五条兄妹   作:鈴夢

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生と死

 

 

2018年 某日

ケニア共和国――

 

 

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陽の光は、容赦なく地面を焼いていた。

 

乾いた風が吹き抜けるたび、赤土がわずかに舞い上がる。

遠くでクラクションが鳴り、行き交う人々の声と混ざり合って、異国のざわめきが街に満ちていた。

 

 

 

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「ちょーーーーっと嫌な予感がしてさ?」

 

男――五条悟。彼は黒い眼帯を揺らしながら、どこか気だるげそうにそう口にすると隣を歩く青年に視線を落とす。

 

「僕になんかあったら今の1、2年の事を憂太

に頼みたくて。……秤は、まあ大丈夫っしょ。」

「え?」

 

青年――乙骨憂太。

白いシャツの袖をまくりながら、隣を歩く悟にちらりと視線を向ける。

 

「何かって……女性関係ですか?」

「ははっ、憂太も冗談言うようになったんだね?」

「いや、五条先生に"何か"って想像つかなくて。洸先生もいるし。」

「ま、洸がいるのは心強いね。」

 

軽い口調。会話。

けれど、その言葉の奥にあるものを、何となく乙骨は勘づく。

 

足を止めることはない。

2人は並んだまま、ゆっくりと通りを進んでいく。

 

焼けた空気の中で、悟はふと空を見上げた。

 

「洸の事はさておき、とくに一年の虎杖悠仁。あの子は憂太と同じで、一度秘匿死刑が決まった身だ。注意を払ってもらえると助かる。」

「あー…例の宿儺の?」

「そ」

 

相変わらずこの人は読めない人だ。

存在自体がイレギュラーと言っても過言では無いほどに最強だ。その人が"僕になにかあったら"なんて。

あるはずがないのでは?誰しもがそう思う。

 

しかし乙骨はごくりと息を飲んだ。

きっと"何か起こる予兆"なのだと。

 

 

「改めて…"僕に何かあったら"さ」

 

乙骨の歩幅が、ほんのわずかに乱れる。

 

「色々頼むよ。」

「…色々って、随分適当ですね?」

「んー!じゃあ!"洸を頼むよ!"」

「何言ってるんですか!むしろ僕が洸先生に助けられる側じゃないですか!」

「いやいや!あいつ案外ポンコツなところあるし?憂太が傍でサポートしてくれれば心配なし!」

「……」

「僕と同じで口悪いし、おじいちゃん達にもすーぐに喧嘩売るし?すぐ反感買うからさ〜あいつ。」

 

…もっと話が分からなくなってきた。

結局この人は異国の地までわざわざ何をしに来たのか――

 

 

 

 

 

「頼りにしてるよ、憂太。」

 

 

ざわめきの中、その言葉だけが妙に鮮明に響いた。

 

「ッ…」

 

風が吹く。

露店の布がはためき、乾いた音を立てる。

 

乙骨は前を向いたまま、答えない。

ただ、ぎゅっと、拳を握る。

 

 

乙骨は足を止めた。

そして、ほんの一瞬だけ、隣を見た。

 

その横顔は、昔と変わらないはずなのに――

どこか、遠い存在のようにも見えた。

 

「任せてください。」

 

短く、しかし確かな声。

 

再び歩き出す二人の背中を、強い日差しが照らしていた。

 

影は、並んで、長く伸びる。

 

 

 

 

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五条兄妹

――死滅回遊編

 

 

 

 

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―生と死―

 

 

 

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夕陽が、東京をゆっくりと呑み込んでいた。

 

高層ビルの窓ガラスに反射した橙が、まるで街そのものを焼いているように揺れている。昼と夜の境界が曖昧になるその時刻、無人となった大通りには風の音だけが低く這い、ひび割れたアスファルトの隙間からは黒ずんだ瘴気が立ちのぼっていた。

 

信号は意味を失い、横断歩道には乾いた血の痕が残り、遠くでは何かを噛み砕くような不快な音が断続的に響いている。

 

――けれどこの場には、その音すら届かないほどの緊張が張り詰めていた。

 

 

「"洸先生、お久しぶりです。"」

 

 

夕焼けを背負いながら、まるで舞台に立つ役者のように悠然と佇む青年――乙骨憂太。

表情はなく、背負われた刀の柄の部分に手を添えこちらを見下ろす。底なしの沼のような暗さを湛えた瞳が、5人をひとりずつ値踏みするように見渡していた。

 

 

風が吹く。

誰も動かない。

 

動けない、ではない。

動けば、すべてが始まるとわかっていた。

 

「…憂太。」

「……」

 

洸と七海は彼を見上げた。

2人にとって彼は大切な生徒でもある。

しかし、当の本人からは穏やかな空気は見られない。臨戦態勢とも言わんばかりの状況に警戒していた。

 

長い睫毛の影を橙色に落とし、風に揺れる髪の隙間から覗く瞳は、妙に静かだった。生者の色をしているのに、どこかこの世のものではない

そして、薄く微笑んだ。

 

 

彼のたったひと言。

それなのに、その場にいた五人全員が息を呑んだ。

 

誰ひとり、すぐには言葉を返せない。

 

あり得ない。

そんなはずがない。

ここにいるはずがない。

 

そんな否定が脳裏を駆け巡るのに、目の前の青年は確かに存在していた。

 

風がまた吹く。

橙色の光のなか、彼の影が長く伸びる。

 

仲間のひとりが、震える声でその名を呼びかけかけて――飲み込んだ。

 

呼べば、現実になってしまう気がしたからだ。

 

敵の男すら、わずかに目を見開いていた。

想定外。

その表情が、初めてそう物語る。

 

青年はそんな視線のすべてを受け止めながら、ゆっくりと首を傾ける。

 

 

「七海さんも。まさか洸先生と一緒だったなんて。」

「ご無沙汰してます。乙骨君。」

 

 

刹那、乙骨の瞳はさらに鋭く、洸へと向けられた。

 

 

「((――本当に。目の前にいるのは間違いなく洸先生なのに全てが五条先生そのままだ。)」

 

目元を覆う黒い布、短い白髪。

呪力も何もかもが五条悟だった。

 

「…ゆっくりお話したいところですが、今は虎杖悠仁に用があるので。」

「用件は?」

「………」

「私も同席していい?」

「それは困りますね。」

 

どうやら洸でさえ踏み込むことはダメらしい。

となれば…恐らく乙骨の背後に居るのは呪術連の保守派である"腐ったミカン共"。

 

「「……」」

 

双方が睨み合う。

そしてふと、洸は七海の傍で呟いた。

 

「建人、どう思う。」

「…何か私たちに言えないことがあるのは確実でしょう。でなければ、貴女がいるとわかった上でひとりで現れるのは理解できません。」

「……」

 

いくら乙骨でも洸には敵わない。

むしろ五条悟と同じ呪力を持っているという時点で賢い乙骨であれば自ら敵対することは考えにくい。

 

「ヒカルン、誰なん?」

「乙骨憂太。聞いたことあるでしょ?」

「え……乙骨って…パンダ先輩たちと同じ?伏黒が言ってた2年の…」

「そう。私の生徒。」

 

虎杖は息を飲む。

乙骨という名は何度も耳にしてきた。

海外の任務で日本を離れていること、特級であること。

 

そして強いということも。

 

 

「洸先生。そこを退いてください。」

「……」

 

刹那、乙骨は抜刀する。

刀身に光が反射するとそれぞれが身構えた。

 

洸は己も鞘に手をかける。

そしてじっと彼を見上げていた。

 

「洸。あの男が悠仁の死刑執行人の可能性は?」

「ほぼ100%確実だと思う。狙いは悠仁だね。」

 

脹相はより一層警戒心を高める。

傍らでは洸が眼を鋭く光らせた。

 

 

「本当に……"腐ったミカン共"……」

 

嫌な役回りを乙骨に任せる老耄ども。

どこまでも腐ったやつらだと洸は怒りを滲ませた。

 

元々死刑対象であった虎杖と洸。

五条悟が居ない今が大チャンスだと企んでいるのだろう。

 

 

睨み合う両者。

するとその間に割って入る存在。

 

 

「ちょい待ってやー。俺は味方やで?」

 

両手をヒラヒラと上げ、乙骨へとアピールするのは直哉だった。

 

「アナタは?」

「禪院直哉。真希ちゃんの従兄弟や。君とおんなじで虎杖くん殺せ言われとる。」

 

そして向けられる、洸への強い執着心。

 

「それと、洸センセーに用があんねん。助け合おうや?」

 

直哉にとっては好都合だろう。

特級レベルの術師が味方につけば勝機は高まる。

 

 

 

「…そういうことで、乙骨くん。俺と――」

 

 

乙骨と直哉は互いに警戒しながらも会話をはじめていた。

洸達は目配せしながらコソコソと作戦を練る。

 

 

「(このタイミングで厄介です。洸さんをお願いできますか?)」

「(いいや。ここは悠仁と俺で迎え撃つ。お前たちは隙を見て逃げるべきだ。五条洸も弱っている。)」

「(そうだぜナナミン。ヒカルンを任せられんのはナナミンしか――)」

 

 

この場を直ぐに離れる。

互いに踵を返そうとした刹那――

 

 

 

「――――ッ!!」

 

 

激しい轟音。呪力と呪力がぶつかり合う衝撃。

 

 

洸は虎杖を狙う乙骨の刃を受け止め、

七海は洸を狙う直哉の拳を受け止め、

脹相は穿血の動作を構えた。

 

 

 

「ヒカルン!!」

「悠仁。逃げて。」

 

背後に庇う虎杖に向け、洸はハッキリと忠告した。

 

「ははっ…さすが先生。僕の動き予測してました?」

「担任なんだから当たり前でしょ。」

 

ギリギリと揺れる刃と刃。

しかし力の差は圧倒的。洸に圧される乙骨は悔しそうに眉を顰めた。

 

 

「私が相手をしましょう。禪院直哉さん。」

「邪魔すんなや、カス。」

 

直哉の拳を容易く受け止める七海。

互いに殺意の籠った瞳を向け合う。

 

「((…タイミングを見計らえ。五条洸の動きに合わせればいい!))」

 

脹相は構えを乱すことなく様子を伺い続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……洸先生…」

「?」

 

重なる刀身と刀身の隙間から、乙骨の青白い顔と低い声が掠める。

 

「ハナからあなたに敵いません。戦っても負けるのは確実です。」

「…なにが言いたいの。」

 

更に縮まる2人の距離。

瞳と瞳がぶつかりそうな距離で乙骨は更に念を押すように声を漏らした。

 

「勘のいい"五条兄妹"なら…分かるはずです。」

 

「ッ!!」

 

刹那、洸は乙骨の刃を弾き飛ばす。

そして虎杖の腕を掴むとその場から離れるように促した。

 

 

「脹相!建人と一緒に!」

「了解した!弟を頼んだぞ!」

 

「建人、後で合流!」

「了解しました。」

 

それぞれが動き出す。

洸が離れた瞬間、脹相の攻撃がトンネル内へと弾け飛ぶ。

 

砂煙が轟々と広がる中、姿をくらますように2人は駆け抜ける。

 

 

「ッ!」

「ヒカルン!」

 

七海たちから離れた場所で虎杖の腕から手を離す。

そして刀を改めて構え直し、更に虎杖を逃げるように促した。

 

「悠仁、先に逃げて。」

「でも…ヒカ」

「ここは私が引き受ける。」

 

洸は僅かに背後に振り向くと、優しい笑みを見せた。

 

「私、最強だから。」

 

兄を思わせる姿。

虎杖は後ろ髪引かれる思いでその場から離れたのだった。

 

 

 

 

 

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「2対1、余裕やな。」

 

薄暗いトンネル内。

お互いに距離をとる3人。

 

 

「そっちはおいといて。…キミは洸のなんやの?」

「話す必要が?」

 

両者の足音が静かに響く。

 

「……ほんまに人たらしやな、あのクソアマ。」

「……」

「キミがベタベタ引っ付いとったのは知っとるで?交流会の時も、百鬼夜行の時も洸の傍におったよなあ?」

「……」

「洸はやめとき。キミじゃ相手にできん。」

「ご心配なく。彼女が破天荒であることは重々承知していますので。」

 

瞳に鋭さを増すふたり。

彼女を譲らないと言わんばかりの雰囲気を互いに纏う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――君に何ができるん?」

 

ほんの一瞬の出来事だった。

…いや、一瞬という例えもおかしいのかもしれない。

 

「((速い!))」

 

先程まで離れた場所にいた直哉が今は真横にたっていたのだ。

 

 

 

「そや。なら、ひとつ聞いてええ?」

「なんでしょうか?」

 

直哉の左手が七海の左肩に乗せられる。

そして耳元に口を近づけ、ゆっくりと生温く言葉を吐いた。

 

「洸とヤッたことあるん?」

「………」

「あの娘、なかなかええ鳴き声出すやろ?」

「………」

「いつもは威勢がええ癖して、あん時は雌らしくひんひん鳴くねん。」

「……聞いた通り、随分と下劣な人ですねアナタは。」

 

七海の声色が更に低く、恐ろしいものへと変化していく。直哉は彼を挑発していた。そして同時に、洸に愛されている彼を心底疎ましく思っていたのだ。

 

「洸の処女、もろたん俺やからな。」

「……」

「あいつは俺の存在は永遠に忘れられん。善いも悪いも、全部刻みつけてきたつもりや。」

 

両者ともに動かない。

相変わらず直哉の手は七海の肩に乗せられたままだ。

 

そして更に、耳元で呟く声が妖しく低く変化する。

 

「なあ、知っとんの?洸がキミの知らんところで禪院家と結んだ契約。」

「……特に把握はしていません。」

「なーんや。その様子やとホンマに知らんみたいやな?まあ俺も知ったのはほんまにさっきやし……」

 

 

 

まるで鼓膜を犯される気分だった。

ヌルヌルと蛇が這い上がってくるような感覚を直哉から感じると七海は眉間の皺をさらに深く沈ませる。

 

 

「洸はなあ、禪院家の人間になるんや。」

 

ほんの一瞬、こちらに微笑む洸の顔が脳裏に浮かぶ。

 

「しかも…″伏黒恵″くんと」

 

初耳だった。

洸の口からは聞いていないこと。

別にショックを受ける内容でもなにもない。

 

そもそも彼女は普通の女性ではない。

御三家、五条家の長女。

あの五条悟の妹。

 

今まで様々なことで驚かされてきた。

今更だ、何も、思わないさ。

 

 

腹立たしいこと。

それは今、耳元で囁く男の存在だ。

 

「そないなこと、俺が認めるわけないやろ?……てな訳でちょっと協力してくれへん?恵くんが邪魔なんや。」

「……」

「ええやろ?それに乙骨くんの様子見てる限り、洸は明らかに上に消される。でも禪院家の手にかかればそないなこと、どうとでもなる。」

「……」

 

"せやろー?"と呑気な声が飛び込む。

トントンと肩を叩かれ、しまいには肩を組まれる始末。

 

直哉の腕が肩にまとわりつく。

更に彼の口元が近づくと七海は無性に苛立った。

 

それを分かっているかのように、直哉は更に七海に畳み掛けるように厭らしく耳元で囁く。

 

「協力してくれるなら…″洸の妾″くらいにはしてやるで?……なあ?悪ないや…

 

 

 

――ろォォッ!?」

 

 

 

 

 

 

刹那、胃液混じりの声とともに、直哉はトンネルの更に奥へと吹っ飛ばされた。

 

一瞬の出来事だった。

あの直哉でさえ受身を取ることが出来ないほどの一撃。

 

 

「ゲホッ…ぐっ……クソがァ…」

 

完全に七海のことをなめていた。

その油断か仇となり、直哉は苦しげに七海を睨みつける。

 

「…七海建人…」

「脹相さん。あなたは下がっていてください。万が一の時は援護を頼みます。」

 

脹相は七海の殺気に息を飲む。

余計なことはしないようにと、ゆっくりと後退した。

 

「――"禪院直哉さん"」

 

七海は呪具を取り出し、ゆっくりと歩みを進める。

 

「あなたのことはある程度知っていましたが……やはりクズに違いはないですね。」

「ハァ?」

「洸さんの言葉をお借りしましょう。

――"ドブカス"野郎ですね。」

 

七海の呪力が一気に開放された。

それは凄まじいものだった。

 

 

「…洸さんが何者であろうと守ると決めたのは私です。」

 

例え、彼女が敵であろうとも。

 

「洸さんが苦しむ時は、私も共に苦しむ。」

 

もう何も恐ろしくない。

 

「何があっても…洸さんのそばに居ると。誓ったんです。」

 

もう、彼女一人に背負わせない。

 

七海は既に覚悟を決めていた。

 

 

 

 

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"病める時も健やかなる時も"

 

 

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「"建人"」

 

 

 

渋谷が崩壊し、都心の機能を失ったあの時から数時間後。

 

負傷者たちが運び込まれた高専内。

そのひとつの部屋に置かれたベッドに洸の姿があった。

 

 

「…どうしました?」

 

傍らでは自らも負傷しながらも洸のそばを離れようとしない七海の姿があった。

左目は反転術式をもっても回復することなく、黒い特殊な眼帯が付けられ、左半身は火傷を負いながらも治癒は進んでいる状態だった。

 

 

洸はベッドに横たわったまま、目元は包帯で何重にも覆われていた。

切り裂かれた体は家入の反転術式によって回復しつつあるも未だに完治はしていない。

自己治癒も追いつかないまま、ただただ静かに呼吸を繰り返す。

 

 

「……建人」

「そばに居ます。大丈夫です。」

 

七海はゆっくりと彼女の手を握りしめた。

びっくりするほどそれは冷たく、弱々しく感じるほどに。

 

「………」

「洸さん。」

「………建人」

「はい。」

「…助けて。私を。」

 

握り返される洸の手。

それはか弱い力ではあるが、何よりも意志を感じるものだった。

 

 

「…はい。分かってますよ。あなたのことは。」

 

 

このままでは、洸は殺される。

少しでもその対抗策を練らなければ、間違いなくこの場に乗じて上層部は彼女を消しにかかる。

 

現に虎杖は脹相と共に姿を消した。

彼らも賢い。五条悟の後ろ盾が無くなった今、危険なのは虎杖と洸だった。

 

 

 

「逃げましょう。」

 

静かに言った。

 

「あなた一人ではありません。私も行きます。」

 

焼けた頬に走る痛みを、無視するように続ける。

 

「これは合理ではない。ですが――

合理だけで、あなたを守れない」

 

その一言だけが、やけに真っ直ぐだった。

 

 

 

 

夜明け前の高専の廊下は、異様なほど静かだった。

 

灯りは落とされ、非常灯だけが足元を淡く照らしている。

まるで、この場所そのものが"もう終わった"とでも言っているように。

 

足音を殺しながら、七海は進む。

腕の中には、洸。

自分で歩けないわけではない。

だが、あえてそうしている。

 

少しでも、音を減らすため。

少しでも、気配を消すため。

 

洸の体温が、焼けた皮膚にじわりと伝わる。

その熱が、現実を引き戻してくる。

 

「……大丈夫です。」

 

低く囁く。

 

目指すのは、人気のない一室。

そこから外へ——

 

扉を開ける。

埃の匂いが、わずかに漂った。

懐かしい匂いがした気がした。

 

窓際へと足を運ぶ。

外は夜明け前の暗闇。

高専の敷地の外まで、視界は開けている。

 

七海は片手で窓枠に触れ、静かに押し上げた。

 

冷たい風が流れ込む。

七海は洸の体を按じ、包ませていた上着を再び直す。

 

「行きますよ。」

 

淡々とした声。

だが、その腕に込められた力は、わずかに強い。

 

一歩、踏み出そうとした——その瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

「"随分、急いでるねえ"」

 

背後から、気だるい声。

七海は無意識に止まる。

 

振り返るより先に、その声の主は分かっていた。

自分たちを昔から見守ってくれていた先輩でもある。

 

白衣姿の家入。

彼女は煙草を口に咥え、扉にもたれかかるように立っていた。

 

まるで"こうなる"事を予測していたかのように。

視線だけが、真っ直ぐこちらを捉えていた。

 

「こんな時間に、患者連れて夜逃げ?」

 

軽く首を傾げる。

だがその目は、何一つ見逃していない。

 

七海は、何も答えない。

ただ、洸を抱えたまま、静かに向き直る。

 

数秒の沈黙。

やがて家入は、ふっと息を吐いた。

 

「……やっぱりね」

 

壁から体を離し、ゆっくり歩み寄る。

 

「五条が封印された時点で、こうなると思ってた。」

 

淡々とした口調。

感情は乗っていないようで、どこか重い。

 

「上はもう動いてる。洸を"危険因子"ってことにしてさ。」

「………」

「上からしてみれば絶好のチャンスだろうからね。洸はあくまでも元離反者。保守派は間違いなく狙ってくる。」

 

ちらり、と洸を見る。

 

「で?そのまま連れてって、どこまで逃げるつもり?」

 

問いかけというより、確認だった。

七海は一瞬だけ視線を伏せる。

 

「……そうですね。

どこか遠く……海が綺麗な場所…」

 

短く答える。

間違いなく冗談なのだが。

よくこの状況で答えれるものだと、その言葉に家入は小さく笑った。

 

「はは、七海らしいね。」

 

一歩、距離を詰める。

そして——洸の前で立ち止まる。

 

「ねぇ」

 

少しだけ、声の温度が変わる。

 

「洸を頼むよ。」

 

鋭いわけでも、責めるわけでもない。

ただ、現実を置いてくるような言い方。

 

沈黙が落ちる。

窓の外から、風が吹き込む。

 

カーテンが揺れ、3人の影を歪ませる。

 

その中で——

家入は、煙草を指先でくるりと回しながら言った。

 

「……何れ、またどこかで合流することにはなると思うけど。それまでに私たちもこっちで出来ることはやっとくよ。」

 

わずかに肩をすくめる。

 

「行くなら、せめて——」

 

そこで一度、言葉を切る。

 

視線だけが、まっすぐ七海を射抜いた。

 

「死なないでよ。2人とも」

 

軽い調子。

なのに、その一言だけが妙に重く残る。

 

「いつまでも…私の可愛い後輩なんだから。」

 

涼しい風が吹き抜ける。

柔らかい"家入先輩"の言葉と共に――

 

七海と洸は姿を消したのだった。

 

 

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人の気配が消えた路地に、静かな圧だけが満ちる。

 

そこに立つのは、乙骨憂太。

そしてその先、街灯の下に、五条洸。

 

白い指先で、ゆるく髪を払う仕草。

どこか見覚えのある"圧"。

 

「いずれ、私を追って誰かが来るとは思ってたよ。」

 

その声は柔らかい。だが、底がない。

 

「悠仁のこと。上からの命令、だよね。」

 

問いではない。確認でもない。

ただ、事実を並べるだけの声音。

 

乙骨は頷く。

 

「……洸先生も対象です。」

「知ってる。」

 

即答だった。

表向きは捕縛、しかしその先にあるのは間違いなく処刑。

 

相変わらず上層部は性格が悪い。

 

「………」

「………」

 

風が吹く。

その瞬間、空気が歪む。

 

「憂太じゃ無理だよ。」

 

洸は一歩、前に出る。

乙骨の喉がわずかに動いた。

 

事実だ。

正面から勝てる相手ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぐっ!」

 

ほんの僅かな静寂。

その隙に、洸の刀の鞘部分が乙骨の腹部を目掛けてめり込む。

 

「((…ッ…速い…圧倒的力の差…っ…!))」

 

呼吸をする間もない。

カウンターなど到底無理だ。

次の一手を考える前に攻撃が重なる。

 

「ッ!」

「遅い。」

 

たとえ相手が生徒であろうとも、洸は容赦がない。狩られる前に狩る。先手必勝。

 

「ガハッ…!」

 

乙骨は高層ビルの窓を派手に割りながら、転がっていく。もう少しくらい優しくしてくれても良いのでは…?なんて呑気に考えていると目前に洸が迫る。

 

「死刑執行人。それは本当だよね?」

「はい。虎杖悠仁は殺します。」

「………」

「洸先生。あなたの事も殺さなければならない。」

 

乙骨は鼻から垂れ落ちる血液を拭いながらゆっくりと立ち上がる。体に引っ付くガラスの破片がパラパラと落ちていくと再び刀を構え直した。

 

「どう?殺せそう?」

「……どうでしょうか。」

 

洸は試すように笑った。

明らかに勝負はついている。なのに乙骨は立ち向かうことを諦めない。

 

――"そういうことか"

 

洸は脳内で考えていた。

そしてそれは確信に変わる。

 

 

「"リカ"、使わないの?」

「……」

「リカを使えば、もしかしたら勝機はあるかもしれないよ。」

「……」

「リカの"完全顕現"は5分が限界。でもやってみる価値はあるかもよ?」

 

洸は彼に更に近づく。

刀身が真っ直ぐと伸びた先に洸は立った。

距離で言うと1mほど。互いに近距離で表情を見合う。

 

 

「((…本当に殺す気なら……リカを使えばいい。))」

 

乙骨から本気の殺意を感じない。

洸は分かっていた。間違いない。

 

 

「″そういうこと″……でいいんだよね?」

「……」

「合ってる?」

 

1歩、また1歩、乙骨の元へと近づく洸。

そして目元を覆っていた布を引き上げると美しい紫色の瞳が顕になった。

 

「ッ…」

 

乙骨は息を飲む。

圧倒的強者のオーラ。まるで五条悟が目の前にいると錯覚するほどの雰囲気。

 

 

 

 

 

「ヒカ」

「信じてるよ、憂太。」

 

 

次の瞬間だった。

世界が、わずかにズレた気がした。

 

乙骨の視界が歪む。

洸は無下限を解除し、刀身を手のひらで掴むと自らの胸にあてがった。

 

 

 

「……」

 

洸は瞼を閉じる。

 

そして乙骨は迷わなかった。

 

「…先生。」

 

刀が走る。

肉を裂く感触。

確かに、"届いた"。

 

 

「…ふふ」

 

洸は笑い、胸元が赤く染っていく。

黒い上着が更にドス黒く染まっていく。

 

 

洸の身体が、ゆっくりと崩れた。

だがその目は、死んでいない。

 

「……お願いね」

 

かすれた声。

乙骨はすぐに手をかざす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…あ」

 

 

背後から少年の声が聞こえた。

 

 

「ヒ……ヒカルン…?」

 

乙骨の胸元でだらりと頭を垂れる洸。

その絶望的な光景を目の当たりにしたのは虎杖だった。

 

 

「…ちょっとまっててくださいね。洸先生。」

 

乙骨は洸を地面に横たわらせ、ゆっくりと立ち上がるのだった。

 

そして猛攻が虎杖に襲いかかる。

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

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2018年2月

 

 

 

┈┈┈┈┈

 

 

 

 

橙に滲む境界――

 

 

 

 

夕焼けが、校舎の影を長く引き伸ばしていた。

 

東京都立呪術高等専門学校のグラウンド。

踏み固められた土の上に、乾いた音が一定の間隔で響く。

 

金属と、空気がぶつかる音。

時たま苦しそうに呼吸を荒あげる呼吸音。

 

 

「――うっ!?」

「遅いよ、憂太。」

 

軽い声音だった。

 

だがその一言で、空気がわずかに張り詰める。

乙骨は息を整えながら、刀を握り直した。

 

目の前に立つのは、担任の五条洸。

 

"五条悟の妹"

 

 

┈┈

 

 

橙の空は漆黒へ。

校舎の一角にある自動販売機が並べられた場所に2人の姿は移動していた。

 

お互いグルグルとマフラーを巻き、手元には温かいおしるこの缶。夜風に身体を震わせながらも2人は仲良く空を見上げていた。

 

「明日から海外か〜。羨ましい。」

「洸先生も海外の任務とか興味あるんですか?」

「うん。興味あり。行きたい。」

「希望出したらいいんじゃないですか?」

「出したところで意味ないよ。私は基本的に高専(ここ)から出られないんだから。」

 

明日、乙骨は日本を発つ。

悟の任命の元、遠いケニア共和国まで遠距離の長期の任務に向かうのだ。

 

「寂しいな。せっかくこうやって話せるようになったのに。」

「別にお別れじゃないんですから。僕もみんなに会えなくなるのは寂しいです。」

 

2人はこくりとおしるこを飲む。

冷えきった体がじんわりと温かくなる感覚にふうっと息をつく。

 

「……」

 

 

乙骨は横目で洸を見つめてみた。

真っ赤に染まる赫眼が不気味に美しく光る。

 

その瞳からは何も感じなかった。

殺意も、恐怖も。ただただ普通の人の気配。

 

死刑を免れた同士。

自由になれない者同士。

 

似たもの同士の自分たち。

 

「……」

 

乙骨はふと、彼女に問いかける。

 

「……先生は」

「ん?」

 

乙骨は、ゆっくりと口を開いた。

 

「戦いを……怖いと思いますか」

 

少しだけ、間があった。

洸は再び空を見上げる。

 

美しく光る星々。

幻想的な光景だ。

 

「思うよ。」

 

意外なほど、あっさりとした返答だ。

 

「だから無駄なリスクは取らない。そう決めた。」

 

視線が戻る。

まっすぐ、乙骨を射抜く。

 

「生き残るために、最短を選ぶ。」

 

 

その瞬間、乙骨の中で何かが腑に落ちた。

 

 

強さではない。

才能でもない。

 

この人は――

 

「……冷静、なんですね」

 

ぽつりとこぼす。

 

洸はわずかに首を傾げた。

 

「そう?」

「はい」

 

迷いはなかった。

 

「五条先生よりも、ずっと」

 

一瞬だけ、風が止まった気がした。

 

 

「――ははっ!」

 

 

洸は小さく笑う。

どこか、納得したように。

 

「それ、悟兄に言ったら怒るよ」

「言いません!」

 

即答。

そのやり取りに、わずかな温度が戻る。

 

 

「でも、いいよ」

 

洸は缶を片手に、ゆっくりと歩き出す。

月明かりが照らされた暗闇の中へと、ゆっくり。

 

「その理解、間違ってないと思う。」

 

振り返らずに、続ける。

 

「派手に勝つのは兄さんの役目。

 私は――」

 

赤い瞳が振り返る。

 

「負けないように、終わらせるだけ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「"悟兄のために"」

 

 

┈┈┈

 

 

さらに夜は更けていく。

 

その境界で、乙骨はひとつ理解した。

五条悟とは違う、もうひとつの"最強"。

 

それは、声を荒げることもなく、

ただ静かに――勝ち続ける存在だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

――時は戻り、

都内某所 トンネル内。

 

 

┈┈┈┈┈

 

 

 

湿ったコンクリートのにおいが、肺の奥にこびりつく。

閉ざされたトンネルの中、音はすべて歪み、遅れて、重く返ってくる。

 

靴底が擦れる音。

呼吸の乱れ。

そして、血が落ちる微かな滴りさえも。

 

薄暗い照明が、ところどころで瞬いていた。

その下に立つのは、禪院直哉。

 

肩で息をしながらも、その目だけは、爛々と獲物を捉えて離さない。

乱れた髪の隙間から覗く瞳は、疲労よりも苛立ちと愉悦に濁っていた。

 

「――まだやるんか」

 

吐き捨てるような声。

しかしその声音には、わずかな掠れが混じる。

 

対するのは、2人。

 

ひとりは、血に濡れた腕を押さえる脹相。

もうひとりは、壁に手をつき、呼吸を整える七海。

 

「……当然です。」

 

七海が短く答える。

その声は低く、しかし確かに芯を持っていた。

 

上着は裂け、普段の整然とした姿は見る影もない。

だが、眼差しだけは変わらない。

冷静に、ただ、敵を測る。

 

脹相はゆっくりと顔を上げた。

口元に滲む血を拭いながら、直哉を睨む。

 

「お前は……ここで止める。弟の為に。」

 

その言葉と同時に、

トンネルの空気がわずかに震えた。

 

次の瞬間――

直哉の姿が、消える。

 

 

「「……」」

 

2人は警戒を強める。

直哉からの術式の開示はない。

分かることは"速い"こと。

 

七海はある程度理解はしていた。

過去、学生時代に京都校と交流会を実施した時。

圧倒的なスピードの持ち主であることは覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

「"遅いわ"」

 

「!?」

 

七海の耳元で囁く声。

衝撃音が、遅れて爆ぜた。

 

七海の身体が横に弾き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられる。鈍い音が何重にも反響し、空間を揺らした。

 

「七海!」

 

脹相が叫ぶ。

だがその声さえも、どこか遠くに聞こえる。

 

直哉は立っていた。

まるで最初からそこにいたかのように。

 

しかし、その足元には――確かに血が落ちている。

 

一滴、また一滴。

 

疲弊しているのは、誰の目にも明らかだった。

 

それでも。

 

「……はは」

 

直哉が笑う。

息が乱れ、肩がわずかに上下している。

 

「おもろいやん、お前ら」

 

その笑みは、歪で、狂気に満ちていた。

 

崩れかけた照明が、再び明滅する。

そのたびに、3人の影が伸び、重なり、切り裂かれる。

 

逃げ場のないトンネルの奥で、

戦いはまだ、終わらない。

 

 

――終わらないはずだった。

 

 

 

「うっ……おぇッ…」

 

刹那、直哉はその場に膝をつき、激しく吐血し始めた。

 

 

「ッ……はぁ、はぁ」

 

突然のことだった。

まるで何かに侵食されたように、体が言う事を聞かない。

 

「……悪いが、兄弟を愛せなかったお前の気持ちは分からん。」

「……ッ…」

「想い人さえも、真っ当に愛せないお前の気持ちは理解できん。」

 

脹相はそんな彼の元へとゆっくりと近づく。

トドメをさそうと集中力を高めていく。

 

「…………っ……」

 

七海はそんなふたりをじっと見つめていた。

割れたコンクリートの壁から身を離し、壁に沿いながら歩く。

 

 

その時、もうひとつの気配を感じた。

向こう側からこちらに近づく黒い影。

その人物は"何かを抱えていた"

 

 

 

「…………な……」

 

迫る足音。

七海はトンネルの灯りに照らされたその人物を把握した瞬間。声にならない音を喉から漏らした。

 

 

 

「ん?」

 

脹相は背後に振り向く。

しかしその瞬間、猛烈な一突きによって体が吹き飛ばされた。

 

「なっ!?」

「脹相さん!」

 

傍らの柱に体をぶつけ、一瞬で意識を失う。

七海は精一杯体を動かし、必死に直哉とその人物の元へと向かった。

 

 

「……"辛そうですね?直哉さん。"」

 

乙骨憂太。

そして彼が抱いていた人物――

 

 

 

 

「……ぐっ…………お前……なにしてん……!」

 

「七海さんもお辛そうですね。」

 

「ぁ……」

 

虎杖はズルズルと引き摺り。

洸は左腕で抱えるように抱きとめていた。

 

乱暴に虎杖をその場に放ち、力なく倒れる。

そして洸を横抱きにすると直哉を見下ろした。

 

力なく垂れた腕。

揺れることのない瞳。

まるで眠っているようで、しかし決して目を覚ますことのない静けさ。

 

「うっ!おえっ!ごほっ……」

 

直哉は激しく吐血した、

脹相の赤血操術の血液を肉体に入れたことによって体が拒絶反応を起こしていたのだった。

 

 

 

「治しましょうか?僕の反転術式。人も治せますよ?」

 

乙骨は手元に呪力を集める。

 

その時、七海は容赦なく乙骨に襲いかかった。

 

「――!!」

 

しかし、疲弊した七海が乙骨に敵うはずもなかった。

脹相と同じく一撃を喰らうと、そのままトンネルの奥へと吹き飛ばされ意識を失う。

 

 

「……なんや……お前……仲間ちゃうんか……ッ」

 

乙骨の非道な行いに直哉でさえ恐れを感じる。

そして何より、洸の生死を按じ、必死に体を動かす。

 

 

「……お前……洸に何したんや……」

「殺しました。」

「はぁ!?」

 

もう抗う力はない。

自らも命を落としかねない現実に、酷く恐怖をおぼえた。

 

そして同時に、項垂れる洸を前に絶望していた。

 

「直哉さん。今から僕が言うことをお願いしても良いですか?」

「お前ッ…殺」

 

「"虎杖君の死と洸先生の死をあなたの口から上に報告してください。"」

 

直哉は、一瞬、理解が追いつかない。

 

「……なに、言うて――」

 

言葉は、続かなかった。

乙骨の視線が、落ちる。

 

ただそれだけで身体が凍りついた。

喉が締まり、呼吸が止まる。

 

――逆らえへん。

 

理屈ではない。

本能が、拒絶する。

 

この男に逆らうことは、死よりも確実な"終わり"を意味すると。

 

直哉の視界の端で、洸の顔が揺れる。

 

穏やかで。

綺麗で。

そして――動かない。

 

「……いいですね?」

 

もう一度、同じ声。

静かで、冷たい。

 

それがどれほどの意味を持つのか、直哉には理解できてしまった。

 

――全部、終わりや。

 

自分の敗北も。

この場の戦いも。

 

ぐしゃり、と。内側で何かが潰れる感覚。

 

「……っ」

 

声にならない音が漏れる。

 

悔しさか。

恐怖か。

それとも、理解してしまったことへの絶望か。

 

わからない。

 

ただ、目の前にある現実だけが、どうしようもなく重かった。

 

乙骨は動かない。

洸を抱いたまま、ただそこに立っている。

 

まるで、その時間ごと抱え込んでいるかのように。

直哉は、震える指で地面を掴む。

 

爪の間にコンクリートの欠片が食い込む。

それでも、何も掴めない。

何も、変えられない。

 

「……分かった……」

 

かすれた声が、ようやく絞り出される。

 

その瞬間。

自分が何を口にしたのかを理解して、

胸の奥が冷たく沈んだ。

 

完全な敗北だった。

 

戦いでも。

力でも。

存在そのものでも。

 

トンネルの奥で、照明がひとつ、消える。

 

闇が、じわじわと広がっていく。

 

その中で、

直哉はただ、動けずにいた。

 

 

 

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┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

 

 

 

 

 

"赫眼"の誕生

 

 

 

 

 

 

 

障子越しに、灯りが揺れていた。

 

湿った空気の中、産声がひとつ、鋭く響く。

それは祝福というよりも、何かを告げるような、不吉な響きを孕んでいた。

 

「……赤い瞳……嘘でしょう!?」

 

震えた声が、部屋の空気を裂いた。

 

布団の上で上体を起こしかけた母親が、産婆の腕に抱かれた赤子を見つめている。

その瞳は、恐怖に歪んでいた。

 

「奥様、どうか……落ち着いてください」

 

産婆たちは慌ててその肩を押さえる。

だが、母親の視線は逸れない。

 

赤子の瞳――

 

それは、確かに"赤"だった。

 

濁りのない、深く、異様な赤。

生まれたばかりの柔らかな身体には似つかわしくない、どこか意志を宿した色。

 

「こんなの……こんなの、呪いの――」

 

言い切る前に、産婆のひとりが強く首を振る。

 

「そのようなこと、決して――!」

 

だが、その言葉さえも、空虚に響いた。

 

赤子は泣いている。

けれど、その瞳だけが――静かに、周囲を"見て"いた。

 

まるで。

理解しているかのように。

 

 

「……騒がしいわね。」

 

部屋の外。

廊下に立つひとりの女が、その騒ぎを静かに見据えていた。

 

腕の中には、小さな子ども。

白い髪に、澄んだ"青の瞳"

 

五条悟は、何も知らぬまま、その胸に抱かれている。

 

「……呪いの赫眼……ね」

 

低く、冷えた声が落ちる。

 

母親の悲鳴。

産婆たちの制止。

そのすべてを、まるで他人事のように聞き流しながら。

 

女は、障子の向こうへと視線を向けた。

 

「……呪いの子。生まれたばかりの子に向かって、随分な言い草ね」

 

腕の中の悟が、小さく身じろぐ。

その気配に、女はわずかに視線を落とし、再び前を見据えた。

 

「記憶を持つこともある。そういう"器"として生まれる子もいるのよ。」

 

淡々とした声音。

だが、その言葉は、部屋の中へ確かに届いていた。

 

「自分の子に、呪いなどという言葉を向けるのはよしなさい」

 

ぴたり、と。

内側の声が、一瞬止まる。

 

 

「…………」

 

その少し後ろ。

 

影のように立つ男が、静かにその光景を見つめていた。

 

五条悟と、そして――生まれたばかりの赫眼をもつ赤子の父。

 

何も言わない。

ただ、その瞳だけが、すべてを受け止めている。

 

騒ぎも。

恐怖も。

そして――あの赤い瞳も。

 

やがて、男はゆっくりと息を吐いた。

 

否定もしない。

肯定もしない。

 

ただ一つだけ、確かなのは。

――この子は、普通では終わらない。

 

障子の向こうで、再び赤子の泣き声が響く。

 

その音は、どこまでも澄んでいて。

同時に、どこか遠く――底知れないものを孕んでいた。

 

 

┈┈┈┈┈┈┈

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