絆も、夢も、想いも、邯鄲の夢の如く虚ろな泡と消えゆく儚い物語。
茜色に染まった畦道。塗装の剥げた個人商店のシャッター。
その前に立ち尽くす一人の麦わら帽子の女の子。
それが僕の原風景だった。
最初は「なんか見慣れないやつがいるな」程度だった。
しかし、ふと気付くといつも“それ”はいた。
何をするでもなく、飽きもせず、麻袋を抱えて米穀店の前にぼうっと突っ立っていた。
その米穀店はずっと前に閉まっていることはここらの人間なら周知の事実。
それを知らないなんて、最近引っ越したばかりの余所者なんだろう。
誰か教えてあげればいいのに、なんてことを考えながら横目で盗み見る日々が続く。
毎日、毎日、お互いに飽きもせず。
そんなある日、変化が起きた。
ふとした突風に女の子の麦わら帽子が空に舞ったのだ。
僕は田舎の土地を余さず踏破する程度には体力自慢の子供だったから咄嗟に飛びついた。
得意げに麦わら帽子を掲げながら女の子の方を見てみると“あること”に気付いた。
細かく編み込んだ薄緑色の髪の毛、まるで宝石みたいな青い瞳、シミ一つない白い肌。
……そして、小さく尖った耳。
女の子は、エルフだった。
「……これ」
少々ぶっきらぼうに、麦わら帽子を女の子に向かって突き出す。
エルフという存在は珍しいが、皆無というわけではない。
我々人間の隣人として、その存在を認知されている。
共存共栄、というほどに親密な関係ではないが互いに言葉は通じるし争いもしない。
かつては戦争をしたこともあったみたいだけれど。
今となっては一部のエルフの里は人間の観光スポットとなっているくらいだ。
じゃあ、なんだってこんな態度を取ってしまったかというとなんてことはない。
そのエルフの女の子が、思春期のガキだった僕にはとても可愛らしく映ったからだった。
「ありがとう」
女の子は笑みを浮かべるでもなく、淡々と帽子を受け取って被り直した。
その素っ気無い仕草が、僕に「なんてことないさ」と言い聞かせてくれているようで。
だから、早まっていた動悸がいつの間にか抑えられていることに僕自身も気付いていた。
ここまで来たら親切ついでだと当時の僕は割り切ったのだろう。
この米穀店は店主のお婆さんが腰を悪くして、もう閉店していることを女の子に伝えたのだ。
「なるほど、それでこの店は閉まっていたのか」
話を聞いてみると女の子はお米の脱穀のためにこの店を訪れていたようだ。
エルフの里で伝え聞いた僅かな手掛かりをもとに。
……寿命がとんでもなく長いと言われるエルフのことだ。
その噂話だって何十年単位の使い古されたものであっても不思議はない。
そんなことを考えている僕に向かって、女の子は続いて言葉を投げかけてくる。
「閉まっていた理由はわかった。……では、いつ開くのだろうか? 明日か?」
僕の説明が悪かったのだろう。
これは分かってないやつだ、と頭を2,3回ガシガシと掻いてから大きくため息を吐いた。
そうしてくるりと背を向けて、ぶっきらぼうに「ついてきな」と返すのだった。
……言い訳をしておくが、別に下心があって女の子を誘ったわけではない。
都会なら精米したお米に事欠かないだろうが、田舎で脱穀作業は死活問題なのである。
だから、お婆さんが米穀店を閉めた時に各家庭で脱穀機がそれぞれ導入される運びとなった。
要は、そんな時代の波に乗り遅れた一人のエルフにお節介を焼いてやったという次第だ。
雑談を交えつつ精米作業は進み、僕は成果の品を詰め込んで女の子に麻袋を返してやった。
女の子は不思議そうにまじまじとお米を見詰めてから…──
「ありがとう、そういち」
と、僕の名を呼び静かに微笑んだ。
夕焼けに浮かぶ小さな体と麦わら帽子、そこから覗くキラキラ輝く緑の髪と少女の笑顔。
それが、僕の原風景だった。
それからは少女“きみどり”とは、この片田舎でちょくちょく会話する仲となった。
といっても、それは『見掛けたら構ってやる』程度の希薄な関係でしかなかったワケだが。
田舎にはそんなに娯楽があるわけではない。
虫取りをしたり、魚釣りをしたり、一緒にゲームをしたり。
そんな僕のやることを、“きみどり”はいつだって興味深そうに眺めていた。
やがて“はなたれ小僧”だった僕も多少の齢を重ね、高校進学を機に都会に出ることとなった。
さて、そうなると困るのが“きみどり”のことである。
多少の意識はあるものの、激しく身を焦がすような感情まではない。
普通の思春期の男女に訪れるような喧嘩やすれ違いなんてものも僕らには皆無だった。
……なにより、ほんの僅か照れもあった。
だから僕はついぞ「一緒に行こう」と言い出せないまま都会に旅立つ羽目と相成った。
後ろ髪を引かれたし、気まずさもあった。
しかしそんな感情は都会の目まぐるしさに、あっという間に塗りつぶされていった。
刹那の享楽、とでも言うべきか。
僕の周囲に今まで存在しなかったそれらは毒となり、確実に僕の心に浸透していったのだ。
やがて、なんとなく帰郷するタイミングを逃したままに都会で就職し、結婚し、子を為した。
そんな何処か現実味のないプラスチックの夢は、ある日、最悪のタイミングで醒める。
妻が浮気をして、子供を連れて蒸発。
貯金にも長いこと手を付けていたらしい。
お陰でめでたく無一文となったわけだが悪いことは続き、僕は精神の不調にも悩まされた。
そのため仕事も上手く行かなくなり、引導を渡される前に依願退職という形で職場を辞した。
僕は、僕自身以外の全てを失ったというわけだ。自業自得であるが。
だから裸一貫で飛び出した時と同様に、無一文で帰郷するのは当然の帰結であった。
帰ってきた田舎は驚くほど変わっていなかった。
変化といえば見知った顔が少し老けたり、代替わりをしていたのと…
「おかえり、そういち」
彼女、“きみどり”が飽きもせず佇む場所が米穀店から僕の家の前になってたことくらい。
彼女自身は子供の頃に会った時分から何一つ変わらず…
それがエルフなのだ、と知ってはいても僕は安堵感から零れる涙を堪えきれなかった。
他の人間にあるような一切の摩擦を感じさせず、彼女は当然のように僕の帰郷を受け入れた。
「また、あそぼう」
晴耕雨読、と言えば聞こえはいいだろうか。
そんな日々を今は送っている。
都会での大きな失敗から、高望みをせず、現状維持と多少の蓄えがあればそれで十分と。
畑を耕し、作物を採り、培ったノウハウでほんの少し、大損しない程度に株を回し。
それ以外の全ての時間を、僕は“きみどり”との生活に注ぎ込んだ。
夏は山の渓流で涼み、冬は炬燵に入りながらともにテレビを眺め。
春は花咲く野原を散歩して、秋は実りある収穫にともに舌鼓をうった。
僕たちの関係は一体どういうものなんだろう。
友人? あるいは夫婦? ……なんにせよ、僕にとって彼女は掛け替えのない存在だ。
最近は身体を動かすのも億劫になってきた。
……お迎えがくるのもそう遠くはないだろう。
身辺を整理する。
彼女に、“きみどり”のこれまで全てに対して僕なりに真摯に礼を述べる。
当然、僕の遺産は全て彼女だけに渡るようにしている。
不思議なもので、現状維持で充分と考えていたら株が当たって一財産を築けている。
生活も楽になった。
彼女のお陰で僕の世界には色彩があった。
それでも、『終わり』というものはやってくる。
だから、笑顔で旅立とう。
ありがとう。そして、さようなら。……“きみどり”。
「おやすみなさい、そういち。また、明日」
──“変わらない”彼女の言葉が、末期の僕の耳に届いた。