“哀しみの子”を意味する名を持つ騎士は、今日キャメロットから旅立つ。―――否、お仕えする主への離反。騎士を止め、ただの吟遊詩人として旅歩くのだ。
人としての悩みを抱えながらも王は王としての活動を止めなかった。それ故に、アーサー王の統治は完璧である。それはもう、恐ろしいぐらいに。王としては至高の存在であることも理解はしていても、愛の吟遊詩人には耐えられなかった。
人の愛と情を尊んだ男であったために、人としての在り方を捨てた主君の考え方は到底許容できるものではなくなってきてしまった。おそらくは騎士という役柄も、きっとトリスタンとは相性が悪かったのだ。
「王には人の心が分からない」と言って、ケイ、モルドレッド、ベディヴィエールを筆頭とした騎士たちからしっぺ返しを喰らったが。それでも、考え方は変わらなかった。
―――命ばかりに目を向けて、そこにあった愛を切り捨てたお方。
―――命ばかりに目を向けて、そこにある愛を顧みぬお方。
―――国ばかりに目を向けて、そこにあるべき愛を注がぬお方。
アーサー王なりの愛情であると頭のどこかで理解を示しながらもトリスタンには、目に見える、確かな愛情が必要だった。
騎士の忠義よりも友愛を尊ぶ人情家が本質であるからか、愛情に関しては敏感な方であると自負するトリスタンは、何よりも不貞隠しの兜が取り払われた尊きお方の面立ちを感じさせる顔をちらと見た。彼は、”モルドレッドの境遇”がとても嫌なものだと思ってしまったのだ。
普段は物静かだが、その実結構な皮肉屋である。だからこそ、幾度となくアーサー王へ話題を振ってみたり、モルドレッドへアプローチを仕掛けてみたりしたが、モルドレッドが健気であることしか分からなかったことも拍車にかけた。
王や民を裏切った彼は男としての人生を終えた彼は今ではブリテンの外側で異形と戦う最前線に身を投じ続けており、かつての王妃はそんな彼の側で花を咲かせる乙女に返り咲いている。家臣としてはそんな彼をどうかと思う反面、今も愛情に生きる彼らのことはトリスタンの中では善きものであった。
トリスタンがその思いを抱え、行動にうつしたのは、我らが王が神の力を揮われた直後のことであった。すでにギネヴィア王妃はおらず、ランスロットも不在のキャメロット。顔が露呈しても変わらぬモルドレッドへの信頼、信用、情。だからこそ、気が緩んでしまったのだろう。
”彼らのように誰かの目も気にせず、ただ愛情を貫く姿”があって良いと思ってしまったのだ。
他でもないモルドレッドの不興を買い、言わせてはならないことまでもを王の口から引きずり出した結果として、失敗してしまったのだけれど。
「モルドレッドには、言わないでくださいね。…きっと気にしてしまいますから。」
「……相変わらずですね、卿は。」
此れよりトリスタンは敬愛する王の下より離反する。彼はまさしく、トリスタンがかつて思い描いた理想の王だった。
その行き先に思い込みはなく、また、偏りなく。行く先を見据え。何を選び、何を捨てるのか。数多の選択肢が差し出される中、何事も公平に物事を見定めて。円卓の名の通り、臣下の忠言を能く聞き入れ、しかし好悪に足を取られず、誠実に判断してくださるお方だ。
選び取る重圧を、重みばかりが増す責務を他者に押しつけず、己のものと理解し、白亜の城のように崩れることの無い立派なお方。物語に登場するような、清廉潔白にして公平無私。そんな理想を体現した夢のような王だ。
「私は騎士として王に仕え、故に戦いとあらば王に命じられるままに剣を抜く。……今でもその思いはありますが、……ええ、迷ってしまったのです。」
どれほど美辞麗句で飾り立てたところで、人々の情を斬り捨てねばならぬのがトリスタンの知る戦争というものである。血を血で洗うばかりの日々は心を擦り減らす。この身は騎士である前に人であり、非情に傷付く心があることをトリスタンは感じていた。
同胞たちの崩れ落ちる慟哭と嗚咽、希望が崩されるたびに響き渡る民の悲鳴と苦悶。耳を塞ぎたくなるほどのそれは、人の倍は優れた聴覚を揺さぶり続け。―――とうとう耐え切れなくなってしまったのだ。少し前のことも、トリスタンの心に影を落としたというのもあるのだけれど。
王の命によりとある村を放棄することが決まった日。城下町は不安と怒りで横行した。当然のことだった。あれではただの破棄ではなかった。
異形の化け物がそこに巣を作り、繫殖したことがランスロットの調査で判明した為、それらを一網打尽にする為にかつての文明を焼き払うことを決定したからだ。かつての故郷だから、と自ら志願したまだ若いと部類されるような騎士。キャメロットから遣わされた騎士がその指揮を執った。燃え尽きた村を見る目は何処か遠く。
その直後に異形の化け物の生き残りはいないかという探索が始まり、その過程で焦げて崩れた家の下から見つかった、避難当時には持ち出すことが出来なかったという民の宝たち。
死した身内の、友人の、―――愛する人の遺品が、黒く煤けた何かとなって。あのまま村に滞在していたら、異形の化け物に襲われて何もかもが奪われてしまったことを、誰もがきっと理解していた。だが、同時に納得は出来なかった。
異形の化け物の手によって故郷を失うのならばいっそ救いがあった。化け物を恨み、怒り、悲しむことで、心を奮い立たせることができるからだ。
怒りは原動力になると何処かで聞いたことがある。それにトリスタンも理解はあった。だが、実際に村を焼き、故郷を奪ったのは誰か。
ブリテン島で明日を共する同胞であり、彼らが滅ぼしたのは自ら志願したとは言えども己の故郷であり、そんな忠実な彼らの故郷を灰にせよと命じたのは他でもない、かの王だった。轟く批難の嵐を受けながら王は表情を一つも変えず、次なる命を下す。村を燃やすのは円卓の騎士が一人、ガヴェインへ任命した。
それは、おこがましくもトリスタンが感じられたアーサー王が抱えられる”唯一の人間性”のようだと思った。円卓の席は十三、座る者の間に序列はなく、それは王であっても変わりない。故に、円卓の騎士こそは王の名代であり、円卓の騎士の行動はすべて王の責だと民に顕示される。
たとえそれが、民の愛した村を焼く悪逆非道なことであったとしても。王はすでに憎悪を向けられることを容認し、騎士たちの非道の行いはすべて己の所業に等しいと認識し、仕えられるべき家臣からの懐疑的な眼差しにも威風堂々を受け入れる姿勢をとられたのだ。
王が常人とはまるで異なる精神の持ち主であったなら、トリスタンは此処まで悩まず、なにも考えぬまま耐えられた。しかし、そうではないのだ。
「”アルトリウス王は”心ある王であり、私たちと同じように苦しみ悲しまれる方だ。」
「ならば何故、あのようなことを口にしたのです!」
「ええ、ですから、―――”王には人の心が分からない”のです。」
ガヴェインの剣は太陽の一振り。浄化の輝きであれば、少なからずは報われるだろうとわずかばかりの、唯一覗かせることのできる民への深き愛情だった。けれど、彼は王だ。島を、国を、守護する王であることを選び取ったアーサー王なのだ。
それでもまだ、人として在ろうとするから。王にすべてを押しつけのうのうと無恥を晒す己の醜悪さにも、それを当然と認める王の在り様にも。耐えられなかったから。
「それを己の弱さだと言うか、トリスタン。」
「モルドレッド卿……!?」
それは、何処か穏やかで、咎めるような声ではなかった。キャメロットの外を駆け回り、安全を保護するモルドレッドの兜のない顔を見るのは久しぶりのことだった。
彼の隣には、愛馬の魔鳥が細く鳴き、主を案じるように身を寄せていた。何処か怪我でもしたのだろうか。否、また倒れたと聞く。具合の方かもしれないと顔色をよく見ようとして、燃えるような焔の瞳に囚われる。諦めを抱かぬ決意を宿した瞳だった。
ブリテンの頂点を無垢なる子どものように夢を描くお方だと言うのなら。アルトリウス王が人でありながら、
「今更どのような顔をして、かの王へお仕えせよと言うのです…。私は、私たち騎士は、最も王を傷つけ踏みにじった存在であるというのに―――ッ!」
モルドレッドの問いを受け、トリスタンはわらう。己の愚かさを自嘲するような笑みだった。断頭台のうえの罪人のように項垂れるように地面へと視線を落としたトリスタンは、血反吐を零すかのように否定する。
「……そうか。聞かせてくれる曲はほとんど哀しい音色だったけど、たまにどんでん返しの入った楽しいのも弾いてくれたよな。」
「モル―――ッ!」
アーサー王の面影を感じさせるその顔は、鮮明に行くなと訴えかけながらも無事を祈るのが紅瞳であること以外は、悲しみを耐える王と同じ
「アンタと過ごせた日々は、俺にとっても、大事なものだった。ありがとう、トリスタン。……それじゃあな、友よ。どうかお元気で。」
トリスタンが手を伸ばしきるよりも早く、モルドレッドは踵を翻す。キャメロットの中へと消えゆく背中を負うことも出来ず、ただ茫然と見送った。
沈痛な表情のベディヴィエールを見つめても、すでに円卓を離反した身であるからか、彼はトリスタンに何も教えてくれなかった。現状で比較的に安全な場所を記した地図を選別に渡したベディヴィエールもまた、トリスタンの旅の無事を祈る。離反を示した彼を除き、続けられた会議で決定した未来があるのだ。
それはまさしく彼が言ったように、人の心を持たぬ王となるだろうものだったから。トリスタンがそれを知るのは、きっとすべてが終わってからのことだろうから。
ベディヴィエールと掴み合いの喧嘩になって、人の血肉が通った手で散々殴りつけたのに、それでも離反の意思を変えなかった彼は、未だ王を理想として崇めるから。
様々な思いを抱えてベディヴィエールは、ただ友の背を見送った。あの幼き友の覚悟も、変えられなかったことも騎士らの心に影を落とした。
―――神槍を持った王の側に、私をどうかお置き下さい。
―――この身に変えても、必ず止めます。
空に浮かぶ輝かしき星のような瞳で、純粋なまでの感情を奮い立たせて。あの子は断言した。曇天が立ち込める空を見上げ、ベディヴィエールは瞳を伏せた。
「ああ、暗い。これでは星が見えなくて当然ですね……。」
雨が降った。全身に鉛がうち込まれるかのように重たく、冷たい雨だった。
―――…
そうしてしばらくして、トリスタンの恋物語を風の噂で入ってくる。
遠く離れた地で、彼はひっそりと針仕事で生計を立てる”白の手”を持つ女性と湖のような清らかな恋に落ちたのだと伝え聞く詩で知った。彼は悩みながら愛する人と同じ名の、かつて愛した”金の糸”を持つ女性を心の傍らに寄せることを告げ、それでも、トリスタンはしっかりと”白の手”の彼女と愛を育んだようだった。
異形の化け物たちが跋扈する世界では娯楽が少なく、奏でられる琴の音色から紡がれる物語こそが唯一の休息。紡がれる恋物語は、トリスタンからのわずかばかりのメッセージのようにも思えてベディヴィエールはひっそり微笑み、王へお伝えした。
そうか。と言葉短く相槌を打ち、細められた翡翠が伏せられる。アルトリウス王は、そうやって情景を焼き付けてから瞳に幸福を閉じ込めて微笑まれるお方なのだ。
民の幸せこそ我が事のように感じる王は、そうして笑みを浮かべられる。他の誰がなんと言おうと、そんな王にお仕え出来ることこそが、ベディヴィエールにとっての幸せで。その
「だから、私は最後まで王のお側に。」
「っふ、だろうな。」
(―――…あ、…っ)
その彼の表情を見て、ベディヴィエールは思わず声が零れそうになった。二人は一秒たりとも逃さんとばかりに瞬きすら惜しみ、彼を見た。
ケイもベディヴィエールと同じ気持ちなのだろう。片手で表情を隠すように口をおさえて、それでもモルドレッドのそんな表情を凝視していた。きっと王を間近で見て来たものならば誰でもそのような反応をするはずだ。
緩やかに細められた紅の瞳は久しく穏やかな色を宿してベディヴィエールの瞳から表情へ。そうして友の様子を焼き付けるように、相手に緊張を感じさせぬような日差しを感じさせる暖かな眼差しでじっくりと見たモルドレッドは、そのまま紅を瞼の奥へ閉じ込めて笑みを浮かべた。
幸せを眩しそうに見つめて微笑むモルガンのようであった。けれども、幸せを閉じ込めるようにして微笑む姿は―――まるで、それは。そのお顔はベディヴィエールが愛する笑みだった。
いつも、あなたは兜の下で、そのように笑みを浮かべられていたのですか。っこんな、まるで、最期のような、だからこそ見せてくださったのでしょうけれど。倒れて、運び込まれて、ちょっと話をするつもりだったのに。だからこそ、ベディヴィエールもケイも、あんまりだと思った。彼は運命を”受け入れた”のではなく、未来を”己で定めた”のだ。
「だからこそ、俺が出陣する意味がある。」
次の瞬間には開かれた紅は鋭く研ぎ澄まされて、空を見上げる。睨みつけるような眼差しは、そこにおわす神をうつしているのだろうか。
空には一部だけ清々しき青が広がる場所があった。唯一、聖杯探求の旅より生還したボールス卿の報告によれば、ガラハッド卿が天に召された場所だ。そして、パーシヴァル卿は悲しみの中に頽れた場所でもあった。
「あの人を神の代弁者から引きずり降ろし、ただのアルトリウスに。……―――きっと俺が生を受けたのはそれが理由なんだ。」
お仕えする王を相手にこのような考えは不敬ではあるんだろうが。と前置き一つ。細めた瞳はそのままに、誰だって、自分の家族には幸せでいてほしいと願うなんだろう。だなんて。
アルトリウス・ペンドラゴンへ忠誠を誓ったあの日のような無垢さを変わらず残した声色で、決して身内であることを認めぬままモルドレッドは言ったのだ。
無垢なる願いを抱えたまま神への叛逆を己の
故に、アルトリウス王に使える騎士であるベディヴィエールは彼の祈りを否定することが出来なかった。どんな結末を迎えようとも、王道歩まんとする弟を見守ることを誓ったケイは彼の気持ちを否定など出来るはずもなかった。
「ありがとう、ベディヴィエール。俺の友人、ベディ。」
「ありがとう、ケイ。あなたの甥となる者は、きっと幸せだろう。」
最期であることを肌身に感じているのかモルドレッドの口は些か軽い。人前ではちっとも認めなかったくせに、そんなことを言った。こんなときばかり弟も甥も家族の情を口にするのだ。
ほろほろと涙を流すベディヴィエールをうらやましく思ったが、きっとケイにはあんな繊細な泣き方は無理だろう。心の中でケイは悪態をつき、熱くなる目頭を押さえた。深呼吸をして、感情を抑制する。そうしてケイは、生意気な、このやんちゃ坊主め。と言って、星のような柔らかな髪を撫でまわした。
ケイの手のひらの下で目を白黒させるモルドレッドの、この無防備な姿はもう見られなくなるのだと。刺し貫かれるような痛みを胸に感じながら、ただこの子どもを撫でまわす。―――モルドレッド、17の年であった。