──彼が玉兎隊の隊長代理に就任してから、幾年もの月日が経過した。
月の裏側に築かれた文明は、かつて地上で暮らしていた経験のある彼でさえ驚嘆する程、何も起こらない。
そう、何も起こらないのだ。
人々が武器を持ち、血肉を撒き散らして争うこともなければ、経済的、政治的な抗争を起こすこともない。
誰もが望んでいた真の平和──心の平穏というものが月の都市では確保されており、月に住む人類の心は非常に豊かなのである。
彼と依姫の関係について話そう。
あの騒動以来、息詰まる微妙な関係に変貌した彼らの距離は、悠久の年月が経過していく間に元の形へと戻っていた。
互いに"仲良くなりたい"という真意を聞いてしまったが故に、どう接したらいいのか──それが分からぬ両者を救ったのは、時間である。
昇進した依姫は職務を遂行しながらも、玉兎隊の隊長代理となった彼と度々顔を合わせていた。
以前のような"主従の関係"とは程遠く、彼も「僕も玉兎隊の隊長だから」と主張し、依姫に対する口調は決して、敬意の込められているものではなかった。
タメ口──いわゆる"友達口調"で依姫に接する彼に、依姫自身でさえも"ま、いいか"と気にする素振りを見せなかった。。
むしろ、その方が二人の仲が縮まりやすいと判断した上で、豊姫が推奨したに過ぎぬのだが。
一方で彼、天道の生活は順調であった。本人でさえ、心からそう自覚するほどに。
玉兎達からは、依姫と拮抗する実力を見せつけたが故に武力的な畏怖を与えてしまい、敬服とは程遠い環境になってしまっていた。
しかし彼自身は、恐怖政治で玉兎達を支配する気など毛頭ない。
もう少し"フレンドリー"に接したいと考えていた彼は、そうなるようにひたすら行動した。
玉兎達が気兼ねなく自分と接せられるように──それはさながら、"生徒に慕われる教師"という風に。
やがて結果も追い付き、玉兎達──全て少女により構成された部隊──は、彼の器の大きさに敬服し、忠を尽くすまでに至った。
依姫には"隊長としての威厳が足りない"と小言を言われる事もあるが、彼はそれを厭わない。むしろ、それで良いとさえ思っていた。
蓬莱山輝夜と密かに行っている"月の魔術"に関する鍛練も、至極順調に成果を見せていた。
当初は霊力の使い方が理解出来ず、鍛練の成果も芳しくなかったのであるが、霊力の使い方を理解してきた頃に付随するようにして"月の魔術"の成果も上がってきたのだ。
月のエネルギーを利用した魔術は、環境や刻時により効力が左右されてしまうものばかりなのであるが、不安定ながらも彼は"月の魔術"を利用、行使する事ができる程に成長していた。
そうしてそれらを体内に循環させ、ホルモンバランスの関係を半強制的に調整し、更に永琳の製薬した薬を利用し、"性転換"を成し遂げる──それが彼の最終目的だ。
言わば"それだけの為に"月の魔術の鍛練をしているに過ぎない。だがそれは、彼にとってはとても重要な問題であり、また悲願でもあった。
彼の有する能力……"切断したり結合したりする能力"。定着した呼称は存在しないが、彼はざっくばらんにそう表現している。
その能力は、始めこそ制御が効かず荒々しい行為しか出来なかったが、鍛練に鍛練を重ねた末に、今では自由自在に自身の四肢のように行使する事ができる。
一方で綿月豊姫の能力、"海と山を繋ぐ程度の能力"がある。
ある日、豊姫が興味本位で「私の能力と似ている節がある」と彼に告げたところ、当初はその意味を理解できなかった彼であったが、結果としてそれは彼の能力の成長に大きく携わった。
というのも、彼の能力でできる行為のひとつに、"繋げる"という行為がある。
また豊姫の能力も、"海と山を繋ぐ"──つまり大雑把に表現するのならば、"空間ごと瞬間移動ができる"という、空間同士を繋げる能力なのだ。
これらの"共通点"がある事を豊姫は彼に説明すると、「だったら僕にも出来るのではないか」と思い立ち、行動に至った。勿論、豊姫もそれの後押しをした。
結論から説明しよう。
彼自身の能力だけで、空間を繋ぐ事は可能であった。
しかしそれは極小の……腕を二本通す程度が限界の"隙間"に過ぎず、とてもではないが人が通過できる大きさではなかった。ましてや、生き物が通過しても大丈夫なのかすら分からなかった。
豊姫の能力が周囲の空間ごと移転させる事ができるだけに、彼の応用の成果は芳しくない。
だがそれでも、決して無駄な時間ではなかった事だけは確か。
例えば遠く離れた場所にある物体も、それらを応用する事により移動させる事ができるし、繋げる能力を更に併用して電気などで充電することも可能だ。
コンセントの繋がれていない電気ケトルだろうと、彼が能力を応用させればコンセントがなくとも、直接電力を供給させられるのだ。
実際問題、文明が発展している月の都ではその機会は皆無に等しいため、出番がないのもまた事実。
それでも、例えば……料理中に使用したい調味料が戸棚の奥にあった時、"空間を繋げる"事により、さっと用意できるので、決して無用な能力ではない。
"能力の無駄遣い"と依姫に指摘された事もあったが、その応用のおかげで調理時間が数十秒程度短縮されている事実を告げると、顔をやや顰めつつも押し黙ってくれたという。
そんな事もありつつ、巡り巡り時は過ぎ去っていった。
幾年も幾年も、変化を嫌う月の都での生活は続き、気がつくと彼の下で指導を受けた玉兎達の数は、膨大な人数になっていた。
数年毎に、任期を終了した玉兎達は世に放たれていった。まるで春を迎え、卒業する学生達の如く。
月の都での"労働層"となっていた玉兎達は、年々その数を増やしつつも彼の教育を受けた……つまり、名門である綿月警備隊出身の玉兎達は、世間でも優遇された。
いわば"エリート玉兎"と呼称され、人間達に代わり様々な職務に従事していた。
彼が幾年にも及び玉兎達を指導すれば、経済市場を動かす種々様々な企業が名乗りをあげ、その玉兎達を雇用していったのだ。
玉兎を起用すれば、通常の人間を雇用するよりも人件費を抑えられる──名門、綿月警備隊の下で厳しい職務に従事していた玉兎ならば、何処の馬の骨とも知れない素人の人間よりも"使える"のだ。
──そうして発生した、ひとつの問題。
洗練され、徹底的に教育された玉兎達が世間に排出され、社会貢献をする。それは実に素晴らしく、社会的に善なる行為。
しかし排出され、人間に取って代わり職務に従事すればどうなるのだろうか。
今までの玉兎は、簡単なルーチンワークしか遂行できぬ程度。率先して玉兎を雇用する理由など、今まではなかったのだ。
それが今ではどうか。
仕事レベルを上げても、綿月警備隊出身の玉兎ならば何も問題を起こさずに遂行してしまうのだ。今まで軽視していた玉兎達が、社会的にも戦力となる。
そうなってしまえば、高い金を払ってまでも"人間を雇用する"必要はない……固定費、人件費を安く抑えるには、彼の教育を受けた玉兎を雇用すべきなのだ。
つまり、玉兎が人間の仕事を奪っているのである。
"仕事が生き甲斐"という人間は、たとえ文明の発展した月の都でも少なくはない。仕事だって、心を豊かにする材料のひとつなのだから。
そして、生き甲斐を奪われた人間はどうなるのか──簡単だ。次の生き甲斐となる行為を探すか、そのまま腐っていくかの二者択一。
一見すれば人間の労働量が減り、人々の心は豊かになると思われていたが、結果は真逆だった。
一部の人々の心は廃れ、ひどい者に至れば玉兎達に嫉妬し、危害を加える者まで現れる始末。結果、都の治安は荒れる傾向に陥り、綿月警備隊の仕事は増えるばかりであった。
──そんな時節、日常の一片。
玉兎隊の警備隊長、及び数名の玉兎に加え、綿月警備隊の総隊長が共に月の都の警邏に当たっていた。
ぶらぶらと、警邏と表現するよりは、散歩に近い雰囲気を醸し出すその集団。学生の仲良しグループと表現しても差し支えないそれは、月の都を塊となりて闊歩する。
「隊長、もう疲れましたよぉ。休憩にしませんか、休憩」
「そーですよぅ。あ、ほらあそこにカフェが! この前、雑誌で紹介されてたお店ですよ!」
きゃあきゃあ、と喚き散らす玉兎達。黄色い声が、前を歩く玉兎隊の警備隊長である天道、そして綿月警備隊の総隊長である依姫に対してそう提案する。
このような戯言を吐くなど、昔では到底有り得ぬ事であったが、彼が就任して以来は厳格な指導体制も緩和の傾向にあるのだ。
けれども、仕事は仕事。彼、天道は淡々とした表情のまま、
「警邏中だ。そういうのは仕事が終わってからにしなさい」
「えー。だって天道隊長、休日はいつも予定で埋まってるじゃないですか。こーいう時じゃないと、一緒にお茶も飲めないじゃないですか」
「そうそう。隊長も、是非ご一緒に……あ。……もちろん、依姫様もご一緒に」
彼の背後を歩く二人の玉兎が、彼の左右の手を取りそんな事を言いのたまっていたが……依姫の鋭い眼光に当てられると、瞬時に萎縮し言葉を失ってしまった。ぱっ、と手を離す。
"職務中だ"と、表情と雰囲気だけで叱責の言葉を理解出来てしまう程、依姫から滲み出るそれは尋常ではなく。
その雰囲気を感じ取った彼は、若干身じろぎつつも、
「……まぁ、また今度。今は警邏に集中しなさい。依姫も、あまり怒らないほうが」
「別に怒ってないけど。貴方は少し……いや、かなりこの娘達を甘やかしすぎでは」
「そんな事はない。飴と鞭をそれなりに使い分けて、メリハリをつけて行動させているからね。支配する事が教育ではないのさ」
「ふぅん、そうなの」
泰然とした態度で隣りを歩く依姫は「今は仕事中だけどね」と皮肉を洩らした。彼はそれに苦笑しつつも、前方への視線は逸らさない。
依姫も普段ならば別の職務に従事している手筈なのだが、生憎と本日は非番らしく、彼と共に警邏に出てきているようだ。
非番といっても、休日とは違う。有事の際には常に、臨機応変に行動できるように月の都内に在中していなければならないのである。
特にこれという理由はないのであるが、とりあえず彼と共に警邏をしている……らしい。真意は不明。
「最近、玉兎達が増えているわね」
誰に言うでもなく、依姫がそう言葉を呟いた。隣を歩く彼も、
「そうだね。どこを見ても兎ばかり……そこの飲食店の娘も、あそこの服飾店の娘も」
「玉兎達が社会に進出し始めているのね。一昔前では考えられない事だったけれど、今となっては割りと普通かも」
「通りを歩くのは人間ばかり。玉兎達は皆、販売員やら受付人……あ、向かいの店の娘、昔僕が指導した娘だよ」
ふと、彼に向けて手を振る兎が見えた。彼はそれに応えて手を振り返すと、隣の依姫に足を踏ん付けられた。気を逸らす事さえ許されないのかと、彼は辟易した。
けれども、普段の彼の警邏とは大体このような感じである。今日はたまたま依姫が共にしているだけで、彼女の前で無様さを露呈してしまう度、嫌味たらしい一撃を被ってしまうのだ。
彼はそれを理解していながらも、ついつい意識を彼方へと飛ばしてしまう。一体、何度踏んづけられたのかも分からなくなった足を彼は労りつつ、
「痛たた……それにしても、いずれこの娘達も任期が終了したら、あのようにそれぞれの仕事に就くのかな」
「そうでしょうね。希望する娘は警備隊に続役すると思うけれど、都の仕事の方が体力的には余裕があるからね」
「僕一人で玉兎隊を纏めるのも、そろそろ限界だし。数が増えすぎだよ」
「年間の入隊数はそれ程ではないんだけど……問題なのは、続役する玉兎が多いって事だけで」
両者は言葉の後に、似たような溜息を吐いた。
玉兎隊のひとつの問題として、隊員数の過多というものがあるのだ。
通常では数年の任期を終了した玉兎は退役するのが決まりなのであるが、本人が希望すればそのまま続役する事もできるらしい。
けれども続役する玉兎の数がとても多く、毎年玉兎は入隊してくるので、隊員数が以前の数十名では効かなくなってしまっている。
なので稀に、一定年数を経過した玉兎に関しては、半強制的に退役させたりもしているようなのだが……それでも隊員数が多い事には変わりなく、既に複数部隊にまで分かれているのが事実。
そのような愚痴を依姫にも溢しつつ、彼らの警邏は続く。
彼、依姫、玉兎二人による通常の警邏は、昼過ぎから夕刻まで続き、本日も異常なしで終わると思われたその時、
「……っあ、すいません」
後方を歩く二人の玉兎のうち、一人が小さく悲鳴の声と同時に、謝意の言葉を洩らしていた。
それに気付いた前方を歩く二人……彼は、直ぐに振り返り状況を確認する。
見ると、後方を歩いていた玉兎達であるが、どうやら通行人と肩をぶつけてしまったようで、それが理由で謝罪をしたらしい。通行人は、少々小柄の男だった。
「……なぁに、良いってことよ」
「あはは、すみませんでした。気をつけます」
黒いニット帽を目深に被り、薄っすらと顎鬚を生やした見た目四十台手前と思われる男。
ただ肩をぶつけただけなのだから、彼が介入する事もない。事静かに再び前方へ視線を戻し、歩き続けようとするが──それは玉兎達の声によりはばかれる。
「なぁ、あんたら警備隊?」
「はあ……そうですけど」
「へぇー。俺も前はよ、警備隊に所属してたんだよ。ハハッ、今はもう辞めちまったんだが」
目を真ん丸くし、親しげにそう言葉を交わす男であるが、玉兎達は一歩引いての応対をしていた。
しかしその男は不意に、玉兎達の携行している武器に着目し、言葉を放つ。
「これ、新型の武器かい? 凄いねぇ、ちょっと触らせてくれよ」
「あ、ちょ! 駄目ですよっ」
男が玉兎が腰に携行している短銃に触れようとした瞬間、玉兎はそれを拒み間一髪のところで男の手を振り払った。
ぱしん、と高めの肌を弾く音が聞こえると、男は嫌らしそうに表情を歪めて自身の手を擦る。
「何だよ。真面目ちゃんかよォ……おい。ちっとぐらい触らしてくれたって良いじゃあねーかよ」
うぷっ、と男が息を漏らした。男の体内から吐き出された空気から酒の香りを感じ取ると、玉兎は眉をひそめた。
真昼間から酒を煽っているのか、と玉兎は推測しつつも、鼻呼吸を止め口から酸素を供給しつつ、
「だ、駄目なものは駄目ですっ。人に向けたら危ないものなんですから!」
「はぁ、そうかよ。あーあ、兎なんかに都の警備を任せちまって良いのかよ……どうにかしちまってるぜ、月のお偉いさん達はよ」
「……っ」
男は後頭部にて腕を組み、誰に言うでもなく大きな声で悪態をつき、そのまま去ろうとする。
酷い言われ様に、悲しげな表情をする玉兎。けれど能力的に人間に劣る部分も有している事から、男の言葉に間違いはなく。
職務に私情を挟んではならない事は、たとえ一等兵の玉兎であろうとも、根底から理解している事だ。
しかし、悪態をついて何事もなかったかのように去ろうとする男に、綿月依姫は黙っていなかった。
「待ちなさい、そこのお前」
「……あー? 何か用かよ」
凛とした表情で男を引き止める依姫。
一体何が始まるのか、何故依姫は男を引き止めたのか。疑問に感じた彼は、素直に依姫に耳打ちする。
「……何故奴を止めたんだ。僕達が引き下がれば、事は大きくならずに済むのに」
「確かに、そうかもね。でも違うのよ……ま、そこで見てて」
小声で彼にそう告げた後、依姫が男に向けて足を動かす。迷いなく、早歩き並みの速度で。
玉兎達の真横を通り抜け、男が依姫の接近に気付いた時には、時既に遅し。
依姫は男の腕を掴み上げると、万力の力を込めてそれを上方へと掲げる。グァン、とこれでもかと引っ張りあげられた腕は、ジャケットが破れてしまうのではないかと思わせてしまう程で、
「ッ、てめぇ何すんだッ!」
「手癖が悪いわね。それとも、それに気付かないこの娘の神経が鈍りすぎなのかしら」
「……ッ!」
ぶちり、と男のジャケットの一部を無理矢理引き千切ると、そこからは……綿月家警備隊で使用している携行式の私物入れが出てきた。
言うなれば、小さな小さな鞄である。小学生がランドセルを背負っているように、警備隊員も指定の荷具を所持しているのだ。恐らく男が玉兎から"盗った"ものであろう。
依姫がそれを取り返し、玉兎へ向けて投げ渡した時点で、漸く兎達は"窃盗にあった"という事実に気付き、困惑した。
「くそッ、綿月だか何だか知らねーが、ふざけんじゃねェッ!!」
男が依姫に向けて拳を振るう。けれどそれは知っている者からすれば、蟻が恐竜に挑み手を挙げるようなもので、
「──っと」
「あがッ……!」
蟻如きでは、恐竜には勝てない。あっと言う間に攻撃は捌かれ、瞬時に男の額に手刀を放ち、悶絶させる。
たったの一撃、手を抜いた程度の攻撃に過ぎないが、男には金槌で殴られたかのような衝撃が襲う。鼻を熟れたトマトのように真っ赤に染めていた。
「貴女達」
短く、依姫が二人の兎を呼びつける。
兎らは背筋を凍らせ、何か恐ろしい幽霊に脅かされたかのように全身を軽く震わせた。
口元も震えていて、"は、はひ"と奥歯を噛みながら依姫に対して返事を返し、体ごと振り向いた。
依姫はそんな素振りの兎など気にもせず、淡々と頭の中で辞書を引くようにして言葉を放つ。
「この盗人を連行してちょうだい。暴行……窃盗の現行犯ね。……それと貴女、レイセンだっけ? 貴女はもう少し、落ち着きを持ちなさい」
「す、すみません……」
依姫は窃盗の被害にあった兎を軽く叱責した後、男の身柄を玉兎二名に手渡した。
男は悶絶こそしているが、意識は失っていない。だが、両腕を玉兎達により拘束されており、再び逃げ出すという事はありえなかった。
事の決着が済んだ後、依姫は小さく溜息を吐いた後、彼の下へ戻る。悠然とした態度で、誇らしげかつ皮肉げに、
「本当は、貴方が私の代わりにするものなのだけどね?」
「……ああ。よく気付いたね、僕は気付かなかったよ」
「意味もなしに絡んでくるとは思えなかったから。注意深く観察した結果が実っただけよ。もっとも、町娘ばかりに気を取られている貴方には分からないでしょうけど」
「……面目ない」
ぎゃあぎゃあ、と男は喚き散らし、それを必死に取り押さえようとする玉兎二名。その様を見ていた彼は、依姫の皮肉も相成って何ともムツカシイ顔をした。
玉兎達では幾分荷が重いかなと彼は思ったが、ここで彼が手助けをすれば、"その必要はないでしょ"と依姫から小言を言われてしまう。そう、彼女はスパルタなのだ。
「まぁ、後処理はあの娘達に任せて、私達は警邏の続きに入りましょ」
「ああ。近頃、治安が悪くなっている気がするんだ。それも、玉兎達に対する風の当たりも強くなっている気がする」
「玉兎に仕事を取られた、という話も頻繁に聞くわね。それに関連しているとは言い切れないけど、全く原因ではないとも言い切れないし」
労働層である玉兎が様々な仕事に進出し、仕事を取られた人間は決して少なくはない。
仕事を取られてしまった人間は、結果として玉兎に対して恨み心を抱く者も少なからずは存在する。
"今まで通り底辺の仕事だけしていればいいのに"──そう言葉を荒げ、心を病ませる人間だって居る始末だ。
あの男も、或いはそういった類の者なのではないかと彼は推測し、依姫に取り留めのない世間話として告げる。
彼女に至っては「仕事を取られる程度の無能だからしょうがないでしょ」等と述べ、不機嫌さを露わにしていた。
やはり仲間である玉兎の事を馬鹿にされ、心中穏やかではないのは彼も、依姫も同じであったようで。
まだ後方で騒がしい玉兎達の健闘を祈りつつも、彼と依姫は再び警邏の続きをしようとするが──
「くそがッ! 終わっちゃいねぇぞッ! この落とし前は絶対につけてやるからなッ!」
ふと、そんな罵声が飛んできた。
男は玉兎に羽交い絞めにされてもなお、口撃は緩めない。腕を羽交い締めにされながらも身を乗り出して、
「聞いてんのかコラァッ! テメェら警備兵如きがいい気になりやがってッ! この俺をッ、殺れるもんなら殺ってみやがれッ!」
「こら、静かにしなさい! 大人しく私達に連行されるんですっ!」
右肩を前に、左肩を前に。少しずつ、僅かでも依姫達に近付こうと男は努力するが、それは玉兎達の拘束により叶わない。
罵声を浴びせる男など、依姫は自分が相手にするまでもないと、後ろすら振り返らない。
けれども彼は少しだけ様子が気になったのか、後方へと振り返って様子を確認してみると──
「あっ、駄目っ」
「どけオラァッ! はい死んだああァッ!」
男は右隣にいた玉兎を力任せに振り切り、更にその隙を突いて玉兎の腰から"短銃"を奪うと──銃口を真っ直ぐに依姫へと向けた。
拳銃にも似ているそれは、決して人間に向けて良いものではない。撃ちどころが悪ければ、人の命すら狩り取れる代物で──それが今、彼女の後頭部へと勢い良く向けられていて。
──だが、しかし。短銃の引き金が引かれる事はなかった。
玉兎が阻止したわけでも、彼が手を降したわけでもない。或いは依姫が気付いて迎撃したわけでもなければ、彼女は依然、男に背を向けたままだ。
それは、単なる男の自尊心の確保に過ぎなかった。引き金は引かれずに終わり、短銃はもう反対側に居た玉兎により弾き飛ばされ、男は再び羽交い絞めにされていた。男が、下卑た笑みを浮かべながら、
「……ケッ、命拾いしたな女ッ! 俺がその気だったらなァ……ケケッ、死んでたぜ、テメェ!」
「取り押さえましたっ! こら、動くんじゃない!」
抵抗した男は、今度こそ地べたに叩き落とされ、完全に取り押さえられた。
顎を土で汚しながらも、依姫に対する罵声は止まらない。まるで仇敵を目の前にしているかのような鋭い眼光で、
「綿月だが何だか知らねぇが、糞ったれの兎どもを世間に放ちやがってッ! こっちはいい迷惑なんだよコラァッ!」
「喋るのをやめなさいっ! 大人しく連行されるのよ!」
グッ、と馬乗りにされ、両肩を押さえられる。男は苦痛に表情を歪めながらも、唇の端を釣り上げた。そうして不気味な笑みを浮かべて、
「決めたッ! テメェのイカれた力には敵わねぇけどよォ……ケケッ、困らせてやるッ! 先ずはテメェの周りからだッ!
兎どもを皆殺しにしてやる……その後は警備隊の施設にに火を放ってやるからなッ! ケケッ、今から楽しみだぜッ……」
玉兎二人に上から圧し掛かられている為、抵抗という抵抗はできない。が、男は依姫に罵声を浴びせ、果てには反攻するという予告まで叫んでいた。
"玉兎を皆殺しに"、"屋敷に火を放つ"──それら全ての言葉を聞いたところで、依姫が振り返る事はない。
「もう"おさまらねぇ"……俺に恥をかかせやがってッ! 俺はとことんテメーらを困らせてやる事に決めたぜッ……ケケッ」
男のあまりにも稚拙な発言の数々に、依姫は怒りを通り越し、既に呆れ果てていた。
自分が対応するまでもない──そう思い、男の相手などするものかと心に決めた依姫であったが、
「──言いたい事はそれだけか」
「……あァ?」
彼の言葉に、此の場にいた誰もが疑念を抱いた。突如紡がれたその言葉に、一体どのような意味が含まれているのか、と。
男を取り押さえている玉兎達に向け、彼は冷静に言葉を放つ。正面ばかり向いていた依姫も、今度こそ振り向いて。
「言い終えたのなら……その男を放してやれ」
「……」
静かに、僅かに威圧的にも取れる声色でそう告げる彼。
今まで悪態をついていた男は勿論、男を取り押さえていた玉兎でさえ押し黙り、依姫も彼に注目した。額に、僅かな汗をにじませて。
彼は玉兎達に近付くと、再び男の拘束を解くように指示した。そして玉兎の持っていた短銃を一丁、軽やかに抜き取り手にした。
一体、彼は何を考えているのか。気でも違ってしまったのか。兎達でさえそう勘ぐってしまうその行動──彼は短銃を、男の前に投げ捨てた。
ガシャン、と音を立てて落ちた短銃に男は視線をやり、次に彼に視線を移し変える。彼の表情は至って平然としており、けれども堂々たる威圧感すら放っていた。
「僕達を困らせると言うのなら……それを拾ってみろ。ただし、拾ったのならそれが合図になる」
静かに、けれど悠然と。
彼は眼前に跪く男に向け、そう言葉を放った。
玉兎達が男の拘束を解き、一歩、二歩と男の傍から離れる……が、男は上半身こそ起こしたものの、立ち上がろうとはしない。
男は目の前に忽然と落ちている短銃に視線を向けるが、額から汗を滲ませて唇を震わせる。顔をあげれば、悪鬼のような彼の表情が。
男は振り絞るようにして、そしておどけた声調で言葉を放つ。口端を上げ、下卑た笑みを浮かべながら、
「……イ、イェーイ。何だよ、ただの冗談だぜ……マジになるなよなァ……」
男の言葉に、彼はぴくりとも動かず、言葉すら発さない。視線は相変わらず、男の瞳を貫いていた。
「怒んないでよ! さっき言った事は全部冗談…………俺ぁただのチンピラだよぉ……へへ」
跪き、両の手のひらを前に出して、戯けたように男は言葉を吐く。彼を諌めるように、手の平を震わせる素振りは、怯えているようにも見えた。
玉兎達はその光景を固唾をのんで見守り、周囲に集り始める野次馬達を退けつつも、自らの隊長から目を離さんとしていた。
そして依姫は──普段と雰囲気の違う彼の姿に心配し、割れ物に触れるようにして言葉をかける。
「……ねぇ天道、どうしたのよ。貴方らしくもない……少し落ち着いて、冷静に物事を」
「落ち着いているさ。自分でも驚く程に」
依姫の言葉に対しても、泰然とした態度で言葉を紡ぐのみ。
彼は「落ち着いている」とだけ言葉を口にするが、傍から見る依姫には、とてもそうには思えない。
他になんと言葉をかけて良いか見当もつかない依姫は、思考に思考を重ね、言葉を紡ぐ。
「あの娘達が侮辱された事に怒っているのなら、今は事を荒げないで。此の場であれを始末するのは簡単……けど、それは単なる武力制裁に過ぎない」
「違うよ。僕は君が侮辱された事に怒っているんだ」
「……は?」
きょとん、と呆気にとられた表情をする依姫。彼は言葉を続ける。
「敬愛する主人を馬鹿にされて、平然としていられるものか。十分に落ち着いているさ……だが、あの男は許されないよ」
「天道……」
「僕は綿月依姫の従者だ。君を守るのは僕の務めで──」
彼が言葉を紡いでいた、ほんの一瞬、僅かに。視線を男から逸らし、依姫に向けたその瞬間に、事態は動く。
跪いていた男が、目の前に落ちている短銃を一目散に拾い上げ、迷いなく引き金に指をかけた。
誰よりも先にその事実に気付かなければならないのは、他でもない彼だ。しかし彼は依姫と言葉を交わしており、ほんの一瞬、僅かに反応を遅らせてしまっていた。
依姫が彼の名前を叫んだ時、漸くそれに気付いたのだが──遅かった。男は、引き金にかけた指に力を入れた。
「ヒャハッ、くたばりやがれぇェッ!!」
今度こそ、銃口は向けられた。彼の心の臓を完璧に捉えていた。
漆黒の殺意に包まれた感情は、男に引き金を引かせる事すら躊躇させない。
周囲の空気を裂き、迷いなく引き金が引かれ────絶命の一撃、光の塊が射出される。
──しかし、射出された光弾は一つではなかった。
銃口から射出される光弾、そして──瞬時に意識を集中させて、彼が指先から放った光弾、もとい霊弾。
指先から放たれたそれは、威力こそ決して高くはない。が、精度、速度共に人工的に作られた短銃よりも疾く、美しくて。
「────うがッ」
彼の放った真っ白い霊弾が、男の肩を撃ち抜いた。
しかし同時に、男の発砲した光弾が彼の肩に命中しており、衝撃が彼を襲った。
痛覚を刺激され呻き声をあげるが、往生してる暇はない。間髪入れずに彼は二発目の霊弾を射出した。それは余裕とも取れる笑みで、
「……ふん、それは殺傷力のない警備隊専用の護身銃だよ。お前さんの言った通り、この娘達に実銃を持たせるのは危なっかしくてさ」
「な……ッ!」
彼の放った二発目の霊弾が、男の額を打ちつけた。男の額にあったニキビは潰れ、頭蓋骨を大きく揺らした。ぐしゃん、と地面に倒れる鈍い音が響いた。
幸いにも意図的に威力の調整された霊弾は、男の命を狩り取るまでには至らない。いわゆるゴム弾程度の威力に過ぎず、致命傷にすら届かない。
男はやや後方に吹き飛びつつも、意識だけは確実に落ちて。次、男が目を覚ますのは、罪人用の医療施設である事は間違いない。
「天道、大丈夫っ!?」
「たた、隊長ーっ!」
事が終了し、痛そうに肩をさする彼の周りに依姫らが集った。まるで生き別れの両親に再会したと言わんばかりの勢いに、周囲の野次馬たちの輪も乱れた。
男が発砲したのは、警備隊用の護身銃……いわゆる、空気銃に近いそれに過ぎない。なので、撃たれて死ぬという事は極めて稀である。
しかしながら、文明の発達した月の都の護身銃だ。それも綿月家管理の護身銃は、決してただの空気銃程度の威力では済まない。
"暴漢程度ならば一撃で仕留められる威力"を有しているのだ。そんなものを肩に喰らい、平然としていられる筈がない。事実、彼は少々痛そうに表情を歪めていた。
「痛たた……大丈夫だよ、問題なし。見ろ、血は出てないし骨だって折れてない」
衣服をぺたん、と地肌に密着させ、出血していない事をアピールする。くしくし、と擦る度にうなじが見え隠れしていた。
服の上から滲み出ないから出血していない。そんなもので素直に頷けるか、と依姫は彼に詰め寄り、言葉を放つ。ぐおん、と彼に顔を近づけて、
「馬鹿っ、内出血してるかもしれないでしょ! それに骨にヒビだって入っているかも……痣になってるんじゃないの? ほら、ちょっと見せてみて」
「……何?」
グイ、と依姫が彼の衣服に手をかけた。何てことはない、ただの触診前の行動に過ぎない。
けれどもそれは──フルコースにおいて主賓よりも先にナプキンを広げてはいけないのと同じくらい、彼に対してやってはいけない行為であり。
自らの衣服に手をかけてくる依姫の手を、若干の抵抗を込めて払いのける。
「……いいよ、大丈夫だって」
「大丈夫ってことはないでしょう。骨に異常があったら、後々痛い目を見るのは貴方なのよ? 肩をはだけさせる程度でいいから、ほら早く」
それは依姫なりに心配し、選択した行動だ。
決しておかしな行動ではない。極普通の、怪我の具合を判断する行為。
"脱がないと見れない"という言葉に、彼は思わず背筋を凍りつかせ、額に汗を滲ませた。
──『脱げる筈がない』
彼はそう思考し、躊躇する。無理──そう、無理なのだ。真夏にこたつでミカンを食べるのと同じくらい、無理なことのだ。
何故ならば……もはや説明するまでもない。
依姫は彼が"肉体的に女性である"という事実は知らないのだ。綿月家に関する者で知っている者は、八意永琳ただ一人。
此の場で衣服を脱げば、瞬時にバレてしまう。肩をはだけさせる程度だろうとも、あの膨らみは隠せない。サラシで潰していようとも、主張する時は主張する。
──どうすればいい、どうすれば。
答えが見出せぬ彼は、苦し紛れに誤魔化しの言葉を述べる。手を差し伸ばす依姫の手を再び二、三度ほど振り払い、
「き、今日は少し肌寒い。だから服は脱がない」
「……は?」
突然何を言い出すのかと、依姫が彼に奇異の視線を向ける。けれど彼は依姫に視線を逸らして、
「それに怪我なんてしてないし。見ろ、すこぶる快調だ」
どん、と自らの肩を叩いた彼は、敏感になった痛覚を刺激される結果となり、悶絶した。
「だから言ってるでしょう」と依姫は呆れ混じりに呟き、彼に手を差し伸べる。肩に触れた。
「ほら、駄々っ子じゃないんだから。怪我の具合が分からなくちゃ、お師匠様にも診てもらえないでしょう」
「いや、いいって。僕に構わないでくれ。怪我なんてしちゃあいないよ」
「んもう! どうしてこういう時だけ頑固なのよ。怪我している時ぐらい、素直になりなさい! このっ……無理にでも……!」
彼の両肩を掴み、無理矢理服を脱がしにかかる依姫。
万事休すかと思考した彼であるが、そこに一つの逃げ道を見出した。
周囲に集う野次馬達……その野次馬達が、今の自分達の光景を目にしたらどう想像するのだろうか?
女が男の服を脱がそうとする……説明する必要すらない。異様な光景だ。これが性別の立場が逆だったのならば、確実に法的措置を取らされる状況だ。
「依姫、落ち着いて。周り、見て」
「何よっ……周りがどうしたの」
瞬間、我に帰る。
ぽけーっとしている野次馬から、小型の射影機を用いて撮影をする若者まで。幅広く存在する野次馬達は、依姫の羞恥心を煽るには十分過ぎた。
お盛んね、と口々に噂する老夫婦もいる始末。玉兎達ですら言葉を失い、指で目を塞いで事が落ち着くのを待っていた。少なくとも、異性同士が野外で行う行為ではなくて。
「──っ」
「後で八意さんに診てもらうから……落ち着けよ、依姫」
周囲の野次馬達の視線にさらされながらも、平然さを取り戻した依姫は彼から手を離した。
鋭い視線で野次馬達を一蹴し、何事もなかったかのように警邏を再開しようと玉兎達に目配せをする。
そうして乱れた衣服を正し、赤く染まった頬を隠そうともせずに、依姫は言葉を放つ。それは、然も何事もなかったかのように、取って付けた付け焼刃のような声で、
「あ、貴方に言われなくても落ち着いてるわよ。それはもう、自分でも驚く程に」
* * *
夜半の刻。
日中に一騒動が起こったものの、後の処理は滞りなく行われ大事に至る事はなかった。
幾年もの月日が経過し、玉兎隊の隊長に正式に就任したとしても、彼の本来の職務が失われる事はない。
綿月姉妹の付き人として身の回りの世話、そして食事作りは今もなお、継続して行われている。
朝食と夕食は彼が用意し、特に食後のデザート……豊姫の所望するそれは、首尾よく確実に行っているという。
日中の騒動もあり、普段よりやや早めに職務を終えた彼らは、寄り道せずに直ぐに帰路についた。
そして彼は早めの夕食の支度を開始し、それが提供される少し前の頃。
豊姫と依姫が卓にて向かい合い、談笑を楽しんでいた。
「それでね、天道が私の事……敬愛してるって。うふふ、普段はそんな事を言う奴じゃないのに……ちょっぴり見直しました」
「……ふぅーん、あっそう」
嬉々として言葉を紡ぐ依姫に対し、豊姫はつまらなそうに、卓に飾られている置物を弄っていた。
返す言葉もどこか上の空。あらかじめ用意している言葉を返すだけで、その視線も依姫は捉えていない。
"彼が"とか"天道が"だとか……紡がれる言葉、彼女の題する話題の多くが、彼に関するものばかり。
もう聞き飽きた。何度同じ話をするのだ。豊姫は飾られていた置物を元の位置に戻し、依姫の言葉の途中であろうが関係ない。淡々とした口調で横槍を挟みいれる。
「彼ね、玉兎達にも好かれているみたいで。この前なんか、玉兎達が手作りのお菓子を彼に贈ったらしくって」
「……それで?」
「……はい?」
突如、言葉を挟み入れられた依姫は驚き、我に帰って説明をする。
「それで、って……そうですね……そういう微笑ましい事があって、彼も幸せ者だなと……」
依姫の回答に、豊姫は然もつまらなそうに溜息を吐く。
深遠にも及びそうな吐息の後、間抜けなペットを躾けるように、淡々と言葉を放つ。
「それで、と言ったのは貴女の事。依姫、貴女はさっきから天道の話ばかり……話の全貌が全く分からない。一体私に、何を伝えたいの?」
「……そ、そうでしたか? ……すみません」
姉に指摘され漸く気付いたのか、依姫は俯き恥ずかしそうに頬を染めた。
若干の苛立ちも含められた言葉を放つ豊姫だが、それを僅かに抑えつつも、
「そんなに彼が気になるの?」
「べ、別にそんな事はありませんっ。彼は私達の良き従者……気の迷いなど、ありませんよ」
「ふぅん、そっ。別に追求するつもりはないけれどね」
言い知れぬ、険悪な雰囲気。
豊姫も依姫も互いに憤怒している訳ではないが、依姫は思う。妙に居心地が悪いな、と。
ふと気付けば自分は彼の話ばかり。甘んじてそれを聞いていた豊姫であったが、脈絡のない話を延々と聞かされれば、肉親だろうと良くは思わないだろう。
奇妙な静寂が続いたが、ものの数分で状況は変貌する。姉妹だけしかいない部屋の扉を、誰かが叩く。
それから間もなくして、扉が開かれた。彼が両手を器用に駆使し、料理の盛られたお皿を持ったまま開けたのだ。
何だか険悪そうな雰囲気を意にも介さず、彼が卓の上に料理を並べ始めて、
「お待たせしました。何の話をしていたのですか」
「うふふ、教えてほしい?」
淡々と料理を並べる彼に、面白おかしそうに豊姫が彼に言葉を放った。
豊姫に対しては依然、敬語で会話する彼に、彼女は若干ながら壁を感じていた。
妹の依姫には友達口調なのに、何故自分には敬語でしか話してくれないのだろう。そんな疑問が彼女の脳裏を駆け巡った事もあった。
畏まった口調で話す彼も、豊姫が何の話をしていたのか気になる反面、依姫から刺さるような視線を感じ、難儀した。
「……いえ、また機会がある時にでも」
「そ、残念ね。……わあ、今晩も美味しそうね。依姫もそう思うでしょ?」
「え、ええ、とても美味しそうですわ」
「早く食べましょ! さ、天道も座って座って」
卓と厨房を数回ほど往復した後、豊姫が彼に座るよう急かす。
普段ならば、アジアンテイストの長方形のテーブルを囲うようにして座るのだが……今日は違う。
「あれ、僕の席がないのですが」
先程まではあった椅子が、何故か綺麗サッパリ消え去っていた。
彼が厨房に赴いている間、恐らく"誰かが"意図的に空間ごと移転させてしまったのだろうが……それを見た者は、依姫しかいない。
「普段と同じ席というのも詰まらないでしょう。天道、今日は依姫の隣りに座れば?」
「……姉様?」
豊姫が指を鳴らすと、消失していた椅子が瞬時に現れた。それも、依姫の隣りの席へと。
先程の依姫の話を聞き、精神的に嫌悪感を催していた豊姫は、一風変わった手法で妹をからかおうと、そういう魂胆であった。
"依姫の隣に座れ"と再び急かす豊姫に、彼は疑問を抱きつつも素直に従う。
「どうしたの」
「……や、別に。さぁ、頂きましょ」
隣りに着座した途端、何だか落ち着かない様子の依姫に、彼は不思議そうに表情を顰め……豊姫はくすくすと笑っていた。
依姫と彼が隣同士に座り、その正面に豊姫が座っている。普段とは違う席位置を彼は不審に思ったが、目の前の料理に全てを忘れた。
「わあ、美味しいわね。特にこのスープ! 名前とかあるのかしら?」
何だか白々しい質問を投げかけてくる豊姫に、彼は更なる不審感を露わにしながらも説明する。
「それはクラムチャウダーです。殻付きの貝をいれてるので、注意して食べてください」
「ふぅん、とても濃厚で美味しい。……あら、どうしたの、依姫?」
「いえ、何でも。……うん、美味しい」
なおも妙な空気が包む二人。
翡翠色のグリーンピースで飾られたシュウマイを一つ頬張り、依姫は比較的小さめな声量でそう呟いた。
そんな妹の姿を見た豊姫は、何が面白いのか頬を緩ませ目を細めた。
そして「美味しい?」と依姫に問いながら、豊姫もシュウマイを箸でつまむと、それを彼へ向けて差し伸ばした。
「……何ですか、豊姫さん」
「食べさせてあげようと思って。はい、あーん」
「じ、自分で食べれますから」
「ダーメ。……あ、こら! 渡し箸はマナー違反よ!」
豊姫の差し出したシュウマイを、彼が自分の箸で掴み取ろうとしたが……あえなく不発に終わった。
今宵は妙に落ち着かない豊姫と、妙に落ち着いた依姫。
何だか今日は変だなと思いつつも、ぷりぷりと怒った豊姫には逆らえずに素直に食べさせてもらう彼。
もしゃもしゃ、とシュウマイを食べる彼は「まあまあです」と感想を述べた。ここで料理を褒めるほど、彼は自愛者ではなかった。
「……姉様。少し彼に構い過ぎでは」
「んー、そう? 従者を可愛がるのも主の務めだと思うけどね……はい、これも食べる?」
「む……」
更にもうひとつ、シュウマイをつまむとそれを彼の口元へ差し向ける。
食べさせようとする姉も姉だが、それを甘んじて受ける彼も彼だ!と、依姫は心中、怒りを露わにした。
間もなく不機嫌な表情に変貌する依姫に、彼は怯える。豊姫はくつくつと笑いつつも、少々からかい過ぎたと己を反省した。
「うふふ、ごめんね、依姫。怒らないで……貴女も彼に食べさせてあげればいいじゃない」
「……何故、私が」
「っそ。じゃ、天道ー。主人の食事の手伝いをしてあげなさい」
「え、何で僕が」
「早く。これは命令よ、依姫の姉である私からのね」
ここぞとばかりに捲くし立てる豊姫。
"姉"の部分を強調し、然も自分が依姫よりも偉い立場にあるぞと言わんばかりに。
彼は致し方なしと思い、若干背筋を凍らせつつも、大皿に盛られたシュウマイを箸で分断し、食べやすい大きさにしてから依姫に向け……
「……ほら」
「な、何よ」
互いに上半身を逸らし、距離を取る。彼と依姫の視線が交じり合う。
「……食べないと終わりそうにないよ」
「う、うん……い、頂くわ」
頬にかかる髪の毛を指でそっとかき上げ、彼の箸から送り渡されるシュウマイを食べた。
恥じらいを包み隠さず、瞳だけは瞑り食べる仕草に、彼は不覚にも愛おしさすらをも感じ──カシャン、と機械音が響いた。
食卓から聞こえる聞き慣れない音に彼は音のする方向を凝視し、依姫も彼の箸を咥えたまま音のする方角に視線を向けた。
「………うん、二人とも良い表情。こうして見てみると、まるで仲睦まじい夫婦みたいね」
最新鋭の技術を駆使して製作された射影機を片手に、撮影した映像を確認し満足気にそう呟く豊姫。
二人が俗にいう"あ~ん"をしている光景を、豊姫は隠し持っていた射影機を駆使し、見事に画像に収める事に成功したのだ。
彼女自身は妹を嗜めるついで、二人の仲を応援する"キューピット"の心算で行った行為なのだが──依姫はそうは受け取らない。
即座に彼の箸からシュウマイを強奪し、咀嚼する事も忘れ怒りに打ち震える。頬をシュウマイで大きく膨らませながら、
「ね、姉様……ッ、何をしてるんですかっ。それを此方に寄越してください、それをッ!」
「あ、ちょっと! そんな乱暴に扱ったら壊れちゃうでしょっ」
ガダン、と卓に衝撃を与え依姫は立ち上がり、振動に遊ばれスープを微量ながら零しつつも、気に止めない。
豊姫から射影機を奪取せんと体躯を満遍なく駆使し、依姫は行動した。
今日は本当に色々と起こる日だなと思いつつも、彼は姉妹の戯れをただ傍観するのみ。
依姫の気持ちに薄々勘付きつつあるのか、それは分からない。
──ただ一つ、確実に言える事がある。
近日、間もなく。
彼の"性転換"を行う為の土台は全て揃い、月の魔術も十分に行使できる事。
誰にも悟られず、誰にも語られる必要もない。彼の決意は、そう静かに固められていた。
以上となります。
私事ですが、やらなければならない事が立て続けに出てきている状況なので、次話は遅れる可能性が高いです。
読んで頂いている方には申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。