「さぁ見に行くか、この俺を呼ぶ男の顔を」
利用客でごった返す空港に一人の男が降り立った、凡庸な出で立ちに凡庸な顔、だが見る者が見ればその目と全身から放たれるただならぬ雰囲気に気が付ける。
男の名は春草、手に持つは一通の封筒、そこに書かれたるは“風”の1文字。
封はすでに開けられている、春草は音もなく歩き出した。
プロトタイプ
妄想短編 “ミノル vs 春草”です
“風を操る男”と“風の様に動く男”を対決させるのです
夜の街並み、人々の往来は消え失せ辺り一帯を闇が支配する、差し込む月明かりは雲に遮られず驚くほど明るく、息を呑むほど美しい。
コンクリートの地面、塔の如く立ち昇るビルの群れ、その下を走る道路を通過する車は無く、辺りの民家の窓から漏れる光は絶えて久しい。
その街の、その日の夜は風が吹いていた。
力強く何もかも吹き飛ばすかの様な風が。
触れるもの皆切り裂く鋭利な刃物の様な風が。
音もなく静かに肌を打つ洗練された動作の様な風が。
体温を奪い去る何処までも冷たい殺気の様な風が。
あらゆる側面を内包す様な風が吹いていた、まるで恐ろしい何かの始まりを予感させる様に。
輝く月が見下ろす街に二つの風が交差し吹き荒れる。
その街に二人の男が立っていた、この街に吹く奇妙な心地の風はその男達を中心として吹いていた。
灰色の地面の上で向かい合う二人、周囲は静まり返っている、だがその場に充満した剣呑な気は言葉よりも遥か雄弁に男達の目的を語っている。
この男達が顔を見合わせてからたっぷり十数秒の時が流れていた、そして男達が静かに口を開く。
「幽玄死天王が一人、“疾風の春草”だな」
会話を始めた男、短く刈り揃えた短髪と一切の無駄無く発達した肉体を持つ、シャツの袖から見える二の腕は野生の肉食獣が如く強力にして靭やか。
その顔は若くとも、鋭く引き締まった歴戦の闘者のそれ、だが何処か清廉な印象を受ける、広大な草原を吹き抜ける爽やかな風の様に。
男のシャツの背には風の1文字が大きく描かれていた。
「あぁ…そういうお前は 覇生流 “風のミノル”」
答えたもう一人の男、色褪せたコートを身に纏う中年の男、一見すればくたびれた様に見える印象も男の顔を見ればかき消される。
有り触れた顔のパーツ、その中に無視できない力を帯びた眼光を放つ両目があった、目に見えぬ恐ろしい何かを幻視させる不気味な夜風の様な。
その目はひたすら静かに前に立つ男を見据えていた。
男達の正体は武術家であった、それもただの武術家では無い、双方共に歴史の裏で人知れず受け継がれた古流武術の使い手、その中でも特異な戦闘能力を有する達人であった。
「すっぽかしを食らったらどうしようかと思ったぜ」
多くの門弟を持つ覇生流にて最強と呼ばれる男、風のミノル。
「そんな無粋な真似はしない、俺だって真剣に武術を修めた身、このご時世に“こんなもの”を寄越されれば無視は出来ねぇよ」
幽玄神影流の門弟の中でも選ばれた精鋭、幽玄死天王の一人、疾風の春草。
「悪いねぇ、いきなり背後からってのは俺の好みじゃないんでね、わざわざ足を運んでもらった」
「へっ、別にこっちはそれでも構わなかったぜ」
春草が手にしていた紙の封筒を投げ捨てた、封筒には大きく果たし状の文字が筆で描かれている、封は開けられ中は既に確認済みだった。
「俺と戦り合いたいのか、風のミノルよ」
「まぁね」
「覇生の当主、御狐四人衆とやらの命令か?」
「いいや違う、俺一人が望んだことだ」
「両流派が合併する前…アンタら幽玄が灘神影流と戦ったのは知ってる、伝説となったあの当主対決の前にもバチバチに殺り合ってたらしいじゃねぇか」
「そうだ…それがどうした」
「いやね、かく言う俺も灘神影流とは何度か戦り合ってんだよ、キー坊は勿論、“静かなる虎”宮沢静虎、“怪物を超えた怪物”宮沢鬼龍、噂によればあの“バトル・キング”も灘神影流の血族だったと聞くじゃねぇか」
「俺にとっちゃどいつもこいつも乗り越えたい高い壁、そんな時だ、流派同士の争いでその灘神影流と互角に渡り合ったアンタ達幽玄の存在を知ったのは」
「へーっ、それで?」
「アンタ達とも戦いたくなった、武闘家の血が滾るってやつだよ、俺にとって灘神影流はライバル見てぇなもんだと思ってた」
「それがもう一つ増えた気分だ、嬉しいぜ、世界にはこんなにも強い奴等がいる、それを思うだけで心が昂揚しちゃうね」
「へっ、そうかい……面白い奴だな、風のミノル」
「灘狩りの末に幽玄と灘は新たな道を切り開いた、後は俺達も退屈で幸福な日常に戻るだけだと思っていたが…」
「どうやって調べたか知らんがブラジルの家まで果たし状なんか送り付けやがって、最初は死天王の誰かかと思ったぜ」
「期待を裏切っちゃったかな?安心してくれ、ここからガッカリはさせねぇよ」
「そうでなきゃ困るぜ、愛する妻ともっと愛する愛人との時間を使ってまで日本に逆戻りしたんだ」
春草がコートのポケットからゆっくりと両手を引き抜く、だらりと脱力したその腕に少しずつ力が込められていく、戦闘の始まりが近いことを予感させていた
「覚悟があるなら来やがれ、風のミノル」
「おうよっ、“相手を滅してやむ無し、己が滅して悔い無し”ってなあっ!」
張り詰めた両者の闘気が遂に爆発する、風のミノルが春草に向けて突貫する、鍛え抜かれた全身を使っての高速の移動、風の名を関する二人の武術家の決闘が夜の街中で人知れず始まった。
「風を名乗る者同士、胸を借りさせて貰うぜ!先輩よおっ はーっ、覇生流“風神脚”!」
一瞬にしてミノルが春草の間合いへと侵入、そのまま跳躍からの変則的な蹴撃を見舞う、それは覇生流の技に見られる風の要素が色濃く表れていた。
力強い蹴撃で巻き起こした突風がその破壊力を数段引き上げる、単純な現象たる風圧を攻撃に転用する、覇生流が得意とする秘伝の技。
ミノルの風神脚が春草の顔面に迫る、そしてその蹴撃が春草のこめかみを横合いから打ち抜いた。
そう思われたその時、奇妙な事が起きた。
「なにっ」
風神脚は当たっていた筈だった、ミノルの蹴りが春草の顔面を通過した、そう、何の抵抗も無く、衝撃を生み出すこともなくすり抜ける様に春草の頭部を“通過”したのだ。
「ばあーっ」
蹴り抜いた体勢をすぐさま戻せば目の前には既に春草の顔面が突き出されていた、下を目一杯伸ばした挑発の表情を浮かべている、その顔面には痣一つ無い。
「チィッ」
ミノルも気圧されず反撃に出る、プロボクサーのジャブの速度で繰り出されるコンビネーション、だが一撃の威力は渾身のストレートにも勝る。
しかし春草もまた一歩も引かずに連撃を捌く、最小の力で攻撃の軌道を逸らして無効化、辺りに空気を震わせる空砲の様な音が鳴り響く。
「おおおおっ」
「おっ?」
連撃から途切れのない動作で放たれるミノルの回し蹴り、速度、威力共に間違いなく達人級のそれ、春草の胴体を正確に捉える。
捉えた筈だった、またもや如何なる訳か春草の胴体を抵抗なく通過する、体が両断されたわけではない、一瞬その様に見えても流血は起きてない。
煙を穿つ様に手応えの無い感触、改めて見ても春草の肉体はそこにあった、間違いなく足が胴体を通過した筈なのに。
「おいおい、もしかしてアンタ、幽霊なのか?」
説明の付かない現象に流石のミノルにも動揺が奔る、一滴の冷や汗が頬をつたり、目の前にたつ不気味な中年男性が人の姿を借りたもっと恐ろしい何かでは無いかと言う嫌な想像が侵食してくる。
「ククク、“幽”玄だからな」
「見えぬ物を見せる、見えている物を見えなくする、お前は既に幽玄マジックに嵌っているぜ」
対する春草は戦闘開始と同様にただその場に立っていた、ほんの僅かな笑みを浮かべ立っているだけのはずが、その全身からは不穏で危うい気配が放たれている。
「幽玄マジック?」
「そうか、それを聞いて安心したぜっ」
だがミノルにもう動揺は無かった、春草の不気味な笑みを打ち消さんとする様に、不敵な笑みを見せる。
「なに?」
「アンタが本物の幽霊や超能力者ならお手上げだがそうじゃない…マジックってのは人間がする物だろ」
「そのすり抜けが幽玄の技なんだ、まだ原理は解らんがアンタも生身一つの人間だってことだ」
「それなら戦える」
「なるほどな、気圧されるほど腑抜けじゃないようだな、面白い…やって見せてもらおうか」
「おう、意地とプライドってやつを見せてやるよっ」
再びミノルと春草がぶつかり合う、今度はミノルだけでなく春草も高速で接近し、速度を乗せた攻撃を相手めがけて打ち込んだ。
「幽玄真影流“朦朧拳”」
ミノルと激しく拳で打ち合う春草が幽玄の秘技を発動させる、それは目の周辺視野を利用した妙技。
独特の体術で焦点から高速で外れることで相手の視界に非常に高度な残像を生み出す、相手から見れば入れ替わりのタイミングは認識できず、見えている筈の敵はもうそこにはいない。
回避に使わば妖術の如く敵を翻弄し、攻撃に使わば回避不能の絶対的破壊の拳を生む、まさしく幽鬼の如き幻影となる。
(朦朧拳は目に映る全てを欺く、回避は不可能)
加えて春草は朦朧拳を極めた末、それぞれが独自に朦朧拳を進化させた幽玄死天王の一人、残像の精度と発動の速さ、特に圧倒的なまでのスピードに関しては他の死天王すら及ばない。
誰にも捉えられない、故に付いた異名が疾風。
「その身で味わいやがれっ、幽玄の技を!」
突進と同時に発動する朦朧拳は比類無き凶悪さを誇る、飛び込んでくるその姿は既に幻影、回避も防御もカウンターも無意味、ただ意識外から来たる魔拳に打ち砕かれるのみ。
だが覇生の風もまた強く吹き荒び、幽玄の疾風に対抗する、ミノルが新たなる技を繰り出した。
「アンタの実力は解った、全力でぶち当たらなけりゃ勝てない強敵だとな!しゃあっ 覇生流 “砂塵の障壁” 」
ミノルが振り上げた腕を追う様に凄まじい突風が巻き起こり、その風はやがてミノルを中心として渦を巻き、その名の示す通りのドーム状の風圧壁を展開した。
「なにっ」
突如目の前に現れた純粋なエネルギーの突風、生物ですらない立ちはだかるそれの前では朦朧拳の幻影も意味を成さない、突進する春草の足が止まった。
「幽玄の朦朧拳!やはり原理は解んねぇがとにかく高度な残像を生み出す技法と見た!」
「生身で食い止めるのは無謀でもこうすりゃ幻もクソも関係ねぇっ そして砂塵の障壁からの…」
ミノルが障壁越しに右腕を大きく背後に振りかぶる、腰に捻りを加え全力を持ってその手を突き出した、覇生流の秘技にして風のミノルの代名詞となる技。
「食らえーっ 覇生流“風当身”だあっ」
ミノルのその腕から今でのとは比べ物にならない猛烈な破壊的風圧が解き放たれた、それは障壁の風も取り込んでその先の春草を激しく撃ち抜いた。
「ぬおおおっ」
風当身とはその名の通り風圧を飛ばすことで飛び道具が如きリーチの風の打撃を生み出す、その局所的な風圧は避難警報クラスの台風すらも超える。
ミノルの放つそれは常人が受ければ内臓破裂で即死、鍛え上げられた達人とて防御が間に合わなければその身は粉砕される。
「ぬうっ」
春草の体が吹き飛ばされる、数メートルは押し退けられた後、力強く浮き上がった足を地に突き立て、それでも尚後退は止まらずコンクリートの地面に擦り合わされた靴底が不快な音を立てる。
後退をようやく止めた春草の風当身が直撃した腹部からは煙が上がる、瞬間的に凄まじい風圧を受けたコートは所々が破れかかっている。
「これが覇生流“風当身”、中々効くだろ」
「あぁ、骨身に滲みたッ」
しかし春草もまた並の存在では無い、風当身を受けて尚、膝を付くことも無く立っている、俯けた顔を上げればその両目はより鋭くミノルを睨み付けていた。
春草が放つ気の中に僅かながらにも混じっていた油断の様な感情がこの時完全に消滅した、それに比例して尋常ならざる闘気が冷徹に燃え上がっていた。
「へっ、そう言いながらもほぼ無傷じゃねぇか」
「全く嫌になっちゃうぜ、直前に気膜を張ってガードしたな、アンタ程になればそのくらい訳ねぇって事か」
「お前の方こそよく朦朧拳に対処が出来たな」
「へっへーっ、初見じゃあ無いんでね」
「なんだと?…いや待てよ、覚悟さんと宮沢熹一の戦いを知っていると言う事は」
「正解 しっかり見させて貰ってたぜ、全国に中継された幽玄の大将とキー坊の決闘はな」
「なるほどな、俺達死天王すら上回る朦朧拳を既に見ていたと言う訳だ、果たし状なんか送っておいて予習は万全ってか」
「こう見えて好きな言葉が努力と根性なんだよ、一度ぶっ倒してぇと思った相手の分析は怠らないぜ」
「アンタはもう俺のミノル・ノートに名前を描かれている…疾風の春草、悪いがジャイアント・キリングさせて貰うぜ!」
「良いぜ、なら一人の武術家として敬意を持ってお前を粉砕してやるよ、風のミノル」
再び辺り一帯に充満した殺気と闘気が熱を持って大気を震わせる、両者の肉体に力が漲った、それを解き放つ一瞬をただひたすらに待つ、永劫とも思える数秒が両者の間に訪れる。
その刹那の内にミノルの脳内では次の最善手を探り当てんと目まぐるしく思考の渦が発生している。
(とか大見得を切ったはいいけど…)
(あーっ、やっべぇな、鬼龍のオッサンも大抵ぶっ飛んでたがこっちのオッサンも怪物だ)
(さっきの朦朧拳を止められたのは初見の技を奴が警戒したのが大きい…一度見せた技が通じるほど甘い相手じゃねぇだろうな)
(虎の子の風当身もアッサリ防がれちまった、アレでKO勝利のつもりだったってのによお)
(…でえーっ、何を躊躇ってんだ!自分から喧嘩売っといてたたら踏むなんていくらなんでもダサ過ぎるだろうがよ、えーっ!?)
「策がねぇなら全身全霊でぶつかるだけだあっ」
永劫の刹那を最初に破り動いたのは風のミノル、両腕を引いた姿勢で春草目掛けて突貫する。
「その構えは風当身だな」
「おおっ御名答よお!読み合いなんて関係ねぇ!」
春草の間合いの外から放つ風当身、それは変わらず破壊力を持った風圧の大砲となって春草に迫る、だが死天王随一のスピードを持つ春草からしたら一度見た技をただ使われるだけでは脅威にならない。
「勝負を捨てたかっ」
風当身が放たれた時には既に春草はそこに居ない、残像が空へと溶け込む前に回避不能の位置まで潜り込む、体感的にはそれは瞬間移動の様に感じるだろう。
春草は既にミノルの背後に居た、滑り込む様な姿勢からすぐさま当たれば一撃必殺の拳撃を放とうとしている。
「背後に来るのは読んでいた、こっちが本命よ!」
そしてミノルが回し蹴りの要領で背後へと素早く横薙ぎの風神脚を繰り出した、猛々しい音を巻き立てて豪脚が迫るもやはりそれは当たらない。
「甘いな、これじゃただの繰り返しだぜ」
春草の言葉通り、最初の攻防の再現の如くミノルの風神脚は朦朧拳の実体無き残像を通過するだけ、春草の頭部がその実体を取り戻す頃には既に攻撃は終わってしまっている。
そして春草の攻撃が遂にミノルに届いた、一撃で肉を潰し骨を割り内蔵にまでダメージを届かせる本物の武術家の拳打。
ミノルの空いた胸横に春草の拳が食い込む、その一撃はミノルの胸骨の一部を破損させた、拳が命中した箇所から鮮血が滲み出でシャツを赤く染めていく。
「はうっ」
「クーククク、残念だったな」
「む、無念……とか言っちゃって…じ、実はこれが狙い通りだったりしちゃって…」
「なにっ」
食い込んだ春草の拳をミノルの左腕が掴み上げた、そのまま骨を握り砕かんばかりの全力の力で締め上げる。
「無傷で勝つ気なんかハナから無いんだ…苦しいだろうが覚悟の上なんだ……幽玄捉えたり、ってなあっ!」
「これが狙いか!」
「おうよっ、好きな言葉は努力と根性よ!」
「超至近距離からの…風当身連続打ちだあっ」
春草の顔が焦燥に歪む、ミノルは甚大なダメージにより口から血を吐きながらも猛々しく吠える、体に残された全てのエネルギーと力を最後の技として放出した。
「うおおおおおっっ」
「ぐうううっ」
残った右腕一本による風当身の連続打ち、至近距離で繰り出される風当身の破滅的連打、だが当然体力の消耗は非常に大きい、ミノルの屈強な右腕が悲鳴を上げる。
筋繊維が千切れ、心臓は痛いほど脈動し、眼の前の景色が霞んでくる、それでも止めない、掴んだ唯一の勝機に食らいつく。
禁断の風当身、七度打ち。
「ハア…ハア…あううっ」
恐るべき暴風の乱れ打ちが終わりを迎え、ミノルは全ての力を使い切って倒れ伏しそうになる、ふらつく足を何とか堪えて、掴んでいた左腕を離して数歩後退する。
肩で息をし全身が雨に打たれように汗で濡れている、上昇した体温で体からは湯気が上がっていた、何よりも脇腹の負傷が深刻だった、たった一撃であろうともそれが春草の実力を物語るのに充分だった。
「き、記録更新…&、逆転勝利ってとこか…」
完全に満身創痍、だがあれ程の攻撃を受け続けたなら相手はそれどころではないダメージを追っているに違い無い、己の勝利をミノルは確信する。
脳裏に浮かぶ静かに倒れていく眼の前の春草、その光景を見るべく視界を上げたそこには、信じ難い光景があった。
「悪くなかったぜ、風のミノル」
春草は立っていた、ズタズタになったコートと裏腹に出血も疲弊も冷や汗一つ無い、無表情でミノルを見据えていた。
「……マジかよっ」
ミノルの顔に引き攣った笑みが浮かぶ、これも朦朧拳の幻影であることを期待したがいつまで立ってもその姿が空に溶ける事はなかった。
春草の腹部のコートと下のシャツまでくり抜かれた様に破れている、そしてその奥から無傷の腹筋が覗いていた。
「な、何なら殺しちゃったとすら思ってたのに…無傷って…また気膜か…?」
「それだけじゃ無いな、実際今のは焦ったぜ」
「幽玄真影流“象塊”だ」
「ぞ、象塊…?」
「自分の体重を自由に操作する技が幽玄にはある、死天王の中じゃ鼬の奴が得意だったな、勿論俺も習得している」
「体重操作の技って…ま、まさか」
「あぁ、体重を極限まで軽くし抵抗を減らす、そしてスリッピングアウェーの要領で受け流す、それでも残るダメージはお前の言う通り気の防御で軽減させた」
「ば、馬鹿な…片腕を掴んで…至近距離から何度も打ち込んだってのに…しかもただの殴打じゃない風圧を…」
「俺は“疾風”だからな、風と俺は一心同体よ」
ニィーという文字が浮かんで見える程に不敵な笑みを春草が見せる、それはその発言が虚勢やハッタリでは無いことを物語っていた。
「へ、へへへ…あぁ、そう」
「それならここから本当の逆転勝ちを…」
「いいや、今度は俺が技を見せる事になっている」
それは一瞬にも満たない時間だった、春草の姿が僅かにブレてミノルには見えた、それが朦朧拳による攻撃の始まりを意味している事は認識できたがその先の反応が間に合わなかった。
パァンという乾いた音が刹那の間に数回詰め込まれて鳴り、屈強なミノルの体が宙を舞う、そして仰向けに倒れ伏した、ミノルの意識が追いついたのはその後。
もう立ち上がれない程のダメージを受けた後だった。
「…ゥ」
「目の玉と喉と金玉を潰して、“四玉突き”だ」
それは春草が最も得意とする打撃の技、死天王随一のスピードを駆使した恐るべき正確さの四連撃、人体の急所とされる箇所に打撃を叩き込むと言えば単純だが春草のスピードと朦朧拳が合わされば回避不能かつ必殺の魔技と成る。
ただでさえ重症を負ったミノルが四玉突きを受けて立つ力など残っている筈も無い、決着であった。
二つの流派の風がぶつかり、片方の風が止んだ。
「俺の勝ちの様だな、風のミノル」
「…か、完敗か…」
もはや死に体と呼ぶべき有り様でもミノルはまだ意識を失っていなかった、喉へのダメージでその声はノイズが走った様にしわがれていた。
「驚いたな、まだ意識があるのか」
「へ……手加減…してたくせによ…」
「目も…喉も金玉も…完全に潰れてねぇよ…」
「いや…それ以前に…風当身を躱し…背後を取った時点でアンタは…俺を殺れた筈…だぜ」
「殺しても…いいんだぜ…俺はその覚悟で来た…」
「…まぁ、確かに手加減はしたな」
「だが勘違いするな、お前を見下しての事じゃない」
「なら、何故なんだ…?」
「ふむ…そうだなあ…」
「…風のミノルよ、お前は今の世に殺人術など必要あると思うか?俺達が吐いた血を飲み下す思いで受け継いで来た武術を、今の世界は必要としていないんじゃないかと思った事は無いか」
「あーっ?…どういう意味だよ…」
「例えそうだとしても…そんな現代でも技術を継承し生きていく道があるんじゃねぇか、血に濡れた技だからこそ別の道を見出す事も可能ではないのか」
「…………」
「まっ、なーんて事を思う時もあるってことよ」
「へっ…答えになってねぇよ…」
「ま、いいや……ならもう一つ聞きたい」
「アンタ…あの鬼龍をブチのめしたって本当か」
「かつて俺は…その男に師事をした…だからって今回の戦いにそれは関係ない…ただ本当なら教えてくれ…」
「あぁ、マジだぜ」
「ボコボコにブチのめしてやった、足腰が立たなくなるまで四玉突きを叩き込んでやった」
「……だが…」
「……?」
「だが勝ってはいない、奴は倒れて俺は最後まで立っていた…それでも俺は奴に勝っちゃいねぇんだ」
「どういう意味だ…?」
「言いたかねぇよ、凄ぇ癪だからな、少なくとも奴の前では死んでも言わないね、それだけは確かだ」
「ふ…そうかい」
「あーっ、でも困ったよなあ…」
「あん?」
「生き残ったってことはさあ…俺ってまた強くなっちゃうよ、これからまだまだ強くなっちゃうね」
ミノルのその言葉には一切の嫌味や卑屈な響きは無く、冗談ではなく本心からその言葉を口にしている事が春草にも理解できた、一瞬の間をおいて春草が小さく笑う。
「はっ、やっぱりお前は面白いぜ」
春草がくるりと背を見せる、戦いは終わった、もはやこれ以上の語らいは両者の間に必要無かった、春草が去り際に振り向かず手を上げて言った。
「また戦ろう、“風のミノル”」
「…おうよ、次に勝つのは俺だ、“疾風の春草”」
夜の街で人知れず起きた双風の決闘は終わりを告げ、しかし後に残ったのは遺恨など吹き消す様な何処までも爽やかで心地の良い風であった。
やがて春草の姿は離れて消えて行き、残ったミノルは仰向けになって天を仰ぐ、その顔は晴れ晴れとしていた。
「負けたぜ…構うもんか、強くなってやるよ」
不敵にして屈託の無い笑みを浮かべる、覇生の風は止むとも淀まず、ミノルの内面を映すように辺りの風も澄んでいる。
「ククク…」
「……さ、動けねぇし…救急車でも呼ぶかな…」
ミノルが見上げた空の彼方からは日の出が照らし始めていた、夜の闇が薄まり、太陽の光が現れる。
二人の武術家の戦いの夜が終わり、新鮮な朝が新たな風を街に吹き込んでいた。