早朝、砂浜に字を書いた。プリクラの落書きみたいに適当に書いた。どんな言葉だったかはあんまり覚えてない。でも他愛のない言葉だったと思う。
「一生一緒宣言」とか、「大親友」とか、「マブダチ」みたいなバカみたいなのだ。
書いてた時は楽しかった。砂浜に字を書いてた時、私達の中にあったのは、無だった。これが夢だったらいいみたいな願いじゃなくて、連続した感情だった。寄せては返す波みたいに規則的で、流れ星のように一抹のものじゃない。
これが当たり前。
それが当たり前じゃないと知ったのは、昼頃だった。
早朝に訪れた砂浜に、昼また行った。そこに書いた字はなくて、代わりに深い海があった。
「消えちゃったね」
カナンが言う。
「そうだね」
私が返した。
「なにが?」
セーラが首を傾げる。
白波が私達を呑み込まんと迫る。けどそれは堤防を越えられず、衝突音だけを残して消える。その場に飛沫散って、きらきら輝く。
私が堤防に座る。
「濡れるよ」
「いい」
淡い水色のスカートが潮風に当てられ、太ももを浮かび上がらせた。そこに飛沫が降りかかって、私は濡れる。ショートカットの髪に、海水がかかる。スカートの水色が鼠色になる。
「ばかじゃない?」
セーラが顔を顰める。
「いつものことじゃない。もう行きましょ」
カナンは肩を竦めて、セーラの手を引きその場を去った。
あとには私と、海だけが残される。
世界には無駄な物が溢れている。例えば御寿司に入っている緑色の葉っぱ、鼻の下のくぼみ、印鑑、読まないのに買われた本、やらないのに買われたゲーム、売れ残ったおにぎり。そして砂浜に建てられたお城。
砂上の楼閣。いつか消えてしまうものの例え。いつか消えてしまうなら、初めからなくてもいいのに。けど、人はなぜかそれを創ってしまう。
楽しかった学生時代の記憶とか、旅の記憶とか、恋人との日々とか、バーで出会った女性との一夜とか、そういう物は全部、夢みたいなもので、時という波が押し寄せればひとたまりもなく消えてしまう。
儚いからこそ美しいのか、美しいからこそ儚いのか。日常に美しさがないのは、ここに肝がありそうな気がする。
逆に言えば、日常に美しさがないからこそ、特別な記憶がより美しいのかもしれない。梶井基次郎が『桜の木の下には死体が埋まっている』で描いたように、鮮烈な生のイメージは死という負のイメージによって際立っていく。
ならば、私の日常は死んでいて、特別な日は生きているのか。
それも違う気がする。
そして、こんな事を考えている時点で、私は死んでいる。
波が寄せて返す。私の体を濡らしていく。友人は去って行った。明日も学校で会うけど、もしかしたらこれで最後かもしれない。実はカナンは難病を抱えていて、明日突然死ぬかもしれない。
実際はピンピンしてるけど、もし死んだら、こんな退屈な日も素晴らしい記憶になるんだろうか。
分からない。
多分一生分からない。これから先も、こんな死んだ記憶を積んでいく。積んで流されていく。そこに意味はない。楽しい記憶という刹那的な快楽に踊らされ、麻薬患者みたいに金を集めて、そして死んでいく。
私はそうやって生きていく。
満潮に近づいて、波が一層高くなる。ひらりと堤防から飛び降りる。じゃぱんという音が辺りに満ちた。飛沫が思いきり飛び散った。
さっきまでいた堤防に、私はいない。人魚姫みたいに泡になって消えたから。
結局、人の存在そのものが砂上の楼閣なのだ。