BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第一章 殲滅戦線
第一話 深紅の月暈


 

 ――血の一滴が意味を持つというのならば、それはきっと、死に行く運命の――。

 

『次は、官庁前、官庁前です。お降りの方は、お忘れ物のないようにご注意ください。また、地下鉄は一時的に外に出る際、数分間だけ車両電気設備が停止します。皆様にご迷惑をおかけしております』

 

 車掌の言葉が響き渡った後に、暗礁に沈んだ地下鉄内で、ふと残響するのは悲鳴。

 

 そちらへと伏せた視線を向ける。

 

 車両連結部にまで後退した人々が押し合いへし合いの状態で、逃げ込もうとしていた。

 

 しかしドアにロックがかかっているせいか、あるいは恐慌にかられた精神が落ち着きを取り戻す事がないせいか、逃げに徹しているにしては散漫であった。

 

 影が舞う。

 

 漆黒に近い体表に、赤い眼窩。

 

 爪が男共を引き裂き、女の喉笛に牙が喰らい付く。

 

 ごくりごくりと喉を鳴らして、その獣は地下鉄内で殺戮を繰り広げていた。

 

 彼ら、彼女らに逃れる術はない。

 

 何よりも、ほとんど移動密室に近い地下鉄で、しかも次の駅まで相当に長いとなれば、生存率はゼロパーセントに等しいだろう。

 

 車窓に血飛沫が飛び散り、臓物を貪り食う黒い獣は、連結部を無理やり開いてこちらへと訪れていた。

 

 人気の絶えた、地下鉄車内。

 

 たった一人で、円筒の画材ケースを抱えた制服の少女が座り込んでいる。

 

 凍えたようにマフラーを首に巻き、喧噪も、殺傷も、断末魔も、聞こえているはずなのに、少女はそこから動かない。

 

 黒い獣が臓腑を食い散らかして、少女へと迫る。

 

 その静謐なる視線を覗き込んでいた。

 

 長髪を三つ編みに結い、物静かに少女は手元の文庫本へと視線を落としたままだ。

 

 眼前の恐怖に慄くわけでもなければ、まして逃げ出そうとするわけでもない。

 

 黒い獣が口腔部を開き、轟と吼える。

 

 数滴の血が文庫本のページに落ち、少女の頬にかかった。

 

 その段になってようやく少女は気が付いたかのように僅かに視線を上げる。

 

 赤い眼光を滾らせた黒い獣の纏っているのは車掌の制服だ。

 

 その余りある肉体の迸りが両腕の袖口を裂き、肥大化した下腹部が怠惰の証のように露出している。

 

「――私に、喰われたいのか」

 

 切り詰めた絶対零度の少女の声。

 

 黒い獣が応じるように吼え立て、少女の首筋へとかけた爪で引き裂こうとした、その瞬間であった。

 

 画材ケースを突き上げ、獣の顎へと打ち付ける。

 

 よろめいた相手へと少女はそのままケースを薙ぎ払っていた。

 

 その膂力で弾けた画材ケースから覗いたのは一振りの刀だ。

 

 柄を握り締めた少女の挙動に黒い獣は赤い眼差しを開いて飛び退る。

 

 刹那の抜刀。

 

 白銀の光が先ほどまで獣の首筋があった空間を引き裂く。

 

 黒い獣はその胸ポケットに収納したレコーダーから声を発していた。

 

『間もなく、官庁前、官庁前です。一時的に停電いたします。ご注意ください』

 

 一つ、二つ、と車両の電気が落ちていく。

 

 黒い獣と対峙する少女は電気が落ちた瞬間に駆け出していた。

 

 獣も同じく、彼女へと爪を軋らせる。

 

 窓辺を蹴りつけ、少女は立体的に太刀を振るい落とす。

 

 獣が爪で弾き返し、直後には懐へと飛び込んできた少女へと雄叫びを見舞う。

 

 聴覚を震わせる音叉に、少女がたたらを踏んだ僅かな隙。

 

 それを突いて、獣は飛び込んでいた。

 

 その爪が少女の肩口を貫く。

 

 血潮が舞う中で、少女は肩を荒立たせながら、片手で刃を握り締める。

 

「ドコ、マデモ、拙イ、抵抗……ダ」

 

 獣の濁った声音に少女が刃の刀身へとその掌を沿わせる。

 

 滴った血が刀に刻み込まれた毛細血管を思わせる溝を満たしていた。

 

 少女は再び、刀を払う。

 

 血染めの太刀で、獣の懐へと入るが、相手も馬鹿ではない。

 

 すぐさま距離を取り、電車の手すりを利用して跳躍していた。

 

 少女の背後へと降り立った黒い獣の一撃が、すかさず腹腔へと食い込む。

 

 少女は激しくかっ血していた。

 

 獣が哄笑を上げる。

 

 仕留めた――その確信に牙を突き立てんとして、不意打ち気味に地下より出た車両へと白銀に瞬く何かを視野に入れる。

 

 マフラーが伝い落ちる。

 

 その下から現れたのは首筋に巻かれた機械仕掛けの首輪であった。

 

「David,sword」

 

『認証した』

 

 反証した声を黒い獣が認識したその時には、窓を破って白銀の弾頭が車両へと撃ち込まれている。

 

 ガラス細工が舞い散る中で、獣の腹部を貫いた弾頭が、花開くように内側から開封される。

 

 その中心軸にあったのは、一振りの刀。

 

 少女は先ほどの太刀を捨て、よろめきながら弾頭より現れた太刀を手に取る。

 

 赤い鞘を捨て、一呼吸の間に親指を切って血潮を迸らせていた。

 

 刀身に刻まれし「emeth」の血文字が真紅に輝く。

 

 縫い留められた黒い獣へと、少女はその瞳を据える。

 

 赤く染まった眼差しが獣の首筋を狙った直後には、全体重を込めた一撃が振るわれていた。

 

 獣の断末魔が上がる事はない。

 

 首を落とされた黒い獣の体表が氷の如くささくれ、結晶化していく。

 

「emeth」の血文字は頭文字の「e」を剥がされ、「meth」となっていた。

 

 少女は戦いの終着によろめいて、椅子へと倒れ込んでいた。

 

 虹彩の赤がまるで燃え尽きる寸前の蝋燭の灯りのように、潰えようとしていた。

 

 少女が手を伸ばす。

 

 月明かりの差し込む空に救いを求めようとして、その最後の足掻きは再び入った地下鉄の薄暗闇にかき消されていた。

 

「……私は……うまく、出来たの……かな」

 

 その手が脱力し、刃の傍へと落ちる。

 

 少女と獣、そして無数の死骸を乗せた地下鉄は定刻通りに駅に入ろうとしていた。

 

 首なしの黒い獣の胸ポケットからアナウンスが響き渡る。

 

『次は、官庁前でございます。皆様、お忘れ物のないよう、ご注意ください。官庁前です』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「特殊弾頭は?」

 

 戦闘ヘリを稼働させる操縦席へと問いかけたのは金髪の優男であった。

 

 その青い瞳が、つい先刻発射したはずの地下鉄の行方を追っている。

 

 手元に携えたバイタルデータと位置情報へのアクセスが、途絶えたのが三秒前の事だ。

 

「無事に届いたんだろう。“小夜”は仕事を全うしたというわけだ」

 

 ヘリは既に帰投ルートを辿っている。

 

「……そう、か。後は処理班に任せるほかないな。しかし、毎度の事ながら無傷とはいかないのは、無能であると言われているようなものだ」

 

「別にいいじゃないか。おれ達の仕事は、ここまでなんだから」

 

 そう、仕事はここまで――所詮は戦闘に介入する事など最低限しか出来ない身だ。

 

「事後処理に追われるわけではない事だけが救いだな。あの目標、食い散らかしてやがったから、処理班は大変だぜ?」

 

「……それはお互いに難儀な事だ」

 

「処理班の苦労が分からないように、おれ達現場組の苦労は現場でしか分からないだろうさ」

 

「……お前が言うと説得力が違うな、ルイス。相手に気取られたくはない。すぐに捕捉範囲からは」

 

「撤退済みだ。それにしたって、28号の翼手を相手に、こっちは育成し終えたばかりの“小夜”一体でようやく相討ち……。機関としちゃ、リスクに見合わないリターンだな」

 

「それは仕方ないだろう。“小夜”一人を使うのにも、慎重なんだよ、上は」

 

「おれ達は現場って言いながら、本当のところは後方支援。これじゃ、死んだ“小夜”に恨まれるな、デヴィッド」

 

「重々承知しているつもりさ」

 

 デヴィッドと呼ばれた金髪の男は途絶えたバイタルサインへと視線を落としてから、ふと呟く。

 

「……俺達を憎んだっていいんだ、“小夜”にはその権利がある」

 

 女々しい言葉繰りを蹴散らすように、ヘリの羽音は夜に溶けていった。

 

 

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