泣かない赤子だったと、母から聞いた。
言葉でのコミュニケーションが望めない以上、
苦しいとき、嬉しいとき、痛いとき、美味しいとき……生命活動に関わるあらゆるアピールを、俺は行うことができなかった。
魂が抜けているのかと、いくつもの病院で検査を受けた。結果は正常。
食事や排泄は行えるが、感情だけが表に出ない。ただ生きているだけの、赤子。それが俺だった。
本当に苦労をかけたと思う。そんな俺を育ててくれたことには感謝しかない。
俺なんかよりつらい思いをしただろう。マネキンのような子を連れ歩けば、奇異の目で見られるのは当然のこと。表面上では気遣いの言葉をかけられても、裏で何を言われているかなんて火を見るよりも明らかだ。
きっと悩んだはずだ。いっそ無かったことにしたいと、全てをやり直したいと思ったはずだ。
お前さえいなければ、なんて月並みな言葉を、何度飲み込ませてしまっただろう。
だからこそ、次の命を求めることに何の違和感もなかった。
そこにあったのは希望か、あるいは諦観か。
どんな気持ちで子を成したのか、俺にはわからない。少なくとも俺のせいで、夫婦仲に亀裂が入っていたのは事実だ。縋っていたのかもしれないし、全てを諦めた消化試合のような気持ちだった可能性もある。
それでも確かに、俺の妹は生まれたのだ。
久々にみた笑顔の父親に背負われ、母の病室に向かった。
いつものように、父の背中だけを見ていた。目に見える景色がどうでもよかったから。
いつものように、何も喋らなかった。もう声の出し方すら忘れてしまっていたから。
いつものように、父の言葉が耳に入らない。誰かの名を呼ぶその姿は、俺を見ていない証明だったから。
いつものように、期待せずに顔を上げた――その先に。
――小さな笑顔の花と出会い、俺のすべてが始まった。
何が起きたのかわからなかった。母に抱かれる彼女を見た刹那、こみ上げてくる何かを必死に押しとどめていた。
両親が驚いた顔をしていた。そりゃそうだ、今まで何の反応も示さなかった息子が、瞠目しながら固まっている。クソにまみれたオムツをしても泣かなかった赤子が、ただそれを見ただけで感情を爆発させている。
体はずっと震えていた。胸の奥からこみあげてくる感情に、滑稽なほど耐えられない。
この子の為に俺は生まれたのだと、初めての激情が教えてくれる。
言葉にできない衝動に動けずにいた自分に対し、泣き笑いの父が手を伸ばす。俺が彼女に触れられるように、父もまた震えながら、俺の体を彼女へ近づけた。
今にも壊れてしまいそうな、小さな命。
笑っているのか寝ているのか、もはやわからない。赤子の俺でも、その命を奪うには十分すぎるのだと悟った。
絶対に傷つけないよう、恐る恐る彼女の頬に触れた瞬間……零れ落ちた、涙の雫。
命を懸ける、理由を知った。
「あ、かね」
世界が色を取り戻すように、今までの全てが繋がった。心の動くままに、先ほどの父の言葉を繰り返す。
それは祝詞だ。少なくとも俺にとっては。
泣き声なんかよりも、ずっと自然にその言葉を紡ぐ。
俺は
それが、黒川あかねと
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「良ぉお~しッ!よしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよし」
「おにーちゃんくすぐったいよ~」
いつものようにあかねの頭を撫でると、花がほころぶように笑った。
髪がぐしゃぐしゃになることに構わず、身を寄せてくる妹の頭をさらに撫でてやる。
まだ幼い姿だが、将来は間違いなく美人になるだろう。ぱっちりとした目、長いまつ毛、青みがかったさらさらの黒髪。
高校生にもなれば数多の男からアプローチを受けること間違いなし。そしていつかイケメンで金持ちの男を見つけて―――いかん、雨が降ってきたな。
「おにーちゃん、なんで泣いてるの?」
「愛ゆえに人は悲しむんだよ」
「好きなのに悲しいの? 変なの」
小首をかしげるラブリーマイエンジェルあかねたん。もう目に入れても痛くない。
お付き合いする男性はちゃんとお兄ちゃんが面談しますからね。間違っても顔がよくて頭がいいだけの男に利用されないようにしないと……!
「あかねー! かなちゃん出てるわよー!」
「えっ!? ほんと!?」
密かに決意を固めていると、母の声があかねを呼んだ。応じて離れていく妹に一抹の寂しさを感じるも、仕方のないことだと息を吐く。
今あかねの心のほとんどを占めているのは、今テレビの中で泣いている女の子だ。
「かなちゃん! かなちゃん!!」
普段大人しめなあかねだが、彼女が画面に映ると豹変する。あかねがあんなに大きな声を出すのは、家族といるときか
有馬かな。誰もが認める売れっ子の子役であり、間違いなく時代を築いた子供。
テレビが主たる娯楽である俺たちにとって、誇張表現でなく毎日目にしている女の子だ。
曰く、10秒で泣ける天才子役だとか。確かに画面に映る彼女の涙は、とても演技には思えない。
最近のドラマにはほとんど出演しているし、映画でもメインで呼ばれたりしているようだ。
その容姿、演技力から、全国の主婦・子供に大人気のようだ。
うちのあかねも例にもれず、そんな輝きに目を焼かれた1人だった。
だが家族愛には勝らないだろう。もはや疑う余地すらないが、確認の意味で問うてみる。
「お兄ちゃんとかなちゃんどっちが好き?」
「かなちゃん!」
「くぅぅぅぅ……!」
あんなぽっと出のガキに負けるなんて……! 俺たちの積み上げてきた年数を
絶対に許さねぇぞ有馬かな。次会う時がお前の命日だ。
俺の心境を知ってか知らずか、あかねが心配そうにこちらを見た、
「おにーちゃんは、かなちゃんきらい……?」
「ああ、もちろんきら―」
いや、ちょっと待て。確かにあのガキは八つ裂きにされて然るべきだ。全く心も痛まない。
だが仮にも、あかねの心を照らしている太陽に違いない。俺にとってのあかね、あかねにとっての有馬かな。その太陽を、俺が否定していいものか。
否、断じて否だ。あかねの心に影を差すような真似、絶対にあってはならないことだ。
ゆえに心を殺して、絶対に本心を悟られないように……
「(ギリッ)俺もだいずぎだよ」
「ほんと!? 私もおにーちゃんとかなちゃんが大好きっ!」
嚙み締めた際に乳歯が欠けた気がするが気にしない。この笑顔を見てくれ。こいつをどう思う?
すごく……天使です。
「だからね、おにーちゃんにお願いがあるの……」
エンジェルスマイルから一転、陰りを見せるあかねの表情。外に出るとき、普段している表情だ。
人見知りで引っ込み思案なあかねは、コンビニの店員とさえ、面と向かって話せない。いつも俺や両親の影に隠れてしまう。
そんなあかねもいじらしくて可愛いのだが、一般論的によくはないのだろう。
だが今は、その暗い表情を俺に見せている。
「なんでも言ってごらん? 俺があかねのお願いを断ったことがあったかい?」
そういうと、あかねはぶんぶんと首を横に振った。俺は今まで、あかねのお願いを拒否したことはない。
さすがに非人道的な行為は悩んだ末に行うと決めているが、あかねがそんなお願いをするわけはなかった。いつだって誰かの為に、自分を犠牲にしてでも行動するのがうちの妹だ。
だから、
「あのね、私と一緒にお芝居してほしいの!」
自分の為だけにお願いをしたあかねに、俺は驚きつつも首肯を返した。
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「私は有馬かな! プロの仕事の邪魔はしないでよね!」
「オマエさ、もっと言葉を選んだ方がいいんじゃないか?」
「? 何言って―」
「今際の際だぞ」
「何なのあなた!?」
憎きあいつと出会ってしまったのは、唯一の誤算だったが。
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