強化人間部隊ヴェスパーの9人目 作:ねむい
おまけ
書きたかったので書きました
猟犬、と彼女は呼ばれていた。木星から様々な星を経由し、漸くISB-2262───ルビコン3に辿り着いた男の、忠実な狩人。任を全うし、感情の無いなりに自己を表現する女傭兵。
621。それが男にとっての、彼女の呼び名だった。
「…レーションは美味いか、621」
「──おい、しい……」
「…そうか」
車椅子に乗り、男の私室に足繁く通う様は、少し違えば、恋をする乙女のように映るだろうか。
だが、彼女には何も無い。人生を失い、肉体の過半を失い、脳と殆どの思考能力さえ失い、それは感情の致命的な欠落をもたらした。それでも彼女が男を慕い、また懐くのは、男だけが死に体の彼女を拾ったからだった。
「621」
「……?」
「…いや、よく噛むんだぞ」
「……」
ゆったりと、こくりと頷いて彼女はレーションを噛み砕く作業に戻る。感情のほとんどを亡くした彼女も、飯を食わなくては死ぬという生理的な理解は残っている。
だが、男の部屋に赴かずとも、彼女には常に食事のストックが用意されている。味気ないレーションばかりだし、男の部屋にもそのような美味しくもない軍用食があるばかりだが、それでも女は一週間に三度は必ず男を尋ねる。
男が扉を開けると、そこには必ず女がおり、車椅子の上から虚ろな目で、しかし真っ直ぐと男の瞳を見上げるのだ。
「…美味いか?」
「……」
「……そうか」
男の問いに、彼女は首を縦に振る。僅かに残った感情の絞りカスを、本当にひと握りも残らないほど振り絞って、ようやく発せるコミュニケーションがそれだけだった。
それでも、まだルビコン3に来て日の浅い──ハンドラー・ウォルターと強化人間C4-621の付き合いは一ヶ月も経っていないのである──彼女は、男に懐いていた。
男は友人の為と嘯き、彼女を利用しているだけ。女もそれは理解していた。それでも。
それでも、ウォルターと621の間には絆が生まれていた。
「……食べたか」
「……」
「…今日は仕事もない。休んでおけ」
「……」
621は首を横に振る。ウォルターの休めという指示を無視して、車椅子の車輪を転がし、椅子に座っていくつものモニターを監視するウォルターのそばに移動した。
「…強化人間にも休息は必要だ。621、お前とて例外では無い」
「…ウォ…ル、ター……」
「どうした、621?」
「…いっ…しょ、に…」
「…わかった。ただし、俺が休めと言ったら次は休め。お前の命は、俺が管理する」
「……」
無数のデータを整理するウォルターに、彼女ら頭を預ける。
621は、自分を使命という手綱で縛ることで唯一虚無から救ってくれたウォルターを好いていたのだろうか。
「…ようやく終わったか。 621。 ……621?」
何一つ物音を立てなくなった621を見遣る。正確には、何一つではなかった。身動ぎこそしないが、よく耳を澄ませてみれば立つ音がひとつ。
「……寝ているのか。 ……しかたない」
ウォルターは彼女を起こさないよう、ゆっくりと預けられていた頭を元の位置に直し、これもまた起こさないよう、ゆっくりと彼女に割り当てた私室に運び、また起こさないよう、ベッドに潜らせた。
「…これからもお前に頼る事になる。壊れてくれるなよ」
口では冷酷な事を言いながらも、髪を解く様は父親にも似て、だが彼らは主従。決して父子にはなれなかった。
あるいは、それでも良いのだろうか。621の思考は、ウォルターには分かりそうにもなかった。