束の間の休息。筋肉痛を乗り越えて、魔術回路とやらも正常になり、さあやっと訓練できるぞと意気込んだ翌日のことであった。
来る日も来る日も勉強尽くしであった立香の脳は、とうとうキャパシティーを越えた。ぐるぐる目を回したまま机に額をくっつけてとっくの昔にさっぱりわからんと悲鳴を上げて戦略的撤退を胸に踵を上げたり下げたり続けた理解力が、ようやく限界の文字を叩きつけたのである。
一般人の少年なのだから当然の結果と言えるだろう。むしろ、限界を訴えてくれてよかったとレオナルドは言った。しかしながら、ロマニやカウンセリングを担当する職員は、疲弊具合の自覚が遅れていることを深刻に受け止める。和気藹々とした空気に流されがちだが、決して忘れてはならぬ事実を職員に通達した。
冬木の時点で発覚したことで、何よりも代えがたき不名誉な事実である。マスターナンバー四十八番。個体名・藤丸立香にとっては、
献血の現場で声を掛けられたかと思えば組織にポイッと放り込まれて、自分の置かれた状況が分からないなりにも帰るために適応しようとした矢先に気づけばテロに巻き込まれて、地獄に叩き落されたかと思いきや世界の滅びを背負わされ、戦場の最前線に立たねばならない。
踏んだり蹴ったり。理不尽の連続に、思わず稀代の天才も顔を引きつらせる。その渦中に居るのがぽやぽやんとした雰囲気の少年なのだから、余計に。
「まあ、休憩も大事だからね。観測は進んでいるし、ゆっくりしてくれたまえ。」
七つのうち一つの特異点を修正することが出来た喜びを得たことにより、カルデア職員の焦燥感や絶望に塗れた気持ちにも、周囲に目を向ける程度の余裕が出来た。
そして、もう次の特異点を発見したが故に、連続して働くことは無茶であり無謀なことであると騎士王のカリスマにあてられ、不眠続きだったロマニ・アーキマンも休息を得ることに。
俺もちょっとだけ休もうかな、と立香も冗談めかして言った瞬間のことであったので、人類最後のマスターの称号に合わせて気を張り続けていたのは事実であろう。
北欧に伝わるルーン魔術の一つ。対象の身体活動を低下させる魔術は、魔力の密度が高いものは弾丸並みの威力を持つと言う。支援に活かせるかも、と意気揚々と取得に励んだ末、覚えられたんだよと見せてくれたのはオタマジャクシの下手っぴな泳ぎのようなひょろろろろ~……とした呪いの塊であったのだけれども。
魔術師界隈の一歩を踏み出してしまったこともであるのでよかったねえとも、相手の動きを止めるとは言えども攻撃魔術に当たるので平和な立香が習得できたことをよくやったねとも、言えず。期待にキラキラと空色の瞳を煌めかせる少年を前に言えたのは。
「ドクター! ドクター見て見て! 僕ガンド撃てるようになったんですよ!」
「ええっ、すごいじゃないか立香くん!」
「えっへへ、まだ塊にするの安定してないんですけどね。生き残るためにちょっとでも隙を作れたらって思って、キャスの兄貴に手伝ってもらってるんです。」
生まれて間もなきバブちゃんが、周りの手を借りながらもよちよち歩きを始めたような。立香が知れば頬を膨らませて拗ねるだろう感動を得て、称賛の嵐を吹かせることであった。
それが功を奏した。
立香はロマニ・アーキマンを信頼できる大人として目を向けて、その日のうちに出来たことや出来なかったことの報告を重ねる。
報告を受けるたびに「どうして毎回ボクに報告するんだろう。マスター情報を管理し易くて助かるけど。」と魔術師ならではのヒトデナシな感性を覗かせることもあったし、<直感>持ちたちはなんとなしに気づきはしたが、立香の少年らしさに絆されてお茶会の最中にロマニの方から進捗を聞くようになったので花の魔術師よりもマシと判定を食らっていた。
一時はマシュの情緒教育を若干促そうとした甲斐はあって、ヒトデナシの気配を一切外に漏らさなかったことも加点対象である。
アルトリウス曰く、たらればの話になるのだけれど、その気配がバレたときに自分の姉が居たらきっと理想郷の守り手であるがゆえに苦手な属性なのに彼女の中では最大火力を引き出せる炎魔術で焼かれてただろうとマリーンの話題を出したのが後押ししたのかもしれない。
「ふふ。ガンドの魔力操作が出来るようになったからって大はしゃぎして飛び出すとは、流石のボクも予想外でしたよ。 まあ、でも、良かったですね、光の御子。」
「あん?」
「彼はおそらく宝石魔術が得意であることも判明しましたし、収穫は大きかったでしょう?」
頼れる大人として。そう、頼ってもらえたことがうれしくて。肉体労働派ではなけれども少年を持ち上げて運ぶ程度には力はあったので。
労わりながらベッドに運び込んで再び管制室に戻ったロマニは、そんなことを話し合う英霊たちの姿を見た。にこやかな笑顔の小さな英雄王に光の御子は表情を引きつらせ、あの魔術は妙な記憶を思い出させるとぼやく。
宝石を用いた魔術を<宝石魔術>と言うのだが、少年英雄王がそれを言うとどうしたってかつてランサーとして召喚され、戦った冬木の聖杯戦争を思い出す。英霊召喚は、英霊の最盛期が招かれると言うのであれば知名度も関係する以上、剣士としての知名より因果の槍の知名が勝る以上ランサーとして召喚されるはずなのだ。
因果の槍とクー・フーリンは切っても切れぬ繋がりで、あの時代にキャスターとして召喚されたのは誤った記録であり、ゆえにあの場で
それに、―――どうにもマスター運に恵まれず、良い女を救えたような朧げな記憶がある。何故だか知らんが、あのいけ好かない赤い外套の弓兵が毎度のことながら登場し、何故だか毎回敵として顔を合わせるのだが。もう運命を感じるが、その運命を嫌だと思う。個人的にああいったガキは苦手なタイプなのだ。
まったくもって素直じゃねえ。可愛げもねえ。だが、正義の味方に憧れを持ち、英霊に対しての尊敬が伝わってくるガキみてえなところもある。
そういえば、アイツもなかなか損な役回りをしていたような―――いいや、自ら嫌われたとしても救える命があるならばそれで構わなかったのか……? ああ、分からん。
打って変わって。顔をしかめてばかりだったキャスターの霊基で召喚に応じた英霊は、爽やかな風に吹かれたかのような声で言う。
今回のマスターは、まるで一般人のようだったのが成長したと言えるだろう。魔術師としては人の心を持ち過ぎだが、その当たり前を捨てようとせずに自分らしく在らんとする少年の姿勢は好ましかった。恐らく、あのライダーのサーヴァントに鼓舞されたのが効いたんだろう。土壇場でも挫けず、むしろ強気な姿勢を見せたのだから。―――いいことだ。
当たり前の優しさを持ち、当たり前の感性を持ち、その年頃には当たり前の性質の少年。世界を背負うには小さすぎると感じるほど弱かったはずの背中は、フランスの戦争を乗り越えたことでやや頼れるようになりつつある。
マスターとしての自覚も出てきたようだし、魔術を習う姿勢も素直で、従順で、懸命で、ほぼ専門外と言えども、土下座されてまでは断り切れなかった。命令すりゃいいのによ、と笑ったキャスターに向かって緋色の瞳をゆるりと蕩けさせた少年英雄王が言う。
「それがあの子の善さでしょう。」
「違いねェ。」
いざ教えてみると飲み込みは遅かったが、それ以上に根性がある。粘って粘って、転がされても粘り続けて、ようやくガンドを習得した努力は褒められるべきだ。
そう思ったのでクー・フーリンは飛び出す彼についてきた。彼は誰に褒められて喜ぶのか、それを確認したかったからだ。誰を、何を、心の支えにしているのか見定めるために。授業のあとの褒美があれば何倍もやる気が出るだろうと。
結果。
ぴょんぴょん子犬のように跳ねて喜ぶ立香を穏やかな表情でロマニ・アーキマンが努力を肯定するように頷き、すごいねえと微笑む平和な風景を見た。
「俺はな、安心したんだ。」
「えっ、」
ひたりと色の異なる二人の赤き双眸に捉えられたロマニは、肩を揺らして動揺した。どちらも知を宿した瞳である。管制室に戻ってきたことを気付かれはするだろうけれども話しかけられるとは露ほども思ってみなかったのだ。
「あの坊主は、縋る相手を、頼る相手を、ちゃんと
生きてる人間に手を伸ばせる奴は、生きる気力があるやつだ。遥かなる栄華などを求めず、細やかな平和を求めて。絶望しながらでも周りの人間を忘れずに明日に進もうって気概で踏ん張れるやつなんだと晴れやかな顔で笑った。
あの坊主が聖杯を握って願いを掛けるとしたら、本当にささやかなことだろうよと。世界を助けてだなんて漠然とした言葉を願う輩でもないだろう。冬木にあった大聖杯とやらの効果が心の奥底に宿った願望を引きずり出すと言うのであれば、本当にあの少年が欲にまみれた魔術師ではなくてよかったと思う。
そんな話をした次の日には、ピンピンとした立香に振り回される兄貴肌の英霊の姿があった。今まで使ったことの無かった魔術回路をフルで行使したことによる疲弊も重なったのだろうとレオナルドは言って。
小ちゃな子どものように「みてみてー」と寄ってくる姿に、コロッと靡く。あくまでもチョットカワイイかもー、と思う程度である。生粋の魔術師たちの中にしか召喚されることのない英霊たちからしてみれば可愛らしいもんだ。微笑ましそうに魔術を習得した少年を褒めそやす。美女からの絶賛にえへえへと分かりやすく照れてはにかんだ少年は、書籍を抱えた後輩を発見するや否や形を作れるようになった魔術を見せに行った。
次は強化魔術と応急手当を覚える予定なのだと言って。―――言ってから、それから立香は腕を組みながらムッと表情を強張らせる。ウムムと難し気な表情をして、眉を落とした。魔術師としてはどっちから覚えるべきだろう。
狼狽えるマシュに気づき、立香はすぐさまへにゃりと柔らかな笑みに変える。マシュの怪我を手当出来るように医療魔術を覚えるべきだろうか。怪我をする前に敵を無力化できるように火力を高められるようにするべきだろうか。
ずっと。素人なりにもずっと悩み続けて、考えて。一旦は足手纏いのレベルを下げるべく、逃げるための術としてガンド習得に取り掛かったのだけれども。
「たくさんのことを覚えようと頑張る姿勢、流石です。でも、先輩、小さな事からコツコツと、ですね。一歩一歩、着実に前進していきましょう。」
鼓舞するように両手を握り前のめりの姿勢で応援してくれる後輩の姿に、立香は肩から力をやんわりと抜き、マシュが好ましく思うやわらかな笑みをこぼした。
「……一緒に、だもんね?」
「! はいっ、一緒に…!」
初心者だけれども。
まだ入門したてなのだけれども。
「初心に帰るぞ―――!」
「お、おー!」
「走り込みだ―――ッ!」
「先輩、それならわたしもご一緒できます!」
「よーし、それじゃあシミュレーションルームまで競争だよマシュ!」
「はいっ!」
競争の勝敗が決まるのは早かった。魔術師としてフィールドワークを想定した鍛え方を続けて来た少女に勝てるのは、きっとオリンピックの選手ぐらいだろうと此処に追記しておく。
しかし、英霊たちは少年の気概を良しとした。折れかかったし漠然とした表情もあった。だけれども、どれだけ差が開こうとも、決して諦めずめげずに走り続けた子どもの背中を。英霊たちは、
願わくば。―――そう、願わくば、幾度となく迫りよる特異点への旅路の末に待ち構える少年と少女の未来が、束の間の休息で見せてくれた穏やかなものでありますように。