「えっ…? 」
ルアナが視線を見知らぬ女とめり込んだ男の間を往復させながら困惑の声を漏らす。
「…貴様、何者だ? 」
鋭い声が飛ぶ。
それが誰の物か知っているルアナでも一瞬すくみ上がるような、冷えた、重苦しい声。
今、ポールは先程まで持っていた怒りをすべて打ち捨て、主命を遂行する為にその口を、その足を動かしていた。
「ん? アタシか? 」
だが、そんなポールの冷たく、鋭い刃のような殺気を受けながら、この女は力の抜けるような間伸びした声で返答してのける。
(まさか…これが敵意とすら気づいていない!? )
ルアナの頬を一筋の汗が伝う。
あまりに傲慢、あまりに不遜。
”お前がどのような行動をしようが自分には傷の1つもつけられない”と言っているに等しいその態度は、しかしこの得体の知れない女には不思議と似つかわしく見えた。
「アタシは…あーっと…」
周囲の警戒とは裏腹に、女は頭部をガシガシと掻きながら視線を一瞬さまよわせる。
視線の動きは近くにあった八百屋に行きついて止まり、代わりに今度は口が開かれた。
「そう、アレだ、リンゴだ。
気軽にリンって呼んでくれていいぞ」
「それ絶対今考えた偽名ですよねぇ!? 」
…しまった、と思う頃にはもう遅い。
明らかにそういう絡み方をすべきでない相手であるはずなのに、パニックに陥ったルアナの口は思った事をそのまま吐き出してしまったのである。
最早次の瞬間にはポールか自分が埋められてしまった男性のようになっていてもおかしくない、そう判断して少し身を強ばらせるルアナ。
「いや? アタシは産まれた頃からミカンって名だ」
…しかし、この女は予想とは裏腹に腹を立てる素振りすら見せず、むしろ無駄なでまかせを垂れ流しながら愉快そうにカラカラと笑ってみせる。
「さっきリンゴって言ってましたよね!? もう変わってるじゃないですか! 」
「そうだっけかー? まぁアタシはアタシだ、どっちでも変わりゃしねぇだろ」
今度は意図的に、調子は変えず少し相手の瑕疵を突く意味を強めてみるが、女は愉快そうに笑ったまま。
このやり取りによって、ルアナは1つ真相を掴んだ。
(この人…別に誰彼構わず攻撃するって訳じゃない。
じゃああの人が攻撃されたのは…そういえばそもそも私がまだ混乱してた時に何か言ってたような…)
あっ、と小さく声が漏れる。
記憶を辿っていくことでようやっと全てを察したルアナが、気まずそうに口を開いた。
「…えーっと、名前はまぁそれで一旦良いです。
それよりも申し訳ないんですが、その人を道から剥がしてあげてくれませんか? 可哀想なので」
「お? いいのか? コイツに絡まれてたんじゃねーのかよ」
キョトンとした顔をする女。
そう、この女は通りすがりに誰かを殴る趣味がある訳でもなく、なにか男に恨みがあった訳でもなく、そもそも特別な意味があって行動した訳でも無かった。
単に人が絡まれているのを見たので助けに来た、善良…と言うには手段が荒っぽすぎるが、とにかく善意の存在だったのだ。
「はい、確かに喧嘩になりそうだったんですが寸前で和解したところだったので…多分もう喧嘩にはならないと思います」
「あー、そういう事情だったか! スマン! またやっちまった! 」
女は豪快に笑いながら謝罪すると、道路に埋まった男の頭をを引っ掴んでグイッと引き抜いてみせる。
顔面が血だらけで意識を失った男が、茶色いローブで顔を隠した女に掴まれてぐったりと垂れ下がっている、というあまりにも酷い絵面を周囲に晒しつつ、しかしそれを気にもとめずに女は男の顔を一瞥するなり掴んだ頭をグワングワンと揺すぶり始めた。
「ほれっ! 起きろ! 」
「ちょっ! 首が! 首が大変な事になってます! 降ろして! 降ろしてあげて! 」
「ん? そういやそうか、悪ぃな仲間内が大抵丈夫なもんで普通の人間がどんなもんかってのをすっかり忘れてた」
哀れにもポイと放り出された男の頭部が地面にぶつかって鈍い音を立てる。
「うわぁ! い、生きてますかこれ…? 病院に…いや、そもそも間に合う…? 」
「神殿に連絡して応援を寄越して貰いましょうか、幸い治療用の設備が…」
頭部からおびただしい量の血液を垂れ流す男性と狼狽えるルアナ、そして未だ状況が飲み込めないながらも、負傷者に慣れているポールが現実的な対処法を出し…
「落ち着け、ちっと怪我が広がったがどーもしねェよ、どーせアタシが今から治す」
そして、女がそれら全てをたった一言で一蹴してみせた。
「へ? 治すってこんな酷い状態を…」
【ほれ、治れ】
瞬間、流れ続けていた血液がピタリと止まる。
それだけでは無い、折れ曲がっていた鼻が、砕けた顎が、あらぬ方向に曲がった首が、みるみるうちに正常な状態へと戻っていく。
そうして怪我はおろか服のほつれまでが綺麗さっぱり治ってしまったところで、仕上げ、とでも言わんばかりにこびりついていた血液がボロボロと風化して消え去った。
あっという間も無いほどの時間で、男は出会った時のままの姿まで戻ってしまったのである。
「そーいやこっちも治しとかねぇと後でアイツに怒られんだったな…よっと」
先程はあった申し訳程度の詠唱らしき物すら無く、女は掌を先程まで男が埋まっていた道路へと向けた。
すると、砕けたはずの敷石がカタカタと蠢き始め、今度は道路まで先程の惨状が幻であったかのように綺麗に直ってしまう。
「これは…! 私は夢でも見ているのか…? 」
「設備があったって治せるかどうかもわからない怪我だったのにこんなにあっさり…あ、貴女一体…!? 」
「え? マジ? まずかったかこれ…!? 」
2人の顔を見て、そしてルアナの声を聞いて、女が明らかに狼狽える。
「黙ら…いや、流石にマズいか…」
(今明らかに黙らされそうになった…! )
ボソリ、と小さく呟いた女の言葉を獣人特有の耳の鋭さで拾ってしまったルアナが再び冷や汗を流す。
ただし今度は一筋、なんて物では無く滝のような汗である。
(ど、どうしよう…明らかに見てはいけない物を見てしまった…! わ、忘れた事に…いや、絶対無理! 知られたら即座に黙らせるが選択肢に浮かぶような事、私なら絶対に忘れたとか言われても信じない…!
ここから無事で帰れる未来がさっぱり見えない…カールさん助けてぇ…! )
ほとんど泣きかけているルアナの脳裏に”知らねー! 自分で何とかしろ! ”と呆れ顔で言うカールの姿が過ぎる。
そんなぁ、と心の中で嘆きつつ、ルアナはそこで泣き言を打ち切ってこの状況を切り抜けるのは絶望的だろうとは思いつつも動き始め…
「すみません、お互いここは見なかった事にしませんか? 」
「おう、そうすっか」
「即答!? 」
あまりに早い承諾に絶句した。
「なんだ? アタシは見られなかったことにしたい、アンタは見なかったことにしたい、それなら話は早いよな? 」
「えぇ〜…まぁ、そうですね、じゃあ私はそれで」
知られたら最悪相手を黙らせなくてはならない秘密の保持を口約束で、なんて絶対におかしい。
そう思いながらもルアナは飲み込んで承諾してみせる。
こういう手合いはうっかりそういうことを言うと、確かにそうだな…などと言い出して話を無駄に拗らせるだけになるからだ。
「そっちの男はどうだ? 誰にも話さないって約束できるか? 」
「…本来ならば色々と聞いている所だが、今の私は護衛任務中。
任務遂行にあたって貴様のような相手と敵対するのはかなり不都合だ、遺憾ではあるが私も承諾しよう」
「ぃよっし! これで円満、やー良かった良かった! 」
グッと拳を握って女は嬉しそうに頷くと、握った拳から二本指を立てて降って見せた。
どうやら別れの合図のつもりらしい。
「じゃーアタシはこれで帰るぜ! またどっかで会ったらそんときゃ飯でも奢ってやんよ」
「いや…お互い忘れるんじゃないんですか…? 」
「あ? そりゃ力の話だけだろ? 飯奢られるくらいはいーじゃんか」
「ま、まぁそうおっしゃるならまた…って、そっち危ないですよ! 」
「ん? 」
ぎゃっ! という声が上がった。
歩き出した女の爪先が治療された後そのまま転がされていた男の腹に突き刺さったのである。
「ぐぇ…あれ、俺一体何を…たしか神官の野郎と…」
うめきながら、それでも立ち上がろうとする男。
その時、男は自分でも気づかないうちに…いや、気づける訳もない過失を犯してしまった。
そこにはローブの女が…そう、
「見たな? 」
「ひっ…」
男は声を出せなかった。
女の声があまりに恐ろしかったから…ではない。
男は声など聞いてはいない、最早その脳裏は先程見てしまった女の素顔の事で埋め尽くされていたのだ。
逃げねば、地の果てまで、例え足が千切れ這いずる事になろうとも。
そんな考えがグルグルと男の頭を回る。
「チッ、流石にこりゃ忘れちゃ貰えねぇな」
男が使い物にならない為に面倒くさげに吐き捨てたその声は、しかしただの悪態ではすまないような力を感じさせる。
厄介な事にこの女は指先一つでも動かせば…いや、指を動かす、などという面倒な事をせずともその意思1つで目の前の哀れな男の頭部を問答無用で首から切り離すことも容易であろう力の持ち主だった。
最早どう見ても男の命運は尽きていた。
「悪ぃが消えて…」
「そこまでにしておきなさい」
そんな状況に”救いの手”が突如現れた。
比喩では無い、
ルアナが驚いて手が伸びてきた場所を見ると、そこには先刻までは確かに居なかったはずの茶色いローブを纏った男が立っていた。
男は女の肩から手を離し、歩を進めて未だ恐怖の為に動けずに居る男の前にしゃがみこむと、そっとその頬に手を添え、瞳を覗き込む。
【束の間の記憶よ、意識の狭間に沈め。遍く事柄は語るに値せず、ただ錆びつき消えゆくのみ】
恐怖に揺らぐ男の瞳が、次第に先程眠りから醒めたかのような、或いは未だ夢の中に居るかのようなトロンとした物に変わる。
その状態の男の手を、ローブの男は引っ張って立たせると、肩を掴んでくるりと後ろを向かせ、ポンと背中を軽く押した。
「さぁ、貴方の日常にお帰りなさい」
その小さな囁きは誰の耳に入るでもなく街の喧騒に消えていき、不運だった男もまた多少おぼつかない足取りながらも振り返る事もせず人混みへと消える。
そして瞬く間にすべてを解決して見せたローブの男は…
「はぁ…どうやら私の同行者がご迷惑をおかけしたようで…」
男の背を押した手を、今度は自分の額に当てて嘆息していた。
「おー、なんか大変そうだな! 」
「今の”大変”の8割…いや、9割は貴女が生成した物だということを是非忘れずにいて頂きたい物ですね。
何故興味がある物に私を振り切って突撃していくのか、何故興味がある物が基本的に面倒事に直結しているのか、私はそれが気になって夜も眠れません」
「そんなん無くても夜は起きてるだろお前」
「物の例えです知能と教養があるなら察して下さい」
「あの…すみません、もしかして私忘れられてます? 」
先程まで一般人を殺そうとしていた人物と、その人物を明らかに洗脳して放流した人物の会話とは思えない気の抜けた会話に、恐る恐るルアナが割って入る。
「…いえ、まさかそのような失礼は致しませんとも。
この度はご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません」
「私は別にそこまで…」
「そうだぞ! アタシはコイツらには迷惑かけてねぇよ! 」
「かけてるに決まっているでしょう、気を使われているのに気づきなさい! …すみません、バカで」
「…あはは」
肯定も否定もし難い事を言われて仕方なく苦笑いで場を流すと、それを察したローブの男が頭を下げる。
「とにかく、色々と申し訳ありませんでした。
何かお詫びをしたい所ですが…そうですね、少々お待ちを」
パチン、と指を弾く音と共に男の手の中に水の注がれたコップが現れる。
「飲み物をお探しだったのでしょう? こちらをどうぞ」
「…! 」
差し出された水を見て、あからさまに警戒を強めるポール。
それもそのはず、飲料の話をしたのはこの男が来る前の話…知っているはずのない知識を何故だか持っている、それはまったく不審極まりない事実だった。
「おや、私から受け取るのでは信頼できませんか。
まぁそれは当然だとは思いますが…しかし、先程の1件でおわかりだとは思いますが、貴方がこの場を離れずに何かを手に入れる、というのは中々難しいことだと思いますよ」
「む…」
ポールは唸りながら少し逡巡し、その末に結局手を差し出す。
「仕方があるまい、礼は言わんぞ」
「それは勿論、そもそもソレはこちらからのお詫びですから」
差し出された手にコップを渡し、男は数歩下がると慇懃に一礼してみせた。
「それでは我々はこれで…ほら、帰りますよ」
「え〜、アタシまだ遊び足りねぇんだけど」
「…ここで帰らないと言うのなら、私は二度と貴女の外出には付き添いませんよ? 」
「ゲッ、マジかよ…しゃーない帰るか…じゃーな! 」
一瞬で纏った不満げな雰囲気を一瞬で霧散させ、女が朗らかに笑いながらブンブンと腕を振り回す。
「えっ…じゃあまたどこかで…ってもう居ないし…」
「驚くべき速度ですね…いや、どちらかと言えば姿を眩ますのが早い、と言うべきでしょうか? 」
ローブ姿の2人組、目立って仕方がなさそうな2人は、しかし
その鮮やかさたるや、手元のコップとそれに入った水だけが彼らの存在証明で、それが無ければ幻覚でも見ていたのかと思う程だ。
「ひとまずこの水をレイ様に飲ませて差し上げましょうか、見た所おかしな魔力は感知できませんし。
それに、もし”古典的な手”を使うとすれば…」
ポールは掌に少し水をこぼし、口をつけてそれを飲み込んで、呪文を唱える。
そうして少し待ってからポールは小さく頷いた。
「毒味で対応すれば良い…分解、吸収速度を魔法で上げてみましたが、特に体に影響は出ていません、遅効性毒の心配も無いでしょう」
「そうですね…随分辛そうでしたし、早く飲ませてあげた方が良さそうです」
そうして2人はレイの座るベンチへと向かう…と言ってもそもそもが十数歩程度しか離れていない距離、すぐに元の場所へと帰り着く。
「お待たせしました! ポールさんが水を貰ってきてくれましたよ! 」
「あっ、はい、全然待ってないです大丈夫ですありがとうございます、むしろ私のせいでご迷惑をおかけして本当に…」
「いえ、これも私の任務の一環です、当然の事ですのでお構いなく! 」
放っておくとどんどん沈んでいくレイを遮りつつ、ポールはコップの縁をハンカチで拭って差し出した。
「あっ…ありがとうございます…」
差し出されたコップを両手で受け取り、口をつけて控えめに傾ける。
白い喉から数度ゴクリと音を鳴らして、コップの縁から離れた口から少しため息が漏れた。
「ふぅ…なんだか落ち着けた気がします…」
満足げな様子のレイを見て、ルアナがポールに囁く。
「良かったぁ、苦労した甲斐がありましたね…」
「そうですね…と言っても私は大した力にはなれませんでしたが…」
そんなことありませんよ、と、返そうとした時、レイがコップからフッと目線を上げた。
「それにしても…」
風が吹き抜け、木の葉が騒めく。
「よく水なんか分けて貰えましたね、
「「…っ!? 」」
それは恐ろしい発言だった。
距離にして十数歩…たったそれだけの隔たりが、あのローブの2人組の存在を静かに覆い隠していたのだ。
表情を一変させた2人の様子を見て、レイもまた異変を悟る。
「…何かあったんですね? 私には知らない何か…いや、周囲の人々が動じていない事を見るに、2人しか知らない何かが…! 」
先程までオドオドと揺れていた瞳が、2人の顔を静かに見据えた。
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「なー」
女が言う。
「なんです? 」
男が返す。
「良かったのか?
ついでだから、とでも言うように気軽に放ったその一言は、しかしとんでもなく物騒なセリフだった。
「できたらしてますよ…獣人はともかくあの神官がダメです」
「なんだよ”誤魔化すなら世界一”みたいなツラしといて神官にはシッポ巻いて逃げ出すのか? 」
「…”聖域を誤魔化しながら””分体の身で””相応に高位の神官を”相手取らなければいけなかったので記憶の抹消でなく思考の誘導を選んだのです、的確な判断能力を備えている、と言って頂きたい」
明らかにムッとした声色になった男を見て、女が楽しげに笑う。
「なーんだ、結局言い訳じゃねぇかよ、要は自分の技ァ信じられなくて逃げたんだろ? 立派な負け犬だぜお前」
「なるほど…」
笑い混じりの煽りが遂に腹に据えかねたのか、今度は男がやり返す。
「では言わせて頂きますが、そもそもあの状況を呼び込んだのも貴女…と言うか
貴女が居なかったらそもそも私が必要な事態にはならなかったはずです」
「そいつぁまったくその通り…だが明日にゃボッコボコになってるはずの街だぜ? 美味いもんがあるなら食っとかなきゃ勿体ねぇだろ」
「…」
男は手を広げ、やれやれ、とでも言うかのように首を振った。
「ま、貴女の破天荒さはこの際許しましょう。
不信感は持たれましたが、幸いにして敵対行動は行っていないので大規模な動きは取れないでしょうから、最悪ではありませんし」
「へぇ〜、じゃ、予定変更はなしか? 」
一転してつまらなさそうに問いかける女に、男は首肯で返す。
「ケッ、じゃあ明日の朝にゃあの街も焦土かよ…結構いい店あったんだがな」
「焦土という程酷くなる予定はないのですが…まぁ良いでしょう」
苦笑する男のローブを、地平線に隠れる前の太陽の光、その最後の一筋が照らし出す。
「じき、開戦ですね」
…夜が、近い。