町はずれの屋敷でベータは一人、お酒をたしなんでいた。

 ディアボロス教団壊滅から十三年後。平和を取り戻した王国の満月の夜に突然ベータの元を訪れたイプシロン。
 久しぶりに会った二人の元七陰は、月明りの下で何を語るのか。

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「イプシロン。私たちがそれぞれの道に進んで、何年くらい経ったんですかね」 「え、だいたい十三年くらいでしょ」

 満月の夜になると、お酒が飲みたくなるのはどうしてだろう。

 

 王都の外れにある一軒の邸宅。しかしその広さと柱や梁に張り巡らされた高度な装飾の価値は、決して中心街や王城の華美なものにも引けをとらない。

 

 行灯や提燈で彩られた温かみのある火の明かりはふとした時に、とても煽情的に見えて。

 

 明るい夜に浮かぶ枯山水を眺めながら、青髪を三つ編みに編み込んだ女は窓辺に据えられた椅子に座った。手に持ったお酒を湛えたグラスの水面に、月明かりが揺れる。

 

 静かだけど美しい。だけど、どこかもの足りない。

 

 女は視線を下ろし、いま自分が着ている浴衣を見る。適当に結ばれた帯はほどけかかって、彼女の豊満な胸がこちらを覗いている。その適当さたるや、最高級品と呼ばれたその着こなしを見て、仕立てた職人が悲鳴を上げそうなくらいだ。

 

 こんな日常を、夢見ていたはずなのに。

 グラスを傾けて、酒を飲む。口の中に水と見紛うほどのとうめいな液体が流れ込み、女の唇からため息を漏れる。グラスの中の月が揺れている。

 

 誰に脅かされることのない平穏。健康な身体。自分がお酒の飲める歳まで生きられるだなんて、少し前まで思いもしなかったのに。

 

 それでも彼女は満たされない。

 

 お酒を飲むと喉が渇くように、穴の開いた桶で水を汲むように。

 どんなに注いでも流れていく幸せは、彼女の心を満たすことはない。夜を優しく照らす満月は無常に揺れているだけで、私を助けてくれるつもりはないらしい。

 

 女の背後に影が立った。彼女の登場に音はなく、風は揺れず、気配はない。黒づくめの服装は夜に紛れて命を奪いにきた死神のようだった。

 

「ずっと疑問に思うんですが……」

 

 全身黒づくめの女が自分の肩をたたく前に、女は振り向く。振り向く前に目の前にあるテーブルにグラスを置いた。窓に掛かる障子の陰に隠れて、月が消えた。

 

「どうしてみんな、昼間に訪ねてこないのでしょうね。イプシロン」

 

 浴衣姿の女は優しく微笑む。その視線の先には、懐かしい水色の髪と、切れ長の目を持つエルフの女が立っていた。

 急いで表情を取り繕ったつもりだったが、ごまかせたかどうか不安になる。彼女の前になるといつもこうだ。

 

「元気そうで何よりよ。久しぶりね、ベータ」

 

 黒づくめの女は彼女を見て笑いかける。彼女の眼にもまた、満たされないなにかが映っていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はい、これお土産。水の都で売ってたお茶菓子と石鹸」

「あ……ありがと。いろいろ忙しいのに、悪いわね」

 

 先日旅行に出掛けていたイプシロンはベータに風呂敷の包みを渡す。仲間とはいえ、いちおう他人の家の敷居を跨いだことなど一切気にせずあっけらかんとしている。

 しばらく会っていなかった友人のその笑顔を見ているとなんだか、怒る気も失せていく。

 

 本当に久しぶりだ。

 

 イプシロンと会わなかったのは、期間にしてみれば二、三か月程度のことである。たったそれだけのことなのに、今のベータにとっては言いようもなく長く感じて。かつての仲間とこうして話せる瞬間がとても愛おしくて。

 

 頻繁に会わなくてよくなったことは、世の中としては良かったのかもしれない。彼女らが顔を合わせることなんて、かつての定期連絡会か、七陰が複数人呼ばれるような過酷な任務だけだったのだから。

 

 けれど、ディアボロス教団はもういない。

 

 魔神ディアボロスの復活を巡る争いは彼女らシャドウガーデンが勝利を修め、教団を統べていた悪人共は王国に悪事が露呈し軒並み処刑された。

 今この世に残っているのは端役の雑兵たちばかりだ。一人では何もできない。

 

 そう。人は一人では生きていけない。だからこそ、いつかは番いを見つけて寄り添わねばならない。一人は嫌だ。

 

「……大分、大きくなりましたね」

 

 ベータは視線を落とし、イプシロンの身体を見る。昔と変わらぬスライムスーツに身を包んだ彼女だが、その目的は胸のサイズを盛るためではない。

 

「そうなのよ。……よければ触ってみる? 心臓の鼓動とか、足を蹴る音とか。意外と結構聞こえるものよ」

 

 イプシロンは昔と変わらない小鳥のさえずりのような声で笑って、大きく膨れたお腹を擦った。

 

 妊娠した旨を綴った手紙をもらったときは驚いた。

 

 ちょっと前に「マリッジブルーなんて本当にあったのねー」なんてニヤけ面で言ってきやがった時には、こいつぶん殴ってやろうかと本気で思った。それがこうなのだから、本当におめでたいことだ。

 

「男の子ですか。それとも女の子?」

「残念ながら男の子よ。まったく、女の子だったら手がかからないのにね」

 

 口ではそう言っていても、イプシロンからは嫌な気持ちをまったく感じない。かつて七陰と呼ばれていた頃には声色と表情から嘘を読み取る読心術も会得していたが、そんなものはいらない。

 

 母親が子に注ぐ愛情なんて、見れば分かる。

 

「何人目でしたっけ。私たちの中だと」

「えっと? イータが一人でしょ。ゼータが三人。デルタは……双子だったわね。だから、この子で七人目」

 

 シャドウガーデンが解散して、もう結構たつ。

 

 まさかイータが一番先に収まるなんて、誰が予想しただろう。獣人のふたりにしても、子どもの数にしたらゼータの方が多いが、順番ならデルタの方が先だった。

 ちなみに元七陰メンバーの中で結婚していないのはもう、私とガンマの二人だけだ。

 

「あら、イプシロン。アルファ様のことを忘れていますよ」

 

 ベータはにこやかに笑う。自分が結婚していないことを悩んでいるとでも思うのかと言い返すような余裕を見せつけて、彼女の方を見返してやる。私は寂しくない。そんなことは絶対にない。

 

「あら、気にしてないのね。むしろ入れていいんだ」

 

 ちゃぽん、とグラスの中のお酒が揺れた。

 

 静寂が二人を包む。どちらも、何も言い返さないその状況の中で、ベータはいろいろ捲し立てたくなる気持ちを抑える。

 こんなに早口で舌が回りそうになったのはいつ以来だろうか。そういえばいつしか『シャドウ様戦記』なる私小説を書いていたときに、早口でぶつぶつ言っていた気がする。

 

 いつの間にか書かなくなってしまったノート。もう作者である彼女でさえ行方を思い出せない戦記の最後には、こう書かれていた。

 

 シャドウ様は、アルファ様を選んだ。

 

 別にアルファ様のことは嫌いじゃないし、むしろ頼りにしている。大好きだ。最近は会う時間がなかなか取れないが、それは決して言い訳じゃない。

 

 その感情を嫉妬と呼ぶには、ベータは歳をとり過ぎた。

 

「イプシロン。私たちがそれぞれの道に進んで、何年くらい経ったんですかね」

「え、だいたい十三年くらいでしょ。……なに。私もしかして馬鹿にされた?」

 

 人のことは弄るのに、自分のことになると途端に鈍くなる。

 

 ベータ二十八歳。イプシロン三十歳。

 

「いや、私たちも歳をとったなと思いまして。もう三十路手前ですし。ふふ、うふふ」

「あら、そりゃどういう意味かしら? ねぇ、おい笑ってないで答えなさいよ」

 

 子どものような笑い声が、満月の夜空に木霊する。この時だけは、なんだかあの時に戻れたような気がした。

 




 イプシロンの行ってきた水の都は、このすばで一悶着あったあの街という想定です。

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