聖書の言葉の中に「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる」とある。如何なる人間であれ、人を裁いてしまえば、もはや裁かれる人になってしまうことを説く。そして、まず他人の粗を探すより、自分の粗を見つけなさいと、そうでない者に果たして裁く権利はあるのか。
そうでない者が他人を裁くことが当たり前であるトリニティに果たして本当の聖者は居るのだろうか。
「……」
無言の楽章。鳴ることのない鍵盤、動くこと無い敵、壊れたように頭を垂れるピアニスト。何一つの音も許さない。すべてが静寂に包まれていく、字義のまま沈黙は自ずと語りだす。
人間という生き物は神が想定したものより、おしゃべりだったのだろう。沈黙あれば、思考が働き、働きがあれば記憶の整理が始まる。誰も動くことの出来ない空間の中で、延々と思い返す。振り返ってみる。埋めていた苦しみを蘇らせる。
差し込む夕陽が照らす戦場跡自体は見慣れたものであろう。瓦礫の飛び散った道路から床に倒れ伏した生徒、未だに熱い銃身から額を垂れる冷たい汗まで。キヴォトスであるならば、自明だと受け入れられる物事の数々。それが長い年月が積み重ねた倫理観であれ、なんらかの文化であれ、破壊の受容であることに変わりない。そんな場所で、自分が死なない保証はどこに、どこに縋れるのだろうか。楽園か、荒廃したトリニティか、野蛮なゲヘナか、それとも自分の実力か。仮に自分ならば、思い返してみて欲しい。
1秒後、いや五秒後に過去の行いによって自分が裁かれる可能性、思考は巡る故に列挙できれば出来るほど何が増すか。恐れである。顔が青ざめていく生徒たち、特にホシノの顔に浮かんでいく苦痛の表情。立つ力を失い膝をつくエラ。頭を抱えるツルギ。十字架を握りしめるサクラコ。
苦痛とは、何か。ピアニストは実力を発揮できないことを苦痛としたが、彼女に与えられたのは都市の苦痛の一片。天使のようなピアニストの最後に見開かれた瞳は隠し事を赦すことはない。キヴォトスならではの生易しい赦しをもたらすことはない。
テクスチャ、生徒という存在を生徒たらしめる保護膜。その保護すら、ピアニストは赦さない。赦さない。赦さない。真に心と向き合えと、
第三楽章『
ピアニストの夢の演奏会。その最も長い余韻は確実に心を抉り取る。今まで考えたことが無かった人を撃てば死ぬ可能性、自分の親しい誰かが死ぬ可能性、自分の大事な何かを奪われる可能性━━━━それが、やがて自罰し、報復を恐れ、または死後の世界の有無を問い、また可能性の沼へと陥る。そして、既に経験した者は改めて失ったものを知る。そんな彼女らが安寧を求められるはずだった
第一楽章『
演奏開始より、1分03秒経過。残り、3分30秒。展開されていた全戦力の内、50%が心神喪失状態と推定。内、ゲヘナ風紀委員多数が沈黙より逃亡しようと踠くも地面に力なく倒れるに留まった。その際に髪をかきむしる様が確認されたため、
生徒が苦痛を味わう中、大人だけは被害を負うこと無く、自由に動き回ることが出来た。理由はこれは大人へ向けた楽章でないからに過ぎない。マエストロは己の苦痛を振り返ることで何かインスピレーションを得られるのではと思っていたのか肩を落とし、黒服は観測するものとして特にホシノを見ていた。調律者はさながら、見慣れた光景のように俯瞰して、笑みを崩すことはなかった。
先生は、必死に近くの生徒を抱えては何度も声をかける。揺さぶって、脈を確認して、傷を手当てしようとした。
「…………!!!」
やがて、二つの手だけでは足りないことに気がつく。先生だけでは皆を助けることはできない。大人のカードを使っても、被害者を増やすだけ。なら、自分でこの演奏を止めなければならない。そっと抱き変えてた生徒を横に寝かして、ピアニストへ一直線に走る。道中の尖った瓦礫に転けそうになりながら、必死に口の中の唾を飲み込んで生きながら。息絶え絶えに、ようやくあと一歩のところで誰かが立ちふさがった。
演奏開始より、2分03秒経過。残り、2分30秒。展開されていた全戦力の内、80%が心神喪失と推定。残った僅かな生徒は辛うじて意識を保っているに過ぎず、戦力として数えて良いか疑問が残る。上記を踏まえ、現状の戦力は「先生」のみに限定される。ホシノは未だに意識を保っていると補遺。
立ちふさがったのは調律者。憎しみの込もった目で尊大に先生の動きを止めた。いくら、アロナのバリアがあるとて調律者が見せたあの柱を落とす攻撃をされてしまえば、耐えられる自信はない。
どいて。音は出来ない為、唇だけ動かす。己が不倶戴天とした彼女へ、そこを退いてくれと懇願する。調律者は合わせるように唇だけ動かして、無駄だ。と端的に告げた。それでも、と先生は食い下がった。
調律者からすれば、滑稽でしかない。この贋作があの先生の真似事が出来るとでも、既に無数の生徒を救えていない分際で、未だ足掻くのか。理解が出来ないな、調律者は本心からそう返す。都市には偽善者は多く居る、助けるフリをしてやがて相手を陥れるか、自分の勢力拡大に使う。結局、すべてはピアニストが号哭として沈黙の涙を流すように、楽園など無く、醜い現実だけが存在している。
あなたに何があったかは知らない。それでも、知らないことから逃げるつもりはない。だから、これ以上罪を重ねないで。ガラス越しの面会室で話すことにはなりたくないから。先生はそう、優しく諭すように。まるで、赦すようではないか。
違う!
調律者は即座に声を上げたが、音楽にかき消される。これではまるでかつてサオリを赦した先生みたいで、あの魔女とさえ言われたミカも、赦した。あの救世主みたいに見えてくるこの贋作に初めて調律者でなく、ママンでもなく、サオリとして恐怖した。
『しかし、それはもはや先生でしょうか? 先程から聞いてますが、救世主のようにしか聞こえないのですよ。一つのパンで万人の空腹を満たし、水をワインに変え、原罪を背負って、復活したあのメシアに』
『それを一人の人間に求めるのは酷というものです。確かに、貴方の世界にはその救世主が居たのでしょう。だが、ここはそこじゃない』
かつて黒服が語った言葉が今になって返ってくる。本当に……ここは自分の知る世界なのではないかと。勝手に贋作として、先生を裁いたからこそ。この恐怖は膨れ上がるばかりだ。
演奏開始より3分03秒経過。残り、1分30秒。展開されていた全戦力の沈黙を確認。
違う違う。また、騙されたんじゃないか。膨れ上がる疑念に、サオリは頭が弾け飛びそうだった。サオリの苦痛の10年は先生へ期待して、裏切られて、やがて期待するの繰り返し。掌にこびり付く血潮が増えても、怒りにまかせて暴れたときも、先生みたいになれるかもれなかったから。せめて、だれかの先生になれたらと。恋い焦がれることで、生徒としてのサオリはテクスチャを保っていたのかもしれない。
だが、調律者サオリはそれを唾棄すべき感情だと教育された通りに判断する。これ以上の思考は今後の活動に支障をきたすと鳴る警鐘。だから、反射的に言った。
腹に一発弾丸を受けた上でも生徒を助けるのか。これなら受け入れないだろうと分かっての言葉だった。はずなのに、先生は護身用に持っていたのか、拾ったのか静かに手に白い拳銃を握らせてきて。いいよ、そう言って微笑んだ。
規則違反だと荒れ狂う調律者とかつて撃った時のトラウマに悶えるサオリ、両者はどうすれば良いか分からなかった。だから、反射に従うことにした。アリウスの時に刻み込まれた軍事教練に従って、的確に銃を腹に向けた。手は震えている。ここが都市であれば、調律者であれど赦されることはない。ここがキヴォトスであっても、先生を撃つことは赦されない。
何の音も無かった。ただ、引き金を引いて。調律者サオリは、嫌に生々しく手に残る反動を受けいられずに腹を抱えてピアニストへと向かう先生を眺めることしか出来なかった。
演奏開始より4分03秒経過。残り、30秒。調律者の沈黙を確認。
先生は血の線を作りながら、無言しか赦されない空間で。ピアニストの残った瞳を見つめて、不甲斐ない先生でごめんねと。そう言い残して、ピアニストに寄り添うように倒れ込んだ。赤い鮮血が、ピアニストの白い羽を赤く染めて上げていく。
演奏開始より4分33秒経過。残り、0秒。ピアニストの敵対行動の停止を確認、いいえ。沈黙を改めて確認しました。
化物の姿から静かに生徒へと戻っていくピアニスト、立ち尽くす調律者、起き上がってくる生徒たち。そして、倒れた先生。
「違うんだ……」
治そうと近づいて、一斉に自分に向けられた銃口に辺りを見わす。トリニティ、ゲヘナから向けられる憎悪の目。
"私は君の先生ではない。なりたくもない”
"そう……調律者は悪い大人だね”
倒れている先生から言われる筈もない言葉が脳内に響き、咄嗟に違う。そう、言おうとした刹那。
「違くないでしょ。ねぇ、子供殺しさん」
あの美しい声が、囁いてきた。
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