「世界が終わるみたいだよ」
白い陽の差し込む電車の窓際であなたは言った。
それまで読んでいた本を閉じることもなくただその言葉の主を一瞥するにとどまったのは、それが何の関りもない赤の他人だったからだ。
私よりも若そうな女子とも呼べるほどの容姿で、綺麗な黒髪を束ねた女性が対面する座席に座っていた。
「君だよ。君に言ってるんだ。無視されると少し傷つくな」
見た目にそぐわない、妙に大人びた口調で私の目を覗き込みながら言った。
それでも私は無関心を貫いて本の文字を辿り続けた。
人と話したい気分ではない。
それもこんなに席の空いた電車の中で他人の前に座る上に、突然意味の分からないことを言ってくるような人となればなおさらだ。
「突然話しかけられればそんなものか。そうだ。君が赤の他人だと思っている私が、君のことを何か一つでも言い当てられたら話をしてくれないかい?」
話す気はなかったが、この奇妙な相手のことを何か知れるかもしれない、と私はその提案に目も合わせずに頷いた。
「大丈夫、その気がなくても君を感心させてみせるよ。まず、君が読んでいるそれ。今のページは135ページじゃないかい?」
私は右下に小さく書かれた数字に目を落とした。
135。
確かにその女性の言う通りだった。
だがそれは先にページを覗いておけば簡単に分かることで、何の判断材料にもならない。
私は首を横に振って嘘をついた。
「おや?外れか。次は、そうだな。君は映画を見るのが好きだ。それも恋愛もの。どうかな」
確かにそうだ。
いや、そうだった。
それは過去のことでもうしばらく映画は見ていないし、恋愛ものは今となっては嫌いとまで言える。
私はまた首を振った。
「おかしいな。また外れた。ああ、そうだ。決定的なのがあった。忘れていた。君はいつもカメラを持ち歩いているね。それも時代遅れのフィルムカメラだ」
私は意識だけを鞄に向け、そこに入っているであろう黒いやぎ皮のなめされたフィルムの入っていないカメラを頭に浮かべた。
「おや、首を振らないね。それじゃあダメ押しにもう一つ。君は今日夢を見た。ぶ厚い雲が日を遮って光の一粒も零さない。真っ黒な空に押しつぶされる世界の夢を」
私はパタンと音を立てて本を閉じた。
「それで、あなたは私のストーカーですか?」
気味が悪いと思うのは当然のことで、私は怪訝な目をその女性に向けた。
女性は私が口を開いたことにとても嬉しそうに笑うと「ストーカーか」と言った。
「確かに。そう思ってしまうのは当然だね。でもそれは正しくはないかな。どちらかと言えば君が私のストーカーなんだから」
「はあ?」
そう口に出さずにはいられなかった。
私は目の前にいる女性のことなど一欠片も知らない上に、出会ったのだってついさっきのことだ。
過去に出会っていたとしてもその外見や雰囲気と結びつく記憶も何もない。
虚言壁の持ち主に違いない。
そう結論付けると私はまた本を開いた。
「気を悪くしたなら謝るよ。ごめん。もう少しだけ話をしてくれないかい?」
泣きつくような表情に私はため息をついて本を閉じ、黙って顔を向けると女性は「ありがとう」と言った。
「それで、私に一体何の用があるんですか」
「この言い方はあまり良い印象は与えないだろうけど、有体に言えばナンパだと思ってもらって構わないよ。君に興味があったんだ」
「ナンパ?」
帰ってきた答えが予想の何倍も低俗だったことに驚くと同時に恥ずかしさを覚える。
これが本当にナンパなら、私はまんまと相手の策にはまってしまったことになる。
ナンパに乗ってしまったというのなら、まるで私まで低俗になってしまったかのように思えた。
返す返すこちらの気を逆撫でする彼女に私は苛立ちさえ感じ始めた。
「ナンパならお断りです。私には」
「想い人がいる。そうでしょ?」
「…分かっているならナンパなんてするべきじゃない」
「そうだね。君の言うことは正しい。でもそうでもしなきゃ今みたいに君と話す機会は得られなかった。だから人は恥ずかしげもなく声をかけるんだ」
「そうですか。でも私は既にあなたのことが嫌いです。私は私の疑問が解けたらすぐにいなくなりますから。もちろんついて来ようものなら警察を呼びます」
「ずいぶんと嫌われてしまったね。それで疑問って?」
興味があるという言葉の割に私の悪態に少しもダメージを負っていない様子だ。どこか嬉しそうな女性は、邪見に扱われてもそれそのことも楽しんでいるようだった。
「それじゃあ、まず一つ。私のストーカーであることは間違いないとして、どうして私の見た夢の内容を知っているんですか?」
大前提にストーカーだとすれば、私が映画好きだったことやカメラを持ち歩いていることなどは簡単に知ることができるだろう。
だが、夢の内容はそうはいかない。
女性は先ほど言った内容はまさしく私が今朝見た夢だった。
それも、起きて支度をしている内に忘れてしまったようなもので、先ほど言われて何となく思い出した程度のものだ。
バーナム効果のような曖昧なものでもなく、よく見るようなものでもない。
誰に話したわけでもないし、特筆するわけもない。
言わば、私の中で完結しているのである。
女性の口車に乗ってしまったのはその疑問があまりに大きすぎたからだ。
「君が何かトリックがあると期待してるのならがっかりさせることになるな。ここに種や仕掛けはないんだ。ただ分かった。そう言うことしかできない」
元からそうだとは思っていたが異常者に違いない。
呆れ果てた私はもう一つだけ疑問を解消してさっさと離れようと決意する。
「じゃあ最後に、世界が終わるって言うのは?」
女性は不敵な笑みを浮かべると「じきに分かるよ」と言った。
なにそれ。
そう言ってしまいそうになるのを抑えて、私は立ち上がる。
「君は、海が好きだったりしない?」
私を引き留めるように発された言葉。
それまでの嘲笑した様子とのギャップに風邪をひいてしまいそうになる。
その憂いを帯びた表情に心がざわついた。
「いや、何でもないよ」と先の憂いが嘘のように嘲りを浮かべていたが、私の脈は忘れていないとばかりに乱れていた。
するとアナウンスが鳴り、私の降りる駅名が癖の強い口調で告げられることで私は我に返った。
「じゃあ、さよならかな。君はいつもここで降りるんだよね」
女性は最後まで私のことを見透かしたように嘲笑う。
頭に来たと私は口を荒げた。
先の動揺を塗り替えてしまおう。
そんな思いもあったかもしれない。
「君、君って五月蠅いんですよ。私には浅葉海月って名前があるんです。そんなことくらい知ってるくせに。でも忘れてもらって結構です二度と会わないでしょうからさようなら」
私は最大限拒絶して見せたはずなのに、その女性はぱあっと顔を明るくした。
「浅葉海月。そう言うんだね。実のところ、その名前が知りたかったんだ」
最後まで鼻につく人だ。
これ以上癇癪を起してしまう前に、これ以上この人に構うのは時間の無駄だと心を落ち着ける。
私には行くところがある。
ちょうど電車が停車し、私は何事もなかったかのように歩き始めた。
「元気になるといいね」
後ろから声がして振り返ったが、そこにさっきの女性はいなかった。
*
私の朝はいつも朝と呼べるものでは無かった。
日は登らず、道路の白線はいつもその暗がりな影を背負って黒の体裁を保っている。
眠たい目を擦る事にもとうに慣れて、くまもいつからかできなくなった。
ティファールに水を入れてスイッチを入れ、昨日の夜に作ったみそ汁に火にかけ、卵をフライパンに落とし目玉焼きにする間に洗顔をする。
ルーティンが出来上がってからは危険な火からも目を離すようになった。
タイミングよくティファールがカチッと音を鳴らすので、お湯でフィルターに落としたコーヒーの粉末の上に円を描いていく。
本来は100℃より少し冷ました方が良いらしいがそれを待つ時間すら私には無く、ルーティンを遂行していく。
体温を測り、髪をブラッシングして、ヘアアイロンの準備をする。
小さな机に味噌汁と目玉焼き、ご飯と一緒にコーヒーを並べると手を合わせて小さく「頂きます」と言う。
食べ合わせも何もないが急いで口に運び、咀嚼する間にヘアアイロンを当てる。
いつもくせ毛がちな自身の髪が恨めしい。
それでも髪が少しづつストレートに近づいていく様には少し楽しいと思う。
天気予報目当てでテレビをつける。
ニュース番組には異常気象やこれから確実に起こるとされている巨大地震について熱心に語る専門家がいる。
そういう時に語られるのは決まって過去、25年も前にあったらしい大地震の話。
関わりのない被災地の凄惨な記録にどこか気分が悪くなる。
不幸になってしまった皆さまの共感を求められているようで朝から疲れてしまう。
私の心には他人を思いやる気持ちはいつからか枯れてしまったらしい。
それも仕方ない。
私はいっぱいいっぱいなのだ。
昨日も、まだ始まって間もない今日も、そしてきっと明日も。
それに続いた明るい話題。
国際機関の統計かなにかで数日以内に世界総人口が100億人を突破するとの発表があるとかないとか。
そんな話を聞くこともなくテレビを消してしまう。
食器を水の張ったシリコン製の桶に浸し、着替えを済ませると机の上を片付け、ポーチと小さな立て鏡を並べて自分の顔を彩り始める。
下地を塗ってファンデーションを塗り、アイラインを流し、最後にチークをたてる。
すると随分と血色が良くなり、小綺麗になった自分が鏡の向こうにいた。
そこに嬉しさはない。
メイクなんて面倒なだけ。
誰に見せる訳でもないとなれば尚更で。
出勤の時間が近づいている事を確認すると、カバンを持って外に出た。
天気はあいにくの曇天で、付いて回る気分の悪さは低気圧のせいだと責任を投げる。
ヘルメットをメイクの崩れないように慎重にかぶり、エンジンを付けるとまだまだ暗い夜道をライトが橙に照らした。
私の勤める病院は息をつく間もない、とはいかないまでも常に誰かが動き回っているくらいには忙しい場所だ。
市内の病院が少なく、また夜間の急患を受け入れているのはここだけなためこうして朝勤や夜勤とも取れないような時間に出勤する事を強いられている。
本来私達一介の看護師がやる必要もないような業務も行っているが、皆一様に文句は言わない。
ある時、医者になりたい、なんて浅はかにも理想を浮かべた私はあまりに幼く、要領を得ない馬鹿な私には雲の上の話だった。
それでもと努力をした結果、今は看護師という職業に落ち着いている。
何度参考書を開こうと一向に頭に入って来ない知識の数々にノートを投げたのも今では思い出の一つなのかもしれない。
世話しなく動き回っていると、知らぬうちに朝日は顔を出している。
そうなると急患は減り、一息つく時間が訪れる。
と言っても仕事がなくなるわけではない。
徐々に目を覚まし始める患者たちの精神状態やバイタルのチェック、また点滴や症状の確認を医師の回診に付き添って行う。
本日の失態一つ目。
四号液の確認が漏れており、年配の看護婦に叱られてしまった。
そんなに怒る必要もないんじゃないか、と1人しょぼくれる。
デスクに感情ごと持ち帰ると、先に言われた言葉を思い返す。
一体看護学校で何を学んできたの、と言われても困る。
あの時の私は酷く真っすぐで、がむしゃらに勉強と課題をこなすだけの機械のようなものだった。
ひたむきでいられた間は余計なことを考えないで済んだ。
それがとても楽だった。
それにあの時は忙しい中でも毎日が楽しかった。
昔を思い出して感傷に浸ってしまうのもその情景を美化するのに一役買っている。
溜息に溢れてしまいそうな心に頬をはたいて気持ちをリセットした。
まだやるべき業務はたくさんある。
来院の対応や、カルテの整理、患者の常用薬の準備などエトセトラ。
流動的に入れ代わる立ち代わる人々が絶えることは無い。
少しづつ定時近づいてきても帰れそうにない現状に嫌気がさしてくる。
浮足立った心は次第にフラストレーションへと変わって行く。
帰れない事に怒っているのではないのに、業務に縛られ、身動きの取れないこの現状が良くない。
ついにやるべきことを終え、帰宅の準備を終えた頃には日は落ちて私が向かうのは家でも駐車場でもなかった。
区画分けされたある病棟の個室。
外はしんしんと雨の音が響き始めていた。
失態二つ目。
天気予報をちゃんと見るべきだった。
傘もレインコートも忘れてしまった今では帰ることもできなくなってしまった。
それでもいい。
帰れなくってもいい。
この病室の扉を開く私はいつだってそう思っていた。
この病室は酷く寂しい。
担当医が日に二度回診しに来る他は、私以外誰も来なくなってしまった。
私は雨音に混じる微かな息遣いに近づいていく。
月明りも届かない今夜、蛍光灯をつけないままの部屋ではカーテンもその色を忘れて煤けている。
このカーテンが開かなくなったのはいつからだったかな。
そう思いながら開いたカーテンの内にはモニターの光に淡く映される花嫁がいる。
私はそのそばの椅子に座って、その白く、細く、そして美しい手を取った。
その乱れず鼓動の波を教える心電図と呼吸を白く見せる呼吸器、そして血の通った温かさに浸る。
この心には恐怖があった。
機械に囲まれた君は、まだ生きているの?
それとも君はもうそこにはいないの?
些細な動きもなくなってしまった君は、本当はもう死んでいて、私たちのエゴで生かされている。
そんな想像をするだけで胸が張り裂けそうだった。
君の声が恋しい。
君の笑顔が見たい。
それでも見えてしまえば、きっとやつれて変わってしまった君がいるだろうから灯りは付けない。
いつかは病院から出られなくなった君に外で撮った写真を見せて饒舌に語っていた。
眠ってしまってもしばらく続けていたが、声も届いているか分からなくなってからはそれもやめてしまった。
残ったのは空虚にシャッタ―を切る癖だけだ。
「ねえ、話したいよ。いつになったら起きてくれるの?」
思い出に縋りつき、重ねるように花嫁の影を見ている。
*
この土地に産まれ、この土地で過ごし、この土地に根を下ろして、この土地で死ぬ。
きっと、それが私の生涯だと思う。
郷土愛があるわけではない。
ただどうしようもなくここに縛られている、とまたそれに結び付けてしまうのは、そうやって言い訳をするのが一番楽だからだろう。
誰しも行こうと思えばどこへだっていけるんだと思う。
そうしないのは飛び立つ勇気がないから。
もちろん、私にそんな勇気があるわけがない。
一両編成の電車の窓際で本を読みながらそんなことを思ったりする。
私の住む街を背にして電車に揺られていると、次第に海が見えてきた。
入道雲の浮かぶ海を鞄から出したフィルムカメラでフレームに収める。
カシャ、と音を出してシャッターを切っても転写するフィルムは入っていない。
降りたホームはただ屋根があるだけで遠く見える海の潮風を淡く運んで来る。
私は慣れた足取りで石階段を降り、決まった道を歩いて海岸へと向かっていった。
松に囲まれる中には潮風にさらされたせいか苔すら纏うことを忘れたさびれた鳥居と朽ち始めた祠がある。
そんな神様がいるかも怪しい祠の前で、私は手を合わせる。
いつものように。
この神社とも呼べない場所に一体どんな歴史があって、どんな神様が祭られて、どんなご利益があるのか。その一つも知らない。それでもここで手を合わせるのは、誰も来ないような、誰にも思われないような神様であれば望みを叶えてくれるかもしれない、とそういう浅はかな考えからだった。興味本気で眺いた木連格子の中。そこには蓋のある陶器があるだけだった。これが御神体か、と思うと同時に好奇心が湧いたがそれは流石に罰当たりだと眺くことはしなかった。閉じた瞳の奥に見る彼女はいつだって輝かいている。
私達が初めて気った時、まだ幼なかった私を見たその目はとても大人びていた。既にいくつもの苦しみを乗り越えたような。私達はいつも一緒だった。病気がちだった私と、私よりもさらに病弱だった彼女とはその待遇や友達の少ない境遇などが重なってとても気が合い、どこに行くだって一緒で双子の姉妹のようだとも言われる程だった。といってもおいそれと外出できるような体ではなかったし、インドアな私達が遠出することは外手の指で数えられる程しかなかった。ただそのどれも、私の人生に色濃く跡を残している。ただ毎日が楽しかった。彼女はとても頭が良かった。彼女はいつだって間違ったことを言わなかった。
初めて美月と会った時、美月は誰もいない保健室のベッドで泣いていた。私が保健室に来ている事にも気が付かない程にさめざめと泣き、それを認めたくないというふうに袖でかき消していた。私にとって保健室は心の居場所か無くなったり、体調が悪い時に逃げ込める安心出来る場所のはずだった。その時も体育の時間に日射病でまた倒れそうになったから逃げてきたのだ。授業を止めてみんなの迷惑になることも嫌だったし、何よりみんなの「また?」という囁きが聞こえるのが何よりも嫌だった。頑張ろうと思うのだけれど、今日もまたこうして保健室に来ている。保健室の先生は優しいし、私のことを咎めたりなんてしなかった。保健室は私の居場所だった。そんなところでひとりぼっちの彼女に私は自分を重ねていた。「大丈夫?」私の声に大袈裟と思う程に驚いた彼女が私を見た。その時から私の心は美月に奪われたんだと思う。私ふうに言えば縛られた。最後の一雫まで拭い切った後の美月は笑っていた。その擦って赤くなったあとがなければ泣いていたことを忘れてしまうほどにその笑顔は満開で、私の心に刻み込まれた。私たちは直ぐに友達になった。名前がみづきと同じ呼び方だったこともあるが、何より2人とも病弱でお互いの気持ちを理解出来たからだろう。学校にあまり来ない美月に毎日のように会いに行った。
彼女はいつだって私の手を引いてくれた。導いてくれていた。その導きを失なってから、私は迷ってばかりで抜け出せないままでいる。過去を美化してしまっているのかもしれないが、私の人生はそこで止まっている。私が看護学校に在席している間に昏睡状態になってしまった。その時期に行なった治療の後遺症だった。健状者であれば大した問題ではないはずだったが、肝機能の弱りきった彼女の体では受け止めきれず、敗血症となりその体は次第に犯されていった。その体では敗血症の治療も満足の行く結果は得られず段々と寝たきりになる彼女。その姿が見ていられなかった。重しい機械に困まれた彼女。何ど逃げ出そうと思っても、彼女は私の手を取って笑うのだ。車椅子で自由に動くことができなくても、病院から出られなくなっても、上手く喋れなくなっても。何の因果かそれに呼応して私は次第に良くなり、健康になって行った。今では喘息さえなくなったこの体。きっと私の不調は全て彼女がもっていってしまったんだと思う。そのことが許せなくなりそうで、神に祈り出したのだ。私なんかどうなってもいいからと。この体も、命も彼女のために使う。彼女が私を思ってくれたように私も彼女を思う。ずっとずっと。恥も罰も知らない人間の願いを叶えてくれる物好きな神様であって欲しい。そうでなければきっと私の願いなんて叶えてくれはしない。
どうか彼女ともう一度。なんて。
*
意識のようなものが芽生えた時、私はまるで胎児になったような気分だった。暖かなような。時折冷たいような。羊水に包まれたならこういう感覚なのだろう、と言葉を宿さない中で思った。浮かんだり、沈んだり、もがいたりする中で、定まった場所もなくどこかを彷徨い漂っている。どこか本能のような無意識的な動きに支配されている。自分が今何をしているのか、という疑問もなく、どうなるのかという不安もない。ただ自分がそうしていることがあたりまえだという気持ちさえある。何も見えず、何も聞こえない。自分だけの小さな世界がここにあった。ただひたすらにそうしていた。考えるという行為、そのやり方すら忘れていた。それが心地良さを感じ初めている。そうしてどれだけの時間が経ったのだろう。とても長いような気もするし、あまり経っていないような気もする。数えることなど最初からしていなかったからそれも分からない。いつのまにか周りがやけに冷たくなった。全身が変縮しはじめてようやくそのことに気が付くと同時に、体という物を初めて自覚した。あたり前と思うことも無かった上に、今もそれに驚くことはない。そこにある異常性に関心もない。ただあまりに冷めたいので、どうにか暖かい所に戻れないかともがく。そんなことしているとおかしなことが起こった。「一」私にはそれが何か分からなかった。「ーー」ただ普通ではない。それだけは分かった。「ーー」いや、この感覚には覚えがある。これは『聞こえる』という感覚だ。「おーい。聞こえているかい」それを自覚した途端だった。言葉を思い出し、その意味がすんなりと入ってきた。長らく忘れていた感覚に、忘れていたことを理解するのにも時間がかかった。「やっと見つけたよ。まさかこんな所にまで流されているなんてね。大大夫かい」少しずつ考えるという行為を思い出している。開き覚えのあるその声の主に聞きたいことがいくつも浮かんで来た。ただそのどれも聞くことはできない。声が出せないのだ。喉が詰まっているだとか、そんなものではなかった。息を吸って吐くなんていうあたり前の動作もできない。どういうことか。私が感じているのは喉そのものの欠落だった。呼吸すらしていないこの体は一体どうなってしまったのか。それは不安だった。感情に留まらず、忘れていたものが一気に波となって押し寄せてくる。そうすると全てが理解できなくなってしまった。「そう言えばそうだね。君は今声が出せないのか。少し待ってて」そう言って声が消えると、激しい揺れが全身を襲い、そして冷めたい壁のようなものにぶつかった。するとどうだろう。まるで全身が、意識が溶けていくような。溶けて混ざり合い、混濁した意識は光を見た。それは久しく見ていなかった本物の光だった。「空だ」それはまさしく空の中のようだった。澄き通る青に、天には陽が指している。ただ、その太陽は絶え間なく揺らいでいた。「ここは海の中だよ」とても近くから声がした。さっきの声だ。「あの、すみません。どこにいるんですか」と視界の中を見まわした。そこは本当に海の中だったようで、青空の中
を泳ざまわる小さく多種多様な魚たちと、巨大な岩礁が見えた。その光景に目を奪われながらも、そのどこにも声の主は見当らなかった。「探してもいないよ。ここだよ。いや、どこって言えば良いんだろう」やはりとても近くから聞こえる。それも嫌なほどに。「うん、どこでもない。ここにいるんだ。私の中に君が。君の中に私がいる」「私の中?」言葉の意味を理解する前に分かったことがある。近くに誰かがいるような感覚。それでいて誰もいない。まるで私に何か重なり合うように誰かの心があるように思えた。しかしそれを理解するというのはまた別の問題だった。「えっと、どう言うことなんですか」「海月は怒るかもしれないけど、そのままじゃ意志の疎通もとれなさそうだったから、やむを得ずね」「何が言いたいんですか」「素直に言う。海月のことを食べたんだ。一かじりもせずまるっと飲み込んだんだ」「食べた?私を?」分からないことがまた増えてしまった。その言葉を鵜呑みにするのならさっきの激流と壁は、飲み込まれて胃に入ってしまったと言うことだろうか。胃の中にいるということは私は消化されるということになる。ドロドロに跡形もなく。「何してるんですか!早く吐き出して下さい」「そうかい?」と聞こえると、意識剥がされていくような感覚とともに、冷えきった海中に投げ出された。そこは真黒な世界だった。まともに動くことも、声をあげて助けを呼ぶこともできない。この心にあるのは恐怖だった。声を聞くまで一度だって感じたことはなかった。その筈なのに。再び戻された世界は闇と孤独だけが渦巻いていた。「海月が今も人間だったら今にも泣きじゃくっているだろうね」そんな世界ではその声だけが絶りつける対象だった。「うーん。やっぱりこれじゃ話が出来ないね。また飲み込むことになるけど、良い?」「大丈夫、消化したりはしないから」と付け加える声に、私は頭を何度も上下に振った。再度飲み込まれると世界は開けた。「何が。何がどうなってるんですか」私の体はきっと震えていると思う。だがその体の感覚はない。さっきまでの不自由が私なら、一体全体私はどうなってしまったというのだろう。「海月が混乱するのも無理ないよ。君は自分が一体どんな姿をしていたか知っているかい」とその声の主は言う。「どんな姿って、人の姿としか」私の震える声にその声の主は笑った。顔が見えるわけではないが、確かに笑ったと分かった。声の調子だとかそういうものではなく、この場所では相手のことが分かるようだった。「海月はね、クラゲの姿をしてたんだ。それも人間くらいの大きさのね」「クラゲの、姿?」「そう。あれはスナイロクラゲだね。白くて大きな傘を持った綺麗なクラゲだった」「何を言ってるか分からないです。ふざけてるんですか」「大真面目だよ。それに今海月を飲み込んだこの体がどんな姿をしているか分かるかい」そう言って大きく傾く体はやけに重々しかった。「見えるかな」鏡のようにおかしな角度で全反射した海面。そこに写った何十メートルもある巨大な姿。それを動かす大きなヒレ。海の賢者がそこにいた。「私たちは今クジラの中にいるんだ」目の前に写る鯨は私が思うように動き、そして私が見つめる限りこちらを見つめていた。その鯨の中に私がいる。「」それが拭いようのない事実だと、その身をもって分からさせられる。「じ、じゃああなたはクジラだって言うことですか?私にクジラの知り合いなんて居ないし。なんで私の名前を知って」私の言葉は不意にそこで止まった。何か思い出せそう。その予感があった。「状況は飲み込めたかな?」「その声、聞いたことがある。どこかで。あ、あの電車の中だ。ということはあなたはあの時の女の人!?」声の主は盛大に笑い始めた。その人を小馬鹿にした感じに間違いないと本能が囁いた。「思い出してくれて嬉しいよ。それで他には何か思い出せたかな」「待って。なんであなたが私を探してたの。それにクジラの姿だって」謎が謎を呼ぶばかりで私は「ああ、もう」と悪態をついた。「ひとつずつ理解していけばいいよ。質問には答えるから」そうは言うものの何から質問すればいいかも分からないほどに聞くべきことに溢れている。どんな答えが私を安心させてくれるのか。それすら考えられないほどに思考が渋滞していた。「あなたが必要だと思うことを全部教えて」「そうだなあ。何からがいいだろう。実は私も何を言うべきか分からないんだ」「何それ」「海月は今頭の中がぐちゃぐちゃなんだ。せっかく海を自由に泳げるんだし、泳いでみない?」「そんなことしてる場合じゃ」私の言葉を聞かずに動き出した巨体。少しずつ勢いが乗ると人間ではありえない動きと速さで海の中を駆けていく。それはまるで大空を羽ばたいているようだった。魚や軟体類は道を空け、邪魔する岩もゴミもない。海を裂く勢いで進み、角度を大きく変えて海面を突き破る。本物の空が見えた。そのまま重力に引かれた体は海面を叩き、それは大きな波を立てた。自由だった。それは夢に見た自由だ。混乱でひしめき合った頭がすっからかんになるほどに全ての縛りから解放されていた。「最高に楽しいね!」「ええ!ほんとに!」「私も1度やってみたかったんだ」「やったこと無かったの?」「実はね。クジラになってそんなに長くないんだ」「それ、結局私たちはどうしてこうなったの」私がそう言うと、いつかのように不敵な笑みをうかべた。「言ったでしょ。世界が終わるって」世界が終わる。その言葉にあの列車での出来事を思い出した。そしてその言葉に宿る妙な説得力と、この現状に私は納得させられる。「じゃあこれが終わった後の世界ってことなのね」
「多分ね」「多分?曖昧な答え」「これに関しては詳しくは分からないんだ。ごめん」なんでも知っているわけじゃないんだ。その謝罪に私は私の態度を顧みた。彼女も海の生物になっている。同じような境遇である彼女に何でもかんでも頼りきろうとしていたことに罪悪感を覚える。彼女にも不安感があって、だからこそ私を探していたのかもしれない。「あなたの名前は?」「名前?」「そう。電車では私が一方的に名乗らさせられただけでしょ。あなたの名前を聞いてない」「確かに。私は、そうだなぁ。渚って呼んで」「なんで悩んだの?」「この体になって記憶が曖昧なところがあるんだ。苗字はちょっと思い出せないよ」
「そう」私も彼女も海に生きる名前をしている。そこにはある種の運命もあるのかもしれない、と私はこの世界での今を理解した。「それじゃあ、この終わった世界で何をしようか」「何かすることがあるの?」「それがね。何もないんだよ。名実ともに終わってるからね。何かしたいことはないかい?せっかくの海の中だ。陸では出来なかったことがなんでもできるよ」そう言われて私は「したいこと」と小さく呟いた。あの時はどんな時でもすることやできることがあった。仕事であれ、家事であれ、何であれ。真に自由な今となっては、本当に何もすることがないのかもしれない。でも今はそれが嬉しい。しばらくそれに浸っていたいと思うはずなのに、どこかざわめくのは何故なんだろう。「美月」私の心は現実に引き戻された。彼女は一体どうなってしまったんだろう。彼女もまた魚になってしまったのだろうか。それならまた。「ねえ、ここはどこ?」「ここは太平洋の北側、比較的ロシアに近い海だね」「太平洋?日本にいたはずだよね」「海流で流されたんだね。それも今の海流はちょっとおかしいから、探すのに時間がかかったよ」「戻れる?あの病院に。場所は分かってるんでしょ」「それは出来るけど、海月の想い人の事かい」「それ以外何があるの」とつい声を荒らげてしまい、「ごめんなさい」と謝る。「美月が、この世界でどうなったか知らない?」「うん。何も知らない」「それじゃあ行きましょう。美月がどうなったか知らないと、私はこのまま生きていくことなんて出来ない」私の拳はきっと血が出そうな程に握っていたと思う。「最初から私に行くところなんてないから、断る理由なんてないよ」渚は優しく笑った。「ありがとう」と私が言うと、鯨の体は大きな尾びれを振り始めた。花嫁を思うがあまり心が支配されたが、穏やかに私達を包む海は私の心をすぐに落ちつけた。海を愛いて進む巨体に海流が肌を機でていく。まるで頭を機でられているかのように錯覚する。母なる海。その言葉をわずかばかりに理解する。「少し落ちついたかい?」「ええ。海って美しいのね」見れば見るほどに青さを伝え、魚たちが舞っている。下に広がる藍色は私の心を引き付けていく。深海というものに恐怖を感じることもなく、興味が沸いてくるのはどうしてなのだろう。「海はね、面白い所なんだよ」そう言う活は目を輝かせていた。「面白いて」「水の温度や水質、海流と波。潮の満ち引きだってその場所によって姿を変える。この地球の1割を占めるその一つだって同じ所はないんだ。そこに住む生き物だってね。深海の9割も人類は見たことがないんだ。月は世界一深い海がどれだけ深いら知ってるかい、私は首を横に振った。「10,920m。日本の南にあるマンアナ海溝の最深部だよ、夢を語る子供。大人びた彼女がとても幼なく見えた。「チャレンジャー海なんて呼ばれているらしい、なんて。全部聞きかじっただけの知識だけどね」済は最後に子供っぽく笑うと、またもとの様相に戻っていた。「ねえ今その海溝に行ってみない』私がそう言うと済はとても驚いた様子で、緑の医体さえ止まってしまう程だった。水の控抗は強く、バスが急停車をしたかのように私達の体を勢いが難ったように感じた。いいのかい。ここからだと日本の方が近いし、今の海流だと少し速きわりになるし、それに深海って言うのはたぶん海月が思っている何倍、いや何百倍も危ない所なんだ。それにそれにと私の提定をな定する者の顔にははっきりと書いてあった。「行きたいって顔してる」はっとした表情で活は顔を覆った。そして真剣な顔で私を見た。「美月さんのこと。後まわしにしていいのかい」その目は私を憂いていた。美月の所に早く行きたい。その心は本当で間違いなく本音だ。それに両親のことや終わってしまったという世界のことも気になる。着いてしまえば全て分かる。それにほんの少し恐怖を覚えた。逆に言えば着くまでは分からない。シュレディンガーの猫。その言葉が今に噛み合う。明らかにしてしまえばそこに失望しかないような気がしてしまう。そう、たとえ着いたとしても彼女は多分、きっと。私は結論付けてしまわないように首を大きく振った。「せっかくの海だって言ったのは渚の方。そんな凄いところなら行かないと損ってことでしょ?」「そうだね。海月がいいならいいんだ。それじゃあ行こう!そうとなればちょうど見せたいものもあるしね」「見せたいもの?」「後でもよかったんだけどね。見てからのお楽しみだよ」そう言って海の中を進む鯨。その周りに優雅に舞う大きな魚影があった。「ねえ、あれってシャチじゃない?」パンダと逆の斑点で、イルカのように可愛らしい容姿をした人の何倍も大きな姿が何匹も私たちの周りにいた。それぞれが自由に泳いでいるように見えて一つの群れであることを隠さず伝えてくる。「シャチかあ。それはまずいね」渚がそう言うのに呼応するように、シャチたちは試合でも始めるかのようにそれぞれのポジションを明確にした。そして私たちはその試合に参加させられている。「これってまずい感じなの?」「シャチは可愛らしい見た目に反して海のギャングって言うくらい凶暴な生き物なんだ。群れで狩りをするんだけどその頭もいいんだ。それでも成体の、それもこんなに大きなクジラは狙わないはずなんだけど」「彼らは気づいてるんだね」と小さく言う渚に「逃げた方がいいんじゃない」と焦りを交えながら言う。「それもそうだね」全身を大きく呻らせて鯨は海の深みを目指す。それを体当たりするようにシャチは体を押し付けてその進行を邪魔する。それはカーチェイスを思わせる。車で言うなら大型のダンプカーと軽自動車ほどの差があるはずだが、隊列を組みひれの動きを阻害する体当たりはその知性というものを感じさせる。方向を変えようとぴったりと着いてくる。ただ食らうのではなく邪魔していたぶり、いじめようというその嗜虐的な性質が見えた。「振り切れないの?」「ちょっと鯨の体が硬くて。運動不足かな。それに鯨がどんなに頑張って泳いだってシャチには敵わないんだ」「それじゃあどうしたら」「とにかく深く潜るしかない。でも私たちが潜ろうとしてるのがばれてるみたいだ。普通は呼吸しに上がるところを狙うらしいんだけどなあ」その時一匹のシャチが鯨の体躯に向かい、そして牙を立てた。「痛!くない?」「海月はあくまでクラゲだからね。大丈夫」「それって渚が痛みを感じてるってこと?」「そうかもね」そういう渚は少しも苦痛に顔を歪めることは無く、澄ました顔をしていた。「じ、じゃあどうにかしないと」「そうだけど、これは手詰まりかも」「そんな」手詰まりということはこのシャチたちに狩られてしまうということだ。齧られ、抉られて殺される。まだ何も出来ていない。海溝にだって行っていないし、まだこの海の自由を満喫できていない。何より、美月のことだって「いや、死にたくない。誰か助けて」その時大きな音がした。海を割ってしまうんじゃないかと思ってしまうほどの大きな音。それは声だった。海のどこまでも響き渡る低い呻り。近づいてくるシャチの何倍もの大きさの影に絶望し、硬く目をつむる。結局、何もできずに終わるんだ。海中に響く甲高い悲鳴。渚が肉を削がれ、苦痛に悶えているのかもしれない。想像をするだけで恐怖で体が言うことを聞かなくなる。「大丈夫だよ」と優しく頭を撫でたのは渚だった。つむった目を開くと入り乱れる魚影があった。シャチを追いかけて攻撃しているのは鯨の群れだった。「ザトウクジラ達が助けてくれてるみたいだ」自身の体躯の何倍もの大きさの鯨に追われてはシャチもたまらないらしく、一匹一匹と狩りから離脱していく。残った四匹ほどのザトウクジラは私たちを囲んで様子をうかがっているようだった。「助けて、くれたんだよね」
「ああきっと君の願いが届いたんだね。それにしてもマッコウクンバラがシャチを追い返すなんて。そんなことするんだね」私が安堵で全身から力が抜ける中、渚は興味深々と言った感じで目を光やかせていた。「渚でも知らないことがあるのね」渚はいつでも何でも知ってるかのような態度で、それが腹ただしい所ではあったが、今のような非常‐というには少し突飛すぎるが‐な時にはたのもしく見える、私の考えを見透かしているんじゃないかと思う程であった。それが初めての出来事に胸を輝かせている姿はまるで子供のように見えた。「何でも知っている訳じゃなよ。だから何でもかんでも聞かないでくれると助かるかな」「まるで私が言えることのできな脳無しみたいじゃない」「違うの?だって君は海月じゃない」かちんとくる言い草に私はそっぽを向く。「冗談だよ」こと笑う渚。どこか懐しさを覚えるのは、こんな風に人と談笑するのが久しぶりだからだろうか。潜航を続ける私達にマッコウフジラ達がついてくる。「あのクジラ達も深海に行くの?」「いや、マッコウクジラは歯があるクジラだから深海には行けない筈だよ」でもついて来てるみだ」「ほんとだね」
マッコウクジラは海中に、コウコウと鳴き声を響かせる。「なるほど、行ける所までボディーガードしてくれるみたいだね」「え、今クジラと喋ったよね。ねえ、伝えられるならありがとうって伝えてよ」「喋れないって「じゃあなんでボディーガードしてくれるって分かるの」「何となくだよ」私が怪訝な目を向けても、渚は「本当なんだって」と言うだけだ。私に嘘を見抜く力はないが、とても嘘を言っているようには見えない。「それじゃあお礼が言えない。こんなに助けてもらってるのに」落ち込む私に渚は「うーん」と唸った。そして、そうだと手を叩いた。
「クジラは歌を歌うらしいんだ。お礼のかわりと言っては何だけど、何か歌ってあげるのはどう?」「クジラが歌う?何そのうさぎは寂しいと死ぬみたいな話し」「これが嘘じゃないんだ」相も変わらず「疑わしい
彼女だが、きっと嘘じゃない、そう思えた。でもクジラに人の曲なんて分かるの?」「そうだね、なるべく激しくない曲がいいかも。彼らにそんな文化はないから」「それにどうやって歌うの?ここで歌って伝わるの?」「大大夫、クジラは海の中でも声が出せるからね」「頑張る」と息巻く渚に私は分かったと観念する「じゃあ私、聞かせたい曲があるの」「どんな曲?」「美月が元気だった時に歌ってくれた曲。子守唄みたいなのなんだけど。聞いてた私より美月の方が先に眠っちゃうの。歌ってる本人なのに」「大切な曲だね。ちゃんと覚えてる?」渚は思いやった声で言った。
クジラの頭部がベースの低音のように震え、鳴き声が響いていく。海水が振動を伝え、はね返し、クジラの肌をピリピリと刺激した。その歌声はとても美しく、文字通りの身も心も震わせた。「でも、ちょっと低すぎじゃない?」それは私の歌った曲とはもはや別物で、どこか雰囲気を感じる程度、言葉があるようには聞こえなかった。「ごめんね。クジラの声帯じゃ無理があったみたいだ。寄せるくらいしかできなかったよ」申し訳なさそうに言う渚に「ううん。でも良い歌だった」と感謝する。「えへへ、そうかな」と言う渚があまりに子供っぽく、気がつけばその頭を撫でていた。最初は驚いた様子の渚も、受け入れると嬉しそうに笑った。「人に頭を撫でられるのって不思議な感じだね」「撫でられたことないの?」
「うーん。あんまり覚えてないなあ」
どこか遠くを眺める渚。そう言えば私は、渚がどんな人か全然知らない。「ねえ、渚」そう呼びかけた時、私達を歌声が囲んだ。「彼等気に入ってくれたみたいだね」
ザメウクジラ達が、美月の歌を歌っていた。「鯨達にはちょっと高い音だけど、彼らでも歌えるんだね」
*
少しずつ近づいて行く深海と比例するように少しずつ光を失っていく。藍が黒に近づいていくにつれて増すのは孤独感だ。あんなに乱反射していた魚群も、戯れようとしてきたイカ達も私たちに迫ってきたサメもついには見なくなってしまった。これからどれだけ突き進んでも見えるのは闇ばかりなんじゃないか、と気がついてしまうと少しづつ怖くなってきた。「怖い?」「少し」と強がってみるが、そばで聞こえる声に酷く安心した。「私海のことなんて何も知らなかった。深海がこんなに暗いなんて。今でどれくらいなの?」「そうだね、だいたい5000mくらいかな」「うそ、まだ半分しか行ってないの」