職場体験3日目の夕方。
出久は肩で息をしながらも、まだ自分の足で立っていた。視界も良好、致命的な傷もない。
音を立てて事務所の床に転がった杖をゆっくりと拾い上げたグラントリノは、顎髭を撫でながらにやりと笑った。
「なるほど、まあ悪くねえ」
「ありがとう、ございます」
笑う余裕はない。しかし、出久の代わりに蓮華がうっすらと笑みを浮かべたのを感じる。
蓮華に憑依された状態の組み手で出久はついにグラントリノから一本取ってみせた。それは彼の杖を蹴りで払うという、致命的とは言えない一撃だったが、それでも一撃は一撃だった。
「元の頭がいいんだろう。美珠の嬢ちゃんがアンテナ張って、その情報を全部処理しとる。こりゃ俊典と同じしごき方は無駄だわな」
一線を退いたとはいえ、プロヒーローからの紛うことなき褒め言葉だった。
昨夜、事務所を飛び出してしまった出久に対してグラントリノは何も言わなかった。謝ろうとした出久を制して、彼は一言「余計な口出しをした」とだけ言い残し寝室に消えた。
彼の言うとおり、出久が本気でワン・フォー・オールについて知ろうとするならば、オールマイトのさらに先代について興味を持って然るべきだ。
それなのに、グラントリノはあれ以来ずっと先々代のことを口にしなくなった。
「あとは慣れだな、慣れ。フェーズ2へ行く」
「フェーズ2、ですか?」
「ああ。職場体験だ!」
一瞬あっけに取られたが、出久は職場体験――プロヒーローの日常業務を見学し、さらには可能な範囲で参与することで経験を積むイベントに来ているのだった。
これまでのグラントリノにしごかれていた2日と半日は言ってみれば授業の延長線上でしかない。ここからが本番だ。
「そしたら少年、着替えておいでよ」
「着替えですか?」
「コスチューム。トレーニング用のTシャツと短パンで行くわけいかないでしょ?」
するりと出久の身体から抜け出した蓮華にそう促されて、出久は事務所の風呂場を借りてコスチュームに着替えた。
母が仕立ててくれたもののデザインをベースに、デザインを担当する企業が繊維から装甲までこだわってくれた一級品だ。まだ未熟な卵には過分ですらある。
建付けの悪い風呂場のドアを引き開けると、出久は思わずそのまま固まった。
そこに見たことのない、美しい存在が漂っていたからだ。
「お、おお、お姉さん?」
「なんだよ、少年が着替えるんだからお姉さんだって着替えるに決まってるだろ?」
紺色のリボンが巻かれた、主張の控えめな麦わら帽子。
いつも伸ばした髪はリボンと同じ紺色に白のラインが入ったシュシュでまとめられ、その透き通ったうなじが覗いている。
どこか振り袖を思わせる、ゆったりとしたボリュームのある袖の白いブラウス。よく見ればそれはただの白ではなく、細やかな刺繍によって幾何学的な模様が浮き出ている。
一見清楚な紺のタイトスカートの側面にはスリットが入り、幽霊特有のあったりなかったりする半透明の素足がゆらゆらと揺れている。
美珠蓮華という美が、今、名に違わない華やかさを開花させていた。
「綺麗だ……あっえっ、いまのは違くて」
「へえ、少年にしては珍しく直球で褒めるじゃん。嬉しいよ、ありがとね」
いつもの微笑みにほんのりと照れが混じっていることを見て取った出久は、こみ上げる混乱と恥ずかしさにどうすればいいかわからず、ひたすら言葉を詰まらせた。
嘘をついたわけではない。蓮華は本当に綺麗だ。
しかし、これではまるで自分が浮ついているようではないか。これから職場体験のために外出するのだから、よそ見をしている場合ではないのだ。
「違っ、本当に、その、思わず本音が」
結局、グラントリノのからかい混じりの咳払いで訂正や誤魔化しを挟む余地はなく、出久は甲府駅に向かうタクシーに乗り込んだ。
目的地は渋谷。治安の悪い地域でヴィラン予備軍のようなごろつきを相手に経験値を積むというのがグラントリノの狙いだ。
「新宿行き新幹線ですか?」
「うん。あ、チケット3人分は買わんからな」
「せこっ! いいんですかそれで!」
「少年、こういうのは節約の知恵だよ。今後プロヒーローになったらいっぱい使うんだからさ」
「お姉さんの分のチケット買ってなくて炎上するとか嫌なんですけど僕……!」
そんな他愛ない話をしながらも、出久は友人のことを案じていた。
今頃、飯田は職場体験に励んでいるだろうか。
彼が職場体験先に希望したマニュアルというプロヒーローは、現在もヒーロー殺しが潜伏しているとされる保須で活動している。まさかとは思うが、兄の復讐を考えないと断言はできない。
心配しながらも、出久たちは甲府駅で2人分のチケットを買い、蓮華を出久に格納して新幹線に乗り込んだ。
「……グラントリノ、先々代のことなんですけど」
「気にするな。元々、俺の口出していい問題じゃなかった。
「そうなんですか?」
うむ、と頷きながらグラントリノがシートをリクライニングさせた。小柄な彼がシートを倒すと、自然と視線が低くなる。
「俺が聞いてた限りじゃ、話してても精々が心構えとかそういうところだった。なんだったか……あとは
「自然に?」
「そうだ。俺は結局、そこについちゃ部外者だからな。……それに、あいつも全部を教えきる前に逝っちまった」
「グラントリノ……」
「ま、そういうわけだ。お前は俺が思っていたよりは優秀! ジジイの昔話に付き合わせるよりは実戦だ、実戦!」
短い付き合いだが、なんとなくわかることがあった。ワン・フォー・オールの先々代とグラントリノは、きっと深い関係にあったのだ。
彼の苛立ちは理解できた。出久はその先々代がオールマイトに託した力を継承している。それを蔑ろにするべきではない。
故人であるという先々代。その話をもっと聞かせてもらえるだろうか。
そんなことを考えていた時、出久のスマートフォンが鳴動した。
通知が来ていたのは蓮華用のメッセージアプリだった。幽霊の蓮華は出久の身体を使わなければ生体電気を必要とするタッチパネルの操作ができない。だからスマートフォンを共有し、アプリだけを分けていた。
「あ、ちょっとお姉さんに代わります。……どうもーグラントリノ」
「それちょっと不気味だぞ」
「すみませんね、幽霊なもので。……あ、これ少年にも関係あるやつだ」
蓮華の感覚を通してメッセージアプリの内容を共有する。それは麗日から送られたものだった。
内容はシンプル。飯田に送ったメッセージが既読だけで、返事がない。
飯田はマメな男だ。どんな下らない内容でも、それこそ峰田の猥談でも、既読を付けたら3分以内には返事をくれる。勉強に集中している時を除けば未読無視だってしない。
そんな彼が返信しない状況というのは、確かに不安になる。
蓮華から肉体を返してもらって、自分のメッセージアプリを立ち上げる。出久からのメッセージにも返事が来ていなかった。
飯田がいる街のこと、彼の兄のことを思うと、心配になる。いっそ電話をかけてみるべきだろうか。しかし、今は新幹線の車内だ。
そう悩んでメッセージを送ろうかと考えた、次の瞬間だった。
座席を無視して、蓮華が出久の肉体から抜け出した。ふわりと空中に浮かんだ彼女は、窓の外へ鋭い視線を向けていた。
「これ……来るよ!」
『お客様、座席にお掴まりください。緊急停止します――』
衝撃と、爆風。
それは、高速で走行する新幹線の外壁が圧倒的な暴力によって砕かれた結果だった。
一瞬の沈黙。そして、パニックが広がる。
「脳無!?」
ぽっかりと空いた穴の縁を掴んで立っていたのは、USJを襲撃したあの怪物によく似た化け物だった。
剥き出しの脳、瞼のない目、異常発達した肉体。
出久が立ち上がるよりも早く、グラントリノが個性で脳無に飛びかかった。
「小僧、座ってろ!」
「グラントリノ!」
「……まずい、グラントリノは
さっと血の気が引いた。
脳無は生きた人間ではない。致命傷を受けても死なずに戦い続ける、その事実を知っているのと知らないのでは戦い方が大きく変わってくる。
立ち上がって穴に駆け寄ると、その先には爆炎の上がる街があった。
保須が燃えている。
「……飯田くん」
「――
静かで、少し平坦な声が尋ねる。
出久は学生だ。まだプロヒーローの免許を取っていない。ここで待機しろと言われた以上、待機するのが役目であり、義務なのだろう。それが秩序の下で正義を成す者のあり方だ。
何が正しいかはわかっている。それでも。
「この騒ぎが……ヒーロー殺しによるものなら、ヴィラン連合と手を組んでるってことです。それは、規模が大きすぎる。学生が手を出すことじゃないかもしれない」
「うん」
「でも……友だちが危ないかもしれないのに、止まった新幹線の中で待ってるなんて、できません」
「そうだね」
「だから……
大きく息を吸って、フルカウルを発動する。
進みたい道は見失わない。
しかし、正義を捨てるつもりもない。
それなら、知恵を巡らせるしかない。
「グラントリノに脳無の説明をして、
「わかった、10分……いや、5分で合流する」
駆け出す。
保須の人々も助ける。飯田の安否も確認する。そのためには、単なるバイスタンダーとしてではなく、職場体験の一環としての活動――個性の使用が必要になる。
蓮華は書類上、出久の個性だ。蓮華がグラントリノに許可を取れば、出久が許可を取ったのと同じことになる。
これが今できる最善で、最適の動きだ。
「すみません、通ります!」
人の流れに逆流する。
普段ならばビジネス街として栄えているであろう保須は老若男女を問わず人間で溢れかえっている。このままでは混乱から生じる二次災害の危険性すらある。
立ち止まって避難に協力すべきか。一瞬そう考えた時、出久の耳がその声を拾った。
「――天哉くーん!」
幸いにしてというべきか、出久はローカル局で放送された彼のインタビュー映像を見たことがあった。そのおかげで、声だけで彼が誰なのかわかった。
プロヒーロー・マニュアルだ。飯田の職場体験先である彼がここにいる。
そして、彼が飯田を呼んでいるということは。
「マニュアル!」
そこには地獄が広がっていた。
ガソリンとゴムと金属の焼ける、廃車のにおいが立ち込めている。その中央で、炎が舐めるようにして脳無たちの影を踊らせている。
たち。そう、
もはや一刻の猶予もなかった。
「マニュアル! 雄英高校1年の緑谷出久です!」
「君、準優勝の……!」
「飯田くんが最後にいた地点! 教えて下さい! 救援要請出します!」
「すまない、助かる! ここから西に三本行った通りのスクランブル交差点までは一緒だった!」
「ありがとうございます!」
戦闘を邪魔せず素早く離れる。
本当なら脳無のことを話しておきたいが、USJの事件は一般に詳細が公開されていない。出久一人の判断で複数のヒーローに明かせる情報でもないし、蓮華と違って根拠を示すことができない。
スクランブル交差点まで駆けていった後、出久は必死に考えを巡らせた。
飯田が消えた理由がヒーロー殺しなら、ヒーロー殺しを探せば飯田を見つけられる。
保須で活動しているプロヒーローは多いが、数えられる程度でしかない。そのうち、先程の戦闘現場にいなかった者に絞り込めば、自然とヒーロー殺しのターゲットは見えていくる。
パトロールのルートはSNSやホームページで公開されている記録から大まかに導き出せる。その中で、このスクランブル交差点に近く、ヒーロー殺しが狙いそうな路地裏を通るのは一人。
「こっち……!」
駆けながら、出久は素早くスマートフォンを操作した。今は走りスマホがどうこう言っている場合ではない。
使うのは、防災用に作られた位置情報ツールだ。メッセージアプリと連携して現在地をGPSで一斉送信できる。そしてこのアプリを使うということは、これが救難信号であることを示すことができる。
1-Aの全員に一括送信する。彼らが職場体験先に選んだプロヒーローに伝えてくれれば、プロヒーローはこの騒動と合わさって何かが起きたことを察してくれるだろう。
準備はできた。
「――じゃあな、正しき社会への供物」
「黙れ……黙れ! 何を言ったって、お前は! 兄を傷つけた、犯罪者だ!」
錆びた刃が振り下ろされる、その直前。
「――救けに来たよ、飯田くん」
出久の拳が、ヒーロー殺しの顎を撃ち抜いた。