ヒヨリミコロシアム用作品です

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第1話

 ざくざく、さくさく、と雨上がりの藪を踏む。鼻に滞留する濃い緑の匂いがますます濃くなって、ムワッとした空気がどこまでも纏わり付く。とめどなく滲み出るじっとりとした汗がシャツを張り付かせた。

 ()()()足音を聞きながら、どこまでも広がる鬱蒼とした闇の奥へ、奥へ、と足を踏み入れていった。

 

 

 昔、オオカミに救われたことがある、と言えば笑うだろうか。

 常識人であれば、とうに絶滅した動物に救われるなど、笑い話にもならない小噺(こばなし)だろう。

 けれど、確かにソレは居た。人には踏み越えられない境界の先、(ことわり)の向こう側にふさふさとした毛並みのような雰囲気と、獣じみた息遣いがこちらをジッと見ていたのだ。

 

 大学生だった頃、トレッキングが趣味だった。何の装備もなく運動靴とスポーツウォーター、スマートフォンを道標に、自然の中、整備された道を歩く。長閑(のどか)な自然との触れ合いに非日常さと、安心感を得ていた。

 整備された山はだいたい参道を兼ねている。そこをぶらぶらと歩き、ロープウェイで山に入る。木漏れ日と虫の鳴き声、そして時々行き違う人の足音を聞きながら参拝をしている。そんな毎日だった。

 

 いつの日か御朱印帳が旅の持ち物に加わり、一冊目が終わる頃。薄暗い山中を歩いていた。

 パワースポットと呼ばれた神社。オオカミに縁のある其処の御朱印も回収し、色々と写真に収めた後、辺りを散策していると、奥宮入口という入り口を見つけ、誘われるように入った。

 オオカミを模した狛犬にじろりと睨まれたような気分を味わいながら、鳥居を潜ると奥にはゾッとするような背の高い木々が細い道を囲っている。柔らかに差していた正午の陽光が遮られ、木漏れ日だけが照らす道に、少し寒気がするような神聖を感じて、息を呑みながらふらふらと踏み入れていった。

 

 道中、下山する一組の登山者と出会った時は胸をなでおろした事を覚えている。山行の装いをきっちりと整えた二人組。彼等に問いかけた。目的地はどのくらいかと。

 彼等は顔を見合わせて、君の若さなら一時間かな。と答え、そのまま降りていった。今思えば本格的な登山口に行ってしまった事も気づくべきであったし、午後からの入山など本来無事で済むはずもなかったのだ。

 

 鬱蒼としたと言うには清廉すぎた木に囲まれた道を抜けると、そこには根を剥き出しにした自然の階段が姿を現した。だんだんと息を上げ、汗を滲ませながら登っていくと、いつしか周りには気配が消え、鳥の声すら聞こえなくなった。

 ふと気が付くと、遠くから太鼓のような、ドーン、ドーンという音がする。最初は本宮の方で何かをやっているのかと思ったが、いささか距離が遠い。

 生命の鼓動を感じさせない音が、まるで禁域に足を踏み入れた事を警告するように自分を圧迫している。底冷えするような感覚と共に更に歩を進め、ふと止まる。後ろを振り返り、また進む。一歩、二歩、三歩。また止まる。荒れる息遣いの中、更に奇妙な感覚がまとわりつく。

 

 『誰かがついて来ている』

 

 歩を進める度に気配が近づく。まるで足音を悟らせないかのように進むごとにこちらに近づく。止まると誰かもまた止まる。辿って来た道上にいるので逃げ出す事も叶わない。気味の悪い感覚だけが口の中を乾かせる。

 遠くから聞こえる太鼓の音も、ついて来ている誰かも、まるで自分をここでは無い何処かへ連れ出そうとしている。そんな感覚に囚われて、半狂乱になりながら山道を辿っていく。

 

 その時、突然、陽光が差した。

 森が切れて、山の裾野が遠くに見えたのだ。参道の半ばの崖沿い。まだ遠くに道が続いているのが見える。

 その闇と光の境界線上に『何か』が居た。人と言うには低い位置にある頭。獣のような気配が自分を見ていた。影も形もなく、そして、どこか柔らかい。()()が道を塞ぐように立っていた。

 差し込む陽光と共にその先へと続く道は、この世ではない別の世界に見えた。ふと、来た道を振り返る。太鼓の音も、ついてきた誰かの足音も何処かへと行ってしまい、午後の陽光に照らされた山道がそこにはあるだけだった。

 また視線を戻す。まだ獣は居る。姿形はないが、この先の道を塞ぐ何かを見て、ここは境目なのだと悟った。

 『人』と『そうでないもの』の境界線。じり、と足を踏み出そうとして、止める。既に曖昧になってしまった現実感の中で、きっとこれは神からの遣いだと思い、そこにいる『ナニ』かに頭を下げて、山を下りた。

 鳥居をくぐる最後まで『ナニ』かは見守る様についてきていた事をよく覚えている。

 

 それが昔の記憶。ふと息を吐けば、また夜の森へと立ち返る。強く夕立が降っていたせいで茹だるような湿気が身体を包んでいた。

 濃い森の香りに付きまとわれながら、ぬかるんだ坂をのたのたと歩く。左右に揺れる懐中電灯の明かりだけを頼りに根に足を掛けて登る、登る。

 

 あれから大学を卒業し、社会に出て、そして失敗した。

 挫折して、堕落して、そして嫌になった。仕事も、人付き合いも、何かもが突然色が抜けてしまったかのように飽きてしまったのだ。それまで頑張っていたものがまるで嘘だったかのように軽く、吹けば飛ぶような重要度に思えて仕方なくなった。

 だから動けなくなるまえに行動をしようと思った。人様に迷惑を掛けるのは嫌だったから、不採用通知の書類と、空き缶だらけの自宅に一筆添えてから、そっと現実から抜け出した。

 

 ふと、スマホを点けると通販サイトの『完全自殺マニュアル』の購入画面で止まっていた。いつの間にか昨日と今日を跨いでおり、新しい日が人知れず始まっている。

 ひび割れながらも頑張っているスマートフォン。それを無造作に茂みに投げ込んでみる。ガサガサ、と音を立てて何かが滑っていく音がした。

 

 また、登る。

 

 再び、あの場所を目指している。オオカミに出会った場所。人とそうでないものの境界線。あれを踏み越えに行くのだ。あの時、助けられた時から、死ぬのならきっとあの場所以外に無いのだな。そう思いながら生きてきたのだから。

 

 コオロギが鳴いて、知らない生き物の鳴き声が遠くで聞こえていた闇の中。ふと、音が止んだ。

 ドーン、ドーンと太鼓の音が聞こえてきたのを感じて立ち止まる。誰か来るのだろうか。また誰かの足音に追いかけられるのかと思っていたが、そんな事はなく、遠くでドーンドーンと聞こえるだけだ。

 

 あぁ、と気づく、あの時、後をついてきた足音は『俺』なんだ。『人』で無くなる誰かの足音の残響。それが聞こえていたのだな、とその考えに至ったのは森が開けて、浮かんだ月に裾野が照らされている光景を見たときだった。

 

「あぁ、長かったな」

 

 けれど、短かったかもしれない。そんな人生に思いを馳せながら、その境界の先へと向かう。

 失敗、失意、失望、鬱屈とした社会に溺れ、人の仕組みの汚泥に呑まれ、諦めたモノは、もはや人と呼べるのだろうか。もしその線を踏み越えたのなら『ナニ』になれるのだろうか。

 

 また同じモノの気配が目の前にいる。

 変わらず俺を見ている。

 オオカミがそこに立っている。

 

 境界の上に立つそれに頭を下げながら横に並んで、そうして崖に立つ。

 踏み出す先には、何も無い。

 

 「同じ人の理を外れたものなんだ、頼むよ」

 

 ――これからよろしく。

 

 

 じっと、自分の事を『ナニ』かは見続けていた。そんな気がした。


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