけたじろいだが、直ぐに普段通りの態度を取り戻す。けれど口端はググと歪んでおり、眉間のしわを更に深くさせて、
「あんたの為に教えてやってんのに、何なのよその態度っ!」
「高い声を出すなよ……女の金切り声は嫌いなんだ。自分の声、聞いたことあるかい?」
包み隠さず苛立ちを言葉にして吐き出す彼に、輝夜は悔しそうに表情を歪める。
ぎゃあぎゃあ、と叱責混じり、小言交じりの叫び声を吐き付ける輝夜に、それを真摯に受け止めつつ、毒を吐く彼。
一見すると月の姫に対して、ひどく不届き千万な光景である。普通ならば、極刑に処せられてもおかしくないだろう。
けれども輝夜は身分の違いや格差、彼の言葉遣いを責めたりはしなかった。また、彼女自身それを"嫌だ"とも思ってはおらず。
彼女の中では既に、彼は"庶民"の枠を脱していたのだ。それは見紛う事なく"友人"という関係に等しく、近しいものであった。
無論出会った当初の時点で、一度だけ言葉遣いについて指摘した事もあったが、彼は『何故お前に対して敬意を払わなくちゃならないんだ』と猛毒を吐き付け、輝夜をひどく難儀させた事もあった。
以来、輝夜が彼に対して言葉遣いを注意する事もなく、彼女がふと気付いた時には"友達のような関係"が出来上がっていた。これらはあくまで、輝夜の一方的な思考に過ぎぬが。
今まで貴族として最高位の待遇を維持してきた彼女は、他者からの荒言がとても新鮮に感じ、『まぁ、いっか』とも考えていた。
それでも面と顔を合わせて毒を吐かれては、流石の彼女も穏やかではない。装っていた平然は完全に解除され、人差し指をこれでもかと"つんのめ"させて
「あんただって、男の癖に声が高いじゃない! 前々から思ってたけど、あんたって男らしくないのよねぇ。線も細いし、男のくせに髪の毛だって伸ばしちゃって」
あー、やだやだ。と輝夜は手を遊ばせ、煽るようにして言葉を吐いた。
流石の彼も激昂して抵抗するかと思われたが、我慢していた。輝夜の挑発的な表情から視線を背け、視界を閉じて精神を集中させた。
そして自分の髪の毛に指を触れさせた。襟足に触れてみて、そんなに長くないだろう、と一人ごちた。
けれど彼が押し黙った事が気に食わなかったのか、輝夜は何かを思いついた素振りを見せ一度部屋を出た。
漸く静かになって鍛錬に集中できるなと思考していた彼であるが、間もなくその希望の光は暗黒に包まれる。
含んだ微笑を浮かべながら再び部屋に舞い戻ってきた輝夜は、視界を閉じて集中する彼の目の前に、重箱のような立派な箱を置いた。それは立派な漆塗りのもので、
「ごめんね、天道。これは私からのお詫びの印」
とん、と彼の目の前に置いた。軽めの音に、中身は重量物ではない事が窺えた。
「なに、これは」
「いいから、受け取ってよ」
「……くれると言うんなら、貰っておくよ」
彼が眼を開き、目の前に置かれた立派な箱を手元まで寄せると、その蓋を一気に開いた。
中に入っていたものを彼が確認すると、深遠にまで届き入りそうな溜息を吐いた。はぁァ、といつまでも続きそうな溜息の後に、箱の中に入ったものを乱暴に掴んで、
「僕を馬鹿にしてんのかっ!」
「うふふ、あんたにぴったりだと思って。その着物は私からの贈り物よ」
輝夜が彼に宛てて用意したのは、"女性ものの着物"であった。赤と白を貴重とした、真雅な着物であったが。
流石にその挑発に対しては、我慢仕切れなかった彼が激昂する。これでもかと言わんばかりに眉尻を上げていた。
彼を挑発する為に用意された着物は、彼の手に渡るや否や、折り畳まれた状態のまま輝夜へ向けて投げた。輝夜の顔にぶつかった時に、くしゃくしゃになり皺にまみれる。
「ちょっと! これ私のなんだから、乱暴に扱わないでよ!」
「知るか。こんな乳臭い服なんていらないよ」
「何ですって……私の服が乳臭い!?」
「ああ、そうさ。前から思ってたが、お前は少し香水臭いんだよ。貴族の嗜みって奴は理解できないね、いや全く」
どしゃり、と彼はその場に胡坐をかいて座った。
これ以上相手にしていられるか、という彼なりの意思表示でもあり、しかし輝夜はその態度が気に食わなかったのか、或いは彼の言動が気に入らなかったのか、言葉を荒げる。
「くぅ……あんた最近、生意気になってきたわね。魔術の基礎も構築できてないくせに、口だけは達者なんだから」
「ふん、驕慢なお前に言われたくない。僕よりも脆弱なくせに師匠面をするな」
売り言葉に買い言葉、故意に彼を挑発する輝夜に対して、彼が失礼極まりない言葉を悠然と放ち、状況は一変する。
今の今まで彼の無礼な言葉には目を瞑り、彼女なりに真摯に接していた輝夜も、遂には堪忍袋の緒が切れる。
「……あんた、覚悟は出来てるんでしょうね」
「うん?」
威圧的な声色で脅しかけるように言葉を吐露する輝夜の表情は、酷く冷めていた。
普段通りのやり取りのつもりだった彼は、輝夜を凝視する。けれどもその瞬間、彼の頬を鋭い何かが通り抜けた。
頬を伝う水分の感触に彼は驚き、思わず指で拭うとそれは赤く染まった。ふと振り向けば、その軌道上にあった花瓶が割れていて、中の水が零れ落ちていた。
再び輝夜に視線を向けてみると、変わらず威圧的な冷めた表情をしており、触れれば切れてしまうナイフに近くて。
「私とあんた、どっちが上なのか……その貧相な身体に教えてやるわよッ!」
「……っ!」
諸所に立派な装飾が施されている部屋であるが、そんな事などお構いなしにと輝夜は"光弾"を発射した。
霊力にも神力にも近い輝夜の光弾は彼の左右を付き抜け、背後にあったモダンな造りの大棚を破壊した。
飾り付けてあった花瓶や皿が落下して割れ、破片を飛散させた。
始めこそ輝夜の豹変振りに驚いた彼であるが、そもそも事の発端は彼であり、輝夜以上に苛立ちを露わにしていた彼は、輝夜の誘いに乗った。
「面白い。お前が姫だろうと僕には関係ない。一度お前に"あっ"と言わせてやりたかったんだ……絶対に泣かしてやる」
「あっはは! 泣き顔を見せるのはあんたの方よ、天道っ!」
胡坐をかいて踏ん反り返っていた彼は立ち上がり、瞬時に脚力に万力の力を込め爆ぜるようにして輝夜へ肉薄する。
予想外の俊敏さに、輝夜は視界から彼を逃してしまう。右へ左へと視線を泳がせるが、その一瞬の隙が仇となる。
気が付けば彼がは夜の二の腕部分を掴み上げ、上半身の動きを封じた。同時に輝夜の両腕は彼により、"万歳"の形で押さえつけられ、そのまま壁越しに追いやられる。
輝夜も彼と喧嘩するのは、一度や二度のことではない。犬猿の仲と表現しても良い程に口上での喧嘩はしていたが、彼と拳を用いての喧嘩は初めてであった。
むしろ人と取っ組み合った経験など、無いと言っても過言ではない。
身体の動きを封じられれば、人間という生物は本能で危険を察知する。輝夜は思考回路をフル稼働させ、現状で最も効果的な打開策を瞬時に描き出す。
指先だけを器用に動かし、彼を目掛けて再び光弾を射出。けれどそれは命中しなかった。彼はほんの一瞬だけ輝夜から手を離し、光弾だけを避けてみせたのだ。光弾はそのまま、壁の向こう側へと溶けて消えた。
そうして再び彼は輝夜に接近、今度は腕ではなく手首を掴み上げ、輝夜を床の上へ押し倒した。薄い絨毯の生地が皺くちゃになるのも厭わず、そのまま体重をかける。
未紛うことなく、輝夜の上に彼が圧し掛かるという構図が完成した。傍から見れば勘違いを起こされてしまいそうな光景であるが、彼はそんな事など、冬の窓ガラスに浮かぶ結露ほども気にせず、
「これで理解できたか。僕の方が強いんだよ」
「……ふん、少し油断しただけよ。思い上がりも程々にしたら?」
「よく言うよ。その格好で……知ってるかい? 犬を屈服させる時の格好……今の君にそっくりだ。仰向けに倒れ、相手に腹を見せるんだ……抵抗する意思がない事を伝えるためにね」
輝夜の上に馬乗りになった彼が、淡々と言葉を述べる。対して仰向けに倒れた輝夜は、悔しそうに──顔を熟れたトマトのように真っ赤にさせ、歯ぎしりをしていた。
時折、懸命に腕を動かそうとしていたが、腕力で彼を下回っている輝夜に、拘束を解くすべはなく──淡々と、抵抗する輝夜を尻目に彼が言葉を続ける。
「話の続きだけど……犬ってのは稀に、妙にプライドの高い奴がいるんだよ。飼い主に噛み付いてやろうって考えてる奴だって少なくはない。そーいう時はどうするか……ただ指を咥えてみているだけと思うか?」
そこで言葉を切り、呼吸ひとつ分の間合いを空ける。そして違うね、と大きな声で言い放つと、輝夜の顎にそっと手を当てて、
「下顎を持ち上げて口を開けなくしてやるのさ! 無駄な抵抗ができないようにな……くだらない自尊心すら保たせない。相手を確実に屈服させるためにっ!」
グイッ、と輝夜の頬を押し潰す。……と表現したものの、彼も本気ではない。ぷに、と頬の肉が唇の周りに集約させられる程度の圧力で、輝夜の表情を間抜け面に変貌させていく。
絶妙な力加減で強弱を加え、輝夜の頬をつまんだり、つねったり。更には両頬をつまみ、引っ張り上げるという悪行にまで走っていた。
やがて輝夜遊びにも飽きたのか、彼女の鼻の頭を指で軽くはじき、彼は満足そうに一度吐息した。
そして彼の下で、輝夜は悔しそうに表情を歪め──ていなかった。あれ程までに顔面を弄られ、頬も少し腫れ気味だというのに、輝夜の表情は憤怒とは正反対の表情に。
彼女の表情はまるで、宝クジで前後賞を当てたかの如く、嬉々としたものに変貌しており、
「くく……ふふ……あははっ!」
声高らかに、笑い出した。そんな輝夜を彼は訝しげな表情で、
「……何がおかしい」
「ふふ……あんたの間抜け面を見て、ついね。だって今のあんた、凄く間抜けなんだもの」
声を大にして笑う輝夜を彼は疑視するが、輝夜の言葉の意味までは理解できない。
何故笑っているのか、何故自分が間抜け面をしているのか、その全てが。
やがて輝夜の笑い声も収まってくると、語るように──そして冷静に、輝夜は口を開く。
「私が攻撃したのは天道、あんたに対してじゃない」
馬乗りにされている輝夜の表情は、恐怖とは程遠い表情をしていた。むしろ、新しい玩具を買ってもらった子供のような含み笑いを込めた表情で、
「彩光弾って知ってる? 今は使われる事もなくなったけど、昔は夜間の信号や警報用に使われてたんだって。地上からの侵略活動を警戒してね……勿論、今の地上に侵略活動が出来る程の文明はないけれど」
「……? お前は何を言ってるんだ」
彼に馬乗りにされた状態のまま、輝夜が淡々とそう言った。まるで時間稼ぎでもするかのように、言葉の一つ一つを綺麗に飾りつけて。
始めこそ彼はそれが何を意味しているのか、全く理解する余地もなく──ただ思考するだけだった。
輝夜もそれだけ言うと、口を固く閉じた。眉を下げ、瞳を閉じて黙を貫き、周囲は静寂に包まれる。やがて何処かから、木を軋ませるようなリズミカルな音が鳴り始めた。
体感にしておよそ数十秒程経過した後、彼は何かに気付いたのか。額からじんわりと汗を垂れ流す。唇を震わせて、表情を歪ませた。
とたん、とたん、という木を軋ませるような音が、次第に早く、重くなってくる。それに比例するかの如く、彼の表情も暗雲に染まっていて。
彼は両脚に力を込めて、我が下にいる輝夜から離れようと行動をするが──それは今一歩及ばず、彼と輝夜だけが存在する空間の扉が、開かれた。
粛々と、けれど強引に開かれた扉の先には──ひとりの女性。綿月依姫が、何の感情もない表情で突っ立っていた。──が、その表情は部屋の光景を目の当たりにして、烈火の如く変貌し──
「な、な、何をしてるのよお前はッ!」
雷が落ちたのではないかと思ってしまう程の勢いで、依姫が怒鳴る。そして神聖な光の塊を、片方の腕に集約させる。
そしてこれを好機と捉えたのか、依姫の怒鳴り声に続けるようにして、輝夜が黄色い声を上げる。程々に育った胸を手で押さえながら、まるで感情の篭っていない声で、
「きゃあ、助けて依姫ー、天道に襲われるー」
──拙い。輝夜の言葉に、彼はそう思考せずにはいられなく。しかし、そんな考えも直ぐに消えて。
彼に言い訳をさせる暇さえ与えずに、依姫が神速の一撃を放った。まるでレールガンを射出したかのような勢いに、部屋の装飾具が吹き飛ぶ。少なくとも林檎三個分よりも軽いものは、全て吹き飛んだ。
その強力な一撃は、彼の眉間と胴体部を見事に打ち抜き、彼は輝夜の上から手鞠球のようにして吹っ飛んでいった。
そして間髪入れずに依姫が輝夜に対して謝罪の言葉を述べるが、輝夜はそれを気にも留めず、無慈悲な一撃を放った依姫を褒め、手毬球のようにして吹っ飛んでいった彼を蔑み、一笑。
「あっはっは! 愉快、愉快。あんたの大好きなご主人様に可愛がってもらうことね……私は間もなく所用があるから、これで失礼するけど」
「申し訳ありませんでした、姫様。……私の管理不足です」
高笑いを浮かべて去り際にそんな事を言う輝夜に、依姫は何度も繰り返し丁寧に頭を下げ、謝罪の言葉を述べる。
その際に彼に対して鋭く睨みを効かせたりと、心中穏やかではない。彼は身震いし、自分の運命を呪った。
「じゃあね、天道。今度会う時までには、犬並みの忠誠心を身につけておくことね。……ああ、そうそう。犬の中にも甘い声で鳴いて、飼い主を欺こうとするのがいるから覚えておくと良いわ」
「……この猫被りめ……」
輝夜が退出するまで、依姫は頭を下げ続けた。そして輝夜が部屋から姿を消した時点で、彼は報復が行われるだろうと覚悟を決めた。
雑用などの庶務が課される程度ならばまだ良い……これが"祇園様の剣"で屠られるという話にでもなった日には、明日の朝日を拝むのは諦めざるを得ない。
輝夜が退出しても尚、輝夜の高笑いが室内にまで届いてくる。腹の底からおかしいのか、延々と続かれたそれも次第に遠のいてくると、依姫は今までよりも一段と深く吐息し、彼へ向き直る。
『ヤバイ』と脳裏に過ぎった時には既に、彼女の瞳は眼前へと迫っており、遂には彼も覚悟を決めた。……が、事態は予想の斜め上を行く。
依姫は九割九分九厘、怒りの様相を呈していると思っていた彼は、憤怒とは程遠い、彼女の心底呆れたかのような表情を見て、思わず冷や汗を垂らした。
「……はぁ。顔を上げて、天道」
「……お、怒らないんですか」
「どうしてよ」
予想外の事態に、彼はやぶ蛇を突くような言動を吐くが、それでも依姫は怒ろうとはせず、普段通りの口調で言葉を紡ぐ。
「姫様の性格は知っているし、天道がどういう人格なのかも知っているわ。それを踏まえた上で考えてみると、私が貴方を個人的に叱責する理由は見つからないもの」
「でも僕は、輝夜の奴を攻撃した……髪の毛だって引っ張ったんですよ」
「単なるじゃれ合いでしょ。私が介入する余地はないし、姫様にも偶には良い刺激になるでしょうしね」
しれっとそんな事を言ってのける依姫。その表情はまるで、児戯の世話をする母親のようであった。
彼が言いたい事はつまり、彼女の立場上、月の姫に無礼を働いた男を叱責しないのか、という点である。
けれども依姫は何食わぬ顔で『しないけど』と答え、彼を驚かせた。輝夜の性格は知っているから、彼女が目の前では"叱責しているフリ"で通した、との事。
これには彼も心の底から安堵し、依姫に対する株価が急上昇を果たした。そんな彼をからかうかのように依姫が、
「なに、貴方。私に怒られたいの?」
「いえ、とんでもありません。依姫さんの懐の大きさに、僕は敬服しました」
調子の良い発言をする彼であるが、依姫は頬を緩ませた。その上で一発、流動的に拳を彼の頭部に打ち付けた。
『痛い』と抗議する彼を無視し、用件の済んだ依姫は早々に部屋から退出しようとする。
「姫様の行動には私も驚かされるばかりだしね、貴方が気にやんで行動する必要はないわよ。……じゃ、私は部屋に戻るから」
「分かりました。お疲れ様です」
「……っと、最後に。明日行う指導術の時に、あの娘達に貴方を紹介するわ。紹介というよりは、新隊長の挨拶……と言うべきかしら」
振り返り腕を組む依姫は、さらりと彼にそう伝えた。
依姫の言うあの娘達。それは間違いなく、玉兎と呼ばれる月の兎の事であった。
玉兎とは月の都では労働層といわれる、下級層の種族である。事務仕事から単純なルーチンワークまで、その多くを玉兎達が担当しており、月の都に於いての原動力とも言い表せる。
綿月家での新たな試みとして以前行われたのは、穏やかで暢気な性格の玉兎達の中から、素行の悪い者のみを召集させ、品行方正も含めて"警備兵"として訓練する事で、"玉兎隊"を結成するという試み。
始めこそ上手く事が運ばなかったそれも、依姫の入念な指導により成果を着々と見せ始め、遂には人間並みの働きを見せるまでに至っていた。
そんな折、依姫の昇格に伴い、玉兎隊の新たな"隊長"が必要となったのだ。
けれども、"落ちこぼれ集団の警備隊"の隊長を自ら引き受けるお人好しなど、綿月家に従事する者には存在せず、依姫が兼任して引き続き指導するという話で進んでいた。
依姫に仕事が集中してしまえば、昇格した先での新たな職務に支障を来たしてしまい、また長期間労働による疲労も軽視できない。
後任が存在しない事で少々問題になっていたのを彼が知り、拙いながらも『僕がやる』と名乗りをあげたのだ。
綿月姉妹の個人的な付き人に過ぎぬ彼が、下層とはいえ綿月家警備隊の隊長という役職を得るには、少々……否、大いに満たさなければならぬ条件を落としていた。
だが現実問題、後任が存在せず問題になっている事も事実。しかしながら、安易に役職を与えるというのも些か問題である。
些細な問題にいくつもの塵が積もり、最終的に降された判決が、
「玉兎隊とはいえ、立派な綿月の警備隊。それも私が育成したエリート揃いのね。"隊長代理"だとはいえ、然るべき挨拶はしないと……ちょっと、聞いてるの?」
「あ、聞いてますよ、勿論」
玉兎隊の隊長"代理"であった。
あくまで綿月姉妹の私的な付き人である彼に、隊長の職務に従事させ責任を背負わせるというのには、些か難儀する事実。
ならばと、彼に玉兎隊の指導、教育を業務を担当させ、依姫にその業務を監督……つまり、責任者として従事させると、そう決断が降されたのだ。
思いもよらぬ彼の介入に玉兎隊の後任問題は解消され、引き続き依姫が兼任する事にはなるが、その大部分を彼が担当する。
彼も綿月姉妹の付き人の職務と同時に、玉兎隊の業務を担当する……言葉で言い表すのは簡単だが、その仕事量は決して少なくはない。
付き人になってから凡そ幾ヶ月程度しか経過していないというのに、彼の目覚しい成長振りに依姫も嬉々としており、改めて言葉を紡いだ。
「貴方が玉兎隊の隊長を引き受けてくれると聞いて、本当に嬉しかったわ……成長してくれているようで、本当に嬉しい」
眼を細める依姫の表情は慈愛に満ちており、彼女の言葉に嘘偽りが無い事は明白であった。
主の言葉を受け止め、決して驕る素振りなどは見せずに、静かに頭を下げて彼は応対する。
『ありがとうございます』とだけ小さく、短く呟き、その言葉を礼として依姫へ進呈した。
斯くして行われたやり取りは終了し、洒落た造りの扉の前で佇む依姫と、部屋の中央で立ち尽くす彼の間に静寂を与えた。
おかしな空気、変な間。よもやそうとも解釈できる不自然な空気は、互いに言葉を発せさせる機会を与えず、依姫は唇をふるふると震わせた。
そして試行錯誤の後、発せられた言葉が
「そ、それじゃあ、もう戻るから。ふふっ……おやすみ、天道」
「は、はい。おやすみなさい、依姫さん」
何かを取り繕うかのようにして早口で紡がれた言葉、それと同時に扉は開かれ依姫は退出していった。
依姫と彼は、あくまで"主従関係"に過ぎない。
明日行われる隊長挨拶に若干の緊張をしつつも、彼も休息を取る事にした。
* * *
翌日、朝光が月の都を照らすよりも先に、彼は起床した。
彼の主である依姫は常に彼よりも早く起床しており、只の一度たりとも寝過ごすという痴態は見せない。
姉妹の付き人となり幾ヶ月も経過している為、彼も姉妹の行動習癖、屋敷内の規則、警邏等の一連の職務に関して、人並み以上の成果を見せていた。
然るに至り、今回の玉兎隊の隊長代理の職務に関しては、彼自身では一種のステップアップと考えており、また主である依姫の仕事量の緩和にも繋がるとあり、意欲は万全。まるで春先の新入社員のように、やる気に満ちていた。
隊長代理就任の当日となった今日に至り、眠い目を擦りつつも意欲の低減は有り得なかった。
やがて、朝光が大地を照らし始める。種々鳥綱達が、火輪の訪れを奉迎のさえずりにて歓待してる時節、警備隊の訓練施設に集うは人の群れ。
綿月姉妹の次女、綿月依姫に加え、彼女の付き人として幾ヶ月前に登用された男……否、肉体的に表現するならば、女性と分類される者。彼こと、天道である。
両者は群れる玉兎達の目の前に堂々と立っており、傍から見ると群を統率する主導者とも取れる雰囲気を醸しだしていた。
「はーい、皆集まって」
一つ、二つと手を叩く拍子の音。"群を統率する主導者"という表現に対して、ひどく拍子抜けする声色。
上半身を若干前屈みに、稚児を諭すかのような声色で、雑然と佇む玉兎達に集合の意を告げる依姫。
わあわあ、と依姫の言葉に従い玉兎達が集うと、月の軍事兵器を一様に天へと掲げ、整列。
そして物珍しそうに、依姫の隣りに立っている彼を疑視した。
隣の玉兎同士で小さく陰で言葉を交わし合い、目の前に立つ男の出で立ちの推測を醸していた。
「静かにしなさい。そこ、私語は謹んで」
依姫が鞘に納められた刀身を用い、その刃先を一人の玉兎に向け叱責する。
指摘された玉兎は驚き肩を竦め、申し訳なさそうに謝意を告げ俯いた。
その光景を傍観していた彼は、玉兎達は依姫を畏怖しているのか。或いは一種の恐怖政治状態なのだろうか、と言葉には現さずとも、心の中でそう思っていた。
依姫は再度手を叩き、隣りに位置する人物……彼を紹介しようと言葉を紡ぐ。
「今度から貴女達の新しい隊長となる人よ。普段は私の……そうね、護衛として従事してる人よ」
流れるように言葉を紡ぐ依姫の隣り、彼は立ち尽くし玉兎達の顔に視線を泳がした。
数十名程の玉兎隊の多くは──否、全員が少女であり、どれもこれも彼の事を不思議そうに凝視していた。
そんな思考をしていたのが仇となり、隣りで説明を終えた依姫に肘で腰を突かれる。
『ほら、早く』と小声で促された挙句、彼は我に帰り言葉を吐く。
「あー、君達の隊長となります、てんど……」
彼は言葉の途中、痛覚を刺激され言葉を中断した。
刺激のする方向へ目を向けてみると、依姫が彼に鋭い視線を向けており、"違うでしょ"といった風な表情をしていた。
──玉兎達の前では威風を見せつけ、堂々としていろ
彼は踏まれた足先の痛みを感じつつも、過去に依姫が自身に向けて放った言葉を思い出し、思考した。
一癖も二癖もある玉兎達を甘えさせれば、瞬く間の内にそれに漬け込まれ、怠慢を働かせてしまうだろうと。
彼女の言葉を思い出した彼は、直ぐに喉を鳴らして言葉を訂正する。声調を強めて、再び言葉を放つ。
「……今日からお前達の隊長になる天道だ。お前達のことは……あー、……依姫から聞いている」
自己紹介の途中、迷いに迷った挙句彼は依姫を呼び捨てにした。
ほんの些細な事かもしれないが、天下の綿月姉妹……ましてや我らが隊長閣下に対して、"名を呼び捨てにした"という事実は、少なくとも眼前の玉兎達には効果があった。
動転としたような、愕然としたような表情をする玉兎達の空気は、もはや凍り付いたと表現しても差支えがなく、隣りにいる依姫でさえも若干驚いたような表情をしていた。
そんな事など露知らず、彼は玉兎達を威圧するように最大限の努力をしつつ、言葉を並べる。
「お前達の腑抜けた態度を是正する為に、玉兎隊を根から改革させる。俊秀揃いの玉兎達に児戯は存在しないと思うが、等しく指導していく所存だ」
一通り言葉を終えた彼は、誰にも聞こえぬ声量で『以上です』とだけ呟き、視線を前方の遠くの景色へやった。緑色の葉に包まれた、桃の木がいくつも並んでいた。
彼が紹介をし終えた直後、玉兎達は新隊長に不安と恐怖を覚えたのか、"うげぇ"だとか"うわぁ"だとか、それぞれ言葉を洩らしていた。
そんな玉兎達の心中を察した依姫が、場を和ませるようにして言葉を紡ぐ。
「彼はこう見えても優しい人だから、心配はしなくていいのよ」
「えぇ……でも、依姫様ぁ」
彼女の言葉に最前列にいた玉兎が垂れた耳を更に垂らし、不安気に満ちた声をあげる。それに呼応されたのか、他の兎達もぎゃあぎゃあと文句を言い始めた。中には彼氏ですか、という言葉も上がったが、運良く風と葉っぱの擦れる音に掻き消された。
しかしそれも、彼の鋭い視線に気付いた途端、兎達が口を閉じた。視線も逸らし、ただただ整備された地を見つめる。
一律した一つの集団の中には、奥手の者から半端に口達者な者、そして周囲の感情など構い無しとばかりに言葉を並べる肝の据わっている者と、多岐に渡る。
この玉兎隊の中にも、そんな肝の据わっている玉兎は存在しており、整然とした列の後方から言葉が飛んでくる。
「あ、あの。天道……様は、強いんですか?」
「……何?」
「ひぇっ……その、何でもないですっ」
単純に聞き返しただけの彼であったが、精一杯の勇気で言葉を発した玉兎は恐縮し縮み込んでしまった。肝などどこかにすっ飛んでしまったようで、依姫が優しくフォローするかのようにして、
「貴女達、彼のことを知らないの?」
「知りませーん」
「そういえば、前に大会に出てた人だよね?」
「知らなーい。だって私達、その時も自主訓練してたしー」
依姫が言葉をかけた途端、整然としていた列が崩れ辺りは騒然としだす。
群れた玉兎達は一同に依姫の下に集い、抗議の声をあげる。
「納得いきませんよ、依姫様!」
「そーですよ! 私、まだ依姫様に教えてもらいたいこと沢山あります!」
「あの人嫌い。男の癖にひ弱そうだし、なのに偉そうにっ」
「そうそう、私達と変わらないじゃない。華奢だし、全然男っぽくないし」
ここぞとばかりに抗議の声をあげ、言葉を荒げる玉兎達。
彼は甘んじてその言葉を受け入れていたが、玉兎の内の一人が洩らした言葉に対し、声を荒げた。
「……何だと。ふざけた事を言うな、僕はこう見えても立派な男だ……外見だけで人を判断するんじゃあない」
「きゃっ!? よ、依姫様ぁ」
「ちょっと落ち着いてよ、天道。どうしたのよ、急に」
神経に触れた発言をした玉兎に手を伸ばし、憤怒の意を露わにした彼であるが、その手が玉兎に届く前に依姫に諌められる。
余程癇に障ったのか、或いは秘密を探られ酷く動揺したのか、詳細は分からぬが依姫に諌められた彼は、直ぐに平然を取り戻し依姫に軽く謝罪した。
「……すみません、動揺してしまったようで」
「気にしないで。あの娘達も、まさかこんなに反発してくるとは思ってなくて。事前に伝えておいたんだけどなぁ」
然もおかしいなと言わんばかりの依姫は、腕を組み悩ましげに表情を歪めた。
「でも、まずったわね……うーん」
「依姫さん?」
「……そうだ。こういう時こそ、武で誇示すればいいのよ」
依姫の背後で怯える玉兎達を尻目に、彼はその言葉に疑問を抱いた。
「どういう事ですか。この娘達は僕に怯えている……なのに力を誇示したところで、結果は火を見るより明らかですよ」
「何を言ってるのよ。貴方はこの娘達の隊長になる身よ。問題なのは彼女達が貴方に恐怖している事じゃあない……弱者として侮蔑されている事が問題なの」
力強くそう言い放つ依姫に、彼は思わず唇に力を込め、口を閉じた。
「貴方はこの娘達に、畏怖されないといけないの。それが隊長としての勤め……決して馴れ合う関係ではない。時には圧倒的な暴力を用いなければならない場面もあるのよ」
説明を続ける依姫に、一匹の玉兎が、
「依姫様ぁ、ずっと私達の隊長でいてくださいよぅ」
「……ふふ、ごめんね、もう少し待っていて」
寄り添い、悲愴に包まれた表情で言葉を紡ぐ玉兎に対し、柔和な微笑みで応対する依姫。
畏怖の対象じゃないのか、と疑問を抱いた彼であったが、その事は口にはしなかった。
「少なくとも私と貴方、この娘達の前では"同格"でいなければならないわね。そうした上で実力を誇示すれば、この娘達も納得してくれる筈」
「……言いたい事は分かります。でも実際行動に結びつけるのは」
「僅かでいいの、貴方の力の根底を見せ付ければ、それで良い。……そうだわ、この前教えた特技を披露しましょ」
依姫のいう"特技"。
その言葉だけで彼は何の事なのかを理解し、直ぐに実行しようと思い立つ。
当の依姫は、自身の背後に群れていた玉兎達に指示を飛ばす。
「はい、皆注目して。天道の実力は、私も隊長格に推挙できる程のものなの。けど、貴女達はそれを知らない……だから、今から彼の力を間近に見てもらいます」
まるで教員が生徒を指導するかのように、優しく依姫は語り掛ける。
温もり溢れる依姫の言葉に玉兎達は、渋々といった表情で彼に視線を向けた。
一通り視線を集めた頃合を計り、依姫は彼に向けて適当に合図を出し、行動するよう促した。
「……では、今から指弾を見せよう。あちらに、巨木があるのが分かると思うが」
彼が指を差す方角には、巨大な樹木が熟れた桃をいくつも実らせており、およそ何百年もの歳月を経て成長したものだと推測できた。
この施設で日々訓練を行っている玉兎達には、そんなもの説明されるまでもない。誰もが知っている事であり、時たま訓練の合間に桃を盗み食いしてる玉兎達には、周知の事実。
「あれがどうしたんですか?」
「わあ、見て、凄く熟れてるよ。美味しそー」
「ねぇ、あとで皆で食べようよ」
「いいね。熟れてるし、とても美味しそう」
軽やかな口調で、そう質問する玉兎達。畏怖はすれども、己の感情には素直なのだろうか。
玉兎隊ならば馴染み深いその巨大な桃の木、口々に"後で食べよう"などと会話しており、誰も彼に関心がなかった。
彼もそれは理解していたようで、自分の事などそっちのけで会話している玉兎隊を見て、小さく吐息。致し方ないと、彼は右腕の人差し指を伸ばし、親指を立てた。
手でピストルの形を作った彼は、人差し指の先端を巨大な桃の木を目掛けて差し伸ばし──
「ちょ、ちょっと待って天道──っ」
何だか依姫の声が聞こえたな、と彼は思った。けど、攻撃の手は止まず。轟音が施設全域に響き渡り、巨大な桃の木は呆気なく倒木した。
熟れた桃の今後の行く末で論議を醸していた玉兎達は、その見事なまでの破壊ぶりに顔を青ざめさせ、近くで清々しい表情をしている彼に視線を戻す。
相も変わらず泰然としている彼。その指先からは、玉兎達にも理解できる。溢れんばかりの"気"で満ちており、近付けば思わず意識が飛んでしまいそうな程、濃厚な気に溢れていた。
「……あちゃあ、やり過ぎたかな。でもこれで、十分誇示できましたよね、依姫さ」
事を終えた彼は、どこか誇らしげに依姫にそう告げるが──返って来たのは、手刀であった。
額を小突かれた彼は痛そうに、額を押さえながら依姫を恨めしそうに見つめた。対する依姫も、どこか焦燥としており口を開く。そこで彼は気付いた。小突かれたのではなく、ど突かれたのだと。
「ちょっとっ! 何もあそこまでする必要ないでしょうがっ!」
「えっ、でも依姫さんがやれと……」
「やり過ぎよ、馬鹿っ! ああ、姉様に怒られるじゃないのよ……もう!」
力を誇示せよ、との依姫に命令に対し忠実に行った結果、彼は依姫に叱責されてしまった。
大事な桃の木が一生実を成らす事のなくなった材木と化し、桃を好物とする豊姫がこの事実を知れば、酷く憤怒する事は間違いない。
普段は天真爛漫としており穏やかな豊姫も、怒らせれば並の神霊程度ならば裸足で逃げ出してしまう程の力を持っているのだろう。
予期せぬ出来事に動揺した依姫は、嫌味を交えて彼を叱責した。あそこまでする必要は無かった、と。
「んもう……貴方ねえ。何でもかんでも、言われた通りにやればいいってもんじゃないでしょう。限度というものがあるでしょ、限度が」
「……ええ、そうですね。でも効果は十分にあったじゃないですか」
「それ以上の損害もありますけどねっ!」
再び依姫が彼の額を小突いた。否、ど突いた。
"馬鹿"だの"要領が悪い"だの、多種様々な言葉を用いて叱責する依姫。だが、天道という男。決して堪忍袋の緒が切れぬ天人ではない。
まだまだ"青い"のだ。彼も人間、それも若者と分類されるそれ。
依姫の厳しい叱責に対し、忠実に目的を果たしたじゃないかと確固たる意思のある彼は、遂に限界を超えた。限界まで膨らませた風船が割れるかのようにして、彼の堪忍袋も限界を超えた。
「……依姫さん、それはあんまりじゃないですか」
「何がよ。お姉様に詫びを入れるのは私なのよ? ……部下の失態の責任を追うのは上司の役目。覚えておきなさい、今後恥をかかないようにね」
「そういう事じゃない……貴女は僕に"力を誇示しろ"としか告げてないんだ。手段や方法などの指定はなかったんだ、僕の判断に任せたんだろ」
姉妹の付き人となり幾ヶ月。恐らく、今日初めて主である依姫に逆らった。
これは決して反逆ではない。裏切り等では決してない……単なる相違による反論に過ぎず、譲れない意思が彼にもあったという事に過ぎない。
短絡的な物の考え方と捉えるか、それとも日々の"ストレス"の爆発と捉えるべきか──彼はここぞとばかりに、主人である依姫に言葉を吐き散らした。
「それに貴女は、僕にこう言ったじゃないか……隊長となる身なのだから堂々と、居丈高としていろと」
「ええ、言ったわね。けれどそれは、主人に反抗しろという意味ではないんだけど。出過ぎた真似は止めて頂戴。不始末を処理するのは私なんだから」
ぷつん、と彼の中で何かが切れた。
いくら主人である依姫であろうとも、納得のいかぬ事など山ほどある。
今の今までそれに我慢し耐える事は出来たが……遂に堪忍袋の緒が切れた。その切れた緒が更に、ネギのように微塵切りになる程、彼は憤怒した。
「……煩いな」
「何ですって?」
「煩いって言ったんだよ。確かに僕にも非があるのは認めるよ。だけどお前に口煩く嫌味を言われて黙っていられるほど、僕も穏やかじゃない」
「なっ……お、お前ですって!?」
ぐい、と依姫に近付いた彼は、人差し指をこれでもかと伸ばし、依姫の首もとに近付け強く抗議した。
"何か文句でもあるのか"とでも言いたげな表情を向ける彼に、依姫も黙っていない。ましてや主人に敬意の欠片も無い言葉遣い、苛立ちを見せていた依姫も憤怒する。
「な、何なのよその態度……私が誰だか忘れたのかしら。上下関係のケジメもつけられない、無礼なペットにはきついお灸を据えてやらないといけないのかしら」
「面白い、来いよ依姫。戦いの続き……此処で決着を着けようか?」
刹那、依姫は能力を行使し、祇園様の剣を出現させ、即座に抜刀した。
対する彼の戦闘スタイルは"無手"。武器を持たぬ手法であり、依姫が相手だろうとそれは変わらない。
「……素手を相手に得物が必要とはね。今まで敬意を払ってたのが馬鹿らしいよ。いや全く」
「う……好き放題言って……本当に許さないんだから。いいわ、無手でやってやろうじゃないの。骨折の一つや二つじゃ済まさない……!」
彼の挑発に乗った依姫は、具現化させた祇園様の剣を消失させ、無手で構える。
まさに"怒り心頭"といった様子で、顔も仄かに赤く染まっていた。無論、それは怒りによるものである。
事態が険悪になったのを皮切りに、それまで傍観していた玉兎隊達も依姫を諌めようと言葉をかける。
「よ、依姫様ぁ。落ち着いて下さい、こんなところで闘ったら只では済みませんよっ」
「黙ってて。これは主従の問題なの……貴女達が口を出す問題ではない」
冷たく言い放たれたその言葉に、玉兎は心中凍りつく。今までにない依姫の怒れる雰囲気に、これ以上かける言葉が見つからず、往生する他なかった。
完全に怒りを露わにした依姫は、彼に対して闘争心を向き出しにし、戦闘態勢を整える。
「最後にもう一度だけ聞いておくわ。頭を地につけて許しを乞うのなら、さっきのは全て聞かなかった事にしてあげる。桃樹の件も、私が持ってあげる」
依姫は、自らの非を認め敬服心を持ってして謝罪をしたのなら、全て不問とする──そう彼に告げたが、
「戯言も大概にしろ。むしろ謝るべきはお前の方だろう。もう食事なんて、絶対に作らないからな……シーツの皺だって直さないぞ」
彼は依姫の言葉を一蹴し、闘争心を剥き出しにする。
これ以上の舌戦は時間の無駄であると判断した依姫は、一段と深い溜息を吐いた。
そして内に秘めたる気力を全面的に解放──大地をも揺るがしかねぬ程の膨大な力を身体に満ち溢れさせ、戦闘態勢に入った。
「来なさい、天道っ! どちらが上なのか再認識させてやるッ!」
「ふん、絶対に泣かしてやるからなっ!」
互いに武器も持たず、かつての他流試合の続きと言わぬばかりに戦闘は開始される。
頭に血が上り正常な思考を保てなくなった両上役に対し、玉兎達は為す術もない。ただ、戦闘の行く末を傍観するしかなかった。