次を走らせたらダメだ――
その思いが先行して、僕は彼女を連れ出して遠い場所まで逃げてしまった。
あれから十年。いまだにその時のことを悔やみ続ける僕に、彼女がかけてくれた言葉とは。みんなの記憶に残るように、そう意識して二人で歩んできた結果は。
※「pixiv」にも掲載しています。

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Frame【アストンマーチャン】

 全て、衝動的だった。

 

 今でも時々夢に見て思い出す。あの春の日、二人で逃げ出していなければ、二人でレースを続けていればどうなっていたか。あの時の自分の状態を考えれば選ぶはずのない選択肢に、十年経った今も悩まされ続けている。

 

「ことしも……桜、見れましたね」

 

 桜は日本中のみんなの記憶に残るものだから。そう言って、彼女は毎年の花見を欠かさない。春の嵐でどれだけ早く散ったとしても、一番見頃だという日に突然僕を連れ出しては、家族4人でお花見をする。ここ十年、ずっとそうだ。

 

『少し早いですが……でも、しょうがないのです』

『だから、さようなら』

『……マーちゃん、信じてますから。あなたがいれば、アストンマーチャンは消えないということ』

 

 出会った時から、彼女は不思議な雰囲気をまとった子だった。誰かの記憶に残ることをいつも考えていて、「アストンマーチャンがいた記憶」を作るための努力は惜しまなかった。協力できることなら、何でもした。それでもどこか、歯車が少しずつずれていっている感覚があった。

 

「次は、スプリンターズステークスに」

 

 春という季節を迎えれば、必ず体調を崩すのに、病院に行ってもどこもおかしなところが見つからない。病院でお医者さんの診断をもらっても、少しも安心できなかった。それは目の前に映り込む彼女が、どう見たって辛そうだからだ。何が彼女をそうさせるのかは分からない。トゥインクルシリーズが終わり、引き続き走ることを選んだ彼女を見ていて、思った。

 

 

次を走らせちゃ、ダメだ

 

 

 レースの前後には必ず病院に連れて行って、どこか悪いところがないかを見てもらっていた。たとえ彼女自身が体調に問題はないと言い張っても、僕の独断で連れて行った。そしてあの日。僕の中で明確に、ぷつん、と何か切れた音がした。

 

「おや、お出かけですか?」

「……」

「ずいぶんと、遠出をしそうな予感がします」

「……」

「トレーナーさん?」

「……」

 

 そのレースの直前にあった夏合宿で、彼女の体に異変が起きていることは分かっていた。次のレースを走ってしまったら、もう二度と走れなくなってしまうだろう。根拠はなかったが、確信に近い思いがあった。当時はまだまだ新人トレーナー寄りで、彼女が初めて担当するウマ娘だったというのもあるだろう。レース本番の数日前の朝、僕は彼女を連れ出して電車に乗った。どのレース場に行く電車でもない、全く知り合いのいない場所に逃げた。最初の方こそそわそわして、しきりに僕の方を覗き込んでいた彼女だったが、二本か三本電車を乗り継ぐ頃には何も言わなくなってしまった。彼女はただ、窓の外の知らない景色に見とれるようになった。

 

『出奔ッ! 君にこれほどの行動力があるとは驚いた! しかし、我らがトレセン学園はいつでも君の帰りを待っているっ!』

『気持ちが落ち着いたら、いつでも戻ってきてくださいね。アストンマーチャンさんを、よろしくお願いします』

『またメシ奢ってやるよ。お前の愚痴くらい、いくらでも聞いてやるからさ』

 

 二人きりで逃げ出して一か月も経つ頃には、もう罪悪感でいっぱいになっていた。ちょうど、学園での知り合いから手紙が届いた時期と被っていた。一か月くらいはとてもじゃないが冷静に周りを見ていられないと、思ってくれていたのだろうか。ウマ娘のレースとは縁もゆかりもない場所に連れてきておいて、それは僕の勝手な判断が全てであって、彼女の親御さんにすら何も相談していなかった。その時僕たちがどこにいたかは、僕たち以外に誰も知らなかった。

 

「なるほど、なるほど。これが駆け落ち、というやつなのですね」

 

 それでも、僕は帰れなかった。帰りたくなかったわけではない。みんなが優しすぎるほどだったから、きっと帰っても労われるだけで、お咎めはなかっただろう。けれど帰ったら、みんなが走りたい、勝ちたいという思いでいっぱいな世界で彼女はまた揉まれることになる。トレーナーの独断で彼女だけ走らないということはできないだろうし、彼女自身が走りたくなってしまうだろう。それはウマ娘である以上、必然だ。

 トレーナーになるにあたって、ウマ娘についてそれはもうたくさん勉強した。彼女たちが6年かけて学ぶことをもっと凝縮して詰め込んだ。だから知っている。G1レースで祝福を受けるウマ娘はほんの、ほんの一握りであって、重賞に手が届くどころか未勝利戦すら勝ち上がれない子が山ほどいるということを。その名前を知られる機会すらない子が、山ほどいるということを。

 

「トレーナーさんと駆け落ちなんて、それはそれはすごい記憶になるでしょう、うんうん」

 

 彼女にすらそうやって慰められた。僕の隣にいる時はいつもにっこりしていたが、それがどこか影のあるものだったことは分かっている。右も左も分からない場所で二人きりで暮らしてゆくなんて、不安以外に何があるというのか。

 彼女は一度、みんなから忘れかけられたことがある。G1という大舞台で勝ったのに、その日一番目立ったウマ娘であるはずなのに、インタビューさえされなかった。それがなぜかは分からない。でもふとした瞬間に忘れられて、名前を言っても思い出してもらえないことが起こり得るのだと、僕たちははっきりと恐怖を覚えた。そして何らかの理由で走れなくなったら、彼女ですらも埋もれて忘れられてしまうと思った。だから逃げた。そうやって言い訳はできるけれど、結局レースの世界を裏切ったことに変わりはない。

 

「あぁ、こらこら。ひと様のおうちのワンちゃんに抱き着くんじゃありませんっ」

「はぁーい」

「おや? ……どこかで見たことがあると思ったら。アストンマーチャンじゃないか、あんた」

「……ッ!?」

「いやあ懐かしいなあ。ウオッカにダイワスカーレットにアストンマーチャン。あの時がわしの中で一番ワクワクしたってもんよ」

「ひ……人違い、では?」

「いいやあんたは間違いなくアストンマーチャンだ。ほら、ここに王冠をつけてだな、ちょいと赤い勝負服を重ねりゃ……」

「ちょっとあなた。お二人さんが困ってるでしょう」

 

 元気に辺りを走り回る息子が散歩中のワンちゃんに頬ずりを始めたので止めに入ったら、連れていた老夫婦に声をかけられた。アストンマーチャン。その名前を、僕と彼女以外の口からずいぶん久々に聞いた。

 

「マーちゃんを、覚えてくれているのですか?」

「そりゃもちろんだとも。あんなに目立つウマ娘、忘れるわけがなかろうよ」

「このお人形さんに、見覚えは?」

「あぁ、懐かしい。おい婆さん、この人形がうちにも一つあったんじゃないか」

「……あら、ええ。ありましたねえ……けど真史(まさふみ)が持ってったでしょう」

「ああそうだった。それ、今でも売っとるか?」

「……っ! は、はい……!」

 

 覚えてくれている人がいた。僕は何も言えなかったが、それは驚きのあまり言葉がうまく出てこなかったからだ。この十年間、ずっと僕は自分の起こした行動を悔いていた。誰も僕たちを知らない場所に逃げてきたことで、本当に忘れられてしまったのではないかと。冷静に考えれば当たり前のことなのに、あの時はレースから離れることの方が大事だと思っていた。

 

 

『アストンマーチャンです。よろしくね』

 

 

 二人きりの暮らしに慣れても、マーちゃんが大人になるのを待ってプロポーズしても、男の子と女の子一人ずつの子宝に恵まれても、脳裏にはいつも罪悪感があった。だがマーちゃんが手に持っていたマーちゃん人形を老夫婦に譲り、二人が去っていった後僕に見せた笑顔が、どれほど僕を救ってくれたことか。

 

「マーちゃんを覚えてくれている人は、たくさんいます」

「……っ」

「マーちゃんはトレーナーさんに感謝しなければいけません。だって、絶対にマーちゃんのことを忘れないでいてくれる人が、二人もいるんですから」

 

 マーちゃんは、相変わらず桜並木の下で駆け回る家族二人を慈しみに溢れたまなざしで見る。僕もつられてそちらに顔を向けた。そうだ。僕はこんなところで過去を悔いて、落ち込んでいる場合じゃない。これからどんどん大きくなってゆく息子たちに、お母さんがすごいウマ娘だったんだと教えてあげなければならない。そうして、「アストンマーチャン」の記憶は受け継がれてゆくのだから。

 

「僕は……救われていた、のかな。ずっと……」

「トレーナーさんはマーちゃんを救ってくれたので。そのお返しなのです」

「……っ!」

「お久しぶりに、トレセン学園へ帰ってみませんか。今なら……こんなに立派になりました、なんて二人、いえ四人で言えると思うので」

「…………ああ」

 

 マーちゃんが先に立ち上がり、僕に手を差し出す。もうためらわない。進んでその手を取って立ち上がり、笑顔を向けることができた。

 

「帰るぞー」

「「ええーっ」」

 

 十年間、家のクローゼットの奥に押し込んでいた段ボールがある。開けるだけで当時を思い出す品の数々。久々にみんなで開けてみようと、僕はそう思えた。


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