「こんばんは、先生」
「あれ、セナ? こんばんは、どうしたの?」
深夜。日もすっかり落ちて暗くなったシャーレの執務室に救急医学部の部長である氷室セナが顔を出した。かなり遅い時間で、当番の生徒も既に帰宅している。
もしかしてモモトークで連絡がきていたのを見逃したのか、と思って確認しても、特に履歴には何もなかった。
「夜分遅くにすみません、どうしても先生にお会いしたくて」
「ううん、いつでも来てくれて大丈夫だよ」
珍しく突発的なことだったのだろう。少し申し訳なさそうに眉を下げるセナに首を横に振って笑いかける。ほんのりと薄桃色に頬を染めた彼女がペコリと頭を下げた。
滅多に表情を崩さないセナだけど意外とその感情表現はストレートで、彼女と付き合いが長くなるにつれて彼女の考えがわかるようになっていた。
「そこ座って。コーヒーでも淹れようか」
「おかまいな────いえ、いただきましょう。お願いします」
ソファに腰を下ろした彼女を横目にキッチンへと向かう。せっかくだからいい豆を挽こう。いつも忙しいセナがこうして来てくれたのだから。
戸棚の奥からとっておきの豆を取り出してジーっと私を見つめる彼女の視線を背に感じながら、備え付けてあるケトルでお湯の準備をした。
「────で。どうしたの、急に。何か困ったことでもあった?」
コーヒーの準備を終えて彼女にマグカップを手渡す。湯気と一緒にコーヒーの匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
両手でしっかりとカップを握ったセナがジッと私の目を見る。
一度唇を湿らすようにカップをゆっくりと傾けて、喉を小さく鳴らす。コーヒーの苦みが口の中に広がり、温かい液体が喉を伝って胃へと流れていった。
「──……ただ会いたい、と。先生に会いたかったから、こんな夜更けにシャーレに来ました。それだけです。それが理由ではおかしいでしょうか?」
「いや…………」
セナらしいストレートな言葉。こうも率直に好意を向けられてしまうと、どうにも言葉に窮してしまう。ジッと私の目を捉えて離さない彼女の瞳から逃れるように……もう一度カップに口をつけた。
口に広がった苦みが少しだけ私を冷静にさせてくれるような気がして。
「以前お伝えしたように、先生さえよろしければ毎晩のように、二人でお話がしたいと思っています」
セナが言葉を繋いでいく。いつの間にか私のカップは空になっていた。
ふわり、と柔らかく微笑んだ彼女の顔がすぐ傍にある。気が付いた時にはすぐ横にセナが腰かけていた。
「私は曖昧な表現はあまり好みません。ただ、このように素直に申し上げると何だか逆に上手く伝わらないのではとも思うのですが」
彼女の手が私の手に重ねられる。とくんとくん、と彼女の鼓動が伝わってきた。
肩が触れ合いそうなくらいの距離。微かに漂ってくるのはコーヒーの匂いとつんと鼻をつく消毒液の匂い。
横目に映る彼女の頬は目元まで赤く色づいていた。
「それでも先生になら……上手く伝わるのではないかと期待もありまして」
私の指がセナの指に絡め取られる。ジリジリと距離を詰めてきた彼女が、私の肩に寄りかかるようにして頭を乗せ、上目遣いで私の目に視線を注ぐ。
救急医学部としての責務を背負っているとは思えない程に華奢な彼女の肢体が私に押し付けられていた。
「今夜はもっと先生と……それこそ夜が明けるまで語らいたいと思っています」
表情は変えず──それでも端々に感情の滲ませ、情熱的な誘い文句を口にする。
言葉を重ねるごとに彼女の心音が激しくなっていくのを感じた。いつものクールで落ち着いた表情なのに、その実四肢に熱い情動が渦巻いているかのように。
「実のところ……こうしているだけでも心臓が飛び出してしまいそうなくらい、胸が高鳴っているのですが」
触って確かめますか? と申し出たセナに対して静かに首を横に振る。彼女の服を押し上げる豊かな双丘から目を逸らした。遠くからでも目を惹く、はち切れんばかりに存在を主張する圧倒的なボリュームから視線を切るのは至難の業だ。
それは残念ですね、と少しもそう思っていなさそうな口ぶり。危うく飲み込まれてしまうところだった。
「最近では先生のことを考えているだけで、こうなってしまいます。だからその……それ以上を、期待してしまうのかもしれません」
どくんどくんとうるさいくらいに脈打つ心臓の音が身体中を駆け巡る。熱を持った身体とは対照的に背筋を冷たい汗が伝った。
──少し頭を冷やさないとマズいかもしれない。そう思って、立ち上がろうとした私の腕をセナがぎゅっと抱きしめた。
「私がこんな夜更けに先生に会いに来た理由──まさかお気づきになられていない、ということはないと思いますが」
潤みを帯びた目に赤らめた頬、少し開いた唇からは熱っぽい吐息が漏れていた。
セナには珍しく艶やかに色づいたリップが目に入る。スッと通った鼻梁、期待するように震える長い睫毛、今か今かと待ちわびてふるふると私を誘うかのように震えている柔らかそうな唇。
きっと私のために付けてくれたであろう薄桃色のグロスを、すべて剥ぎ取ることになってしまったのは……きっと仕方のないことだったのだろう。
「……念のため、ですが。シャワーをお借りしてもよろしいでしょうか?」
────今夜はもう、平和に終わりそうにもなかった。