「なんですか、この空間は──」
アトラ・ハーシスの箱舟の自爆シーケンスは着々と進んでいる。しかし、この空間に潜む男は確実に此処で止めなくてはならないと、ヒマリは確信している。
鬼巫女とある種の同じ雰囲気、空気を感じる通信越しに見える男。超然としており、通信越しだと言うのに、目が合うだけでこちらの呼吸が止まりそうになる。
しかし、それ以上におかしい、異常なのはこの空間だ。
データとして流れていく夥しい数字や文字列を高速で走らせながらヒマリはその『全知』と呼ぶに相応しい頭脳を働かせる。
(複雑怪奇、と一言で言えたなら楽ですが……あまりに異質。全体の8割、いや9割がUnknown。無名の司祭の技術での演算ですら歯が立たない)
こんなものを鬼巫女は抜けたのか。その出鱈目さに舌を巻きながらも、ヒマリは果敢に挑む。あの場で戦う先生と生徒の命運を握るのは、自分であると確信しているからだ。自爆シーケンスでただでさえ時間がない。このままでは皆爆発で地上に落ちる。額に落ちる汗を拭う手間も惜しみ、ヒマリは吼える。
「私は……私は天才美少女ハッカー。これくらいなんとか、いえ、楽々とこなして見せます!」
あまりの情報量に脳がパンクを起こしかけて鼻血が垂れる。しかし、それでも操作する手を止めない。確かにこの空間の攻略法はほぼ無い。
だが、数多のデータを分析、解析してきた明星ヒマリの目には僅かな光明が見えていた。それの正体は『癖』だ。偏りのような、感覚的に掴めるこの空間を作った者の癖が見えるのだ。それはそのままヒントであり、鍵穴。
──ハッキングツール『鏡』起動!
そこにハッキングを仕掛ける。円周率の果てを求め続けるような気の遠くなる工程を、彼女はスレスレで、しかし尋常ではない速度で解き進めていく。
──自爆まで、残り5分。
遊ばれている。そう思った。最初は怒りをそのままに彼女をこんな目に合わせた下手人に殴り掛かった。けれど、その拳は当たる事はなかった。瞬きよりも速い速度で何かが私にぶつかり、そして遥か後方へと吹き飛ばされた。
それで私が死なないのは、相手の手加減があったからだろう。怒りで頭に血が昇っていても、相対する敵の強さは肌でビリビリと感じられるほどであり、私を含め、先生達全員で挑んだとしてもその戦力差は明らかだ。
今もまた、悲鳴をあげながら吹き飛ばされ、床を転がる生徒が1人。それでも、震える足を必死に動かして立ち上がる。
「諦めない……!」
いつものような天真爛漫な彼女はいない。その天使のような背中の翼は血と土埃でぐちゃぐちゃで、服の切れた端々から覗く肌は傷だらけ。それでも、聖園ミカは立ち上がる。
地獄を見た。自分の善意で敷かれた地獄を見た。今もなおそれが許されたとは思っていないし、きっとこの先一生あの時味わった絶望を忘れることはないだろう。
でも、それを止めてくれた人への感謝も一生言い続けるだろう。自分の生徒だと言ってくれた
「今度は私の番だから……」
きっと彼女はそれを嫌がるだろう。それでもやる。今度は私が助ける。それに、私の後ろにいる生徒達も。何かしら彼女に助けられて来たのだろう。そのくせ、その恩を返すのを死ぬほど嫌がる彼女だから。こうして集まったのだろう。
だから私は銃を握る。そして何度でも立ち上がる。
シロコに伝えたい事がある一心で、私はシロコに向かう筈だった色彩を横取りして、嚮導者となった。プレナパデス、偽りの先生。生徒達を救えず、シロコにあんな事を言わせてしまった、私にはお似合いかもしれない。
私は見過ごせない事を見つけてしまった。それは悪魔か、それとも神か。或いはどちらでも無いのか。色彩に触れ、その中枢に据えられた事で、私は様々な事を知った。色彩の中に潜む悪夢を。だが手遅れで、それを止める手段はこの世界にない。唯一止められたかもしれない、彼女はもう居ない。
だから私は世界を渡る。きっと居るだろう私と同じ『先生』を。そして、私の友人の助けを求めて。
もし、その時が来たなら私は、私の持てる全てをそこに費やすだろう。
私はボロボロの手で、大人のカードを強く握った。