きっかけはシロコからのモモトークだった。
『先生』
『シロコ? どうしたの?』
『ん、私ともう一度海に行くべき』
『もちろん、一緒に行こうか』
そんなシロコからの唐突な誘いに一も二もなく返事をする。それからとんとん拍子に話が進み、いつの間にやらロードバイクで海へ行くことになっていた。
ライディングは前々から誘われていたことでもあったし、彼女と一緒に風を切って走るのも悪くはない。汗を弾けさせ、躍動感溢れる彼女を間近で見られるのだから。
画面の向こうで彼女が嬉しそうに顔を綻ばせている光景を想像しながらメッセージを交わし合う。
途中でバテないようにしっかり寝ておかないといけなさそうだ。
「ん、先生。待ってたよ」
「おはよう、シロコ」
当日。雲ひとつないほどの快晴だった。
燦燦と輝く太陽はジリジリとアスファルトを焦がし、熱い空気が立ち上ってくる。立っているだけでじんわりと湿り始めた背中に気が付いて、手に持っていたボトルをゆっくりと傾けた。喉を潤す冷たさが、身体中に広がっていく。
屋外に出るなり強烈な日差しが目を灼いた。眩しさに眩んだ目を細め、声の方へと視線を向ける。ぴっちりとしたサイクルジャージに身を包んだシロコが、私に向けて手を振っていた。
大きめのバッグを背負い、爽やかな汗を煌めかせている。彼女の真っ白な肌と少し上気した頬のコントラストは今日も美しかった。
「先生、荷物は私が持つ。前で風を防ぐから先生はゆっくりついてきて」
「じゃあお願いしようかな。よろしくね」
「ん、任せて」
男としては情けないところだけれども。シロコの方が体力もあるし、ここは素直に甘えさせてもらおう。それに……彼女のペースに合わせていたら、到着前にはきっとバテてしまっているだろうから。
あくまでも本番は海。そこで楽しむ分の余力は残しておかないといけない。まずは軽く200kmくらい、と豪語する彼女にとっては物足りないかもしれないけれど。
「ん、準備は出来てる。じゃ、私についてきて」
「よーし、行こうか」
こうして、夏の暑い日射しが照り付ける中、私とシロコのグループライディングが始まった。
***
「──ふぅ、ようやく……到着、か」
途中水分補給をしたり休憩を挟みつつ、海に到着したのは出発から二時間後のことだった。腿が痛い。きっと明後日くらいには筋肉痛に悩まされることだろう。日頃の運動不足を痛感してしまう。
私のペースに合わせた所為でシロコには物足りなかったのかもしれないけれども、「先生にはいつもサポートしてもらっているから。今度は私の番」と気にした様子がなかったのは幸いだ。
たまにはこうしてシロコとライディングするのもいいな、と思う。そうすれば……いつか一緒にロングライドに付き合ってあげられるかもしれない。
「──……ライディングも、悪くはなかったな」
身体にフィットしたサイクルパンツ。ただでさえ彼女のヒップラインをはっきりと強調してしまうのに。ロードバイクで前傾姿勢になって突き出されるように晒された彼女の臀部は、健康的な曲線を存分に見せつけてくれた。
ペダルを漕ぐたびにフリフリと小刻みに揺れるハリのある尻たぶ。風除けになってくれた彼女の後ろでなんとか走ってこれたのも、目の前にぶら下げられたニンジンのおかげなのかもしれない。
「夏だなぁ……」
かくして、若い女の子のおしりを追って必死に走ってきた私はすっかり体力を消耗してしまっていた。煩悩が活発になっているのは身体が疲れている所為だろうか。
まだまだ元気が有り余っているといった感じのシロコは、さっそく水着に着替えに行った。「覗かないで」なんて意味ありげな視線を残して去っていった彼女のことを砂浜に腰を下ろして待っていた。
夏の日射しが寄せては返す波打ち際で乱反射してキラキラと輝いている。雲ひとつない空はどこまでも飛んでいけそうなくらい澄んでいた。
「お待たせ、先生」
スポーツドリンクの口当たりの甘さに頬を緩めていた私の顔に影が落ちる。水着姿のシロコが身を屈めて覗き込んでいた。
サイクルジャージよりもぴったりと身体に貼りついている光沢のある生地は太陽の光を受けて、艶めかしく煌めいていた。
水着から伸びるすらっとした手足、鋭角に切り込まれたVラインからちらりと覗く鼠径部、ほどよく引き締まった肢体の美しさ。
私の視線は、見事に奪われてしまった。
「ん……ジロジロ見られるのは流石に恥ずかしい」
「──あ、ああ。ごめんごめん。よく似合っているよ」
「これ、先生のために着てるから……恥ずかしいけど、もっと見てくれてもいい」
「────っ。そ、そうだ。私も着替えてくるね」
羞恥に頬を染めた彼女の顔に気が付いた。私の目から逃れるように身をくねらせた所為で、余計に艶めかしい動きをする彼女の肢体から視線を引き剥がす。
少しホッとしたような、残念そうな複雑な表情を浮かべたシロコを横目でちらりと見ながら、着替えに向かう。
──戻ってくる前にシャワーを浴びないと。
熱中症になってしまったかのように茹った頭と、彼女の色香に当てられて火照った身体を冷やしてからでないと、彼女の前に戻れる自信がなかった。
***
「先生は他の子とダイビングしたんだって?」
「そうだね」
「ん、私ともするべき」
シロコが担いでいた大きなバッグから、シュノーケリングのセットを取り出した。どうやら一緒に海に潜りたいらしい。
可愛らしい嫉妬心が微笑ましくて少し顔がにやけてしまう。それが気に障ったのか「いやらしい顔してる」と顔をしかめたシロコの頭を、謝罪の意味も込めてゆっくり撫でた。
少し湿り気を帯びた髪の毛がしっとりと手に吸い付いてくる。目を細めてゴロゴロと喉を鳴らす彼女から簡単にレクチャーを受け、シュノーケルを身に着けた。
初夏の海は少しひんやりとしていた。人体の四倍はあるという塩分濃度がピリピリと肌を刺激する。浅瀬をゆらゆら漂いながら海の中を眺めた。
「────…………」
お互いに言葉もなく、静かな時間が過ぎていく。太陽光で煌めく水の中は別世界のように美しかった。
目の前を通り過ぎていく魚を目で追う。視線を彷徨わせ、ジッとこちらを見つめるシロコと目が合った。
海の中では言葉を交わすことができない。それでも……視線だけで彼女の気持ちが伝わってきた。宝石のようにキラキラと輝く彼女の瞳を見つめ返す。
コポポ……と小さな泡が彼女の口から漏れた。彼女の呟いた言葉が弾け、海上へと消えていく。音もない世界で、はっきりと彼女の声が耳に届いていた。
大きく首を縦に振る。彼女に伝わるように笑みを深めた。マスク越しで見えづらいかもしれないけれど、彼女になら十分だろう。
現に、ほら────。
「────っ」
目を大きく見開いて、顔を真っ赤にさせた彼女の口から大量の白い泡がぶくぶくと生み出され、彼女の顔を覆い隠してしまったのだから。
***
「先生といると心臓の音が止まらない」
束の間のシュノーケリングを楽しんだ私たちは、濡れた身体を乾かすついでに浜辺を並んで歩いていた。無言で差し出された手を握り、肩を寄せ合う。
しっかりと指と指を絡ませ合うような握り方をした彼女は、そっぽを向いている。白い首筋は赤く色づいていた。
恥ずかしいなら、と言いかけて「──……私は、オオカミだから」と誰かに向けた対抗心に口を噤んだ。とやかく言うのも野暮というものだろう。
「──私も、シロコといる時はいっつもドキドキしているよ。放っておいたらすぐにどこかに行ってしまいそうで」
「ん……。じゃあ私がどこにも行かないように、しっかり手を繋いでて」
ぎゅっ、と。彼女の手の力が強まる。絡め合った指が溶けて境界が見えなくなってしまいそうなほどに熱く、身体の奥の方から響いてくる脈動が触れ合った手のひらで交じり合う。
先ほどまで心地よく響いていた波の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。
「ん、先生。疲れたの?」
シロコとの散歩を終えて少し遅めの昼食取る。朝からひさしぶりのハードな運動に加えておなかもいっぱいになった所為で、気が付いたらウトウトと舟を漕いでいた。
正直なところ、この睡魔に抗うのは厳しいものがある。
日陰では太陽の日射しが遮られ、心地よい海風が頬を撫でていた。
「先生、私の膝を使うといい」
シロコが自分の膝を叩く。抗いがたい誘惑。ハリのある素肌。気が付いた時には、そこに吸い込まれるように頭を下ろしていた。
ロードバイクで鍛えられた彼女のふとももは引き締まっていたけれども、硬すぎるということはなく、確かな柔らかさが存在していた。
「先生……今日はありがとう」
シロコの手が私の頭を優しく撫でる。髪をかき上げ、おでこに当てられた手は少しだけひんやりとしていた。
うつらうつら、と意識が夢と現の境界線上を揺蕩っている。私にもし、彼女たちと同じようにヘイローがあったのならば、きっと明滅を繰り返していたことだろう。
────やっぱり、シロコの瞳は綺麗だな。
まどろむ意識の中、うっすらとぼやけた視界に彼女の大きな瞳が映った。いつでも真っすぐに前を向き、強い意志の込められたまなざし。ジッと注がれた彼女の視線は現実のものなのだろうか。
美しいマリンブルーがゆっくりと大きくなっていく。最初は空が落ちてきたのかと思った。吸い込まれてしまいそうな程に透き通った蒼色はきっと空よりも綺麗だ。
もっと見ていたい──そう思った時にはフッとその姿を消して、代わりに大きな影が顔に落ちた。
目を瞑ってしまったのだろうか。もっと見ていたかったのに。睡魔が深い水底へと意識を引きずり込んでいく。目元に当たる少しだけひんやりとした感覚が心地いい。
夢と現実のはざまで揺蕩っている私に、何か柔らかい感触が触れて────、
そこで意識がぷっつりと途切れてしまった。
「────ん。おやすみ、先生」