夜風が、運河の匂いを少しだけ運んでくる。
駅から歩く距離は短いのに、繁華街の喧騒が背中から剥がれていく感じがした。路地の奥。控えめな看板。暖簾は墨色。
——炉端 みずのと。
ここに決めた理由はいくつもあるけど、結局のところ一つだ。
「余計な目が入らない」。それだけで、十分だった。
暖簾に手をかける前に、反射で周囲を見た。誰かがつけてくる気配はない。……こういう癖、いつになっても抜けない。
店に入ると、炭の匂いと出汁の香りが混ざって鼻に入った。喉の奥がゆるむ。生きてる匂いだ、とふと思う。
一階は仕事帰りの客でほどほどに埋まっていて、笑い声やグラスの音が適度にうるさい。ちょうどいい。会話は飲み込まれる。
女将さんがこちらを見て、余計なことは言わずに頷いた。
「二階、“月見”でございます」
階段は急で、踏むたびに小さく軋んだ。音がするのが、逆にありがたい。誰が上がってきたか、分かる。
二階の廊下は短い。突き当たりの引き戸の前で、俺は一度だけ深呼吸した。
……何を緊張してんだ、と自分に言いたくなる。でも、久しぶりに“全員が揃う場”ってやつは、どうしたって胸の奥に手が入る。
引き戸を開けると、もう三人がいた。
ファイクが先に来ていた。机の端に座って、場を整えるみたいに手元を軽く動かしている。待つ姿勢が、単なる待機じゃない。段取りを回す人間のそれだ。
秋月さんは、落ち着いた顔で座っていた。何でも屋って聞くと軽い印象を持つ人もいるけど、この人は違う。余計なところで浮かれない。状況を見て、必要なことだけをやる。
雷人は……まあ、雷人だった。気怠げで、ふてぶてしくて、でも部屋の“出口”が見える位置を取ってる。そういうところだけ抜け目がない。
「遅れてすみません」
口に出したのは、それだけ。
ファイクが軽く手を上げ、秋月さんが小さく会釈して、雷人は鼻で笑ったような息を吐いた。挨拶はそれで足りる。俺たちには、そういう間が合ってる。
掘りごたつの足元が暖かくて、体の芯が少しだけ緩んだ。行灯の光は低く、顔の輪郭を柔らかくする。障子越しに一階のざわめきが遠い。ここは、戦場じゃない。そう思っていい場所だ。
……いいはずの場所だ。
そのとき、廊下に足音がした。軽い。若い。
引き戸が開いて、泉が顔を出す。言葉にする前に、目が合った。何かを確かめるみたいな視線。それでも、逃げない。ちゃんと来た。
泉が座った直後、廊下の空気が変わった。
足音の密度が違う。迷いがない。ノックが二回、正確に鳴る。
引き戸が開いて、スパナが入ってくる。
視線がまず部屋の角に走る。次に出入口。最後に、俺たちの顔。
その順番に、変わらない規律が見えた。変わってほしいと思ったこともあるし、そのままでいてほしいと思ったこともある。たぶん、両方が本音だ。
六人が揃った。
席は自然に決まった。
スパナは出入口が見える位置。ファイクは配膳の動線側。雷人は端。秋月さんは場の中央寄り。泉は落ち着ける壁側。俺は——泉と互いに顔が見える位置に腰を下ろした。誰かが指示したわけじゃない。昔の癖が、無言で配置を作る。
女将さんの声が障子越しに入る。
「お飲み物、最初だけお伺いしてもよろしいですか」
ファイクが代表して注文をまとめる。俺は短く希望だけ伝えた。
アルコールでもノンアルでも、この場ではどちらでもいい。ただ、“今の自分”が選んだ一杯で始めたい。
女将さんが引き戸を閉めると、個室はまた静かになった。
会話は、まだ始まっていない。始めないままでも、成立しそうな沈黙だった。
ノック。引き戸が少し開く。
お通しの小鉢と、出汁巻きの端。グラスが六つ。氷の鳴る音が、やけにくっきり響いた。
全員がグラスに手を伸ばす。
冷たさと重さが掌に乗って、俺の中の“警戒”が一段だけ落ちた。
俺は一度だけ、みんなの顔を見回した。
言いたいことは山ほどある。聞きたいことも、言いにくいことも、今さら言えるのか分からないことも。だけど——今は、まだいい。
グラスが同じ高さに揃う。
誰が音頭を取るでもなく、自然にその瞬間が来る。
「……乾杯」
軽く触れ合う音が、個室「月見」の空気を静かに解凍していった。
個室「月見」に、乾杯の余韻だけが残った。
グラスの触れ合う音はもう消えて、代わりに氷がカランと鳴る。炭火の匂いと、出汁の湯気。こういう雑音があるだけで、胸の奥の変な緊張が少し溶ける。
ファイクが、場を見回してから軽く咳払いした。
「じゃあ……せっかく揃ったんだ。順番にいこう。近況報告。まずは……四位さん。いちばん“平常運転”っぽいし」
「おい待て、褒めてんのかそれ」
四位雷人は掘りごたつの縁に肘をついて、面倒くさそうに笑った。
でも、こういう席で最初に口を開くのが四位なのは、たぶん全員が分かってる。最初の一手で空気を軽くして、次の話をしやすくする。あいつはそういうことを、無意識にやる。
「……まあいい。じゃあ俺からな」
四位はグラスを軽く持ち上げると、ひと口だけ飲んだ。喉を潤すっていうより、スイッチを入れるみたいな仕草だった。
「まず、関流な。あいつは相変わらずだ。いろいろあっても、結局“関流”でしか生きられねえんだよ」
泉がすぐ食いつく。
「関流さん、まだあの調子なんですか?」
「調子っていうか、もう“そういう生き物”だろ。最近は——」
四位が言いかけて、わざと途中で止めた。
話の続きを欲しがらせる間。俺は箸を動かしながら、反射で他の反応を見る。スパナは無言で、視線だけが鋭い。秋月さんは淡々と聞く顔。ファイクは一言も挟まないけど、場の情報を逃してない目をしてる。
四位はニヤリと笑った。
「最近は面倒な揉め事を、表に出す前に潰してる。昔より“頭が回る”ようになった。……まあ、歳だな」
「へえ」
俺は短く言った。
あいつが“頭を使う側”に寄ったなら、それだけでだいぶマシだ。力任せで突っ込むタイプが、数年で変われるなら。
四位は次に、箸で空中を指すみたいに軽く振った。
「で、六道。あいつも……変わったっつーか、落ち着いた。お前らに言うと笑うかもしれんが」
「笑わねえよ」
スパナが低く言う。
それだけで、四位は笑いをこらえるみたいに肩を揺らした。
「……いや笑うだろ。六道が落ち着くって、だいぶレアだぞ。最近な、友里さんと“いい感じ”らしい」
その瞬間、空気がほんの少しだけ柔らかくなった。
誰かの幸せの話は、それだけで場の角を丸くする。特に欠席してる人間の話なら、なおさらだ。
泉がニヤニヤした。
「友里さんって、あの友里さんですか?」
「他にどの友里さんがいるんだよ」
四位は言い返しながらも、どこか嬉しそうだった。自分の話じゃないのに、仲間の近況がいい方向へ転がってると、こういう顔になる。
ファイクが、静かに頷く。
「……良かった。六道さん、そういう“帰れる場所”があると強い」
「だろ? まあ、あいつは相手が友里さんじゃなくても勝手に強いけどな」
四位が笑いながら、グラスを机に置いた。
そこで俺は、嫌な予感を覚えた。
四位は「いい話」を挟む時、たいていその後に「落とす」。場を落とすんじゃない。自分の話を落とす。
案の定、四位はわざとらしく溜め息をついた。
「……で。問題は俺だ」
「問題自覚あったんだ」
泉が即ツッコミを入れる。
「あるに決まってんだろ。お前らと違って、俺は“普通”に生きるのが難しいタイプなんだよ」
「自分で言うな」
俺が言うと、四位は肩をすくめた。
「最近な。ちょっといい女がいた」
スパナの眉がわずかに動く。
秋月さんは箸を止めずに聞いてる。ファイクは笑いそうで笑わない顔。泉はもう結果を分かってるみたいに口角を上げている。
「お前、その言い方の時点で地雷踏んでる」
泉が言った。
四位は指を一本立てる。
「聞け。今回はマジで、ちゃんとしたやつだった。落ち着いてて、優しくて、料理もできて、しかも俺の仕事——」
「何でも屋、って言うと聞こえいいけど実態アレなやつな」
俺が口を挟むと、四位は俺を睨んだ。
「そう、その“実態アレ”を否定せずに受け入れる器があったんだ。俺は思った。ああ、これが“運命”ってやつかもしれねえって」
泉が耐えきれず吹き出した。
「運命!」
「笑うな!」
四位は言い返しながらも、自分でもおかしいのか、ほんの少し笑ってしまう。その笑いが、次の言葉を言いやすくする。
「……で。結果」
四位は、やけに真顔になった。
「結婚詐欺師だった」
一拍。
それから、俺の口から息が漏れた。笑いじゃない。呆れに近い。だけど、笑いに変換しないとこの場が固くなる。
泉が机を叩いた。
「ほら来た!」
スパナが短く言う。
「……生きてるだけで奇跡だな、お前」
四位が即座に返す。
「殺すな、目で」
俺はグラスを口に運んで、飲み込んでから聞いた。
「で、どこまで取られた」
四位が、指を二本立てた。
「……被害は最小限に抑えた。ギリ。向こうが“籍”の話を出した瞬間、俺の直感が叫んだ。『これは罠だ』って」
「直感働くんじゃないですか」
泉が言う。
「そこ褒めるな。褒めても俺は嬉しくない」
四位は肩を落としたが、どこか本当に救われてる顔もしていた。
笑い話として出せてるってことは、致命傷じゃなかった。少なくともここではそう扱える。
ファイクが、軽く手を挙げる。
「でも、“籍の話が急に出たら怪しい”は教訓として共有していいと思う。……泉くん、メモしておく?」
「俺、医者なんで。メモはカルテだけで十分です」
「いやお前の私生活のカルテだよ」
俺が言うと、泉が「うわ」と顔をしかめ、スパナが小さく鼻で笑った。
その笑いを見た四位が、ふっと真面目な顔に戻る。
「……まあ、俺の方はそんな感じだ。詐欺師引いたのは笑えねえけど、六道の件はマジで良かった。あいつは多分、友里さんの前だと余計なことしねえ」
「しないといいな」
俺が言うと、四位はうなずいた。
「しねえよ。あいつ、そういう時だけは意外と真っ直ぐだ」
四位の話が一段落すると、個室の空気が“温まった”のが分かった。
笑いが一回通るだけで、この場は安全になる。俺たちがどんな過去を共有していても、今この瞬間はただの飲み会にできる。
ファイクが、自然に次の流れを作る。
「じゃあ……次は秋月さん。さっきの“その後”の話、聞かせてください。ノーブルレッドの三人、どうなったんですか」
秋月さんが静かに息を吸う。
四位が作った軽い空気が、今度は“記録を聞く空気”に変わっていく。
俺は箸を置き、次の話に備えて背筋を少しだけ正した。
秋月さんが静かに息を吸う。
四位が作った軽い空気が、今度は“記録を聞く空気”に変わっていく。
俺は箸を置き、次の話に備えて背筋を少しだけ正した。
秋月さんは、グラスに口をつけずに話し始めた。酔いで誤魔化す話じゃない、という合図みたいに。
「……ノーブルレッドの三人、ですか」
泉が身を乗り出す。
「はい。……その後、どうなったのかなって」
秋月さんは一度だけ頷き、視線を少しだけ落とした。土壁の色に吸い込まれるような目だ。
「結論から言えば……今も、三人は三人でいます。離れていません」
俺の中で、まず「良かった」が立った。
あいつらは、離れた瞬間に壊れるタイプだ。支え合ってるようで、依存に近い。だけどそれでも、一緒にいる方がまだ“生きる”に近い。
ファイクが、いつもの調子で場を整えるように聞く。
「“いる”っていうのは……生活として?」
「そうです。生活として。……家族、みたいなものです」
秋月さんが「家族」と言った瞬間、四位が冗談を挟みかけて、飲み込んだ。
スパナは黙っている。黙っているのに、聞き逃していない。
「……あの三人は、互いにしか居場所がなかった。俺たちが何をしても、そこは変えられない。だから、変えない方がいい部分もあります」
秋月さんの言葉は丁寧で、でも芯は硬い。
“助ける”って言葉を簡単に使わない人の言い方だ。
泉が恐る恐る聞く。
「うまく……いってるんですか?」
秋月さんは、ほんの少しだけ間を置いた。
「うまくいっている、というより……続いている、です。三人なりに、必死に」
その返しが、妙に現実だった。
“幸せです”じゃない。“続いている”。それだけで、十分だと分かってしまう。
俺は、軽く息を吐いた。
「……危ないのか?」
言葉にした瞬間、全員の目が俺に向いた。
酔いが進んでないうちに聞くべきことだと、みんな思ったんだろう。
秋月さんは俺を見て、否定も肯定もしない表情で頷いた。
「危ない、というより……油断できない、ですね」
スパナが、低く言った。
「理由は」
秋月さんは、指先でグラスの縁を軽くなぞる。
「三人の関係は、家族に近い。守り合ってる。——だからこそ、危うい」
泉が眉をひそめる。
「家族だから、危うい……?」
「家族って、距離が近いでしょう。近いから、支えにもなるし……引き金にもなる」
秋月さんの声は淡々としているのに、言葉だけが重い。
「三人は、どこかでずっと怯えているんです。自分たちが“元に戻る”ことを。戻るというのは……あの頃の、自分たちに」
俺は喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。
“元に戻る”。その単語が嫌に具体的で、数年前の光景が一瞬だけ脳裏に刺さる。
ファイクが、すぐに柔らかい方へ寄せる。
「でも、今は抑えられてる。生活が、あるから」
「はい。だから家族なんです。生活のルールを守る。食卓を囲む。寝る時間を決める。——そういう“普通”が、彼女たちを繋いでいる」
秋月さんが言う“普通”は、きっと血の滲む普通だ。
俺はそれを想像して、勝手に胸が痛くなる。
四位が、珍しく真面目な声で言った。
「……じゃあ、何が危機感なんだよ。狙われてんのか? それとも——」
「両方、です」
秋月さんは即答した。
「外から狙われる可能性。……そして、中から崩れる可能性」
泉が口をつぐむ。
スパナは視線を動かさない。俺は自分の手元のグラスを見て、氷が少し溶けたのを確認するみたいに目を逸らした。
秋月さんは、言い方を少しだけ変えた。たぶん、ここから先は“危機感”の正体を言語化するための言い方だ。
「三人は、救われたわけじゃない。許されたわけでもない。……それでも生きている。そこに、どうしても“揺れ”が残る」
「揺れ」
俺が復唱すると、秋月さんは頷く。
「誰かが『お前たちは許されない』と言ったら、彼女たちは反射で身構える。誰かが『お前たちは救われた』と言っても、彼女たちは反射で否定する。——そういう揺れです」
泉が小さく言う。
「……人の言葉で、また戻っちゃうかもしれないってことですか」
「言葉だけじゃない。事件でも、噂でも、匂いでも。きっかけは何だっていい。三人はそれだけ、ギリギリのところで“今”を繋いでる」
その「匂いでも」という部分が、俺には妙に刺さった。
引き金はいつも、理屈じゃない。
俺は、言葉を選んで聞く。
「秋月さんは、どうしてる。見張ってるのか?」
秋月さんは、少しだけ笑った。苦い笑いだ。
「見張る、というより……顔を出すようにしてます。過剰に干渉しない。でも、ゼロにもならない距離。……家族って、そういうものでもあるでしょう」
四位が、ぽつりと言った。
「優しいな。お前」
「優しいんじゃない。……放っておくのが怖いだけです」
秋月さんの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「“大丈夫”って言ってる時ほど、大丈夫じゃない顔をする。三人とも」
その一言で、俺はようやく腑に落ちた。
秋月さんの言う危機感は、“何かが起きるかもしれない”じゃない。
“何も起きないままでも、崩れるかもしれない”という危機感だ。
ファイクが、場を締めるように頷いた。
「……今も家族で、でも油断できない。わかった。ありがとう、秋月さん」
秋月さんは短く「ええ」と返し、ようやくグラスに口をつけた。
話を終えた人間の飲み方だった。
個室の空気が、また少しだけ動き出す。
深い話をしたあとに残る、妙に澄んだ沈黙。俺はその沈黙を壊さないまま、息を吸って吐いた。
ファイクが指先で、自分の胸元を軽く叩く。ペンダントの鎖が、行灯の光を拾って小さく揺れた。
「じゃあ次は……俺の番かな。諸干さんのことと、切歌ちゃんと調ちゃん、それから……マリアの話もある」
その言い方が、ただの近況報告じゃない予感を連れてきて、俺は無意識に背筋を伸ばした。
秋月さんがグラスに口をつけた。
それが合図みたいに、個室「月見」の空気が少しだけ動き出す。深い話をしたあとの沈黙って、不思議と澄んでる。誰も余計なことを言わないのに、言いたいことだけが残る。
ファイクは、その沈黙を壊さずに拾い上げた。
胸元に指を添える。ペンダントの鎖が、行灯の光を拾って小さく揺れた。
「じゃあ……俺の番かな。諸干さんのことと、切歌ちゃんと調ちゃん。それから……マリアの話もある」
その言い方が、ただの近況報告じゃない匂いを連れてきた。
俺は無意識に背筋を伸ばして、グラスを置く。泉も箸を止めた。四位だけが、何かを察したみたいに口角を上げてる。
スパナは無言だった。無言のまま、ファイクの胸元を見ている。
ファイクはまず、諸干の名前を口にした。
「諸干さんは、変わらない。変わらないって言い方が雑なら……“崩れない”。そういう人だよ」
「らしいな」
俺が短く返すと、ファイクはうなずいた。
「俺が何か言わなくても、必要な時に必要なだけ動く。……その代わり、余計な慰めはしない。あの人なりの優しさなんだと思う」
四位が、軽く鼻で笑う。
「優しさが不器用なやつばっかだな、この席」
「否定できねえ」
俺が言うと、泉が小さく笑った。
秋月さんは、ただ静かに頷いている。話の骨を、黙って受け取る人の顔だ。
ファイクは次に、切歌と調の話に移った。声の温度が少しだけ上がる。
「切歌ちゃんと調ちゃんは……まあ、相変わらずだよ。二人でいると“二人の世界”になる。危なっかしいって意味じゃなくて、完成してるって感じ」
泉が「分かる」とでも言いたげにうなずく。
「ただ、昔よりちゃんと周りを見るようになった。……たぶん、俺たちだけじゃなくて、色んな人が戻ってきたからだと思う」
戻ってきた人。
俺はその言い方に、過去形じゃない現在形の重みを感じた。終わったはずなのに、まだ続いてる。俺たちの生活も、関係も。
ファイクはそこで一度だけ息を吸い直す。
この後が本題だ、と空気が知らせる。
「で……マリア」
その名前が落ちた瞬間、個室の温度がほんの少しだけ変わった。
祝福と緊張が混じる、独特の静けさ。四位ですら冗談を挟まない。
ファイクは胸元の鎖を指でたどり、ペンダントを引き出した。
そこにあるのは、指輪だった。リングをチェーンに通して、胸元に下げている。
行灯の光が、金属の縁で小さく跳ねる。
「これ、見せるの初めてだっけ」
泉が目を丸くする。
「……指輪?」
スパナが、息を呑む音を立てた。
わずかな音なのに、この場ではやけに大きく聞こえた。
ファイクは笑った。照れ隠しみたいな笑い方だ。
「そう。……俺の、というか。俺たちの、だな」
四位が、口を開きかけて閉じた。
茶化すタイミングじゃないって分かってる顔。珍しい。
俺は言葉を探したけど、先にファイクが続けた。
「マリアとは……今も一緒にいる。ずっとって言うと大げさだけど、少なくとも、離れる理由がない。俺が余計なことを考えそうになった時、あいつが先に言ったんだ。“家族になろう”って」
泉が、息を吐いた。
秋月さんの「家族」の話の直後だから、余計に刺さる。
ファイクは指輪に触れたまま、少しだけ視線を落とす。
落とした視線の先に、言葉の準備をしている。
「……それで」
一拍。
その一拍が長い。誰も急かさない。急かせない。
「新しい命がいる。マリアのお腹に」
一瞬、音が消えた。
炭の匂いも、氷の音も、遠い一階のざわめきも。全部が薄くなって、言葉だけが残る。
次に音が戻ったのは、俺の声だった。
「……おめでとう」
自分でも驚くくらい、真っ直ぐ出た。
照れも、逃げも、挟む余地がなかった。
ファイクが俺を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとう」
泉が、遅れて言う。言い方が不器用で、でも本音だった。
「……マジで、おめでとうございます。……すげえな」
四位は、いつもの口調に戻そうとして、戻しきれない声で言った。
「おいおい……泣かせんなよ。こっちの酒が薄まるだろ」
「薄まってんのはお前の良心だろ」
俺が返すと、四位は「うるせえ」と笑った。
その笑いが、場を救う。祝い事のあとに必要な、息継ぎの笑いだ。
スパナは、しばらく黙っていた。
黙ったまま、ファイクの指輪を見ている。視線が硬いのに、敵意じゃない。言葉の選び方が分からないときの顔だ。
やがてスパナが、短く言った。
「……守れ」
それだけ。
それだけで、十分だった。ファイクも分かった顔でうなずく。
「当然」
秋月さんが、静かにグラスを持ち上げた。
「……良い知らせです。素直に、良かったと思う」
「ありがとうございます」
ファイクが頭を下げる。深くじゃない。場を重くしない程度に。でも礼は欠かさない。
泉が指輪を指差して、ようやく“飲み会っぽい”顔に戻った。
「それ、普段から付けてるんですか。ペンダントにしてるの、なんか……らしいですね」
ファイクは少しだけ笑う。
「目立つのは嫌だからな。でも、無くすのも嫌だ。……だから、ここがいちばん確実」
胸元を軽く叩く。指輪が小さく鳴った。
俺は、グラスを持ち上げた。
「じゃあ……改めて。おめでとう、ファイク。マリアにも伝えろ」
「伝える」
「ついでに切歌ちゃんと調ちゃんにも言っとけ。たぶん泣くぞ」
四位が言うと、ファイクは「確実に泣くな」と笑った。
その笑いが落ち着いたところで、個室の空気が次の話題を探し始める。
祝い事のあとは、現実の話が来る。そういう流れが、いつも俺たちにはある。
ファイクの笑いが落ち着くと、個室の空気がふっと“次”を探し始めた。
祝い事のあとの、少し照れた静けさ。グラスの水滴が机に輪を作って、氷が一度だけカランと鳴る。
四位がわざとらしく咳払いして、場を軽くする。
「……で? 次は誰だ。おいスパナ、黙ってると一生終わらねえぞ」
「黙ってねえ」
スパナは低く返した。
でも、さっきまでの“守れ”の一言みたいに、必要な分だけしか言わない声だった。
泉が口元を押さえて笑う。
「じゃあスパナさん。マーヤさんのその後、聞きたいです」
その名前が出た瞬間、スパナの視線が一度だけ沈む。
分かりやすい落ち方じゃない。ほんのわずか、重力が増えるみたいな沈み方だ。
スパナはグラスに手を伸ばしたが、飲まずに机に戻した。指が、無意識に縁をなぞる。
「……海外にいる」
短い。
それだけで、場の空気が少しだけ硬くなる。海外。距離。届かない場所。俺たちの“戦後”に、いちばん相性の悪い単語だ。
ファイクが、いつもみたいに場を整える声で聞く。
「どこに?」
「……そこまでは言わない」
泉が「え」と顔をしかけたが、すぐ飲み込んだ。
スパナの“言わない”は、意地じゃない。必要な理由がある時の言わない、だ。
秋月さんが代わりに問う。淡々として、追い詰めない聞き方。
「連絡は取れてるんですか」
スパナは一拍置いてから頷いた。
「取れてる。……ただ」
俺はその「ただ」に、嫌な予感を感じた。
言葉の続きが嫌なんじゃない。言葉の続きが、今までの静かな日常を壊す匂いがする。
スパナは、そこで珍しく言い淀んだ。
いつもなら要点だけ切り捨てるのに、今日は切り捨てきれない。つまり、本人の中でまだ形になっていない不安がある。
「今、何をしてるのか——あまり聞いてない」
四位が眉を上げる。
「聞いてねえのかよ。お前が?」
「……聞けば答える。だが、答えを聞くのが正しいとは限らない」
その言い方が、俺の背中を冷やした。
“聞かない”じゃなく、“聞けない”。そういう選択に聞こえた。
泉が、いつもの調子で場を軽くしようとした。
「まあまあ、海外なら忙しいとか——」
「違う」
スパナの一言が、泉の言葉を途中で切った。
声は荒くない。でも、断言だった。軽くしてはいけないと線を引く断言。
スパナは視線を上げ、個室の誰かではなく、障子の向こうを見ているみたいな目をした。
「……嫌な予感がする」
その言葉が落ちた瞬間、誰も笑わなかった。
グラスの音も、箸の音も止まった。炭火の匂いだけが、やけに強くなった気がする。
俺は、呼吸だけが少し浅くなるのを感じた。
“予感”という曖昧なものを、スパナが口に出す。口に出す時点で、それはもう本人の中で無視できないレベルに育っている。
ファイクが、静かに聞いた。
「……具体的には?」
スパナは首を横に振る。
「具体がないから、予感だ。——だから厄介だ」
秋月さんが、短く言う。
「連絡の頻度は落ちた?」
「……一定だ。むしろ整いすぎている」
整いすぎている。
その表現が、妙に生々しい。危険なのは、乱れじゃない。誰かが“整える”ときだ。
四位が、冗談を言いかけて止めた。
冗談が入る隙間がないのを察した顔だった。
泉も珍しく黙って、スパナの横顔を見ている。
さっきまで人の恋愛でニヤニヤしていたのに、今は医者みたいな目をしてる。
スパナは、それ以上言わなかった。
言えないんじゃない。ここで言うべきじゃないと判断した顔だ。
「……話は、それだけだ」
そう言って、ようやくグラスをひと口飲んだ。
喉を潤すためじゃない。区切りを付けるためのひと口。
俺は何か返すべきだと思ったけど、言葉が見つからなかった。
「大丈夫だ」と言うのは軽すぎる。
「気をつけろ」と言うのは、スパナに言う言葉じゃない。あいつは俺たちの誰より気をつける。
スパナの視線が、ほんの一瞬だけ俺の方へ寄った。
次の話者に振ろうとしている、そういう動きにも見えた。けど、その前に——
俺の中に残ったのは、居酒屋の暖かさと噛み合わない、冷たい感覚だった。
嫌な予感。具体のない不安。
それが、掘りごたつの温度の下で、静かに足首に絡みついてくる。
スパナの視線が、ほんの一瞬だけ俺に寄った。
さっきの「話はそれだけだ」という切り方のあとに残った冷たさを、次の話題で上書きしようとしている……そんな動きにも見えた。
スパナはグラスを机に置き、口を開く。
「……一ノ瀬。お前は——」
「はいはいはい、ストップ」
泉が、そこで割り込んだ。
さっきまで黙っていたくせに、タイミングだけは完璧だ。口元がニヤついてる。悪意じゃない。遊びだ。場を転がすつもりの顔。
「スパナさんが一ノ瀬さんに振る前に、ひとつ確認していいですか」
「確認?」
四位が面倒くさそうに言う。
ファイクは黙って泉の顔を見ている。秋月さんも同じ。全員が“嫌な予感”じゃなく、“面白い予感”を察したときの沈黙だった。
泉は、わざとらしく咳払いをしてから言った。
「最近、スパナさんと風鳴翼さん、いい感じなんですよね」
一拍。
空気が止まって——次の瞬間、スパナが目を見開いた。
「……は?」
声が裏返りかけて、本人が慌てて押し戻した。
押し戻しても遅い。俺は思わずグラスに口をつけて、笑いを誤魔化す。
泉は畳み掛ける。完全に楽しんでる。
「この前だって、翼さんのお父さんと、それから弦十郎さんにも挨拶しに行ったじゃないですか。ねえ?」
「お前——」
スパナの耳まで赤くなるのが、行灯の明かりでも分かった。
視線が泳ぐ。いつもなら一点を射抜く目が、今は置き場を失ってる。
四位が、腹を抱える寸前の顔で言う。
「おいおい。スパナが赤くなってんの初めて見たかもしれねえ」
「黙れ」
スパナが低く言うが、迫力が足りない。
いつもの“刃”が、照れで鈍ってる。
ファイクは、少しだけ笑った。
「……いいじゃないか。ちゃんと挨拶まで行ったなら、真面目に進めてるってことだろ」
「……別に、そういう——」
スパナが否定しようとして、言葉が続かない。
否定の理屈はあるのに、否定の勢いが出ない。つまり図星だ。
泉は勝ち誇った顔でグラスを持ち上げた。
「いやー、翼さんに頭下げてるスパナさん、普通に“良い人”でしたよ」
「……お前は黙って飲め」
「え、照れてます?」
「黙れ」
短い言葉が二回。
それだけで、もうスパナは追い詰められてる。俺は笑いを堪えるのを諦めた。こういうのは、笑ってやったほうが救いになる。
スパナは一度、深く息を吐いた。
そして、顔の赤みを引っ込めるみたいに視線を落とし——次の瞬間、泉に矛先を向ける。
「……いい。次はお前だ、泉」
「え」
泉の顔から、ニヤニヤが消えた。
自分で火をつけたくせに、火が戻ってくるのは想定外だったらしい。
スパナは淡々と言う。
「お前の近況。話せ」
泉は一瞬だけ口を開けて閉じ、咳払いで時間を稼いだ。
「……いや、俺は普通ですよ。ほんとに。小児科医になったくらいで」
「それだけか?」
「それだけです。以上」
早い。切り上げが早い。
“話したくない”じゃない。“話すと面倒になる”のを分かってる切り方だ。
四位がニヤつく。
「おいおい、さっきまで他人の恋愛で遊んでたやつが、急に真面目ぶってんじゃねえよ」
「うるさいです」
泉が即座に返す。
その瞬間、スパナの口角がほんの少しだけ上がった。あいつは、反撃に確信を持ったときだけそういう顔をする。
「……そうか。小児科医になった、それだけか」
スパナは一拍置いて、淡々と爆弾を投げた。
「大学卒業後、小日向未来と同棲してるのも“普通”か」
泉が固まった。
「……っ、ちょ、待ってください」
スパナは容赦しない。さっきの赤面の借りを、利子付きで返す気だ。
「そろそろ籍を入れる予定だろ。挨拶の段取りも進めてる」
泉の顔が一気に赤くなる。
さっきスパナに起きた現象が、今度は泉に起きている。因果がきれいに回収されて、俺はもう笑うしかない。
「おいおいおい」
四位が机を叩く寸前の勢いで笑う。
「医者が一番隠したいとこ暴かれてんじゃねえか!」
「隠してません! 別に!」
泉が声を張り上げてから、自分で気づいて口を押さえた。個室の静けさが、逆に恥ずかしさを増幅する。
ファイクが面白がりつつも、逃げ道を作るように言う。
「……まあまあ。いい話じゃないか。未来さんと一緒にいるなら、泉くんも落ち着くんだろ」
「落ち着いてます!」
泉が即答する。
落ち着いてない。
秋月さんが、淡く笑った。
「“普通”って言う人ほど、普通じゃないことを抱えてるものですよ」
「秋月さんまで……」
泉がうめく。
スパナはようやく溜飲が下がったのか、グラスをひと口飲んで、咳払いをした。
そして、何事もなかったように話のハンドルを戻す。
「……よし。これで公平だ」
泉が睨む。
「公平って何ですか」
「暴露の収支だ」
「そんな会計あるんですか」
「今できた」
スパナは平然と言い切って、今度こそ俺に視線を戻した。
「で、一ノ瀬」
来た。
俺は反射でグラスを持ち上げかけて、止まった。逃げ道が塞がっているのを、今さら理解する。
スパナの目が細くなる。
「さっきから酒で誤魔化しているな。お前の番だ」
泉も、さっきの赤面を引きずったままニヤリとする。
「そうですよ。一ノ瀬さん。逃げた分、ちゃんと話してください」
俺は、ため息を飲み込んだ。
この流れで断れるほど、俺は図太くない。
「……分かったよ」
グラスを机に置く音が、やけに大きく響いた。
グラスを机に置く音が、やけに大きく響いた。
「……分かったよ」
スパナの目が細くなる。泉はニヤニヤを隠す気もない。四位は“落とし穴が来るぞ”って顔で、秋月さんとファイクは静かに聞く姿勢を作っている。
俺は逃げるのを諦めて、まず一番“近況報告っぽい”ところから切り出した。
「じゃあ……ケミーの話からな」
「はいはい」
泉が頷く。完全に聞く気より、突っ込む気で聞いてる。
俺は少しだけ言葉を選んだ。ここは、ちゃんと整理して話したほうがいい。
「ケミーたちは今、こっちじゃない。……もう一つの地球で過ごしてる」
一拍、空気が変わった。
四位が眉を上げる。
「もう一つの地球?」
「そう。あっちは……変に人の悪意に晒されることも少ない。環境も整ってる。だから、今はのびのびやってるよ」
俺がそう言うと、ファイクが静かに頷いた。
「隔離じゃなくて“居場所を用意した”って感じか」
「うん。閉じ込めるんじゃなくて、住める場所にした。……あいつらが『ここがいい』って思える方が、大事だろ」
スパナが短く言う。
「安定してるなら、それが一番だ」
「……だろ」
俺は少しだけ肩の力を抜いた。ケミーの話は、少なくとも“良い近況”だ。秋月さんの危機感の話のあとでも、ちゃんと光の話ができる。
泉が、すぐ次を嗅ぎつける。
「じゃあ一ノ瀬さん、向こうとこっち、行き来してるんですか?」
「必要な時だけな。基本は向こうで回ってる。俺が常に張り付く必要はない」
「へえ」
泉の声がわざとらしく甘くなる。嫌な予感しかしない。
「で。キャロルさんとエルフナインさんは?」
その名前が出た瞬間、全員の視線が微妙に寄った。
“そこが本題”みたいな圧が、個室の空気に混じる。
俺は変に誤解されたくなくて、先に事実を言った。
「……二人にも、最近あんまり会えてない。向こうにいるし、俺もこっちはこっちで動くから」
四位が、箸を止めたまま言う。
「会えてないのか。意外だな」
「意外ってなんだよ」
「いや、お前のことだから、毎日顔突き合わせてるのかと思ってた」
「そんなわけないだろ」
俺は即答した。即答したせいで、逆に怪しく見えたのかもしれない。
泉がニヤニヤを深める。
「会えてないのに、関係はどうなんです?」
「どうって……普通だよ。連絡は取ってる。近況とか、ケミーの様子とか」
「普通ね」
スパナが低い声で繰り返す。さっき泉が言った“普通”と同じトーンだ。
こいつら、絶対に俺の言い方を武器にする。
俺は肩をすくめた。
「実際、進んでない。会えてないんだから、当たり前だろ」
秋月さんが淡々と確認する。
「会えないこと自体が、問題になっているわけではない?」
「問題ってほどじゃない。……ただ、たまにキャロルが——」
言いかけた瞬間、泉が身を乗り出した。
「たまに?」
俺は嫌な予感を抱えつつ、事実だけ言った。
「妙に圧が強いメッセージ送ってくる。『ちゃんと食べてるの?』とか、『帰ったら報告しなさい』とか。……いや、世話焼きだろ。あれは」
四位が吹き出した。
「圧が強い“世話焼き”ねえ」
「何がおかしいんだよ」
泉が、指を折って数える真似をする。
「会えてないのに、管理されてる感じがする時点で……一ノ瀬さん、分かってないなあ」
「分かってないって、何をだよ」
ファイクが笑いをこらえるみたいに息を吐く。
「……会えないからこそ、言葉が強くなることもある。距離がある分、確かめたくなるから」
俺は首を傾げた。
「確かめる?」
「そういうこともある、ってだけ」
ファイクはそれ以上踏み込まなかった。踏み込むと、俺が混乱するのを分かってる顔だった。
スパナが短く言う。
「会えていないなら、なおさら鈍感で済ませるな」
「鈍感ってなんだよ」
泉が、ここぞとばかりに追い打ちする。
「じゃあ響さんとクリスさんの方も、今あんまり進んでないんですよね? 一ノ瀬さん、忙しいし、距離あるし」
俺は即答した。
「そりゃそうだろ。最近は顔を合わせる機会も多くないし、会っても……普通に飯食って近況話して終わりだ」
「普通ね」
四位が楽しそうに言い、スパナが小さくため息をついた。
俺はため息を飲み込んで、グラスに手を伸ばした。
「……とにかく。ケミーは向こうで元気。キャロルとエルフナインは向こうにいて、俺はあんまり会えてない。だから、俺の周りの“そういうの”は、別に進んでない。以上」
泉が、満足そうに頷く。
「なるほど。“進んでない”のに、周囲だけが勝手にざわついてるタイプですね」
「ざわついてねえよ」
「ざわついてます」
秋月さんが小さく頷いた。
「……周囲が、というより。あなたの話し方が、誤解を呼びやすいだけです」
「俺のせいかよ」
四位が笑う。
「だいたいお前のせいだな」
スパナが低く締めた。
「……爆発する前に気づけ」
「爆発しねえって」
俺が言い返すと、また全員が笑った。俺だけが置いていかれてる。
俺が「以上」と言い切った瞬間、個室に妙な間が落ちた。
誰も口を開かないのに、全員が同じことを考えているのが分かる。――いや、正確には「俺だけが分かってないこと」を、みんなが確認してる。
泉が、楽しそうに頷いた。
「なるほど。“進んでない”のに、周囲だけが勝手にざわついてるタイプですね」
「ざわついてねえって」
「ざわついてます」
秋月さんが小さく頷く。
「……周囲が、というより。あなたの話し方が誤解を呼びやすいだけです」
「俺のせいかよ」
四位が、酒の勢いを借りて遠慮なく言った。
「だいたいお前のせいだな。離れてても女は怖いぞ。メッセージ一発で首輪になる」
「首輪って言うな」
スパナが低い声で切る。
「四位、余計な例えを入れるな」
「でも似たようなもんだろ」
四位は笑う。笑い方は軽いのに、妙に核心を突くから困る。
泉が箸を置いて、わざと真面目な顔を作った。
「じゃあ確認しますけど、一ノ瀬さん。響さんとクリスさんは“今は”進んでない。キャロルさんとも“今は”進んでない。――つまり、停滞してるだけで、火種はあるってことですよね」
「火種ってなんだよ」
俺は本気で分からなくて、眉をひそめた。
火種なんて、あったら困る。火は燃える。燃えたら面倒だ。
ファイクが、場を荒らさない程度の温度で補足する。
「一ノ瀬。自覚がないなら言い方を変える。……お前は“距離があるから何も起きていない”と思っている。でも、相手側は“距離があるからこそ確かめたい”場合がある」
「……確かめる?」
「生存確認、みたいなやつだ」
四位が雑にまとめる。
スパナが俺を見て、淡々と刺す。
「お前は“仲間だから”で全部まとめる。だが、相手はそうじゃない時がある」
「いや、だから……会ってないし。俺も忙しいし」
「忙しいのは免罪符になりません」
泉が即答した。
俺は言い返そうとしたけど、言い返せる材料がない。
確かに、最近は“必要な時だけ”向こうへ行って、あとはこっちで仕事と雑務で埋まっている。会う優先度を自分で下げているのは事実だ。
秋月さんが、淡々と聞く。
「響さんは、最近どういう連絡を?」
「……“元気?”って」
「それだけ?」
「それだけだよ。たまに“食べた?”とか、“寝た?”とか」
泉がすぐに被せる。
「それ、キャロルさんと同じじゃないですか」
「偶然だろ」
「偶然で済ませるのが一ノ瀬さんです」
四位が笑いを堪えきれずに言った。
「お前、全方向から健康管理されてんじゃねえか」
「されてねえ」
「されてる」
泉と四位が同時に言って、顔を見合わせてまた笑う。
俺は、理屈を立てて反論しようとした。
相手が心配してくれるのは、仲間だから。戦いを共有したから。距離があるからこそ、安全確認を――
そこまで考えて、ふと、思い当たる。
「……いや、でもクリスは“無理すんな”って言うだけだし。響も“元気?”くらいだし。大した――」
スパナが、グラスを置く音だけで俺を黙らせた。
「一ノ瀬」
「……なに」
「“大したことない”と言う時点で、もう大したことだ」
「意味分かんねえ」
泉が、嬉しそうに結論を出す。
「はい。つまり、現状は進んでない。でも、四角関係みたいに見える要素がある。――以上」
「だから四角ってなんだよ!」
俺が声を上げると、また全員が笑った。
笑われてる理由は分からないのに、笑いだけが増えていく。俺はこの流れを止めたくて、手を挙げた。
「ちょ、待て。とにかく俺は、今はそういうのじゃなくて――」
「そういうのじゃなくて?」
泉が目を細める。完全に遊んでる。
「……仕事とか、ケミーとか」
俺が言うと、ファイクがやんわりと場を締めるみたいに頷いた。
「まあ、分かった。進んでないなら進んでないでいい。……ただ、進んでないことが“永久に安全”だと勘違いするなよ」
秋月さんが静かに補足する。
「時間は、止まりませんから」
その言葉が妙に胸に残った。
止まらない。進んでないのに、止まってもいない。――意味が、少しだけ分かった気がした。
俺はグラスを持ち上げて、話題を変えようとした。
「……分かったよ。じゃあ、次——」
その瞬間だった。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。机の上に置いていたわけじゃないのに、振動だけで分かる。嫌なタイミングのやつだ。
俺は反射で取り出して、画面を見る。
――弦十郎。
一瞬、酔いのぬるさが引いた。
個室の空気も変わる。俺が何も言わなくても、全員がそれを察した。誰も笑っていない。
「……悪い」
俺は通話に出た。
「弦十郎さん?」
電話越しの声は、久しぶりに聞く“指揮官”の温度だった。
『悠仁か。今、動けるか』
胸の奥のスイッチが、音もなく入った。
「……内容は」
『詳細は後だ。だが、急ぎだ。位置情報送る。来られるやつは全員で来い』
短い。余計な説明はない。
必要なことだけで、人を動かす声。
「分かりました」
通話が切れた。
俺がスマホを机に戻すと、全員が“いつもの顔”になっていた。飲み会の顔じゃない。戦う側の顔だ。
スパナはもう立っている。早い。
ファイクは胸元の指輪に一瞬だけ触れてから、静かに息を整えた。
泉は医者の目になって、荷物の確認を始める。
秋月さんは動線を作るように戸口側へ寄り、四位は欠伸を噛み殺すみたいに口元を押さえながらも、視線は鋭くなっていた。
俺はグラスを置いた。
さっきまでの笑いが嘘みたいに、氷の音だけが残る。
「……行くぞ」
誰も返事をしない。返事が要らない。
それが、俺たちの“久々”だった。
引き戸を開ける。廊下の冷えた空気が頬を撫でた。
一階のざわめきが、一瞬だけ耳に入る。日常の音。遠い音。
俺はその音を背中に置いて、階段へ足をかけた。
軋む音が、今はやけに大きい。
六人分の足音が重なって、夜へ降りていった。