BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第百十一話 特別な物語を聞かせて

 

「どれくらい経った?」

 

 唇だけで尋ねてから、ツキシロは応じていた。

 

「二十分ほど」

 

 相変わらず彼女は文庫本を開き、落ち着き払った視線を落としている。

 

 イスルギは頬杖をついて、そっかぁ、とぼやく。

 

「しつこいくらいだけれど、張られているんじゃ戦わないわけにはいかないよねぇ……」

 

 地下通路に潜入するまでは滞りなかったが、そこからがまずかった。

 

「どこへ行ったァ……! サヤァァァッ……!」

 

 人間形態のまま吼えているのは上級翼手だ。

 

 両肩から突き出しているのは砲身を思わせる器官で、それは見た目だけではなく攻撃性能を有している。

 

 その証左に、いくつかの柱は倒壊していた。

 

「……弾丸は血だから、ほぼ無尽蔵。その上、上級翼手にありがちな射程の弱点も薄い。こんな状況じゃ、なかなか攻め込めないかなぁ」

 

「イスルギ。そろそろ合流しないと、キザハシ辺りがうるさい」

 

「そうね。キザハシに借りを作りたくもないし、合流時間は守らないとねぇ……」

 

 柱の陰に隠れていたイスルギは立ち上がってストレッチする。

 

 鞘を構え、ツキシロへと声をかける。

 

「私が死んだら一気に戦線離脱。その先で合流して」

 

「言われるまでもない」

 

 ぱたんと文庫本が閉ざされたのを嚆矢として、イスルギは加速術で上級翼手へと飛び込む。

 

 両肩の砲門が照準され、血の火線が舞い散る。

 

「勝てると思ってんのかァ……ッ! サヤ共ォッ!」

 

「……少なくとも大道芸人みたいな風体のあんたにだけは、言われたくないわね」

 

 鞘に納めたままの太刀で自分に命中する砲弾だけを弾き返し、着実に距離を詰める。

 

 鯉口を切ろうとして、イスルギは第六感で飛び退っていた。

 

「……危機回避の直感だけはあんのかァ……? 厄介だなァ……」

 

 直後、着地しようとしていた箇所が血飛沫の爆雷に包まれる。

 

 どうやらこの戦場は既に敵の手の中にあるようだ。

 

「中遠距離用の砲身に、血で作った地雷をそこいらに組み込んでいる……ってところか。私達が罠にかかったら、それで御の字」

 

「その通りィ……! いいからとっととやられちまえよ! サヤ共がよォ!」

 

 しかし、相手の上級翼手の弱点は明らかであった。

 

 遠距離戦用のメイン攻撃手段と、そして地雷で固めていると言う事は、単体としての戦闘能力は高くない。

 

 大方、ここを支配するシュヴァリエに時間稼ぎでも任せられたか。

 

 だが、サヤの戦法上、至近距離を掴めなければ敵を討つのは難しい。

 

「厄介だけれど、私で少しでも損耗させるかぁ。今のところ読めないほど手数が多い風じゃないし」

 

 柱の陰から陰へと加速戦闘術で飛び交いながら、イスルギは姿勢を沈めて敵へと猪突する。

 

「愚かな!」

 

 肩口の砲門が開き、拡散砲火がもたらされる。

 

 瞬時に大地を蹴って躍り上がり、その射程から逃れようとするが、着地した瞬間、イスルギは膝を折っていた。

 

「……地雷」

 

 血の地雷によって膝から先がもがれている。

 

 相手はゆっくりとこちらへと照準していた。

 

「殺し甲斐がねぇなァ……だが、ここで終わりだ。所詮サヤなんざ、討滅の道具にしたところで不完全なんだよ……! とっとと駆逐されちまえ!」

 

 火線が滾り、二門の砲口が赤く血を凝縮する。

 

 次の瞬間には上半身を吹き飛ばされるだろう。

 

 だが、だとしてもイスルギの胸中は醒め切っていた。

 

 別段、勝てる勝てないの論法に持ち込むつもりもない。

 

 元々、狩人としての自分しかないと思い込んでいるのだ。

 

 ならば、反撃される時はドラマチックでも何でもないのだろう。

 

「……ああ、でも。私ももう少しは……キザハシみたいに無鉄砲でもよかったかもねぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 感染したのは十三歳の時だった。

 

 当時、“SAYA”感染者へのバッシングは酷く、感染例が出ればその土地に住む事は叶わない。

 

 治安の悪いセクションに流れた自分とその家族は、どれだけ罵声と石を投げられただろう。

 

 自分が“SAYA”感染者だと露呈すれば、暴力を振るわれる事も珍しくなかった。

 

 だが、それでも家族は愛してくれていた。

 

 ――我が子が致死性の病にかかっているのならば、せめて最期まで。

 

 そう言ってくれた父親の大きな背中を今でも覚えている。

 

 仕事もまともに奮わなかったはずだ。

 

 それどころか明日のパンでさえも危うかったに違いない。

 

 三歳年上の兄は、何度か盗みに手を染めたのを知っている。

 

 兄はいつでも自分を可愛がってくれていたが、その愛に歪さが宿ったのがその一年後。

 

 ――父さんと母さんは慈善事業でもやっているつもりか?

 

 兄も我慢の限界だったのだろう。

 

 その怒声を聞いてしまった自分は、父親の心情の吐露を聞いていた。

 

「仕方ないだろう。もう死んだとしても、私達は一生、感染者の家族なんだ……」

 

「お父さんの言う通りよ。……一度でも貼られたレッテルは覆せない。私達は、せめて明日のパンを頼りにして生きていくしかないの」

 

「何を言っているんだ、二人とも……! ここは人の追い求めた理想郷、エメトピアだろう? ……何だって俺達みたいなのが、割を食うんだよ……!」

 

 兄の意見はもっともだった。

 

 自分を捨てれば、きっと家族はもっと幸せだっただろう。

 

 それでも、ほんの十三年しか生きていない自分は、家族を頼りにするほかない。

 

 連日、“SAYA”感染者のニュースは続く。

 

 コメンテーターは楽観的な希望的観測を口にする。

 

 それに対して自称専門家は難しそうな返答をして、そして今日も理想郷の日々は過ぎ去っていく。

 

 昨晩、兄が違法グミに手を出したのだと聞いた。

 

 母親が娼婦のような真似をして金を稼いでいるのだと聞いた。

 

 父親が着服した金でやってはいけない事業に手を出したのだと聞いた。

 

 自分以外、みんな壊れていく。

 

 いや、自分が最も壊れているから、皆も壊れるのだろう。

 

 家族は、気づいたらバラバラになっていた。

 

 朝から酒を呷る父親。

 

 違法薬物に手を出す兄。

 

 路地裏で客の相手をする母親。

 

 どれもこれも、自分さえ居なければ起こらなかった悲劇だ。

 

 でも、サヤは死ねない。

 

 何度も自死を選ぼうとしたが、どうしてなのだか死ぬ事だけは出来なかった。

 

「“SAYA”感染者をひとまとめにしておく施設があるらしいぞ」

 

 酒臭い息で、父親は告げていた。

 

 当時は“隔離病棟”の存在は秘匿されていたため、慈善事業団体の話であったが、自分はどうやら明日からそこに入院するらしい。

 

 名目上は、“SAYA”の治療。

 

 だが、真のところはただ単に家族から見捨てられたに過ぎない。

 

 治療内容も適当なもので、毎日意識が曖昧になる点滴を打たれるだけだ。

 

 そんな靄がかかったような日々で、ベンチに座って文庫本に視線を落とす少女と遭遇していた。

 

 彼女は静謐を形にしたような存在で、周囲の風の音も、気配も何もかもをシャットアウトしている。

 

「……あの……」

 

 返答はない。

 

 やはり無視されているのだろうか。

 

 そう自己嫌悪していると、少女がぱたんと文庫本を閉じる。

 

「何の用」

 

 冷たい言葉であったが、それでも返答はしてくれた――それはこの数年間で死んだものとされていた自分にとっては福音であった。

 

 それから、何度か話した。

 

 何の本を読んでいるのか、自分達“SAYA”のキャリアーはどうなるのか、そもそも致死率が高いのに何でここまで生きて来られたのか。

 

 年のころも近いため、共通の話題を見つけ出すのは難しくなかった。

 

「ヒトは海に錨を下ろすように、本には栞で刻む事が出来る」

 

 それが彼女の口癖だった。

 

「……私はもう、何も壊したくない……。どれだけこの世が腐っていても、それでも誰かを恨む気には、なれない……」

 

「暗闇の中で涙の意味を知ったのなら、次は願う場所に踏み出せばいい。……あなたは何のために生きる事に決めたのか。それを吟味すればいいと思う」

 

 どこまでも冷徹ではあったが、それでも嫌味に聞こえなかったのは自分も相当に参っていたからかもしれない。

 

 それから間もなくして、数名の黒服によって自分達を含む数名の少女達が身元を引き受けられた。

 

 今日で言う、ロンギヌス機関のサヤ候補生――その中でも指折りだと言われていたが、最初にして最大の挫折はシュヴァリエとの遭遇戦であった。

 

 無数のサヤ候補生が罠にかかって殺され、生き延びた者も大きな心の傷を負った。

 

 その後、襲名式でサヤとしての名を戴く際、彼女は自分に言い含んでいた。

 

「この先、どのような事があったとしても、私達は二人で一人。そうなのだと思っている。それなりに一緒の時間も過ごしたし。……何よりも、お互いの事をお互いに一番分かっている」

 

 平時と同じく冷淡だったが、その瞬間に宿った友愛を忘れたわけがない。

 

「……私達は、特別になりたい。小夜に成る事が、特別性に足をかける事なのだとすれば、私はそれを捨てたくない」

 

 もう、散々捨ててきた、捨てられてきた。

 

 自分の側から捨てるものは、一つだってないのだと思い詰めていた。

 

「私も同意見。私達は、特別な関係性。サヤである事、それを消し去ったとしても、残るものがある」

 

「それは何……?」

 

「言わない。言ったら陳腐に落ちる」

 

 ツキシロは他者から見れば冷徹に映っただろう。

 

 だが、自分は彼女の温かさを知っている。

 

 誰よりも、ツキシロは自分と共に過ごしてくれていた。

 

 捨てたっていいはずなのに。

 

 友達である事など。

 

 半端な絆など要らないと断じている彼女に自分は依存していたのだろう。

 

 ――でも、捨てられない。

 

 特別である事を、諦められない。

 

 何度も訓練を重ねた。

 

 鍛錬なら、他のサヤにだって負けないつもりだった。

 

 血を宿し、翼手を狩る。

 

 それだけの日々、それだけの毎日。

 

 血濡れの日常を過ごし、裏切りも、分かった風になった信頼関係の築き方も覚えた。

 

 嫌な人間に、成ったのだろう。

 

 それでも、ツキシロだけは見捨てなかった。

 

 彼女はいつも静かに文庫本へと眼鏡越しの瞳を落としている。

 

 一度、何を読んでいるのかと聞いた事があった。

 

「何でもない。私は文字を追って現実逃避しているだけ。この物語が悲劇であろうと喜劇であろうと、私にとっての意味はない。大した価値観の乖離でさえもない。現実もそう。それが悲劇であろうと喜劇であろうと、私にとってはどっちでもいい」

 

 それは自分との関係性もそうなのだろうかと聞き出せなかったのは弱さだったのだろうか。

 

 それとも、要らぬ事を尋ねて関係性を壊したくないだけの逃避だったのかもしれない。

 

 特別さを求めて、凡庸な怪物を狩る。

 

 特別さを求めて、血に沈む事をよしとする。

 

 裏切りもあった。

 

 期待したのもあった。

 

 ヒトを信じたいのもあった。

 

 他人を簡単に切り捨てられないのもあった。

 

 それらは全て、特別性一つのため。

 

 誰かの一番星になれればいい。

 

 それが隣で読書する彼女のためであろうと。

 

 そう言い繕って、サヤとして自らを極めれば極めるほど、たった一人で宿命と戦う少女の姿が目に入る。

 

 ――最強のサヤ、雨宮小夜から「血分け」をされたサヤ。

 

 キザハシは最初から特別であった。

 

「血分け」で生まれた事もそうならば、D因子を持つ双子の妹と共に機関に収容された事も。

 

 機関でも指折りの“デヴィッド”と“ルイス”に目をかけられている事も。

 

 まるで物語の主人公だ。

 

 彼女を中心にして、全てが回っている。

 

 そんな特別性を認めていいのだろうか。

 

 自分は、全てに見捨てられ、全てを捨てる覚悟でここまで来たと言うのに。

 

 キザハシは一足飛びで超えていく。

 

 宿命も、呪縛も何もかも彼女の箔となる。

 

 キザハシ本人は呪いの血を心の奥底から畏怖しているようであった。

 

 やめて欲しい。

 

 惨めになるだけだ。

 

 サヤに成った時点で特別。

 

 機関で徴用されるだけでも特別。

 

 だと言うのに、これ以上何が要ると言うのか。

 

 ――ああ、欲しい。

 

 羨ましい。

 

 恨めしい。

 

 誰よりも綺麗で、誰よりも凛と佇むなんて。

 

 呪いも、畏怖も。

 

 全てが名声だ。

 

 全てが歓声だ。

 

 孤立する事でさえも麗しい。

 

 たった一人きりになる事でさえも、彼女の美しさを際立たせる。

 

 ――自分は捨てられてきた。

 

 自分は捨てる事で強さを維持してきた。

 

 なのに、「何もない虚無」という特別性を最初から得ているなんて。

 

 ――違う。

 

 キザハシを前にすると、どうしても胸を掻き毟る焦燥が浮かび上がる。

 

 自分は特別でも何でもない。

 

 群衆に沈んだ、ただの不幸なだけの人間だ。

 

 ――違う。

 

 交差点ですれ違う程度の、存在価値に乏しい、不運なだけの少女。

 

 ――だから、違う。

 

 自らの宿業の脆さに自分でも嫌気が差す。

 

 もっと可哀想に思われたい。

 

 もっと憐れまれたい。

 

 ――だって、可哀想でしょう? だって、とても不幸でしょう? だって、とても……とても悲しい物語でしょう?

 

「物語に特別性なんてない」

 

 ツキシロは自分の感じる疎外感なんて一ミリも感傷の必要性がないように、今日も物語の世界に埋没する。

 

 彼女の手繰る物語は、どれも等価なのだろう。

 

 キザハシの物語も。

 

 自分の物語も。

 

 どちらが不幸で、どちらがサヤに相応しいエピソードなのかの判別はない。

 

 どちらもただの物語だ。

 

 だから、ツキシロにだけは失望して欲しくない。

 

 キザハシにだけは、負けたくはない。

 

 だって――あなた達の物語は、あまりにも私にとって眩しいから。

 

 だから、時に耐えられない。

 

 時に、自分のような小さな存在は目が眩む。

 

 キザハシの宿命。

 

 その圧倒的な光で自分の見え透いた不幸なんて陰に隠れる。

 

 ――ふざけるな。

 

 どれだけ苦しんだと思っている。

 

 どれだけ辛かったと思っている。

 

 血反吐を噛み締めてでも、特別になりたかった存在の気持ちが分かるのか。

 

 最初から、物語を与えられて。

 

 特別な存在として、孤高を気取って。

 

 そんな有り様で、もっと憐れんでくれたっていいだろう。

 

 もっと可哀想なのだと思ってくれたっていいだろう。

 

 それなのに――ツキシロと一緒じゃないと、自分はキザハシと同じステージにさえ立てない。

 

 一人では駄目なのだ。

 

 二人でなければ――何も出来ない。だから、サヤ候補生を本部に置いてきた。

 

 愛用していた戦斧をわざと捨て、刀一本で戦地へと赴いた。

 

 自分達の、情けない傷の舐め合いを見せるわけにはいかないからだ。

 

 それに、特別性を誇示するのに、人数を引き連れるのは自分の趣味ではない。

 

 だから、たった二人でいい。

 

 自分とツキシロの二人ならば、きっと――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「立ち直りまでの時間は、ざっと三十秒」

 

 上級翼手の砲火へと刀を構えたツキシロが佇む。

 

「今さら出て来たって遅いんだよォ……ッ!」

 

 その通りだ。

 

 既に照準は絞られている。

 

 直後には、ツキシロほどの存在であろうとも血の砲弾でバラバラになっているだろう。

 

 イスルギは、思わず手を伸ばす。

 

「駄目……っ。ツキシロは、私の特別……」

 

 足が動けば、突き飛ばして自分が盾に成れただろう。

 

 肉体がもう少し器用ならば、ツキシロの代わりに敵の砲弾を受けただろう。

 

 しかし、ツキシロは静かに唇の前で指を立てる。

 

「私にとってもイスルギは特別。だから……ここで翼手は倒す」

 

 瞬間的に加速したのは太刀筋だ。

 

 ツキシロの刃が距離を殺し、上級翼手の砲身を叩き割る。

 

 砲撃前で凝縮した血が噴出し、不出来なスプリンクラーのように舞い上がる。

 

「何だと……!」

 

「私の固有能力は、距離の誤認。一対一ではあまり器用じゃないけれど、イスルギと一緒なら。上級翼手の空間把握能力を狂わせられる」

 

 刃が閃き、上級翼手の首を刈ろうとしたが、その直前で相手が飛び退る。

 

「馬鹿なのか、てめぇ……ッ! 種の割れたマジックでどうにかなると思ってんのかよ!」

 

「そう、私の能力は所詮、奇襲向き。一撃で相手を殺せなければ、あまり意味のないマジックみたいなもの。でも、生き残った相手にはこれが効く」

 

「だから、何を言いやがって――!」

 

「イスルギ。武器を壊せば、射程に潜り込むのは難しくないはず」

 

「……ええ。助かった」

 

 青い加速術で踏み込み、上級翼手が肉体を変異させる前にその射程に入る。

 

 爪が払われるのをイスルギは身を沈めてかわし、格闘戦術を叩き込む。

 

 掌底で敵の頭蓋を揺らし、身を躍らせて裏拳で激震させる。

 

 相手の姿勢が崩れたのを感じ取り、イスルギは刀を下段より振るい上げていた。

 

 片腕を根元から落とし、二の太刀を閃かせる。

 

 敵が咄嗟に反応して横っ飛びして逃れていた。

 

「……馬鹿がァ……ッ! 近接が苦手だとでも思ったか……!」

 

「上級翼手はそれなりの使い手だって分かっている。けれど、私にとってはこの距離なら、十全に」

 

「何を言って……!」

 

 直後、上級翼手が激しくかっ血する。

 

 張り出していた眼球から血飛沫が舞い、毛細血管が弾け飛んでいた。

 

「……これ、は……!」

 

「私の固有能力は、一対一じゃ大したものじゃない。けれど、振るった射程内の相手に、血煙の毒を浴びせる。即効性の毒だから、他のサヤとは連携が出来ない。でも、ツキシロならばこの距離を心得ている」

 

「がぁ……ッ!」

 

 上級翼手が持ち直す前に、ツキシロと立ち位置を入れ替える。

 

 距離を誤認させる刃がその首を寸断し、直後には結晶化が始まっていた。

 

 血飛沫を上げながら倒れ伏す上級翼手を尻目に、ツキシロは身を翻す。

 

「無理をした」

 

「……そう、かもね」

 

 まだ片足は修復していない。

 

 だが、ツキシロが作ってくれた千載一遇の好機を逃すわけにはいかない。

 

 その衝動だけで踏み込んだのだ。

 

 ツキシロが片手を差し伸べる。

 

 イスルギはその手を取って立ち上がるなり、彼女の側によろめく。

 

 その身体を抱き留めたツキシロの体温に、今は少しだけ安心していた。

 

「そういうの、キザハシとかがよくやる奴。あなたには似合わない」

 

「……だとしても、カッコつけたかったんだ……。だって、私にとってツキシロは特別だった、から。……ねぇ、何で離脱しなかったの?」

 

「勝てそうな隙があった。それだけ」

 

 本当にそれだけのようにツキシロは言い捨てる。

 

 しかし、その言葉に宿った不器用な愛情を自分は見過ごさない。

 

「……馬鹿。また新しい文庫本を買わないとね」

 

「ページに血が付いちゃった」

 

 自分を抱き留めながらツキシロが文庫本を開く。

 

 ぽんぽんと、イスルギは背中を叩いてやっていた。

 

「作戦が終わったら、またたくさん、本を買いましょう。それでチャラにして」

 

「それは、しょうがない」

 

 ツキシロの素っ気ない返答に、イスルギは片足の再生を待ってから、合流地点まで概算していた。

 

「五分のロスだけれど、まぁ、私達にしてはそれなりでしょう。勝てただけでも、ね」

 

「嘘をついている。最初から勝つつもりだった」

 

「それはそうでしょ。……私達に勝てない相手なんてない」

 

 片手を拳に固めると、ツキシロは無表情のままコツンと拳を突き合わせていた。

 

「特別なサヤだから、ね」

 

 

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