BLOOD/EMETH   作:オンドゥル大使

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第百二十二話 死

 

 不意に降り立った黒衣の姿に、真那は目を見開く。

 

 何でもないように無音の世界を歩むその立ち姿、癖っぽい金髪を巻いて、引き裂いたジェイムズの躯体を揺する。

 

「酷いものねぇ、ジェイムズ。けれどまだ、生きているのね。案外、あなたもこうして何百年経ったってしぶといものねぇ。あの時もそうだったけれど、生き意地汚いって嫌ぁねぇ」

 

 断ち切られていたジェイムズへと短剣で輸血パックを切って血を与える相手へと、真那はゆっくりと振り返る。

 

 余裕の笑みを浮かべた相貌は、記憶の中から変わりない。

 

「……店長……?」

 

「まだアタシの事を店長って呼んでくれるのね。嬉しいわ、真那ちゃん」

 

 分からない。

 

 何もかもが不明なまま、店長が――黒スーツの姿でジェイムズへと血を授けている。

 

 ほとんど瀕死だったジェイムズの肉体が痙攣し、断ち割った部位が修復を始めていた。

 

「やっぱり強いわねぇ、そりゃあ直々の血だもの。サヤの血を集めておいて正解だったわ。十六夜小夜、だったっけ」

 

「なんで……てんちょう、が……」

 

「あれ? 真那ちゃん、やぁねぇ。前回も会っているじゃない。養殖場でアタシはもう正体を打ち明けたつもりだったんだけれど」

 

 養殖場――あの地獄で、血の一滴さえも浴びなかった黒の姿。

 

 ヒルの〈古きもの〉を断ち切ってみせた、恐るべきその戦闘力から推し量るべきは――。

 

「……シュヴァリエ……」

 

「そうよ。アタシはシュヴァリエ。この時代ではマハラルと名乗っているわ」

 

 店長――マハラルはウインクしてみせる。

 

 真那は再び戦意の火を灯らせようとしたが、その時にはマハラルは空間を飛び越えたとしか思えない速度で刀を抑え込む。

 

「やめておきなさい。サヤの衝動を少しは飼い慣らせるようになったって言っても、まだまだなんだから。それに、これは先達として忠告しておくけれど、この時代のサヤの力は“よくないもの”よ。あまり頼るのはお勧めしないわ」

 

 見知った声で、慣れた声音が囁かれる。

 

 それは日常へと回帰するかのように、かつての思い出を引きずり出す。

 

 だが、もう戻れない。

 

 もう、あまりにも血に濡れ過ぎた。

 

 肩にかかろうとした手を弾き返し、真那は刃を叩き上げる。

 

 マハラルはしかし傷一つない。

 

「翼手……なんですよね……。私達を、ずっと、騙していた……!」

 

 内奥から真紅の衝動が旋風となって放出される。

 

 脊髄が開く感覚と共に、殺気が一陣の風となって吹き抜けていた。

 

 マハラルはしかし、それでもうろたえる様子はない。

 

 それどころか口笛を吹いてみせる。

 

「それが、真那ちゃんの中に眠る……サヤの血か。けれど、残念ね。そこまで練り上げておきながら、アタシに挑むなんて。ねぇ、取引をしない? ジェイムズとアダムを連れて帰れって言うのが、アタシに下された命令。……いや、お願い、かな。文人様はお優しいから、切り捨てが出来ないのよね。ジャンヌもやめておけって言っていたけれど、これはアタシの真の目的のためでもある。今代のディーヴァ……レクディだっけ。彼女がこれから先、どうしたいのか。そして、アタシはそれを近くで見守る義務がある。これは真那ちゃんに言っても仕方ないけれど、それこそ血の宿業なのよ」

 

 切っ先を突き付け、真那は呼吸を整える。

 

 血の残火を吸わせた太刀は今に届く時を待ち望んでいる。

 

 剥き出しの殺意に、マハラルは肩を竦めていた。

 

「……駄目ねぇ、本当に。小夜とはどんな時代でも、意見が一致しない。これも悪癖なのかもね」

 

「……討つ……!」

 

 青い残像を刻みながら、真那は空間を飛び越える。

 

 敵が如何に強大であろうとも、最初から最大出力で叩き伏せるまで――そう規定して刃へと流し込んだのは血刀の洗礼であった。

 

 武装が持つかどうかはほとんど賭けだが、一撃だけでも与えられれば相手を討ち伏せられる。

 

 その確証に、真那は大上段から刃を振るい落とす。

 

 確殺の感覚に、肌が震える。

 

 煤けた風を纏った肉体が、ぞくりと総毛立つ。

 

 それは何故なのか。

 

 血刀の切っ先を、マハラルが二本の指で止めたからなのか。

 

 それとも、大写しになった現実を認識する前に、肉体が寸断されたからであろうか。

 

「あら? 浅かったわね」

 

 肩が傾ぐ。

 

 否、肉体そのものが揺らいでいる。

 

 血飛沫が舞い上がり、真那の肩口から胸元までを一閃が割る。

 

 マハラルは腕を変異させた様子もない。

 

 その兆候もないと言うのに、現実認識は非情に残酷であった。

 

 降りしきる血の雨の中で、真那の指先が解け、刀を取り落とす。

 

 ――分からない。

 

 肉体がゆっくりと、崩れ落ちていく。

 

「ジェイムズが与えた手傷もほとんど再生、凄まじいわね。これが“音無小夜”の血か……。けれど、真那ちゃん。今度はもう少し、話し合う時間を持ちましょう? だってアタシ、あなた達を騙しているつもりは微塵もなかったのよ? 楽しかったんだから、数年間。何でもない、ただのアイス屋として接する事が出来たのは。得難い経験だったわ。何百年……それ以上の時を生きてきた身でもね」

 

 ここで負けるのか。

 

 敗北するのか。

 

 それを是とするのか。

 

 何も得ず、何もかもを失ったままで――それは何よりも、自身に流れる血が、呪詛のように拒む。

 

 ――サヤ、戦って。

 

 声が聞こえる。

 

 内奥より生ずる、呪縛の声。

 

 血に刻まれた殲滅者の記憶。

 

 真那は倒れる間際、逆巻く血の一滴に至るまで神経を走らせていた。

 

 毛細血管のように流れ出ていた血が規則性を取り戻し、血の雨が真那の髪を結ぶ。

 

 三つ編みを再び構築していく血の網を真那は指先で手繰っていた。

 

 重力に従って落下しかけていた刃を留める。

 

「あら……? 言ったじゃないの。それは“よくない”力だって」

 

 歩み去ろうとしていたマハラルが目線だけで振り返る。

 

 真那は真紅の眼光で太刀を握り締めていた。

 

 唇に紅を引いたように、赤が宿る。

 

 刀を構え直し、その肉体が周囲に血を纏う。

 

 それは索敵網に近い。

 

 血で構成された網が、真那の肉体を急速再生させる。

 

「David、翼手だ」

 

 自身の喉を震わせたとは思えないほどの切り詰めた冷たい声音。

 

『倉橋真那……! だが今しがた……これは言うべきではないのだろうが、本部からの通信が途絶えた……。我々も限界離脱領域に到達している。キザハシとアマミヤからの応答もない、撤退を進言する』

 

「何を言っている。翼手は狩る、それ以外に、私の存在価値はない」

 

 断定口調に通信の先のデヴィッドは戸惑いを浮かべる。

 

 マハラルは臨戦態勢の自分へと、致し方ないようにして相対していた。

 

「……真那ちゃん。アタシは嘘だけは嫌いなのよ。だから、あなた達と一緒に居るのが好きだったのは本当。誰でもない、アイス屋、“油処”の店長。それだけじゃ、あなたは不満なの? もういいじゃない。充分戦ったわ。思い出に帰ったほうが、救われるわよ」

 

「……私には帰るような思い出なんてない」

 

 強がりではない。

 

 これまで踏み締めて来た者達に、報いるために。

 

 切り裂いてきた運命に胸を張れるように。

 

 ただ一筋の刃だけに、己を研ぎ澄ませ。

 

 行き着く先が破滅でも、自身に恥じ入るような生き様だけは晒すな。

 

「……聞かないのね、あなたは。いいわ、少しだけ殺し合いましょう」

 

 マハラルは片腕を大剣へと変容させる。

 

 ジェイムズの完全翼手化に比べれば、肉体の一割も変異していない。

 

 勝てる、確証があったわけではない。

 

 だが、負ける気はしなかっただけだ。

 

 真那は満身からの咆哮を上げ、血が命じるがままに駆け抜けていた。

 

 瓦礫を蹴り上げ、周囲に展開する血潮でさえも自分の味方である。

 

 血の網が足場となり、マハラルの背後を取る事に成功する。

 

 立体的にマハラルを捉え、真紅の瞳がその姿を狙い澄ます。

 

 ――届け。

 

 刃へと血刀を纏いつかせ、一閃を振り絞る。

 

 もうほとんど、血の総量は尽きている。

 

 底を叩いて、それでも戦い足掻いている、限界の様相だ。

 

 デヴィッドの言う通り、離脱すべきだったのだろう。

 

 マハラルに自分を殺すつもりはない、それはしかし、つい先刻までの話でしかない。

 

 背後を取った真那は薙ぎ払いの一撃を与える。

 

 マハラルの肩口を抉ったつもりだった一閃を相手は弾き、そうして着地した自分へと大剣を打ち下ろす。

 

「やるじゃないの。でも、終わりじゃないわよね?」

 

 即座に反転。

 

 身を躍らせ、大地を叩き割った一撃を回避する。

 

 血の本能が加速し、真那はマハラルの側面から太刀筋を奔らせる。

 

 相手は軽くそれを大剣で応じるも、その瞬間に真那は全霊を引き絞っていた。

 

 周囲の血の網が一気に収束し、マハラルを覆い尽くす。

 

「……これ……なるほどね。ジェイムズとの戦いはあなたを成長させたわけか」

 

 ここに来て初めて、マハラルに浮かんだ焦燥にも似た反応。

 

 それも当然。

 

 血の網全てに血刀の性能を宿らせたのは、ジェイムズの戦法を参考にしていた。

 

 即ち、断ち切るのならば己ごと。

 

 真那の血の網は、刃の嵐となってマハラルへと襲い掛かる。

 

「……でも、だから言ったじゃないの。“よくない”力に頼るなんて。けれど、ここまで喰らい付いた相手に、何も見せないのも不義理よねぇ」

 

 マハラルの瞳が赤く染まる。

 

 そこから先は――関知出来なかった。

 

 一瞬だけ、マハラルのスマートな像が崩れ、そして現れたのはカマキリを想起させる獣の姿だ。

 

 それの全貌を視界が意味として認識する前に、真那の両腕は断ち切られていた。

 

 マハラルは元の黒スーツ姿に戻っている。

 

 ――今の一瞬、自分は一体、何と対峙したのだ?

 

「完全翼手化……三秒未満だけれど、見せたのはもう何百年振りかしらね。嫌だわ、錆びついちゃう」

 

 襟元を整えてマハラルはそっと、自分へと囁きかける。

 

「一つだけ、いい事を教えて立ち去ろうかしらね。真那ちゃん、千佳ちゃんについてだけれど」

 

 真那はもがこうとして、根元から断ち切られた肉体は何も出来ない。

 

 それが不都合な真実なのだと、直感的に悟ってしまっていた。

 

「真那ちゃんには隠し事をしていたのよ、あの子。とても罪深い事、とても醜悪な事。それが何なのかは……そうね。ここで生き延びられれば、教えてあげる。また会いましょうね、真那ちゃん。今度は本当の、楽園の最果てで」

 

 離れていくマハラルの背中に、真那は声を振り絞ろうとして潰えていた。

 

 唐突に聞かされた千佳の影。

 

 それが思考を満たして、今は凍えたように唇が震えるだけであった。

 

 下唇を噛み、真那は煤けた風の中で佇むのみ。

 

「……私は……」

 

 千佳の振り向いた残像へと指先を伸ばす。

 

 縋るようにして、その消え去った思い出を回顧する。

 

 だから――私はここで、立ち上がらないわけにはいかない。

 

 血が逆巻く。

 

 両腕を骨格が形成し、渦巻く血潮が筋肉繊維を再構築する。

 

 ――まだ、刃を握れる。

 

 真那はわざと気配を押し殺し、マハラルが充分に離れてから、最大出力を注ぎ込む。

 

 血刀と一体化した片腕で振るい上げる。

 

 鬼神の如き真紅の双眸で、マハラルの首を刈ろうと刃を奔らせていた。

 

「……馬鹿ねぇ、本当に」

 

 刀が、肉体が飛び散る。

 

 衝撃波で硝煙の風圧が爆ぜ、叩きのめされた躯体より臓腑と意識が引き剥がされる。

 

 今、何が起こった?

 

 それを認識する前に真那は太刀を翻し、迎撃しようとしてマハラルの大剣が頭蓋を貫いていた。

 

 一欠片だけでも残っていた理性の箍が外れ、獣の本能に堕ちた真那は撒き散らされる血潮を全て刃に変容させる。

 

「シュヴァリエ――ッ!」

 

 そのうち一つがマハラルの頬を切る。

 

 しかし結晶化は訪れない。

 

「……気分が変わったわ。ここで楽にしてあげるのが一番だと思ったけれど……そうね。真那ちゃん。あなたにはもう少し、地獄を味わってもらうわよ」

 

 四方八方より包囲する血の刃をマハラルは大剣を軽く振るっただけの風圧で弾き飛ばし、瞬時に懐へと潜り込む。

 

 太刀を振るう前に大剣が心臓を差し穿つ。

 

 一拍。

 

 完全に血と心音が途切れた、死の足音。

 

 全ての感覚、全ての思惟がぷつりと断線する。

 

 その中で明瞭に聞こえて来たのは、マハラルの落ち着き払った声であった。

 

「真那ちゃん。楽園へとようこそ」

 

 ずぶりと、切っ先が相貌を刺し貫く。

 

 そこから先は、何も見えず何も聞こえなかった。

 

 

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