BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第二章 戻れない道へ
第十話 悪夢の続き


 

 ふと、月明かりを感じ取って真那は身を起こしていた。

 

 どうしてなのだろう。

 

 悪い夢を見ていた気がする。

 

「……喉渇いちゃった……」

 

 呟いてから、真那は滅菌されたような白い天井を目の当たりにする。

 

「……あれ、私……」

 

 その段になって枕元のナースコールに気づき、ためしにそれを押してみると、数名の看護師が訪れていた。

 

「大丈夫ですか? 倉橋さん」

 

「脈拍、脳波も見てあげて」

 

 てきぱきとした看護師達の処置に、記憶に靄がかかったようになっている真那は愚かにも問い返す。

 

「……ここ、は……どこなんです?」

 

「ここはセクションの中央病院よ。あなたはガス爆発に巻き込まれてここに連れて来られたの。覚えていない?」

 

 ガス爆発――と思い出そうとして額を疼痛が走り、思わずよろめく。

 

「大丈夫? まだ、少し記憶に混濁があるかもしれないわ」

 

「点滴を打っておけば、少しは栄養状態もマシになるでしょう。今は身体を休める事を一番に考えて」

 

 看護師に寝かしつけられて、真那は消毒液のにおいが沁み付いた掛け布団を嗅いでいた。

 

「……変な感じ。何だかとても長い……夢の中に居たような気がするのに……。病院なんて」

 

 真那は何かが胸につかえている感覚を覚えて記憶を手繰るも、やはり思い出せずに霧散する。

 

「……何だろう。思い出しちゃ……いけないみたいな……」

 

 だが看護師も、そしてこの場所が病院である事も間違いはない。

 

 不安を覚えるのはきっと、慣れない天井だからだ。

 

 そう栓のない感情を打ち切って、真那は寝返りを打っていた。

 

「……白い天井……やっぱりここは病院なんだ……」

 

 ガス爆発の被害で運ばれてきたにしては、自分の外傷はほとんどない。

 

 真那は右腕の表皮をさすり、それから急速に眠りの中に沈んでいく意識を感覚していた。

 

「……思い出しちゃ……いけない……のかな? でも、これって……」

 

 瞳の内側で明滅する記憶にもならない残滓。

 

 それは赤く揺らめく眼光を持つ、黒い獣と相対するビジョン――。

 

「……嘘だよね、こんなの」

 

 自分が怪物と戦う光景なんて想像出来ない。第一、鈍くさいのにそのようなフィクションに身を浸している場合でもないだろう。

 

 掛け布団と毛布を引き寄せて、真那はベッドの上で丸まっていた。

 

「……千佳は、連絡したいな……」

 

 こういう時、自分の親友はどう慰めてくれるだろう。

 

 あるいは、馬鹿馬鹿しい! と一蹴するかもしれない。

 

 彼女ならそういう笑顔もすぐに思い浮かんで、真那はふふっと笑みがこぼれる。

 

「……会いたいな、千佳に」

 

「――誰に会いたいって?」

 

 唐突に生じた声に、真那は戸惑って起き上がると、カーテンの向こう側から問いかけがやってくる。

 

「ねぇ、誰に会いたいって?」

 

「……あなたは……」

 

「私? 私はねぇ……ああ、でもこれ、まだネタバレだよね。だから言わない。お姉さんとだけ告げておきましょう」

 

 何だか自信満々に告げられた名前に、真那は少しだけ“油処(あぶらどころ)”の店長を思い出していた。

 

「……お姉さん、かぁ……」

 

「あれ? リアクション薄くない? 普通、こういうのって、不審者だーとかなんない?」

 

「……なりませんよ。でも……お姉さんは何だか……話に付き合ってくれそうで……」

 

「眠りが訪れるまではお話を聞きましょうか。でも、案外そういうのには困らないと思うわ。だって、点滴には適切な睡眠導入剤が入っているから」

 

 その言葉は真実のようで、薄い靄のように世界はぼやけていく。

 

「……その、私は……倉橋真那。真那です」

 

「そう。じゃあマナ。私が明日、この病院の歩き方を教えてあげましょう」

 

「……だから、何で自慢げ……」

 

 そう返答して笑った頃合いには、程よく舟を漕ぎ出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 妙な感覚だ。

 

 鋭敏になった神経が告げるのは、殲滅の記憶。

 

 携えた光の残滓を掴み上げ、自分は相対する黒い獣を斬り伏せていく。

 

 一体、また一体と鮮血が舞い、獣の頭蓋を叩き割ったところで悲鳴が劈いていた。

 

 獣に首筋を喰らい付かれた人影のビジョンに、自分の感情が爆発寸前になる。

 

「……千佳……?」

 

 ――タスケテ、と千佳が涙声で懇願したのを感覚し、真那は疾走していた。

 

 一秒が数倍に引き延ばされる遅延と加速を繰り返す世界で、真那の太刀が獣を両断する。

 

 千佳を抱き留めて、真那はようやく安堵しかけた、その瞬間である。

 

 千佳の肉体が爆ぜ、その内側から黒々とした獣が躍り出ていた。

 

 千佳の顔面を引き写した獣に、真那はうろたえる。

 

「……千佳……っ!」

 

 ――真那、タスケテ、と。

 

 狂った機械のような澱んだ声で獣が呼ぶ。

 

 真那は全神経を赤く染め上げていた。

 

 脊髄から拡張する、真紅の旋風。

 

 己を戦闘本能で染め上げる超人の神経。

 

 地を蹴る。

 

 その一挙動で、真那は千佳の形を取る獣へと跳び蹴りを見舞い、吹き飛ばしていた。

 

「……許さ、ない……! 千佳は私の……友達なんだからァ――ッ!」

 

 指先を切りつけて血を刀身へと流し込もうとしたところで、不意に夢の皮膜は剥がれる。

 

 窓から降り注ぐ陽光に、真那は汗まみれの肉体を起こしていた。

 

 鼓動は爆発寸前まで膨れ上がっている。

 

 いやに冷たい汗が首筋に沁み、真那は首裏を撫でていた。

 

「……今のは……夢……?」

 

 だが、黒い獣を斬るこの感覚は。

 

 斬撃の瞬間に腕を伝い鼻孔をつく、血の臭気は。

 

「……リアルな夢だったなぁ……」

 

 そう思うしかない。

 

 何よりも、怪物と戦うなんてどんな無意識下の影響があったのだろう。

 

 自分の深層意識が心配になってくる、と断じた真那は訪れた看護師より処置を受けていた。

 

「倉橋さん、よく眠れましたか?」

 

「あ……ああ、はい……」

 

 どこかすっきりとは言い切れないでいると、脈と心拍を計測した看護師は笑顔になって声にする。

 

「いずれ退院出来ますよ。怪我もそれほど酷くないですし」

 

 その言葉に安堵に胸を撫で下ろそうとして、不意打ち気味の声が響く。

 

「……嘘ばっかり。ここに居る人間は、みんな嘘つきなのよ」

 

「ハマナさん! 倉橋さんを不安にさせるような事は……!」

 

「はいはーい。どうせ私は自分が一番可哀想でーす」

 

 昨夜少しだけ言葉を交わした相手はどうやらハマナと言うらしい。

 

 看護師が病室から立ち去ってから、彼女は忌々しげに口にする。

 

「……ここの職員はみんな嘘をついているのよ」

 

 それはどこか確証めいた論調で、真那は思わず問い返していた。

 

「それは……どういう嘘なんですか?」

 

「それは……けれどあなたはガス爆発とか言っていたし……。い、いえっ……けれどこれは、確かな情報筋から得た話なんだから!」

 

「あの、ハマナさん、でいいんですかね……?」

 

「浜名ショーコ。ショーコとでも呼んでくれていいわよ? あなたはマナで?」

 

「あ、はい……。その、ショーコ……さんは、どういう症状で入院を?」

 

「……ネタバレになっちゃうから、ちょっとね」

 

 思えば相手の病名を知りたいというのは不謹慎かもしれない。

 

「……すいません……デリカシーなかったかも……」

 

「ああ、そういう意味じゃないんだけれど、怖がらせちゃうかも、って思ってね」

 

「……怖がる……? 私、でも同じような病室なんですし、それほど酷くないんじゃ?」

 

「どうかな。案外、マナもそういうクチでここに運ばれてきた可能性だってあるし……ただ、これはちょっとした噂なんだけれど」

 

「はい。噂、聞き慣れていますから」

 

 千佳のお陰でもある、と思った直後、怪物に変じた千佳の姿が思い起こされ、真那は額を抑えていた。

 

「……どうしたのよ」

 

「……いえ、ちょっと……嫌な夢見ちゃって……」

 

「この病院、よくないのよ。風水だとか、風通しだとか。私もしょっちゅう悪夢見るわよ」

 

「……そう……なんですか? けれど、今日見たのはちょっと……堪えちゃって。親友が怪物になっちゃう夢なんだったんです」

 

「……それは深層心理がどうのこうのだとか、夢診断が必要?」

 

「いえ、その……疲れてるんですかね、私。ここで目が覚めてから、異様に身体がだるくって……」

 

「あの点滴のせいよ。ちょっと身体動かすだけでも辛いわね」

 

「……じゃあ、ショーコさんも同じように?」

 

「ええ、多分。ねぇ、マナってばさ。その友達とは連絡する術はないの?」

 

 真那は自分の私物があるらしい棚へと手を伸ばすが、あったのは最低限度の日用品だけであった。

 

「……端末もありませんし……」

 

「……って事は、やっぱりそうなのかしらね。ここの噂の一つ。入院した患者は、外と連絡が取れない」

 

 何だか真に迫ったような言い草だったせいか、真那はうろたえる。

 

「う、噂ですよね……?」

 

「いえ、馬鹿に出来ないわよ? それに第一、噂ってのが跳梁跋扈している事実が、この病院が排他的だって証拠じゃない」

 

 言われてしまえば確かにその通りで、思ったよりもショーコは聡明なのかもしれない。

 

「……ですけれど、ここが隔離された場所だって証拠は? それもありませんよ」

 

「……そうね。ちょっと、また噂レベルで申し訳ないんだけれど」

 

「……いえ、聞かせてください」

 

 そう応じたのは、ショーコの論調が少なからず重々しいものを湛えていたからかもしれない。

 

 ガラにもなく咳払いし、ショーコは可能性を口にする。

 

「それはね。……私達がこのエメトピア世界で流行している、ある特殊な病気の感染者なのじゃないかって話」

 

「……特殊な病気って……」

 

 何となく、次に放たれる言葉が予見出来たのは、夢に出て来た事柄が重なっているせいかもしれない。

 

 ショーコは言葉を紡ぎ上げる。

 

「――“SAYA”の、感染者、じゃないかって」

 

「……“SAYA”……」

 

 どうしてなのだろう。

 

 その名前が今の自分にとってささくれのように心を波打たせる。

 

「ええ、まぁ、全部憶測の域を出ていないけれど……でも、もし……私達が“SAYA”のキャリアーであるのなら、説明は出来るのよ」

 

「ですけれどあれ……二十歳以下じゃないとかからないって……」

 

「……マナは私を何歳だと思っていたの? これでも今年十九なんだから」

 

 落ち着いているからもっと上だと思っていたとは言わないでおく。

 

「でも……“SAYA”だとして、私、特に異常もないですよ……?」

 

「そうね。世間で言われているような病状って、もしかするとないのかも」

 

「けれど……死に至る病だって……」

 

「マナ、こんな話は聞いた事がない? セクションが“SAYA”感染者を偽装して報告しているってのは」

 

 ショーコの話はどれもこれも噂と推測でしかないが、どうしてなのだか真那にはその話を遮る事も出来なかった。

 

「……セクションレベルで、“SAYA”の数を偽装するなんて」

 

「不可能じゃないし、もしもの時にはセクション管理者の権限で私達は逃げ出す事も出来ない……巧妙だと思うわ」

 

 確かにセクションごとは巨大な壁に阻まれており、その区画で定められた交通機関以外では通過も出来ない。

 

 さらに言えば、セクションを通り越して通行する場合、未成年とされる二十歳未満では同伴者とそして許可証が必要な区画もある。

 

「……そうだとすれば、セクションだけじゃない……。エメトピア中央庁が関わっている事になりますけれど……」

 

 あまりにも現実的ではない。

 

 エメトピア中央庁は、真那のような子供では滅多な事では通行許可など下りない。

 

 かと言って、親の世代でも行った事のある人間は稀だろう。

 

 それほどまでに中央庁とは完全なる聖域――穢れを許さぬ鉄の砦であった。

 

 一度、ハイスクールの授業でエメトピア中央庁の三次元モデルを目にした程度で、本物などお目にかかった事はない。

 

 一体、中央庁とはどれほどまでに輝かしい場所なのか。

 

 映像記録もなければ、ましてこれほどまでに発達した電子の網でも辿り着けない、本物の聖地とはこのようなものを言うのだろう。

 

「そう、聖地エメトピア中央庁。……私、そいつらが怪しいと思うのよね。中央庁の人間は、“SAYA”を使って何かを仕出かそうとしている、とか?」

 

「ま、まっさかー……。あり得ないですよ。それに、第一、目的が分かんないじゃないですか。二十歳未満の女の子にだけかかる病気を偽装するなんて……」

 

「……偽装が目的じゃないとすれば?」

 

「どういう意味ですか?」

 

 問いかけた自分に、カーテン越しのショーコは一拍の呼吸を置く。

 

「……たとえば……“SAYA”感染者を利用して、何かを行う、その前段階として隔離と病理の焚きつけがあったとでも」

 

「……あの、私、そういうのは、ちょっと……」

 

「ああ、もちろん。信じてなんて言わないわよ。こんなの、性質の悪い妄想だからね。ただ……“SAYA”感染者が、エメトピア中央庁にとって都合の悪い存在だとすれば、隔離の政策を取るのは何も間違いじゃないはずなのよ」

 

「……中央庁にとって都合が悪いって……」

 

 ショーコは次の言葉を、まるでこれまで待ち望んでいたかのように、強く口にする。

 

「イレギュラー……いえ、もっと言えば、この創り上げられた完璧な理想郷への、カウンター……」

 

「カウンターって……。でもだとすれば、何で私達は無事なんですか? 何の自覚症状もないし、それに害なら生かしておく理由もないんじゃ?」

 

「そこが謎なのよね……。私の理論に一歩足りないものでもある」

 

 ショーコは嘆息をついた後に、ベッドに寝そべったようであった。

 

「……いいわ、マナ。忘れてちょうだい。私の考え過ぎなら、それでいいんだし」

 

 カーテン越しに手を振ったショーコに、真那は逡巡の間を置いた後に尋ねる。

 

「……その、もしそれが本当だとして……“SAYA”って何なのでしょう? 中央庁が隠し立てしたいのなら、感染の恐怖を煽る必要性はないのでは?」

 

「……ま、私達のような下々には分かりっこないって事なのかもしれないけれどね。ただ、疑念くらいはあるのよ。けれどねー……」

 

「“エメトピア中央庁は最高執行機関であり、法”……」

 

「子供でも分かる理論よね。このエメトピアのどのセクションに生まれたって、ミドルスクールに上がった頃合いには誰でも諳んじられるようになっている。それもまた、不自然ではあるんだけれど、私達に糾弾するような術もなし。どこかに居ないのかしらね。この鉄壁のルールを、打ち崩せるような存在が」

 

 ショーコはそれを夢見ているのだろうか。

 

 あるいは、この絶対の安全圏にあるはずのエメトピアに抗議するタイプの“主義者”だろうか。

 

「……いずれにしたって、私達、病人なんですから。まずは病気を治しましょうよ。“SAYA”なわけないんですから。だって、“SAYA”だとすれば、私達はもうとっくに……」

 

 脳裏を掠める、悪夢の残滓。

 

 血色に染まった旋風の景色が自分を埋め尽くして、自我を洗い流していく。

 

 その絶対の漂白に、真那はどこか本能的に抗えないのだと感じていた。

 

 真那は強く震え始めた自分自身を抱いていた。

 

「……どうして……私は私が……怖い……」

 

 

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