人類の潜在意識の下に広がる広大な別世界。
幻想の領域であるそこは夢が真実であり、悪夢が当然の如く跳梁跋扈している。
それこそが幻夢境〈ドリームランド〉。人が住まう現実と並行して存在しているもう一つの世界。
その世界は地球で夢を見る存在によって形作られた場所。
夢を見る者であれば、誰もが持つ共通の観念。
そう。夢を見られるのであれば、それが人である理由もない。

本作は、「 株式会社アークライト 」及び「株式会社KADOKAWA」が権利を有する『クトゥルフ神話TRPG』及び『サプリメント・ラブクラフトの幻夢境』の二次創作物です。

Call of Cthulhu is copyright ©1981, 2015, 2019 by Chaosium Inc. ;all rights reserved. Arranged by Arclight Inc.
Call of Cthulhu is a registered trademark of Chaosium Inc.
PUBLISHED BY KADOKAWA CORPORATION 「クトゥルフ神話TRPG」

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第一話 それは黒く、のたうつような

 揺蕩う夢幻の輪郭へ今宵もまた夢見る者が沈み落ちる。

 淡い燐光を放ち、開け放たれた巨大な亀裂へと下降していくものは一体の異形。

 渦巻くように浮かぶ形のないくぐもった幻影や僅かに発光する球体、哄笑する翼を持つ何か。

 それら、この世ならざる夢想の産物すらも距離を取り、怯え、怯む黒き異形はのたうつ巨大な塊だった。

 縄に似た、あるいは拡大した線虫のような触手で形成されたそれは、表面にいくつもの割れ目状の口を持っていた。

 緑色の唾液を垂れ流す無数の口からは鮫のような尖った牙が所狭しと並んでいる。

 末端には四本の太い脚らしきものがあり、その先端には山羊のような|黒い蹄があった。

 黒い仔山羊。

 “千匹の仔を孕みし森の黒山羊”シュブ=ニグラスの仔にして、かの邪神に奉仕し、その代理としてその福音を広める布教せんとする存在だった。

 黒い仔山羊は難なく、覚醒の世界から形作られた夢の世界、幻夢境(ドリームランド)へと降り立つ。

 枝のように別れた数多の触手を捩じらせ、周囲の地形の把握に(つと)めた。

 しばらくそうしていると、如何なる知見から結論を得たのか、己が着陸した場所が幻夢境南部に位置する地であるパルグの森と悟った。

 人知を超えた知覚か、それとも邪神である母からの啓示か、いと高く(そび)えるトリン山の(ふもと)と断定した黒い仔山羊は東へ抜け、スカイ川を越えた先にある大都市、ダイラス=リーンを目指し蹄のある四つ脚で歩き始める。

 覚醒の世界でいうコンゴの密林にも似たパルグの森は湿気が強く籠った熱が辺りに充満していた。

 人間であれば、物の数分で体力を奪われる熱帯雨林を鮮やかに掻き分けて進んで行く。

 無数の触手で鬱蒼と生い茂る木々を押し退けるように歩を進めていた黒い仔山羊だったが、周囲で何かが動く気配を感じ、そちらの方角へ注意を向けた。

 草むらを揺らし、姿を現したのは人間大の奇妙なヒキカエルだった。

 大型の猫のような唸り声をあげるその生物はウナリガエル。幻夢境に棲息する水陸両用の肉食動物だ。

 覚醒の世界からやって来た夢見る人や幻夢境の人間であれば、充分に危険な生物と呼べたこの生き物は黒い仔山羊にとっては単なる食料でしかなかった。

 二メートルを優に超えるその巨体はその三倍はある大きな胴体の中へと詰め込まれるように消えていく。

 およそ戦闘とは呼べない一方的な捕食が終わると、黒い仔山羊は気を取り直して森の踏破を再開した。

 少し離れた先で動く樹木、魔女の木がカミソリトカゲの鋭い刃のような舌でその身を削られるのを枝で掴んで阻んでいる様子が見られたが、黒い仔山羊は興味なく通り過ぎる。

 進んでいる途中で、身体中に刺し傷を受けて死に絶えている鹿の姿を発見した。スロブルビキクと呼ばれる、透明になる魔術を持つ鹿だったが、手傷からは狩猟目的ではなく、面白半分で付けられた嗜虐(しぎゃく)的な痕跡がいくつも見受けられた。

 死骸となったスロブルビキクに大きなナメクジ、ナメクジックが群がり、死肉を()んでいる。

 更に進むと、奥地に原始的な集落を見つけた。そこでは肌の黒い現地の人間が全員荒縄で縛られ、連行されようとしている真っ最中だった。

 捕縛した人間を連れ去ろうとしていた連中は灰みがかった白色の油ぎった肌を持つヒキガエルのような異生物。

 眼球に当たるものはなく、鼻に相当するであろう部位からはピンク色の短い触手が生えている。

 動く度に伸縮を繰り返す皮膚はゴムまりを思わせた。

 黒い仔山羊の登場に鼻先の触手を震わせ、威嚇する異形の種族は月棲獣(ムーン=ビースト)

 幻夢境の月に()まう、この拷問愛好家は常にいたぶるための奴隷を探している。

 六体の月棲獣(ムーン=ビースト)はそれぞれ長い槍を握っており、自らに抵抗したのであろう男性の生首を穂先からぶら下げていた。

 黒い仔山羊には当然ながら人間に対する興味は母なる邪神を崇拝しているか否かでしかない。

 道徳心や倫理などという人が人に持つ感情は一切なかった。

 ゆえにその場を観察した黒い仔山羊は己の行動原理、即ち、邪悪なる豊穣神の布教の障害となる敵を殲滅せんと動いた。

 一気に距離を詰めると、絡み合った無数の触手の中でも一際太い四本の触手で傍に居た月棲獣(ムーン=ビースト)を掴み上げると、開かれた亀裂の如き口内へと引きずり込んだ。

 声を発する器官を持たない(おぞ)ましき月の民は悲鳴を上げることもなく、頭部を鋭利な牙で嚙み千切られ、事切れる。

 弛緩した肉体はキーホルダーに繋がれたぬいぐるみのようにだらりと垂れ下がり、己が残虐性を見せびらかすように持っていた生首付きの槍を手放した。

 明確に敵対行動を行った黒い仔山羊に対し、残った五体の月棲獣(ムーン=ビースト)は槍を構えて突進する。

 頭部を失った死骸を乱暴に放ると、向かい来る小賢しい敵を迎撃するために触手を揺らした。

 槍衾(やりぶすま)を展開した月棲獣(ムーン=ビースト)だったが、彼らは自らの力を過信していた。

 加えて、弱者である標的を虐殺することにかけては追随を許さない彼らには自らが信奉する邪悪な神々を除き、圧倒的な個というものに慣れていなかった。

 囲めば倒せるなどという考えが通じるのは、個の戦力差が一定以下の場合のみ成立する。

 五つの槍の内、三本は黒い触手によって弾かれ、残る一本は辛うじて命中したが、黒々とした体液を多少(こぼ)させた程度に終わった。

 己の肉体に傷を付けたことで本格的に排除へと移行した黒い仔羊は、そのいくつもの節を持つ脚で槍を持つ月棲獣(ムーン=ビースト)を踏み付ける。

 

「ホォウッ! ホウホウッ!」

 

 巨体によってもたらされるその踏み付けは、灰色がかった白い皮膚に無数の蹄型の足跡を付け足した。

 体液の付着した脚を引き抜き、武器を失った月棲獣(ムーン=ビースト)たちは既に戦意を失いつつあったが、逃げる間もなく、伸びた触手の鞭に打擲(ちょうちゃく)され、その邪悪な生涯に幕を下ろしていった。

 運良く、あるいは運悪く最後に残された一体の月棲獣(ムーン=ビースト)は顔に付いたピンク色の触手を小刻みに動かし、懇願する。

 それは彼の残虐な種族が文化として(つちか)ったものではなく、虐げてきた奴隷が命を奪われる前に行う動作の真似事であった。

 黒い触手が穏やかに伸び、ピンク色の短い触手を数本摘まむ。

 その時、月棲獣(ムーン=ビースト)は僅かな安堵のようなものを感じた。しかし、その弛緩が錯覚だったと理解するのにそう時間はかからなかった。

 黒い仔山羊には必要以上の嗜虐思考はない。ただあるのは、従順な信者であるか、捕食してよい敵かどうかだけである。

 緑色の唾液を垂れ流す口内はまるで咲く寸前の(つぼみ)のように開かれ、愚かなる敵対者を招き入れる。

 短く伸縮する白い二本の脚が、多くの黒い触手の中心で激しく上下に動かされたが、それも一瞬の出来事だった。

 すべての月棲獣(ムーン=ビースト)を排除し終えた黒い仔山羊は縛られ、今し方眼前で起きた凄惨極まる戦闘により正気を失いつつある原住民たちの方へ近付いて行く。

 彼らは果たして、どのような選定を下されるのだろうか。

 福音を授けられる信徒か、無慈悲なる死を渡される愚者か。

 その時、木々の端に隠れていたまだ幼い女児が、たどたどしい足取りで黒い仔山羊の前へ現れた。

 恐らくは月棲獣(ムーン=ビースト)襲来の前に、逃げおおせ隠れていたのだろう。もしくは直前で逃がされたのかもしれない。

 彼女は焦点の合わない瞳で、黒い仔山羊を見つめると平伏した。

 正気とは思えぬ行動。事実、彼女の意識は未だ狂気の渦中にあった。

 しかし、その狂気の核にあるのは感謝の意思だった。

 月棲獣(ムーン=ビースト)によって、村の狩人であった父を見せしめに殺害され、家族同然の人々が連れ去られようとしていた現場を救ってくれた黒い仔山羊の行為は紛れもなく、英雄の所業であった。

 そこに人への慈悲も、清廉なる正義も存在せずとも確かなる救済はあった。

 黒い仔山羊は触手を伸ばし、女児の頭部に触れる。

 顔上げた彼女は恍惚とした眼差しで、村を救った勇者を見つめた。

 真摯な祈り。偽りなき崇拝。

 その想いを感じ取った黒い仔山羊は、己が(たた)える母神の名を粘液と共に流し込む。

 

「じゅ、ぶ……にぐら、す……?」

 

 救済を与えたのは何者か。

 

「……じゅぶ、にぐらす……」

 

 掲げるべき神の名は。

 

「じゅぶ、にぐらす……」

 

 祈りと共に生贄を送るべき相手は。

 

「いあ、いあ、じゅぶ、にぐらす……」

 

 巫女の誕生を祝し、黒い仔山羊はすべての原住民を解放すると、呪われた豊穣神の呼び出し方を脳髄に刻ませ、集落を通り過ぎて行った。

 パルグの森を後にした、触手を生やす黒き宣教師の目的は未だなお不明であった。

 果たしてこの母なる邪神に奉ずる従僕は何を思って、夢幻の世界に舞い降りたのか。

 今はまだ(よう)として知れない。

 


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