覚醒の狭間に落とし込まれた意識が浮遊して、ああ、と告げる。
「……時間が、心許ないね」
「文人様、お食事を。もう一週間も何も摂取されておりません」
「九頭。もう一週間も経ったのか。四神官は……」
「しばらくこの本殿にはおいでになっておりませんね」
九頭が慣れた様子でテーブルに食事を用意していく。
ものの十分もしない間に、特上のフルコース料理が置かれていた。
「……ありがとう。君はいつもそうだね。僕の望む事をすぐに遂行してくれる」
玉座から踏み出し、白い法衣を纏って文人はテーブルにつく。
「……あの日より長い年月が経ちましたが、お仕えする気持ちは同じですので」
「あの日……そうか。あの日か。懐かしいね。君が僕に仕えてくれるのだと、誓ってくれたのは、確か……」
「三百年ほど前かと」
悠久の時間を何でもないかのように告げてみせた九頭に文人は食事を取りながら頷く。
「……そうか。三百年か。長い時間、僕に仕えてくれたね」
「よしてください。私の生は文人様に捧げてこそ」
ステーキ肉を頬張ろうとして、文人は何度も噛み損ねて肉がテーブルに転がる。
九頭は口元を拭ってくれたが、それでも誤魔化しようがない。
「……参ったな。そろそろ、だとは。これでは楽園の王も意味がないようだ」
「いえ、前回の覚醒に比べれば長いほうです。それに、肉体への定着も上手くいっていないのでしょう。やはり、今代のあなたは分かたれし半身に魂を引きずられている」
「……分かっている。アベル、彼の魂に僕の魂が溶け込んでいるのだろう。完全な僕になるのには、やはり足りないようだね」
「文人様。ご命令を。いつでも仕掛けられます。このエメトピアはあなたのための理想郷。翼手は喜んで命を投げ打つでしょう」
「ありがとう。そうだね……彼らには少しばかり数を減らしてもらおうか。それが理想郷への一番の貢献であるのなら――」
「失礼を」
自分の言葉を遮り、九頭が袖口からクナイを取り出して柱へと投擲する。
それを受け止めたのは黒いスーツに身を固めた青年であった。
癖っ毛のある金髪に、人のいい柔和な笑みを浮かべている。
百人居れば百人全員が、悪意の一滴でさえも感じない好青年の佇まい。
しかし、文人はその内側で燻る闇の胎動を感じ取っていた。
「……君は……」
「この場を何と心得る。翼手の身で、許しもなく王への謁見。血で購う以外の道はないと知れ」
九頭が一瞬の間もなく降り立ち、その手に太刀を携える。
微笑みながら青年はクナイを握り締めていた。
直後、鋼鉄のクナイが砕け散り、それを嚆矢として二人の距離が詰まる。
減殺された距離を互いの得物が掻っ切る。
九頭は大太刀を。青年は自らの腕を変異させた剣を操っていた。
数度の打ち合いの後、青年へと九頭が切り込む。
懐へと潜り込んだ九頭は最強の太刀筋を持つ従者のはずであった。
だが、青年は一拍の呼吸で剣筋を打ち下ろす。
キィン、と刃同士が干渉し合い、残光を灯す。
弾かれ合うようにして九頭と青年は距離を取っていた。
既に青年から戦意は消えている。
文人は絶対者の視野のまま告げていた。
「何者なのかな。教えてもらえると助かるよ」
青年は恭しく頭を垂れ、それから笑顔のままで返答する。
「お初にお目にかかります、王よ。私はシリウス様のシュヴァリエ。名を――“ソロモン”。ソロモンと申します」
「……貴様……! ここが玉座だと知っての狼藉か」
「無論。しかし、聞かれたくない話ならばもう少し周りをお気にされるとよろしい。想定外の者の耳に入ればその御身、ただでは済みますまい」
「……それが分かっていて……!」
「待ってくれ、九頭。彼の言い分も一理ある。この宮殿に誰が忍び込まないとも限らない。機関の内通者だってあり得るんだ。むしろ、忠言を感謝すべきだろう」
こちらの物言いにソロモンは微笑みを湛えたまま、提言していた。
「その心の広さに感謝いたします、王よ。シリウス様の命で、あなたの御身を守護させていただきたい」
「……文人様の身辺警護は私だけで充分だ」
「それは嘘でしょう。現にまだ、私を殺せていない」
九頭が憤怒に身を任せて一歩を踏み出したのを、文人は制する。
「やめてくれ、九頭。味方同士で争い合う事はないよ」
こちらの発言に九頭は奥歯を噛み締めて耐えたようであった。
「……すまないね、ソロモン、だったか。君にとっても不本意だっただろう」
「いえ、構いません。我が主はシリウス様。その主である文人様は、同じく」
「……四神官の立場と文人様を同列にするな、けだもの共め」
「これはこれは。執政である九頭様のお言葉にしては、少し迂闊が過ぎるのでは?」
再び抜刀しようとした九頭へと、文人は言いやる。
「あまりいじめないでもらえるかな? 九頭は僕の事を一番に考えてくれているんだ」
「ならばこそ。文人様、機関への攻撃を進言いたします。このままでは、文人様はその御身を保てますまい」
「侮っているのか。文人様はご健在だ」
「それが崩れかねない。違いますか」
読めない微笑みの中に意志を埋没させているソロモンへと、文人は返答する。
「……いいだろう。ソロモン、君の警護を引き受けよう」
「文人様……? それはしかし……!」
「シリウスが僕の事を考えての采配なのだろう。それを受けないのもまた邪険にしているようなものだよ」
自分が口にすればこの玉座での争いはなくなる、そう判断しての言葉をソロモンは受け止める。
「感謝します、王よ。これより我が主はシリウス様と、そして四神官を束ねる絶対の王である、あなた様だけ」
「……その汚らしい口を慎め、翼手。ここでそれ以上の狼藉、文人様が許しても私が許さぬ」
九頭の牽制が利いたのか、あるいは最初から織り込み済みか。
ソロモンは柱の影へと溶け込むようにして消え去っていた。
その気配が完全に絶たれたのを関知して、文人は九頭へと声を振る。
「……もう、いいんじゃないか」
「……申し訳ありません」
九頭が大太刀を鞘から引き抜く。
その刀身が直後に砕け、バラバラに床へと落ちていた。
「……君の身分もある。よくやってくれたとも」
「しかし、シリウス殿……四神官自ら、シュヴァリエを仕向けて来たのです。もし、文人様のご命令があれば、今からでもその首を――!」
「逸らないでくれ。それに、僕は四神官と戦いたいわけじゃないよ。今の僕の不調、それは間違いなく、アベルの中に残してきた魂が原因だろう」
文人は手を翳す。
その指先が静かに震えていた。
自分でも抑えようのない肉体の変調は、最初から想定されていたものだろう。
九頭が膝をつき、頭を垂れる。
「……失礼を。しかし、王への疑心に繋がります。そうでなくとも、あれほどまでのシュヴァリエを運用すると言うのは一筋縄ではいかぬ事でしょう」
「重々承知しているよ。君はいつだって、僕の事を第一に考えてくれている。至上の喜びだ。これほどまでに僕に魂の根まで仕えてくれているなど」
「いえ、もったいなきお言葉……」
「顔を上げてくれ。僕と君は対等だ。この白亜の理想郷の最果てで……まさか、あの時の君と誓い合えるとはね。永遠を」
九頭は武器を捨て、瞬時に自分へと歩み寄る。
その唇が震える文人の指先へと静かな口づけを果たしていた。
忠義の魂が形を成したかのような九頭の仕草に、文人は息をつく。
「君はいつも僕が望む事をしてくれる。かつて小夜を抑えてくれたのも感謝しているんだ」
「……昔の事をよく覚えていらっしゃいますね」
「僕にとっては何百年前だろうと、数時間前だろうと同じようなものさ。君の忠義の美しさに、感謝している」
「もったいなきお言葉……私など、所詮生き意地汚く執着しているだけだと言うのに……」
「いいんだ。君に出会えたから。……さて、僕らもそろそろ行こうか。シリウス達に任せているばかりじゃいけない。これでも僕は、ヒトの王なんだ」
「お召し物を用意しております」
九頭が淀みなく取り出したのは、記憶の彼方にある――。
「……ああ、懐かしいね。けれど、小夜に会いに行くんだ。一張羅でないと申し訳も立たない」
九頭に着付けをされ、文人は鏡を前に佇む。
かつて、そういえば鏡が嫌いだったな、などと言う些末事が一瞬だけ脳裏を掠めていた。
こうして微笑む自分自身のおぞましさを、覗き込むようで。
だが、今はそれでさえも己の一部だ。
ならば、呪縛の血を、甘美なるその彩で相対しよう。
「――アシッド総員に通達。これより、楽園の王、七原文人が征く」