できる自分を見せることに夢中の彼女だったが、とある出来事をきっかけに、先生との関係性を考えはじめる。
Ⅿラインの電車の車内は空いていたが、なんとなく座る気分になれなかった私は、ドア横の仕切りに腰を預けていた。
右手でスマートフォンをいじりながら、ふと目線を上げてみると、トレーニングウェアを身にまといつつ、読書に興じる生徒の姿が視界に入ってきた。意外に感じる組み合わせに驚いていると、その奥から公園で遊ぶ子供のような、元気のいい声が聞こえてきた。
声のする方を見ると、一人は赤色、もう一人は白色の髪を生やした二人が並んで座っていて、タブレットを互いに見せ、笑い合っている様子だった。
会話の内容に聞き耳を立ててみる。利き手じゃない方の手を使って、別々のお題に沿った絵を描き、何を描いたのか当て"られた"方が負け、という遊びをやっているようだ。
つまり、より絵が下手くそな方が勝ち。私はこの勝負、勝てないかもしれない。もちろん、絵が上手だから、という理由じゃない。
シャーレの当番に向かう日に限って、なぜか起こるそわそわした気持ちも、自分の外側の世界にひたすら関心を向けることで、幾分かマシになる。でも、次の駅でみんな降りてゆき、車内は空気と私だけになる。
そしていつしか、車窓に流れる建物がまばらになり、電車がミレニアムサイエンススクールの管理区域を離れたことに気づく。窓から遠くの方を見ると、Ⅾ.U.の高層ビル群が霞んで見えた。
◇
学生証をタッチし、三日ぶりに入ったシャーレのオフィスには、誰もいない様子だった。椅子に座り待っていたが、業務開始の時間が過ぎても一向に先生は現れない。
「これは、寝坊ね…」
シャーレに着任してそう経っておらず、定型業務や生徒の相手で日々忙しいらしい先生。三回前の当番の日だったか、昼近くになって寝ぐせ全開の姿で出勤してきたこともあった。
そんな先生に、SNSのメッセージを送信した後、気分転換も兼ねて外に出ることにした。
『先生、起きたら返事、くださいね』
◇
「これ、おしゃれなカフェにあるやつだ…」
長文の英語しか書かれていないメニュー表をにらみながら、私は何を注文しようか悩んでいた。友達のノアに教えてもらったカフェは、寝坊した先生を待つのにちょうど良い位置にあった。高い天井にシーリングファン。大きな窓からは、向かいに建つガラス張りのビルに、青空が映り込んでいるのが見える。
あまりこういう所には来ないのもあって、雰囲気に飲まれてしまいそうになる。当番の日でもあるから、余計に肩に力が入る。なんでノアは、ここを勧めてきたのかしら。
メニュー表には、末尾に"tea"と書かれたものがずらりと並んでいた。
そこまで飲み物に詳しい訳ではない私にとって、どれがどう美味しいのかなんてよく分からない。かといって、全てのメニューについて調べるのも面倒だし…。
大人しく、水とおしぼりを持ってきてくれた店員に、お勧めを聞いてみた。
「ええっと…いい感じに、肩の力が抜けるやつ…、って、ありますか?」
たどたどしい言葉になってしまったが、数分後に私の元へ運ばれてきた紅茶は、私の希望を満たしたものだった。
不思議な香りを放つその紅茶。味こそ印象に残らないものだったが、喉を通過した後に感じる、体の内側からぐぅーっ…とほぐされていくような感覚。うっかりすると、眠ってしまいそうにすらなるほどに、強烈なものだった。しばらく椅子に深く腰掛けて、肩の力が自然に抜けていくのを感じていた。
…というか、こういうものを出すお店をお勧めされたってことは…。ノアから見た私って、普段からそんなにピリピリしてるのかしら。
そんなことを考えていると、SNSの通知がスマートフォンの画面に浮かんだ。メッセージの送り主はノアで、朝から愚痴をこぼす私に対して、ありがたくも返信をしてくれている。肝心の先生からの返信は無い。
私は少しため息をついて、バッグからタブレットとペンを取り出し、つやのある木目調の机に置いた。右手でカップを口元に運びつつ、左手で握ったペンをタブレットの上に滑らせる。SNSの通知がきたら、右手人差し指を使って画面をフリックする。
ノアからは、器用だと良く感心される。
利き手を気にせず作業ができるおかげで、机の上がどんな状態でも、わずらわしさを感じずに作業ができるというメリットはある。でも実際、そこまで大きなメリットとは言えない気もする。
今日、それとなく先生に自慢してみようかしら。もしかしたら、かっこいい!なんて気の利いた言葉をかけてくれるかもしれない。
またSNSの通知が届く。その文言を見て、私はすぐさま返信し、お店を出る支度を始めた。
『深夜までゲームしてただなんて…子供じゃないんですよ!?』
寝不足でやつれた表情をした先生が思い浮かぶ。会計を済ませていると、レジ横に茶葉が置いてあるのが目に入った。これは浪費じゃない。そう自分に言い聞かせながら、一袋購入した。
◇
「せ~ん~せ~い~っ!」
まずは、寝坊したことへのお説教。次に、ゲームの課金額の確認…は後でやるとして、目のクマと寝ぐせ全開で仕事机に座ろうとする先生の袖をつかみ、シャワー室の方へと連行。
“先生の評価は、生徒によりバラつきがある”なんて話をちらっと聞いたことがあるけれど、私が今目にしている先生の姿が、平均値よりは下であることを祈って止まない。脱衣室に押し込まれてもなお、何かを言おうとする先生の顔を見て、私は最後の一押しをした。
「書類なら私が完璧にこなしておきますから、心配しないでくださいっ」
さて。当番の日にいつも座る席に荷物を置いた私は、そのまま先生の机に向かい、溜まっている仕事の量を確認する。
先生の机は、大体把握できている。
ほかの生徒から当番の交代を引き受けることが多いのもあって、今では先生が何をどこに置くのかまで、分かるようになってしまった。
例えば、提出したものの、不備を指摘されて返された書類。先生のことだから、手を付けたくなくて、天板のすぐ下の引き出しの中に隠しているはず。
「…やっぱり」
案の定、引き出しからは書類の一部と思われる紙がはみ出していた。先生、こんなところに隠したって、自分が犯したミスは無くなりませんよ…。
そう思いながら引き出しを開けると、多数の赤字が入った書類が顔をのぞかせた。
しかし、それは、とても見覚えのあるものだった。
「これって!」
まぎれもなく、数日前の当番の日、私が作成した書類だった。疲労困憊の先生のことを鑑み、先生のチェックを通さず、先生がトイレに立った隙に、勝手にメールで提出をしたもの。
それにしても、どのページにも書かれた、赤字、赤字、赤字、赤字……。
どこからどう見ても、出来の悪い提出物。
「うわあぁぁ~……」
やっちゃった…。部屋に響く私のうなり声。
引き出しをそのまま閉じ、自分の机に戻る。
確かこの書類を作った日は、私も寝不足で、体調も万全じゃなかった。だから…。
いや、言い訳はダメ。こんな出来の悪いものを得意げに提出し、先生の管理者ぶっていただけ。そのことに変わりは無いもの。
すっかりやる気を無くした私は、
「はぁ…。」
と、大きなため息をつき、そのまま机に突っ伏した。
◇
ふわり、とシャンプーの香りがした。私は、
「ふぁっ!?」
という、およそ可愛い気の無い声をあげてしまった。振り返ってみると、生乾きの髪のままの先生がそこに立っていた。その手には…赤字だらけの書類があった。
「あっ…」
面目次第もない。すべて正直に言おう。
椅子に座ったまま、力なく書類を受け取る。
しかし、その書類は、私の見たことの無いものだった。目線を上げると、先生は口を開いてこう言った。
「前、ユウカが当番に来てくれた日に私が一人で作った書類、赤字だらけにされちゃって…。よかったら、修正を頼めないかな?」
体の内側に、何か温かいものが流れたような感覚がした。それはまるで、今朝飲んだあの紅茶のようで…。
顔がにやけてしまうのを右手で隠しながら、私は図々しくもこう言い放つ。
「もうっ、普段から寝不足だから、こうなるんですよ!私にすべて、任せてくだされば良いんですっ」
先生の机の引き出しは、見なかったことにした。
先生の前では、完璧な私でいたい。
かっこ悪いところを、見せたくない。
とりあえず今日のところは、この書類を完璧に修正して、空いた時間で先生の領収書を片付けて…。
そんなことを考えつつ仕事をしていると、先生が伸びをしたのに気が付いた。向かい側の席に座る人の動作が気になってしまうほどに、私の集中力も落ちてきている。私は、声をかけた。
「先生、お茶にしましょう」
◇
給湯室を借りて湯を沸かし、今朝買った茶葉をティーポットに入れる。そこに湯を注ぐと、カフェで嗅いだのと同じ独特な香りが、鼻孔をくすぐった。
少し蒸らした後、手ごろなカップと、私がいつも使っている青いマグカップを棚から取り出し、紅茶を注ぐ。二つのカップを両手に持って、先生が待つソファーに向かった。
いつもより細目の先生の右隣に私は座り、マグカップを右手で持って、口まで運ぶ。先ほど先生が作成した書類に、ペンを左手で握って赤字を入れていると、SNSの通知がくる。私は、ペンをいったん机に置き、左手人差し指でそれを返した。
これくらいのことなら、手を使い分ければ良いのだろうけど、両利きであることを誇示するような雰囲気になってしまいそうな気がして、やめた。
先生は。
先生は、ポンコツな私でも、仕事を任せ続けてくれるだろうか。
今朝乗った電車で見た光景が思い浮かんだ。下手くそな方が勝ちの勝負。そういう部分を、もっと素直に先生に見せられたなら、先生にもっと…、近づける、だろうか。
そんなことを思ってみたりもしたが、両利きの私には、そう器用に、下手な絵なんて描けそうもないなと思った。
ふと、左肩に重みを感じる。振り向くとすぐそこに、目を閉じ寝息をたてる先生の姿があった。先生のカップを見ると、紅茶はほとんど減っていなかった。
たった一口の紅茶を飲んだだけで力尽きた先生を見て、私はもう一口だけ、紅茶を飲んだような気分になった。