ああ、空が見える――と、真那は少し不可思議な感覚で中庭に出ていた。
看護師より、既に病状は安定域に入ったとの事で、今は手広く取られた薔薇の咲く中庭での自由時間を楽しんでいる。
しかし、楽しんでいるとは言っても、入院患者達は皆、どこかまばらだ。
観察の視線を注いでいると、不意に背後から頬をつねられる。
「にゃ……にゃんですかぁ……?」
「やっぱり! あんたがマナね!」
振り返ると、微笑みを湛える女性がこちらを見下ろしている。
ベンチに座っていた真那は、ハッとして問い返す。
「もしかして……ショーコさん?」
「そういうあんたは、マナ」
「びっくりした……。だって思ったよりも……」
「オトナでしょ? 見た目だけは自信あるんだ」
長髪を一つ結びにしたショーコの相貌に、真那は何かが脳裏を掠めたのを感じ取っていたが、直感的なものがそれを阻む。
「……あれ、何だろ……」
「え、ええっ……? ちょっと、マナ! 何で泣いてるのよ……!」
「わ、分かんないんです……。けれど、ショーコさんを見ていたら、何でなんだか……」
「もうっ。誰かに似てた? まぁ、どっちでもいいけれど。何日ぶりかしらね、外に出られるの」
「珍しいんですか?」
「……まぁ、大抵はね。患者同士の情報交換はあまりよく思われていないみたいだし、ここには端末も持ち込めない。情報は一定の閾値以上には飽和しないのよ。何だか窮屈でしょう? 箱庭みたいで」
「……箱庭……」
何だかさもありなんと感じてしまったのは不自然であったのだろうか。
この病棟に入院してから、ずっと何か監視されているような感覚が纏いつく。
誰かが見ているというよりも、この建築物そのものに付随している悪意のように思えてしまうのだ。
「案外、世界ってこんなもんなのかもね。エメトピアって言う閉じた箱庭。そんなところで、私達は“SAYA”っていう病気に怯えて、一生生きていく。すっごく堅苦しいとは思わない?」
「……でも、“SAYA”は二十歳未満にしかかかりませんし、それにグミを服用していれば……」
「……エメトピアが奨励する、完全栄養剤ね。私、それあんまり服用してなかったからなぁ。だから“SAYA”になったのかも」
「因果関係ってあるんですかね……やっぱり」
「それも目下のところ不明。第一、メディアじゃ“SAYA”にかかると死んじゃうっていう情報以外、何にもないからね。全身から血を出して死ぬのか、あるいは安楽死みたいに安らかなのか、何もかもはぐらかされちゃっている。それで私達は、ここが理想郷だって事だけは疑わないように……って。そりゃ、五十年間、ほとんど戦争なんて起きてないし、“SAYA”以外の病原菌はほとんど克服したってのは事実だろうけれど、何だかそれも虚飾っぽいのよねぇ……」
ショーコの口振りで言えば、彼女はエメトピアの管理そのものを疑っているらしい。
真那にしてみればそれも分からない。
「……ショーコさん、疑り深いんじゃないですか? だって、エメトピア中央庁がそこまで嘘つくなんて理由もないですよ」
「確かに、それはそうなのだけれど……信じ切っちゃうと、何だかな、って言う……」
ベンチに座り込んだショーコは、何だか少し諦めきったようにも映る。
十九歳と言うのには、少しばかり大人びた白いうなじを覗き込み、真那は呟いていた。
「……私の傍にも、そういう子、居ました。私、愚図みたいで……。よく怒られていたなぁ……」
「その子、親友なのね。今はどうしてるの?」
「……今は……」
口ごもった真那は連日脳裏を掠める悪夢と、その闇を切り裂く輝きを網膜の裏に感じて、手を伸ばしていた。
「……分からない……変ですよね。ずっと仲が良かったはずなのに……今はどうしてなのだか、思い出すのも難しくって」
「看護師が使っている点滴に、そういう朦朧とさせる成分が含まれているのかも。私も、ね。ここに入るまでの人生ってちょっと思い出せない事があるのよ。親がどんな顔だったのかだとか、友達とはどういう関係だったのかだとか……恋人でも居たのかだとかも。全部、靄の向こうに……消えて行ってしまったみたいに」
真那は降り注ぐ陽光へと指先を握り込んでいた。
どうしてなのだか、決定的な何かを欠如しているのは分かっているのに、それを掴むきっかけが見出せない。
「……私、薄情なんですかね」
「そんな事はないと思うわ。きっとマナは友達想い。だって、そうじゃなくっちゃ、病院でたまたま一緒だった美人に声なんてかけないでしょ」
「……もうっ。本当の美人は美人なんて言いませんよ」
「言ったな、このぉー」
ショーコとこうしてじゃれ合うのもどこか恋しい気持ちになる。
永劫、このような日々は失われたかのように。まるで咎人であるかのように思えてしまうのは、何故なのだろう。
自分がそれほどの罪悪を背負ったつもりもないのに、生きているだけで申し訳ないような螺旋迷宮に陥る。
「……けれどさ。どうなのかしらね、この病棟。本当に女の子ばっかりじゃない」
それは真那も薄っすらと感じていた。
中庭に出ている患者は少女と言う年かさの者達ばかりで、噂の信ぴょう性ばかり上がっていく。
「……あながち嘘じゃないかも、ですか?」
「だから、真相だってば」
視界に入ったのは、松葉杖を突いて少し歩き辛そうにしている患者であった。
看護師達が介助しつつ、少しずつ歩を進めている。
その模様からは、感染者を死に追いやる病原菌の痕跡など窺えない。
「……私、けれどこの場所で……ずっと居たっていいかもしれません。何だか穏やかな時間が流れてるって言うか……」
「それは同意ね。ここの時間、時計もないから正確な時刻は一切分からないし、点滴でぼんやりしているせいで、余計にあやふやなのよ。私達が一体、何日……いえ、何か月ここに収容されているのかさえも分からないんだから」
真那は先ほどから動かない太陽を仰いでいた。
どうしてなのだか、同じ位置のまま、微動だにしない。
まるで景色の一面を切り取ったかのように。
あるいは不出来な紙芝居だろうか。
朝と夜の時間以外、この世界から切り落とされたかのような――。
その時、不意打ち気味に“声”が耳朶を打っていた。
「……あれ、この声……」
「ああ、これ? 何なのかしらね? たまーに聞こえてくるのよ、病棟の中でも。他の患者も聞こえている人といない人で分かれているみたいだけれど、何かの時報か、あるいは何か動物を飼っているのかもね」
「動物……違う、この……“声”は……」
真那は自ずと立ち上がっていた。
ショーコが小首を傾げる。
「どうした? まさか、猛獣を飼っているってわけでもないでしょうに」
「……いえ、でもこの……」
駆け出そうとして、ショーコに手首を掴まれていた。
「落ち着きなさいってば。こんなところに何が居るって言うの? まさか、怪物でも? それこそあり得ないわよ」
声は遠ざかっていく。
ともすれば気のせいだったのかもしれない。
真那はそう思い直して、ショーコへと向き直っていた。
「……です、ね。そんなはず……ないんですから」
安寧を貪るのに、今はこの暖かな陽射しがあればいい。
それだけのはずだ。
上空を掻っ切る戦闘機の威容にはさすがに参っているのか、あるいはこれも任務のうちだと心得ているのかは不明だったが、キザハシは言葉少なだった。
「……何も言わないのだな」
「言ったところで、何かが答えになるわけでもないでしょうに」
当然の糾弾だと、デヴィッドは前方を見据える。
ルイスの操縦は安定しており、さすがはロンギヌス機関の一員だと感心する。
「デヴィッド、キザハシ。しかしこれは困ったぞ。何せ、その“隔離病棟”、セクションにあるのは分かっていても、肝心の位置情報が今の今まで掴ませなかった。本当にあるのか?」
「存在しているはず……。だが我々も、衛星写真をたまたま捉えただけでしかない。しかもたった一枚だけ……」
「まさに幻影。でも、アシッドの連中の体のいい施設だって言うのなら、あの愚図の“サヤ”だって何かが出来るはず……そう断定しての潜入任務よね? まさか、何も出来っこないって分かっていて、わざと放り込んだわけでもないでしょうに」
デヴィッドはキザハシの嘲笑に沈黙を返す。
自分にも分からぬ事が多い。
殊に、今回のような“サヤ”感染者を囮にしての作戦は、たとえ自分が彼女の“デヴィッド”だとしても、開示されていない情報なのだ。
「……眉間、皺が寄ってるわよ。そんなに心配なの? あの小夜が」
「……俺は彼女をこの世界の裏側へと手招いた責任がある」
「責任があるとすれば、それは前任の“オトナシ”のほうでしょう。死ぬ間際だったとはいえ、選べたはず。別に後継者をその場で選出しなくっても、ただの失敗として組織は切り捨てる、そういうものだった。分かっていたはずなのよ、あの子も」
「……“音無小夜”の死は俺の作戦管理ミスだ。だからこそ、背負わなければいけない」
「ああっ、もう……。そういうところが、あんた達の食えないところだってのよ。人並みの神経があるって言うんなら、もう少し人間じみた言葉を吐くのね。これじゃ、ただの三文役者よ。どうせあんた達は、あたし達、“SAYA”のキャリアーが持つSコードが欲しいだけでしょうに」
「……否定はしない。組織はそれを目的にしている」
だが、とデヴィッドはまたしても間違いだな、と苦味を噛み締める。
――自分の管轄する“サヤ”が死んでも、心を痛めなくなったのはいつからだろうか。
彼女らが組織によって育成され、翼手と戦えるようになった頃合いに、死地へと向かわせる。
人でなしの論理で少女を獣と戦わせ、そして結果だけを啜る悪辣外道に成り下がったのは。
畢竟、組織に唾を吐くような真似も出来ないのだ。
自分もまた、少女らを争いの極地へと誘う死神の一員には違いないのだから。
「……デヴィッド、キザハシ。もうすぐ情報源のセクション付近に到着する。その後は……おれ達の“サヤ”のシグナルを待つだけだ」
「……俺達の小夜、か」
「一家言あるって言うのならやめれば? あたしは今回の任務、受けるわよ。そうじゃないと、組織だって小夜を遊ばせておく余裕もないでしょうし」
「……だが君は、別段査問会に呼ばれるような事は――」
「“オトナシ”のデヴィッド、あんた、やっぱり間違えてる。自分が真っ当な人間であるつもりなの? そんな成りでよく言える」
つくづく理解出来ないとでも言うように吐き捨てたキザハシは、手元の携行端末に表示されたマップを呼び起こしていた。
赤い円形が無数に広がっていく。
しかし、機械ではそれが限界。
曖昧にしか、位置情報を把握出来ない機械の代わりに、組織の兵力である“サヤ”は、感覚を研ぎ澄ます。
キザハシは瞼を閉じ、無数に乱反射する“声”の在り処を探っているようであった。
しかし、キザハシが探知に優れた“サヤ”ではないのは明白。
頼みの綱は、“隔離病棟”に潜入しているはずの――。
「……倉橋真那。どうか無事で居てくれ……」